沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

松本人志のことばかり考えている

 昨年末に妻と妻のお母さんと三人で晩飯を食っているときに、妻から松本人志の第一報を聞かされた。俺は絶句し、箸を運ぶ手がグンと遅くなった。松っちゃんのこと、そこまで好きだったんだ、と言われた。そこまで、好きだったのだ。松本人志は教養がないとしばしば批判されてきたが、松本人志はもはやそういうフェーズにいる人間ではないだろう、日本の芸能史/文化史における教養の対象だろうと思っている。

 第一報以来、松本人志のことばかり考えている。大半の吉本社員より考えてんじゃないのか、というくらい考えている。しかし、結論は出ない。毎日、ネットニュースで「松本人志 芸能界引退を表明」とか、もっと言えば自ら命を絶ってしまったとか、そういう見出しが飛び込んでこないか、戦々恐々としている。

 見識を備えていると俺が信頼している何名かと松っちゃんの件について喋るたび、みんな復帰は絶望的だろうと口を揃える。記事の真偽や裁判の行方に関係なく、ここまでおおごとになった時点で、松っちゃんの無実が100%証明でもされない限り、少なくともテレビなどのマスメディアからは松本人志は姿を消すだろう。そして、仮に無実だったとしても、その証明はまず不可能だろうと。

 松本人志のことばかり考えている、という割に、松っちゃん関連の報道には殆ど触れないようにしている。週刊文春も読んでいない。考えているけど、考えていない。ただの不倫なら少なくとも俺は笑ってお終いだったし、エロくて馬鹿馬鹿しいパーティを開催していただけなら、世間の反応は知らないが、まあそれも俺は笑ってお終いだった。ただ、性加害疑惑となるとキツい。

 性被害の声の上げにくさは、実感は持てないがある程度理解はしているつもりだ。何年も前の出来事を持ち出すなんて、とか、週刊誌じゃなくて警察に駆け込めよ、とか、飲み会に参加した時点で同意したに等しい、なんて言説もおかしいと思う。まんこ二毛作、という言葉を用いる人は、俺の中で「まんさん」「女さん」「女尊男卑」といった言葉を使う人と同じ箱に入れた。松っちゃんは大好きだが、松っちゃんが性加害なんてするはずがない、とも思わない。金や性が絡むと、人間は狂う。俺は兄貴や父親や友達が痴漢で逮捕されたとしても、即座に「冤罪や!」とは言えないと思う。

 被害女性の証言や飲み会が開催されていた証拠以外に、松本人志が性加害を行っていた音声や動画などの確固たる証拠が存在するとは思えない。「松本 動きます。」と言いつつ、結局何をどう動いたのかよう分からんかった松っちゃんが、この事態をうまく収められるとも思えない。というか、初動から現時点までで既に、悪手を重ね続けていると感じる。

 被害を訴える人々の声に懐疑の眼差しを向けたり批判したりすることはセカンドレイプに該当するし、被害者の声を取り上げないという選択もしてはいけない。そう思う一方で、松っちゃんはまだ灰色の男ではないのか、とも思う。被害者の声に耳を傾けることと推定無罪の原則を守ることをどのように両立すればいいのか、全く分からない。

 バカリズムをチェアマン代理に据えたIPPONグランプリ以外の番組では、現時点ではやっぱり松本人志の不在による影響を大きく感じる。松っちゃんの不在を逆手に取ったダウンタウンDXの回は面白かったが、アレは松っちゃんがいなくても何の影響もない、という訳ではない。でも、人間は誰しも代替可能な歯車であり、松本人志でさえ、姿を消したところでお笑い界は今まで通り回り続けるだろう。ダウンタウンの番組には松っちゃんが必要不可欠だが、お笑い界にとってはそうではない。むしろ、少しだけワクワクもしてしまう。ゴール・D・ロジャー亡き後の大海賊時代、なんてアホな喩えも浮かんでしまう。だがその何倍も、やはり寂しくて悲しい。

 この程度の、何の目新しさも見識もない記事を書く余裕が生まれるまでに、二ヶ月も掛かった。身近なニュース以外で、こんなにも悲しくなったのは、生まれて初めてだ。俺が悲しもうが悲しむまいが、何を考えようが、事態はなるようにしかならない。分かっちゃいるが、考えてしまう。

 明日も労働に従事し、妻と喋り、飯を食い、酒を飲み、煙草を吸い、漫画や小説を読み、YouTubeを観て、音楽を聴いて、その合間のふとした瞬間に、松本人志のことを考えるのだろう。終わり。

こんな時代やから、永野が好き

 ここ最近、永野が再評価されている。本人が語るところによると、コロナ禍でYouTubeを始めて音楽の話なんかをしたお陰でそれまで永野を好きではなかった層にもリーチしたり、いくつかの番組で今のキャラクターを面白がられてスタンスを確立したことが理由らしいが、永野はテレビに出始めたときからずっとオモロかったよ、ということを記録として残しておきたいので、なんとなく一度ブログの記事を全て削除しましたが、2019年の記事を再掲したいと思います。2024年現在、最も俺をワクワクさせてくれる芸人は、永野です。

 以下、2019年の記事の再掲。

 

 水色のシャツに真っ赤なズボンを履き、髪を搔き上げながらカメラを指差す奇人、永野。俺は永野が大好きだ。番組で落とし穴に落とされてとんねるず相手にブチ切れ、番組途中で帰った(実際にはグダグダのリアクションをしたあと、「永野、あのリアクションひどいよ。もうカメラに映っちゃ駄目。端っこ行って」と石橋貴明に言われたのだが、そのノリがバッサリカットされたため、突如画面から消えた形となった)」という件と、「PON! で、若手イケメン俳優の松本大志を二発もビンタし、スタジオを変な空気にした(視聴者から、「テレビで暴力をふるっている男がいる」と最寄りの警察署に通報が入った、という最高のエピソード付き)」件によってネットで叩かれがちな永野だが、俺は永野が大好きだ。永野が出る回は必ずネタパレを観ているし、好き過ぎて、私服を水色のシャツと赤ズボンにしようかと数秒間悩んだこともあるほどだ。そういえば以前、『月曜から夜ふかし』の街頭インタビューに登場した黒髪ロン毛でサングラスを掛けた若い男が、「みうらじゅんさんが大好きで、みうらじゅんさんみたいな大人になりたくてこの格好を」と言っていたが、みうらじゅんみたいな大人になりたくてまず手始めにみうらじゅんみたいな格好をしちゃう奴は、永遠にみうらじゅんみたいな大人にはなれないだろう。

 で、まあ永野に話を戻すと、そんな水色と赤の奇人がブレイクする前、黒のジャケットなんか羽織ってちょっと格好良かった頃、所謂孤高のカルト芸人時代に『目立ちたがり屋が東京でライブ』というDVDがリリースされた。ロフトプラスワンで行われた単独ライブの模様と企画映像を収録した本作は、『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM Vol.ぶどう』並にILLなDVDだと思っている(ILLと言えば我らがBUDDHA BRANDのセカンド・アルバムですが、期待を裏切らないカッコよさでした)。2015年、ブレイク後のインタビューで「生まれたところや皮膚や目の色で人を差別してる」「ドブネズミとか超汚いし」「人を貶めて笑いを取る芸人は多いですけど、僕は自分がバカになって笑いを取る方が好き」「お笑いの天才がやってるライブなんかより、フツーのサラリーマンが週末の居酒屋で発狂してるところを見たほうが面白いんだ! っていうことを証明しようと思います」と語っていた永野のパッションが、『目立ちたがり屋が東京でライブ』では炸裂している。その中でも一際僕が好きなネタであり、死ぬほど笑ったのが、「浜辺で九州を一人で守る人」だ。「で」のリフレインが心地良いタイトルである。坂口安吾の『桜の森の満開の下』のようだ。

「浜辺で九州を一人で守る人」とコントのタイトルを述べたあと、永野は眉の垂れ下がった激落ちくんみたいな表情の間抜けなマスクで目元を隠し、ショットガンを手に持って、舞台(九州の浜辺)をうろつく。口をすぼめながら周囲を警戒するように動く挙措が、既にちょっと面白い。そして永野は、九州の外からやってきた人物を見つけ、銃を構えて問い質す。

「あんた誰ね? あんた誰ね? 九州の人ね? 九州の人〜? ……東京から帰ってきた?」

その後東京について田舎者丸出しのやりとりをしてから、永野は相手の「入国」を許す。再び口をすぼめてオモロい動きで舞台をうろつき、誰かを見つけた永野。ショットガンを向け、先程同様問い質すと、

「……何? 千葉から来た?」

 その瞬間、永野は口をすぼめてショットガンをぶっ放した。多分銃の構造的におかしいのだが、何十発と連射する。間抜けなオレンジ色のマスクで目元を隠し、口元からは何の感情も感じられない。どうせそのうち銃をぶっ放すのだろうとは予想していたが、いざその時が来ると、俺はアホほど笑ってしまった。相手が千葉から来たと分かってから撃つまでのスピードの速さと永野の表情がたまらなく面白くてツボに入り、千葉の何があかんねんと、死ぬほど笑ってしまった。

 このあと相手が倒れると、永野は銃口を下に向け、銃を撃ち続ける。ようやく撃ち終えると、相手の髪の毛を鷲掴みにし、「な〜に、ま~だ生きちょんねえ?」と呆れたように言って、再び銃をぶっ放す。アントン・シガーに匹敵するサイコな殺し屋っぷりに、俺は腹を抱えて死ぬほど笑った。

「愛」と「狂気」という言葉は口にした途端に薄っぺらくなるものだが、それでも言いたい。このコントには、このDVDの永野には、狂気を感じる。それは例えば、かもめんたるのコントを観て感じる剥き出しの狂気とは違う。運動をしたあとにシャツがじっとりと汗で濡れていることに気付いたときのような感覚というか、言語化が難しいが、あえて言うならば、永野の狂気は、切実さに似ている。

 ブレイク前夜、永野はオールナイトニッポン0の三分間のオーディション映像にて、黒いジャージ姿で、次のように語っていた。下手な書き起こしだが、俺は扇動的なタイトルを付けてアクセス数を稼ごうと思ったり世界が数字で出来ていると思ったりはしていないので、読んでいただきたい。

「はい、こんにちは。え~、トゥインクル所属のお笑い芸人……、あ、間違えました、間違えました、すぐ間違える……、グレープカンパニー所属のお笑い芸人……、ホントはもう、お笑い芸人なんて名乗りたくないんですが、永野と申します。まあ、生まれ変わったらですね、ヒップホップやりたいなと思ってますけども。お笑い芸人なんてね、食えない職業で、ええ、ねえ、食えない割に、熱心なライブの通いの客に叩かれたりとかね、面白いことなんて一切ございません、はい。そういう中ですね、私、最近横断歩道で、おばあさんが……、もう、おばあが、こう渡れなさそうにいたんですね、ゆっくり。ちょっと、もう青信号が……、早いじゃないですか、都会は青信号終わるのが。そこでですね、僕も最近むしゃくしゃしてたんですが、おばあさんの手を引いて、カチカチカチって青信号がなる中、行った訳ですね。まあそれまではもう、日々の疲れ、ストレス、怒りでイライラしてた僕ですが、おばあさんの手を引きましたところ、横断歩道を渡り切った時おばあさんが、「ありがとう」って言ったんですねえ。そんとき僕、ぱあって嬉しくなりましてね、イライラが消えて。人間って面白いなあって思いますね。ありがとう、って言葉で、こうもね、気分が変わるんだなって、まあ、人間って面白いなって思いますねえ。そういう、人間のその機微を、心の機微を、静かな声で、三時台から話していきたいなって僕は思ってますね。今、非常にやかましくて、クソ面白くないんでね、ラジオが。はい、面白くない。ただただ威勢のいい芸人がぺちゃくちゃぺちゃくちゃやかましい中、私はおばあさんの話……、そうですね、大体年寄りに向けたラジオをこれからは……。三時に起きますからね、年寄りは。年寄りに向けたラジオをやっていきたいな、なんて思ってますけど。多分、恐らくですけど、まあ、政治的なことがなければ私は通るんじゃないかと思ってますね。こんな新鮮なインパクト……この、はい、そういう中でですね、永野です〜。私、温かい、もう一度日本人って何なんだって考えるラジオ、作っていきたいと思います。あ、失礼しました、今こうやって(腕を組んで)ましたけど、すいません、すいません。じゃ、ありがとござっしたー」 

 結局、永野がパーソナリティに選ばれることはなかった。多分、政治的なことがあったんだろう。たまたまYouTubeで本人だか所属事務所だかが公式にアップしていたこの動画を見たのが、俺が最初に永野を知った瞬間だ(ちなみに、今は削除されている)。「オモロいのになあ、これ通らへんねや」と些か悲しくなったのを覚えている。それから少しして、正月深夜の特番で小籔と中川家サンドウィッチマンの前でネタを披露しているのを見て腹を抱えて笑い(「富士山の頂上から2000匹の猫を放つ人」や「◯◯に捧げる曲」シリーズ、「天使の声」などの強力ラインナップだった)、その翌日に「さんまのまんま」で明石家さんま今田耕司井上真央の前で「お猿の呼吸」を披露している姿を見てもう一度爆笑した。これは売れるな、と感じ、実際にその年の末にアメトーーク! のパクりたい-1グランプリで「ゴッホより〜♪」を披露し、売れた。俺は早めに目を付けてたんやで、というアピールではなく(そのアピールをする資格があるのは、カルト芸人時代の永野の「熱心なライブの通いの客」くらいだろう)、売れる寸前の永野を、大空高く飛び立つために滑走路を駆ける永野の姿を、僅かでも見られたのは幸福だったなあ、という単なる感想である。

 永野には是非とも、ドキュメンタルに出て欲しい。ザコシショウの牙城を崩せるのは、永野だけだ。或いは、もしかしたら死ぬほどスベり、レビューで酷評されるかもしれないが、少なくとも「大して目立ちもせずにしれっと敗退」なんてことにはなるまい。

 この文章を書いている今、27時間テレビ内が絶賛放送中だ。その中のワンコーナー「さんまのお笑い向上委員会」に残念ながら永野は出演していないが、先週の放送には、謹慎明けのザブングル加藤への対抗馬として出演していた。同番組で「魔王」と綽名されている加藤に対し、永野は自分が「新魔王」だと登場する。

 なんやかんやと二人は対決したり何故か理不尽にかまいたちの濱家が巻き込まれたりしながら、番組は終盤へと突入する。「ウケることをする」と言い、一度袖に引っ込む永野。ひな壇の芸人らは拍手し、さんまが「次、永野やで、永野」と言うと、「永野じゃないよ~、しあわせボーイだよ~」という声が返ってくる。そして永野は、笑顔でダブルピースをしながら軽快なステップを踏み、「し~あわせ、し~あわせ、しあわせボーイ~♪ し~あわせを~、運びにき~たじょ~♪」という歌と共に登場する。苦笑するスタジオの空気を意に介さず、加藤の元にやってくると、永野は「新魔王だよ~」と言って微笑む。加藤は般若のような顔になり、「ブチ切れるのかな」と視聴者が思った一瞬の隙にダブルピースを作り、永野と二人で仲良く「し~あわせ、し~あわせ、しあわせボーイ~♪」と歌い、踊り出す。膝を付き呆れて笑うさんまと、苦笑気味のスタジオ。そこで永野は不意に歌と踊りを止め、すたすたとさんまの元に歩み寄る。急に梯子を外されて困惑する加藤。永野はさんまに向かって、「(この流れを)全部使ってください」と頼む。「(ウケてへんのに)なんでや?」とさんまが真顔で訊くと、スタジオはややウケ、「そりゃ『なんでや?』やわ」と礼二は同意し、千原ジュニアは手を叩いて笑う。カメラに抜かれた加藤が、「おーいっ! お前、今のなんやねん? なんやねん、しあわせボーイって」とキレると、スタジオはさらにウケる。いよいよ最終決戦だ、という空気になり、永野は加藤の元に歩み寄る。「なんやねん、しあわせボーイっちゅうのは。説明しろ、ちゃんと」とキレる加藤。荒い息遣いの永野は、凛々しい表情で加藤を見上げて答える。

「こんな時代やから……」

「こんな時代やから⁉」とキレ口調で繰り返す加藤と、ドッと湧くスタジオ。加藤は堪え切れずに笑い、「どういうことやねん」と口にする。

 俺はこのシーンを見て爆笑するとともに、少し感動してしまった。「名言っぽいけど」とFUJIWARAの原西は突っ込んでいたが、割とマジで名言やと感じた。こんな時代やから、しあわせボーイ。こんな時代やから、永野だ。

 今後永野がテレビの生放送でとんでもないメチャクチャをしでかしてテレビから姿を消してもそれほど驚かないし、十年後くらいに、「コント『おみそ汁の達人』」のときみたいな顔をして、NHKのビットワールドにおけるいとうせいこう的ポジションにしれっと就任していたとしても、それはそれで案外違和感がない。そういう不思議な魅力が、永野にはある。もし永野がこの文章を読んだら、「何こいつ? ダラダラと知った風な口利いて。うぜ〜」と言いそうだが、そういうところも含めて、俺は永野が好きだ。

 以上、オチはないが、お時間ございましたら、永野のDVD『目立ちたがり屋が東京でライブ』と『Ω』を買うてみてください。超旨い毒キノコみたいなDVDです。終わり。

立川談春 独演会 「これからの芝浜」

 仕事で世話になっている人と飲んだ際に落語の話になり、桂二葉の「らくだ」の酔っ払いの演技のグラデーションは絶品だと薦められた。「らくだ」なら笑福亭松鶴が最高なので…‥とあまり興味を示さないでいると、だったら立川談春の「芝浜」はどうかと言われた。芝浜なら志ん朝三木助に談志に小三治に……と色々名演があるし、現役でもさん喬なんか素晴らしい、子供がいる設定のver.はやや蛇足に感じるけども、という俺に対して今度は引き下がらず、談春の「芝浜」は一味違うとなおも力説された。「これからの芝浜」と題して、従来とは大きく変えて演じているのだとか。より現代的な価値観に沿うようにアップデートしており、泣けるんだよね、という言葉に些か不安は覚えた。時代設定が過去なのにも関わらず、登場人物達がやたらと現代的なポリティカル・コレクトネスに準じた言動をしているのを見ると、一気に作り物感を覚えて冷めてしまうからだ(セクハラを筆頭に、略語は意味を漂白すると思っているので、ポリコレではなくポリティカル・コレクトネスと記しました)。

 とはいえ、折角薦められたので試しに抽選に申し込んだところ無事当選したため、2023年12月28日、立川談春 独演会に行って参りました。談志と志の輔の落語はたまに聴いているが、談春の落語は一度も聴いたことがなかった。チケットを取った後も、あえて聴かないでおいた。

 そして訪れた12月28日。俺は朝から、録画していたM-1グランプリ2023を観ていた。24日当日は夕方から夜中まで仕事でリアタイできず、帰ったら録画を観るぜと息巻いていたが、LINEを開いた際にLINEニュースで優勝者の名前が目に飛び込んで、一気に萎えてしまった。Yahoo!ニュースを開かないよう対策していたが、LINEニュースは警戒していなかった。帰宅し、お笑いアカデミー賞2023をTverで観て眠りに就いた。25は休みだが兼業の仕事の納期が間近だったため朝からそれをやり、夜は妻とフレンチを食べに行き、26、27は9時17時で労働に従事したあと妻と過ごしたので、M-1を観る暇がなかった。まあ、観ようと思えば時間を捻出できたろうが、そこまでする気にはならなかった。もはや俺は、お笑いファンではなくなりました。ドキュメンタル13は速攻で観ましたけど。りんたろーは裏で笑えましたが、かねちーは開始前のメルカリ云々の件からずっと、表でも裏でもない側面スベリを続けており、エンジンコータローの比ではないほど観てられなかった。

 という訳で、12/28は早朝からM-1を観た訳ですが、敗者復活戦のトム・ブラウンが超オモロかったです。決勝のネタで一番好きなのは、さや香の見せ算でした。ヤーレンズは一本目も二本目もあまりハマらず。

 4日遅れでM-1を満喫してから、阪急梅田駅に向かった。マヅラ喫茶店ナポリタンとビールとカカオフィズを堪能し、すんげえ可愛い女の子が冴えない男と一緒にいるのを見てケッなどと思いつつ、煙草をふかした。17時の開場時間になったので、店を出てフェスティバルホールへと徒歩で向かう。キャパは二千人、俺の席は一階の真ん中らへんだ。この世で一番面白い漫画である『嘘喰い』をKindleで読んでいると、あっという間に開演時間になった。

 立川談春が登場し、いきなり芝浜も何なのでということで、蜘蛛駕籠を披露。同じ話を三遍も繰り返す酔っ払いの芝居で笑う。少し前にバーで飲んだ際、酔っ払いのおっちゃん客が来店して何度も同じ質問をしたり同じ話をしたりしていて、一人で飲んであんなに出来上がるなんて羨ましいなあと笑ったのだが、酔っ払い特有のあの感じをシラフで演じられるのは凄い。立川志らくが2018年のM-1で「かまいたちは『面白い』より『うまい』と感じてしまった。本当に面白ければ、うまさは感じないはず」とコメントしてお笑いファンに批判されていたが、何もおかしなこと言うてへんよなと改めて思った。えみちゃんがいない今、審査員の人選にあまり興味はないし、やすともは好きなのでとも子の審査員は嬉しかったですが、それでも志らくの「勇退」とやらはつくづく残念だ。あと、司会の今ちゃんの「とも子」呼びに引っ掛かったのは、俺だけですか。

 蜘蛛駕籠が終わり、続いて「芝浜 解説」に移る。これからの芝浜を仲入りのあとで披露するが、その前にまずはこれまでの芝浜とはどんなもんやったか解説しまっせ、ということだったが、これが素晴らしかった。芝浜とはこんな話です、というのを成り立ちも踏まえてダイジェスト的に説明していくのだが、3代目三木助はこんな風に情景描写を大切にしましたと言って「モノマネ」を披露し、談志がやる気になったときの魚勝の煙草をふかすシーンの所作は見事だったと、それを談春なりに再現してみせる。めちゃくちゃ旨そうに煙草をふかしてみせるものだから、つい吸いたくなってしまった。大勢のお客さん達も息を呑んでいました。流石に二千人近くもいると、「息を呑む」も音として響くのだなと、妙な感動を覚えた。「芝浜 解説」はそれだけで一つの演目として十二分に成立しており、北野武石橋貴明のabemaの番組で今後の映画の構想として、「作品Aとそのパロディ作品Bを撮影し、二本立てで上映するとか面白そう」と語っていたのを思い出した。

 解説が終わり、では何故自分がこれからの芝浜をやろうと思ったかを述べる。落語に登場する女は往々にして、男の理想像だ。現実の男よりさらにどうしようもない落語の男を、それでも尽くしたり叱ったりしてくれる存在である。芝浜を見て客席で泣いている7割は年配の男性だ、今の三、四十代が芝浜を見て、感動するだろうかと。今の二十代が芝浜を見て、結婚っていいなと思うだろうかと。正しいのかは分からない、今の若者にどれほど刺さるかは分からない、それでも何か変えなければという思いがあり、自分なりのこれからの芝浜を作ろうと決めたのだと。

 ただ、落語はほんの僅かな目線や間、言い方を変えるだけで、師匠からやいやい言われる一門もある。これからの芝浜も、談志に何か言われるかもしれない。けど、やろうと思った理由がある。高座で述べられたその理由を書いてしまうのは無粋だと自覚しているが、ま、こんな零細ブログは誰も読んでねえ、つーことで書いちゃうが、「十三回忌を迎えると、談志が私の中で思い出になっちゃったんですよね。談志はもう、怒ってはくれない」という言葉は、温かくて寂しくて、粋やなあと感動した。

 そして、仲入りを挟んで、いよいよこれからの芝浜が始まる。登場と共に文字通り割れんばかりの拍手で出迎えられ、高座に上がる。「さあ、ではいよいよこれからの芝浜を披露したい訳ですが……」なんてマクラはなしに、何ならまだ拍手が鳴り止まないうちに、魚勝を起こす妻の台詞を放つ。そこでピタッと拍手が止んで客席が静まり返り、会場全体が一気にこれからの芝浜の世界に引き込まれる。あの瞬間の格好良さは、鳥肌モノだった。『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』のオープニングの入り方くらい、格好良かった。

 今まで芝浜の解釈で感心したのは、時代劇作家の山本一力が落語の名作を小説にアレンジした『落語小説集 芝浜』だ。魚勝が酒に溺れて仕事をしなくなったことと、それでも妻が尽くすことにきちんと理由付けを行なっていた。『芝浜』の世界にグッと奥行きが出る解釈だが、まあ現代的な価値観で言えばやっぱり、妻は男の理想像だし、そんなに呑んだくれんなよ、という気持ちは拭えない。

 だが、談春のこれからの芝浜は、解釈の域を越え、想像以上に改変していた。これからの「芝浜」かと思いきや、「これからの芝浜」という新作のような感触だ。妻があまりにも出来たええ女であり、現代日本を生きる女性からしたら、それでもまだ理想像なのかもしれない。しかし、表面的なアップデートではなく、伝統芸能たる落語を現代の価値観に接続して拡張しようという真摯な姿勢が感じられた。冒頭で述べた仕事上の人もこの独演会を観にわざわざ東京から来ており、終演後に焼肉を奢ってもらったが、「これからの芝浜」の内容もさることながら、そうした談春の落語家としてのスタンスにメタ的に感動して泣いたと言っていました。俺は観たときはそこまで考えなかったが、24歳の男で魚勝くらい酒が好き、そして結婚2年目に突入している身としては、これからの芝浜で描かれる夫婦のあり方に素直に感動した。

 俺はサービス業に従事しているので、年末年始もGWも関係ない。年末年始やGWの時期に流れる「みんなこの時期はのんびり過ごすよね」を前提とした広告などを目にすると、魂が暗黒になる。優しくて温かい年末年始あるあるやGWあるあるは一見、人を傷付けない笑いだが、俺の心はズダボロに傷付けられる。これを難癖だと斬り捨てる人は、今現在差別的だ、いけないことだとされているものに抵触する笑いにしか目を向けず、抵触した人々を非難する理由も勝ち戦に乗れるからやろ、と思ってしまう。アル・カポネが売り捌いていた酒は今や依存し過ぎると危険、程度の嗜好品扱いだし、あの当時の黒人は今の比ではないくらい、善良なアメリカ市民から差別を受けていた。アル・カポネは、黒人を差別しなかったとの逸話も残っている。もちろん、アル・カポネを称揚したい訳でも、年末年始やGWあるあるを規制しろと言いたい訳でも、人を傷付ける笑いこそ至高だと言いたい訳でもない。

 俺は、お笑いに限らず、表現は誰かを傷付け得るが同時に救うこともある、諸刃の剣だと自覚している表現者が好きだ。その上で、それでもボーダーライン上を突っ走る道を選んだり、立川談春のように迷いを口にしながら別の道を模索したりする人を見ると、つまりは勝ち戦に乗るのではなく自分の矜持に則った戦い方で臨んでいる人を見ると、かっけえなあと感動する。

 年末年始なんざクソ喰らえ、とまでは言わないが、年末年始の世間のムードにはまあまあ鬱屈とした気持ちを抱いてしまう。だが、年の瀬で浮かれ顔のお客さん達に混じって立川談春の「これからの芝浜」を観ただけで、ええ年末やんけと、ほんの少し思うことができた。

 大晦日は休みをもらったので、これを書いている12/30が仕事納めでした。あ、日付変わってもう大晦日か。お疲れ様でした。仕事始めは元日の朝9時、アルバイトスタッフが年末年始はほとんど休みを取るので、社員である俺は元日20:30まで労働です。やっぱり、前言撤回。年末年始なんざクソ喰らえです。終わり。

桂文珍 独演会と北野武『首』(ネタバレあり)

 俺は落語に疎い。ちょこちょこ色んな人のを浅く広く観たり聞いたりするが、寝る前などによく聴いている「好きな落語家」と言えるのは、桂枝雀桂米朝笑福亭松鶴桂三木助(3代目)、古今亭志ん朝くらいだ。志ん生はあんまよう分からなんだ。立川談志は昭和50年代くらいまでのはむちゃオモロいが、それ以降から晩年にかけては、これまたよう分からんなあと思うことが多かった。「イリュージョン」という言葉が落語ファンのみならずお笑いファンの間でもフリー素材化して久しいが、某Tubeで違法視聴した際にコメント欄で談志ファンからフルボッコにされていた「どうしてこんな風に崩してしかできないのかねえ。普通にやればいいのに」というコメントに共感してしまった身としては、ランジャタイはイリュージョンだねえ、などと褒めそやすことはできない。

 ランジャタイと言えば、『ランジャタイのがんばれ地上波!』の「社会見学をしよう!」回は良かった。天竺鼠・川原とランジャタイの二人が社会見学先のゴミ処理場に入りもせず、玄関前でオンエア尺で10分ほどふざけ倒し、モグライダー芝がひたすらツッコミ続けたあと、やっと入ったと思ったら、一切ボケずにオンエア尺で5分ほど真面目に見学を行なってしっとり番組が終わるという構成だった。このラスト5分をきちんとやってくれたのが嬉しかった。具体例が何一つ思い浮かばないので偏見かもしれないが、昨今のお笑いは割とこの番組の前半10分だけで完結しているような気がしてならない。好きな芸人のわちゃわちゃを観て楽しく笑って終わり、というのは俺の求めているお笑いからは外れるので、ベタでもきちんと「一切ボケずに真面目に工場見学して終わる」というボケをしてツイストを効かせてくれたのは、嬉しかった。

 さて、落語の話に戻ります。俺が生まれて初めて落語家を生で見たのは、小学生の頃に家族で行ったなんばグランド花月だった。落語なんて年寄りの道楽やろ、と舐め腐っていたが、これが意外と笑えて面白かった。出番尺の問題からか、本ネタではなくマクラだけの披露だったが、顔も名前も知らなかった老齢の落語家が、その日一番印象に残った。桂文珍である。

 内容は流石に殆ど覚えていないが、考えオチの小噺を披露して笑いが徐々に広まりつつも、まだ3〜4割が理解していないくらいの段階で、「分からへん人はもう結構。置いていきます。分かったふりして、笑ろててください」とボソッと言ったのが、強烈に印象に残っている。あの言葉で、オチを理解できなかった人も「参ったなあ」てな感じで笑って会場が爆笑に包まれたし、結局その考えオチを解説せずに次の話に移行したのも、小坊の俺には新鮮で、妙に格好良く洒落ているように映った。粋、という感情を抱いたのは、人生であれが最初だったと思う。

 そんな桂文珍の独演会がこの度、兵庫県西宮市で開催されるということで、行って参りました。題して、「桂文珍 兵庫大独演会 ~ネタのオートクチュール~」。オートクチュールとは、オーダーメイドの高級仕立服のことだ。61の持ちネタの中から観客が聴きたい演目を3つ選び、その結果に応じて落語を披露する、リクエスト寄席だ。事前にwebで投票できたので、『地獄八景亡者戯』『らくだ』『高津の富』にしようとしたが、大作を二つ入れるのもなんやし文珍の新作はオモロいから新作も入れとこかということで、『らくだ』を外して、文珍の新作の中でも人気の高い『憧れの養老院』をイン。こうした寄席の形式がポピュラーなのかどうかは知らないが、楽しくていいですな。

 さて、当日。平気で12時間とか寝られるタイプですがどうにか早起きをして、独演会の前に東宝西宮にて北野武監督最新作『首』を鑑賞しました。戦国時代版『アウトレイジ』かと思いきや、まさかの戦国時代版『みんな〜やってるか!』でした。この喩えが分からん人はもう結構。置いていきます。たけし映画らしく、冷たく乾いた死の匂いと虚無感が終始画面に漂っており、群像劇としてむちゃオモロかったです。なんと言っても岸辺一徳が絶品で、そりゃいずれ秀吉に切腹を命じられるわな、っちゅう胡散臭さ満載で素晴らしかった。あと、キム兄演じる曽呂利新左衛門の扱いがかなり良かったのが嬉しい驚きでした(奇しくも、落語家の始祖とも言われているとか)。役者陣に比べてたけしとキム兄は、ヘタやなあと感じる場面が多々ある反面、唸るような巧い芝居も時折見せてくれました。個人的に全編通してそこまで「笑い」の意味で面白いと思うシーンはなかったですが、まあ大竹まことが真面目な顔をして茶室で正座しているシーンで一番笑いそうになった人間なので、俺の笑いのセンスは当てにしないでください。

 さて、劇場を後にし、ラーメンを食べ、喫茶店で珈琲と煙草とワッフルを堪能してから、いよいよ兵庫県立芸術文化センターへ赴いた。チケットを買うのが遅かったため、二階席だ。観客は30〜40代がちょろっと、大半は50代以上だ。14時に幕が上がり、すぐに桂文珍が登場した。小指ほどの大きさだが、表情はハッキリと判別できて一安心。明るく広い高座の真ん中で、屏風を背に羽織姿で腰を丸める姿が妙に格好良い。年配層を狙い撃ちしたトークで一通り客席を温めてから弟子の桂楽珍を呼び込み、披露する3演目を決め始める。事前投票の結果を紙で渡され、「票が集まったのは、『老婆の休日』『憧れの養老院』『地獄八景』……(客席をちらと見回して)見たまんまやな」という一言で客席は大爆笑。その場で観客からリクエストを訊いたりしつつ、結局『落語記念日』『星野屋』『はてなの茶碗』に決定した。リクエスト関係なくハナからその三つに決めてたんと違うの、などと思ったが、仮にそうだとしても桂文珍の飄々としたキャラのお陰で全然構わないと思わされる。ちなみにこの演目決めの最中、話の流れで桂文珍がとある著名人の顔を「QRコードみたいな顔やね」と言ったのがめちゃくちゃ面白かった。もし松っちゃんがテレビで言っていたら、テレビ画面のキャプチャを載せてバズりがちな人達がこぞってスクショしたと思う。

 さて、演目も決まり、まずは四番弟子の桂文五郎が『牛ほめ』を披露。声が艶っぽく、演じ分けも上手くてオモロかった。続いて桂文珍が新作『落語記念日』を披露。ラジオ番組で掛けたくらいで全然寄席には掛けていないらしく、まだプロトタイプだとか。落語が絶滅した近未来を舞台に、落語を知らない男に民族資料館(だったかな?)を定年退職した男が落語のあれこれを解説してあげる噺だ。随所に笑いどころがある軽やかな噺だが、桂枝雀立川談志への愛ある言及や、「無駄こそ人生の豊かさ」といった刺さるフレーズも飛び出す。文明の発展で映像作品の娯楽が増え過ぎ、扇子と手拭いであれこれ見立てることで観客の想像力に訴求する落語は絶滅してしまった、という設定は、ともすれば言い訳や愚痴に映りかねないが、扇子を釣竿に見立てたりうどんや蕎麦を啜る芝居がめちゃくちゃ上手いお陰で、むしろ「落語は絶滅しない」と声高に宣言しているようだった。芝居一つでグッと作品全体の格を底上げする様は、三池崇史版『十三人の刺客』で一人だけズバ抜けて見事な殺陣を披露する松方弘樹を彷彿とさせた。

 でっしゃろ、まっしゃろ、という絶滅危惧語尾を自然に使いこなす心地好い大阪弁にうっとりしつつ、『落語記念日』は終了。続いて、19歳から41年間弟子を務める桂楽珍がネタを披露。見た目は剽軽なカルロス・ゴーン。てか、それはもはやMr.ビーンか。旨そうに酒を呑むので、無性に酒を欲してしまった。

 続いて、桂文珍『星野屋』。上方落語らしくネタ中にハメモノ(BGM)も流れ、誇張たっぷりにキャラを演じ分ける。じわじわ呪い殺したる、心中も五、六回やったら慣れる、などの物騒な台詞で、場内は爆笑。出てくる奴らみんな、酷くて愛おしい。オチで、お花の母親が全てではなく三両だけくすねていた、という点がなんとも人間らしくて好きなのだが、ウケ過ぎてオチの台詞はほぼ聞き取れず、そこだけが残念だった。

 ここで、15分の休憩。早起きのせいもあってか、若干の眠気に襲われてきた。ジャン=リュック・ゴダールの映画を劇場で観ると割とよく眠たくなるのだが、あの感覚に似ている。つまらないからではなく、妙に心地好いのだ。開幕して早々に桂文珍が「眠たなったら寝てもろて。イビキだけはご勘弁を」てなことを、過去に実際に寝てイビキをかいた客にまつわるオモシロエピソードを交えつつ言っていたが、流石に勿体無いので我慢する。

 幕間も終わり、桂米朝から教わったという『はてなの茶碗』を披露。『高津の富』や『火焔太鼓』など、庶民が大金を手にする景気の良い話はやっぱり好きだ。2023年の正月特番で浜ちゃんが珍しくツッコミ論を軽く語っており、その内容がざっくり言えば「間」が大事ということだった。明石家さんまも何かで、突き詰めれば結局「間」だと述べていたはずだ。笑いを構造的に分析することは可能だろうが、その中でもこの「間」というのは論じるのが難しそうだ。が、『はてなの茶碗』を聴くと、やっぱり「間」のオモロさを実感させられた。来ると分かっていても、笑ってしまう。

 拍手喝采の中、桂文珍の独演会は幕を閉じた。北野武の監督作を初期から高く評価している映画評論家の蓮實重彦は、著作の中で「私はアニメは原則として映画の範疇に加えていません。あれは映画によく似た何ものかではあると思いますが、よく似ているという点で映画とは本質的に異なる何ものかなのです。今、生きた被写体を撮っていることの緊張感というものが、アニメの画面に欠けているからです」と述べており、ジジイうるせー、ジジイのくせに背ェデカくて怖いし、と笑ったのだが、蓮實重彦の気持ちも分からないではない。尤も俺の場合、生で聴く落語の「今、ここで演じられていることの緊張感」は、映画の「今、生きた被写体を撮っていることの緊張感」を凌駕している、と感じた訳ですが。

 桂文珍は「落語はお客さんと作り上げていく」といったことを述べていたが、確かに「徹頭徹尾、完成された作品を披露」というよりも、「あくまでもその日その場にいる観客を笑わせよう、楽しませよう」という芸人精神が横溢していた。「落語は少ない情報量をいかに上質に伝えるか、という芸能」とは立川吉笑の言葉ですが、まさにそれを体感させてくれる、ミニマルが故に演者の技量と観客の想像力が掛け合わさって、無限の広がりを見せてくれる独演会でした。『落語記念日』が現実に訪れることは、永遠にないでしょう。終わり。

ハライチ岩井&奥森皐月夫妻、ご結婚おめでとうございます。

 酒の席で、好きな女性のタイプは芸能人で言うと誰か、という話になった際、友達の「芦田愛菜……っていうのは、もう言っても大丈夫な感じ? もうセーフな年齢やったっけ?」という答えに「もう、ってお前、いつの頃から目ェつけててん。キショ」と爆笑したことを、ハライチ岩井(37)と奥森皐月(19)の結婚を知って思い出した。Twitter漁るのは時間の無駄、という心情も流石に抗いきれず、ついつい「岩井」でいっぱい検索してしまった。

 あんなキャラで今までやってたくせに…‥てな意見を山程見たが、たまにラジオを聴くけど特にファンではない、くらいの俺からすれば、今までの岩井の言動からは意外な結婚だ、とは全然思わなかった。いくら高校時代「陽キャ」だったとしても、アニメオタクなんやからそりゃ若い子/幼い子とおっぱいが好きやろ、という俺のアニメオタクへの偏見はさておき、岩井のこれまでのキャラのどういった部分が今回の結婚と相反するのか、全然分からない。イクメンって気持ち悪い言葉、というマジ歌での発言を筆頭とした腐りキャラと今回の結婚の何処がどう整合性がないとジャッジされるのか、マジで分からない。マイノリティの権利を主張している奴は左翼だ!とか原発を推進している奴は右翼だ!的なノリか。違うか。よう分からん。俺が覚えていないか知らないだけで、岩井って遥か年下の女性と結婚する男性芸能人をdisる発言してましたっけ?

 今回の結婚にごちゃごちゃ言ってるのは若い女に嫉妬してるババアだ、という類の意見はまあ、そういう人達の囀りなんでどうでもいい。19歳の女を恋愛対象としてみるなんて異常だ、19歳で結婚つーことは17〜18から恋愛、性の対象として見てたんじゃないのか、あり得ない……という意見もまあ個人の価値観なので否定はしないが、女性(同性愛者/両性愛者の男でもええけど)って長瀬智也とか木村拓哉の17、18、19頃の画像を見ても男としての魅力を一切感じないものなんかな、という疑問は湧く。10代後半で子供にしか見えない子もいれば、結構セクシーな子もおるよなあと俺は思っちゃうんすよね、男女問わず。

 岩井、引くわー、という意見も、別に個人の感想だから全然いい。ぶっちゃけ、俺も一瞬引いたんで。ただ、13歳から共演している相手と19歳で結婚するなんてグルーミングだ、と断定している人を見ると、凄えなとは思う。性犯罪者だ、って糾弾しているに等しい訳でしょう。先述の友達じゃないが、俺は24歳ですが、もし今独身だったら、現在19歳の芦田愛菜から求婚されたら、喜んで承諾すると思う。マルマルモリモリの頃から知ってるけども。画面越しと実際の知り合いじゃ訳が違う、のかもしれないが、違わないかもしれない。13歳のときはただの可愛い子供として接してたけど、18〜19にもなると、一人の女性として魅力的に感じてきた、つー可能性は否定できない。 

 子供がいない奴に限って子育て論を語ったり、もし自分の息子、娘がどうたらと口にするのはどないやねん、とは思うが、それでも述べると、もし仮に俺の娘が「13歳だけど31歳の男と知り合って付き合って」いたら、法的/社会的に抹殺すべく動くだろう。もし仮に俺の娘が「19歳で知り合った37歳の男と結婚したいと言い出したら」、マジでーと思いつつ、娘や相手の男とじっくり話したり、ワンチャン身辺調査したりして、結論を出すだろう。もし仮に俺の娘が「13歳の頃から知り合いだけど、19歳から付き合いだした37歳の男と結婚したいと言い出したら」、うーん、これもやはり、マジでーー!と思いつつ、娘や相手の男とじっくり話したり、ワンチャン身辺調査したりして、結論を出すだろう。いや、もしかしたら実の娘となると、猛反対するのかな。ごめん、やっぱ分からん。娘おらんから。

 奥森皐月は俺の娘ではないし、岩井も単なるテレビやラジオで接する芸人だ。他人と他人の結婚だ。13歳から手を出してました、なんて事実でも発覚しない限り、おめでとうございます、と祝うだけだ。とりあえず、次回のハライチのターンを聴きませう。

 では、『ゴジラ−1.0』を観てくるので、この辺で。終わり。

朝井リョウ『正欲』について

 東宝西宮で一人、ポップ&コークを携えてご機嫌に『ジョン・ウィック:コンセクエンス』を鑑賞した。上映時間169分のうちアクションシーンが大半を占め、『ブレードランナー』感溢れるニッポンの描写も真田広之の地に足のついた格好良さも座頭市リスペクトなドニー・イェンの殺陣も楽しかったが、全編を通してずっと没入できた訳ではない。改めて、同じくほぼ全編アクションのつるべ打ちだった『Mad Max: Fury Road』がいかに素晴らしい映画だったかを思い知らされた。俺は現在24歳だが、もう既に過去のことを全然覚えていない。悪い思い出と猛烈に良い思い出は鮮明だが、ちょい良い思い出とどうでもいい思い出は次々に忘れていっている。そんな中、2015年という年は、『Mad Max: Fury Road』が公開された年として強烈に覚えている。他にも、高校をサボって梅田の映画館で『ショーシャンクの空に』『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』『キングスマン』をハシゴしてから、紀伊國屋で『殺し屋1』新装版を全巻買って読んだ2015年の一日も最高の思い出だ。こと2015年に関しては、どうでもいい記憶も割と覚えている。朝井リョウvsデブッタンテもこの年に起きた。うしろシティ、解散しちゃいましたね。

 で、まあ、vsデブッタンテがあったからとかではなく、朝井リョウ作品には2023年に至るまで、特に理由なく触れてこなかった。映像化された作品も、一切鑑賞していない。ただ、『正欲』は評判の高さや新垣結衣稲垣吾郎のWガッキーキャストで映画化されるとのことで興味を抱いていた折、妻が文庫本を購入してきたため、読んでみることにした。

 この文章を書いている俺は、24歳、生物学上も性自認も男、けどかつて恋人=現妻から女子高校生時代のセーラー服を着せられたらすっげー興奮したんで、もうちょい金と時間に余裕があれば女装趣味に走りそう、らんま1/2みたいに両方コロコロ行き来できたら最高っすなあ、多様性やLGBTQという言葉に拒否反応を示したことはないけど、アプリのアップデートという名の改悪を何度も経験しているはずの現代人が、平然と人権意識やコンプライアンスについては「アップデート」という言葉を用いてその善性や正しさを信じて疑わないのは理解に苦しむなあ、そういやこの前友達2人と酒飲んでたら「同性愛って意味分からん。キモい」「最近のLGBTは普通って風潮はおかしい。生物学的に普通ではないやろ」と言われたので、「いやいや、こっちは相手の性別じゃなくて、エロいかエロくないかの判断基準で生きてるから」と返して、「え、ゲイなん? 偽装結婚?」「違う。性別を重要視してへんっちゅうだけで。そもそも、一番身分の低い童貞の分際で、恋愛とセックスを語るなよ。俺みたいに処女まで失ってから言え」「さらっと衝撃のカミングアウトやな。てか、童貞disり過ぎ。大体、セックスってホンマは存在しないんやろ?陰謀論やろ?」「ルシファー吉岡か、お前」というガラケーみたいな会話をゲラゲラしたあと、三軒目にみんなでバニーちゃんのいるガールズバーに行ったりするようなタイプです。俺自身の具体的な「性欲」についてまでは言いませんが、少なくとも性的対象は人間で、人間以外の獣や物には昂奮しません。ただ、可愛い男の娘にも墓場までもう一歩の老婆にも涎だらだらの赤子にもあるいは実の父親にさえ欲情しているのかもしれないし、三浦瑠璃の言説に内心「何言うてんねん」と思いながらも頭を踏み付けられて「仰る通りです」と服従させられたいのかもしれないし、黒ギャルの全身を刃物で切り刻んで命を弄びたいのかもしれないし、『我が子を食らうサトゥルヌス』の絵を見ながら毎晩自慰に耽り、いずれ本当に我が子を食らう目的のために妻と結婚したのかもしれない。あらゆる理解不能で邪悪な性欲を抱えている可能性があります。ただ現時点では、性欲を爆発させて誰かを傷付けたことはありません。性欲以外の面では少なくはない人を直接的/間接的に傷付け、法的にだけではなく、苦い罪を背負っているあまり立派ではない人間です。以下は、そういうフツーの人間が、坂本慎太郎の『まともがわからない』をええ曲やなあとうっとり聴いているような、朝井リョウが言うところの「まとも側の岸にいる人間」が、『正欲』を読んだ感想です。ネタバレ全開、A.T.フィールド全開です。エヴァ15はロングST系パチンコの最高傑作ですな。ライトミドルも登場したけど、やはり319の方が楽しいでしょう。アニメは一話も観てません。

 さて、本題。小説の内容の要約で読書感想文の文字数を埋めてはならないと中学生のとき国語の教師に言われたので、あなたが『正欲』を読んでいる前提で話を進める。俺はこの小説を超面白いと思った。「自分が想像できる"多様性"だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」という台詞を筆頭に、昨今流行りの多様性やアップデートの欺瞞への批判の切れ味は鋭い。自分達がまとも側にいると信じて疑わないから、あらゆるものを正しいと信じて規制できるのだ、少数派にも「理解がある」という態度は自分が常に受け入れる側の多数派だと思っているからこそだろう、といった主張には大いに頷けるし、「マジョリティへの悪影響を助長し得る場所でようやく息継ぎをし、マイノリティを都合よく利用した場所に傷つけられてきた。前者が規制され、後者が礼賛される場面ばかりに出会ってきた」は名文だ。何かと批判されがちなお笑いが好きな身として、結構刺さった。ま、余談ながらお笑いファンって好きな芸人や好きな番組が批判に晒されることに関してナイーブ過ぎないか、とも思っている。バラエティ番組に規制の波が押し寄せようと視聴者的には知ったこっちゃねえ、オモロいもん放送せんかい、あの芸人また色々やらかしたんか、ふはは、てな感じで気楽に観ればいいのに、こんなの放送して批判されないかな、こんな言動叩かれちゃわないかな、とテレビ制作者やマネージャーみたいな眼差しでお笑いを見ている人が割といた。裏側を見せることをも興行にしてしまった弊害か。つって、俺がTwitterで有象無象のお笑い好きを観測していた頃の印象で語っているので、今は違うかも。Xになったらしいし。名称変更が発表されたタイミングで、Twitter JAPANはX JAPANになっちゃうじゃん、というヒューモアがTwitter上に溢れた、に5000ペリカ、缶ビール一本分賭けます。

 あと、これはもう全然関係ない話だが、物語終盤で諸星大也と八重子が「多様性の称揚は、単に少数派にも理解ある自分をアピールしたいだけではないか」という対話をするシーンで、何故だか分からないが、古典文学を読んでいない読書好き、古い映画を観ていない映画好き、落語を見聞きしていないお笑いファンなどがよく使う「履修していない」という表現に対して、広く括れば同じジャンルでもその辺は興味ないっす、守備範囲外っす、と言えばいいだけなのに、「ジャンル愛好者として興味関心はありますよ、アンテナは張ってますよ」という目配せや言い訳のための表現に感じられて気に食わねえな、そもそも授業じゃないし、単位出ねえし。てなことを、頭の片隅でなんとなく思った。

 『正欲』の話に戻る。『正欲』はとてもバランス感覚に優れた作品だ。諸星大也や佐々木佳道、桐生夏月は、啓喜と彰良を性の対象として消費してはいないが、彼らのYouTube活動を性欲の発散のために利用している。噴出する水、という性的対象のお陰で清らかに隠蔽されていたが、不審視もされず金も掛からない、手っ取り早い手段として啓喜と彰良に性欲発散の手伝いをさせる構造は、グロテスクだ。子供らにとってはただの水遊びではないか、ディルドやアナルパールを用途を知らせずに子供らに持たせるのとは訳が違う……という反論もあるだろうが、YouTuberとしてビックになるぜと懸命に頑張るガキ2人を己の性欲発散のために利用してええ訳ないやろ、というのが俺の価値観だ。同じように思う読者は、一定数いるだろう。『正欲』はこの点に関しても、子供を利用せざるを得なかった切実さを描き、しかしそれってホンマにええんかいなという疑問も提示している。それがその後の「自分達で動画を撮る」という展開に繋がり、結末へと向かう。子供を利用するなんて、と批判的なトーンで描き過ぎると小説として破綻するし、かといってそこをスルーすると俺みたいなダルい奴は引っ掛かってしまうので、絶妙な塩梅だ。

 バランス感覚で言うと、大也と八重子の終盤の対話も素晴らしい。俺は中盤までずっと面白く読みつつも、何処かで「水にしか性的興奮を抱けず、そのことで社会規範とは根本的に相容れないと諦め、社会を恨んでしまった3人」に対して、不幸自慢みたいでイラつくな、とも思っていた。そこにきて、それまでずっと浅薄なキャラとして描かれていた八重子が「はじめから選択肢奪われる辛さも、選択肢はあるのに選べない辛さも、どっちも別々の辛さだよ」と言い、苦しみには色んな種類があり、そっちだってこっちの辛さは分からないだろうと述べることで溜飲も下がったし、それでもなおそこから執拗に対話を迫るシーンは、とても美しかった。Twitterではおよそ存在しない「対話」の姿勢がそこにはあった。名称が変わったくらいで中身が変わるとは思わないので、Xにも恐らく存在しないだろう対話、そして、繋がりというこの小説を通底するテーマをビシビシと感じさせてくれる名シーンだ。

 さて、ここからは反対に「うん?」と思ったことを書く。諸星大也、佐々木佳道、桐生夏月(以下、「主人公達」)は「水にしか性的興奮を抱けない性欲は、いずれ自分達の理解できる範囲の多様性のみを礼賛し、自分達の文脈に組み込んでも大丈夫か否かを上から目線で選別することをアップデートと称する連中によって、正しくないものとして排除されかねない」という懸念を抱いている。だが、果たしてそうだろうか。アニメや漫画のキャラを愛する二次元オタク、そして初音ミクと結婚したフィクトセクシュアルと呼ばれるような人は、作中の田吉のようなタイプからは「キモい、キチガイだ」と言われそうだが、むしろLGBTQを理解しよう、ダイバーシティ、アップデート、多様性!と盛り上がる人々、つまり主人公達が敵視していた人々からは、次の受け入れる対象として「選ばれ」そうだ。主人公達の対物性愛に関しても同様で、旧態依然とした反アップデーターからはキチガイ扱いされるだろうが、八重子らアップデーターからは新たな庇護対象として扱われる可能性の方が高いと思うのは、俺だけだろうか。つーか、軽く検索を掛けただけで、対物性愛者のインタビューが何件か出てきた。八重子の大学の学祭が10年後には対物性愛を取り上げている様は、容易に想像できる。無論、「理解してとか頼んでねえし、その上から目線の態度がキモくて気に食わない、この世界の大半の物事が対人性愛を前提に成り立っている以上、生きづらいもんは生きづらいんだ」というのはその通りだろうが、少なくとも主人公達の懸念は杞憂ではないかとの感想は拭えない。この小説を安易に「多様性とか言ってるリベラルは所詮上辺だけの薄っぺらい連中だよ」てな感じでリベラル諸氏への批判の道具に使う人もいるだろうが、『正欲』の作中の端々からも読み取れるように、主人公達少数派にがっつり心の傷を負わせたり緩やかに首を絞めたりしてくるのは、やはり「リベラルとかアップデートとか多様性とか全然知らないし興味ない。そんな話、居酒屋ですんなよ。それよりお前さ、彼女いんの? ええ? いい年こいて、童貞かよ!お前、それでも男か。ガハハ」的な普通の人々の方だろう。『正欲』を全篇通して面白く読みつつも、心の何処かで「主人公達、アップデーターを毛嫌いするのは全然ええねんけど、多分その彼らアップデーターの活動のお陰で、いずれ対物性愛は結構市民権を獲得していくと思うよ。何故なら、対物性愛は理解不能でキモいと思われようとも、人に危害を加える類の性欲ではないので」と思い続けていた。対物性愛が現在の同性愛程度には一定の社会的認知を獲得した場合、水を愛する人々は、現在の同性愛者程度にはその性欲を発散できるコミュニティ、需要と供給を作れるだろう。

 対物性愛は現在、多くの人々の想像の埒外に置かれているから多様性に組み込まれず、主人公達も自分達のような存在が想定さえされていない世界に絶望している。だが、いくら多様性が進もうとも認められないであろう性欲もある。多くの人々がその存在を認識した上で、存在してはならないと既に断罪し終えた性欲だ。すなわち、小児性愛である。

 俺は『正欲』における小児性愛の描き方、というか描かれなさが引っ掛かった。主人公達は純粋に水だけを撮影するつもりで集まるが、同志と思っていた矢田部が実は小児性愛者の一面もあり、児童買春を犯して逮捕され、そこから芋蔓式に主人公達も逮捕される。公園で水を撮影中に子供達も水遊びに参加する状況が生まれ、半裸の子供達の動画や写真を矢田部が撮影して、それを主人公達と共有したからだ。主人公達に関しては、児童ポルノ所持での逮捕は、所持したという事実はあれど、誤認逮捕と言える。

 主人公達は、犯していない罪で逮捕された。主人公達は水を愛していただけなのに、そんなものの存在を現在の多様性が掬えていないから、小児性愛者と誤認され、理不尽に逮捕された。とても胸の痛む悲劇だ。だがその悲劇を引き起こしたのは、主人公達の「性欲」ではなく、矢田部という小児性愛者の存在である。

 誠也は八重子との対話の中で、多様性を重んじるようなことを言っているお前らの主張は所詮「どんな人間だって自由に生きられる世界を! ただしマジでヤバイ奴は除く」「差別はダメ! でも小児性愛者や凶悪犯は隔離されてほしいし倫理的にアウトな言動をした人も社会的に消えるべき」というものだと糾弾する。他にも小児性愛者に言及し、彼らの心の安寧を願うような場面こそあれ、作品全体トーンとして、小児性愛者についてはあるライン以上は踏み込まない。

 どうしても子供にしか欲情できない小児性愛者の苦悩は、どれほどのものだろうか。子供を強姦する訳ではなく、金を払って行為に及ぶ児童買春は本当にいけないことなのか。判断能力の有無を問題にするならば、酒に酔った大人の女性と行為に及ぶ男達はどうなのか。性風俗産業に従事する女性は、まともな判断ができない状況に追い詰められていたのではないか。社会全体で「送り狼」や「風俗に行った体験」は軽い下ネタや猥談として通用するのに、児童買春が一度でも露見すれば法的/社会的制裁は免れない。厳し過ぎないか。1億粒の砂から構成されるものを砂山と呼ぶなら、そこから一粒取り除いた9999万9999粒の砂粒も、砂山と呼べるだろう。X粒の砂の集合もX-1粒の砂の集合も砂山と呼べるなら、理論上は砂粒一つだって砂山と呼べるはずだ。じゃあ、20歳とセックスしていいなら、13歳とセックスしたっていいはずだ。屁理屈?じゃあ、まともな理屈で子供とセックスしてはいけない理由を教えてくれよ。本人の判断を尊重すればいいじゃないか。ダメなもんはダメ?じゃあ、セックスは諦めるよ。その代わり、動画や写真くらいいいだろう。子供と無邪気に水遊びして、子供達は楽しんではしゃいで半裸になって、それをこっそり撮影するだけだ。何が悪い? 誰を傷付けた? 子供達が将来、自分達の裸体が慰みものになったと知ったら傷付く? それはお前らが俺の罪を暴くからだろ。俺はこっそり撮って、自分や仲間と一緒に楽しむだけだ。お前らが暴かないなら、何の問題もない。勝手に人を撮影してはいけない? じゃあ、街で芸能人を盗撮している連中やパパラッチも全員豚箱にぶち込めや!

 てなことは、描かれない。小児性愛者•矢田部の内面は深掘りされない。主人公達は自身が「異常」であるが故に、小児性愛者にも一定の寄り添った眼差しを向けているようだが、作品全体として、小児性愛者は許されないという暗黙の了解が破られることはない。水に昂奮する、という多くの人々にとって理解不能で想像だにしない、しかしある種清らかな、何なら「聖的」な印象さえ覚えさせる性欲を持つ主人公達は、小児性愛者という許されざる存在の巻き添えを喰らい、理不尽な悲劇に見舞われる。読者はそれに胸を痛め、感情移入し、無理解な世界や自分自身の価値観を揺さぶられる。だがその背景にある、小児性愛者=許されない、という図式が崩れることはない。そこにまでは、疑いの余地を見出さない。魔女狩りにかけられて火炙りにされた女性の悲劇には胸を痛めても、そもそも魔女ってそんなに悪い奴なのか、という問いは投げ掛けられない。

 小説は面白ければいいと俺は思っている。テーマとかどうでもいい。『正欲』はめちゃくちゃ面白い小説だったから、大満足だ。ただ、対物性愛のような理解不能で想定していない性欲を無自覚に排除している多様性の傲慢さ、暴力性を描くよりも、小児性愛のように既に「正しくない欲」と審判が下ってしまったものについて多角的に描かれた内容の方が、多様性を問い直すという意味では、踏み込んでいるように感じる。『正欲』の帯文や絶賛コメントを見て、読後に価値観が一変して世界が揺らぐような衝撃を予想していたが、物事の見方という意味では、斬新さは感じなかった。しかし繰り返すが、とても面白い小説です。未読の方がいれば、是非ご一読をば。併せて、木原音瀬『ラブセメタリー』とJ ・G・バラード『クラッシュ』も是非。前者は男児しか愛せない男達を描いた連作短編、後者は自動車事故に性的昂奮を抱く者を描いた長編で、どちらも傑作です。終わり。

平凡な一日、伝説の一日

 二〇二二年、四月三日。休みだったので、午前10時の映画祭で『ゴッドファーザー』を鑑賞した。劇場で観るのは初めてだったが、案の定家で観る数倍の没入感で、猛烈に面白かった。この前『ザ・バットマン』を観た際は「オモロいけど長いなあ」と感じたが、というか3時間も座りっぱなしなのだからケツが痛みを訴え始めるのは当然で、「長いなあ」と感じるのはしゃあないのだが、『ゴッドファーザー』にはそれがなかった。エンドロールが流れ始めた瞬間、「完璧!」と言いたくなった。

 このあと恋人と合流して、あべのハルカス印象派展に行く予定だったが、体調不良とのことで中止になったため、一人で昼飯を済ませたあと喫茶店に入った。アイスコーヒーを頼んでから煙草を家に忘れた事に気付き、店員に断りを入れて買いに出た。しかしまあ、両切りのピースっちゅうのはホンマにどこのコンビニにも売ってませんなあ、この前売ってない煙草屋に遭遇したときはブチギレそうになりましたよ。ということでやむなくロングピースを買い、フィルターを千切って吸うことにした。

 不味くない。というか、全然普通に旨い。けど、当然ショッピには劣る。できればショッピを吸いたいなあと思いながらフィルターを千切ったロンピーを吸うという、ジュディ・オング状態を続けるうち、灰皿が一杯になった。退店し、そそくさと帰宅した。予定が空いたので、後日観る予定だった吉本興業『伝説の一日』千穐楽参回目のアーカイブ配信を観ようと思ったのだ。お目当てはもちろん、ダウンタウンだ。出演情報だけで、何をするかは発表されていない。本来なら劇場に足を運ばなければならないものを気軽に観られるというのは、有難い限りだ。医療を発展させてきた戦争は必要悪だ、とかドヤ顔で口にするガキにはウィル・スミスビンタを浴びせればいいと思っているが、どれほど悲劇とされているもの、あるいは幸福とされているものでも立場によっては違った捉え方をする人がいるのは当然で、世界的にクソとされている、そして俺もクソだと思っているコロナ禍も、お笑いファンからすれば「ライブのオンライン配信の普及」というプラスの側面を生み出したことは否定できない。尤も、お笑いライブの配信が普及することもまた、立場や価値観によっては必ずしも歓迎できないだろうが。

 ウィル・スミスの名前を出したんで、余談ながら軽くあの件について触れよう。誰かを笑い者にして傷付ける日本の笑いは欧米に較べて遅れている論者がどいつもこいつもダンマリ決め込んでいるのはまあ、連中が知ったかぶりの欧米出羽守だということは分かりきっていたことなので今更どうでもいいとして、アメリカ世論やアカデミー賞アメリカのおセレブの価値観っつーのはマジで訳分からんなあと些か驚いた。が、人間の価値観なんてのは生きていく中で育まれているものな訳で、アメ公にはアメ公の、露助には露助の、ジャップにはジャップの価値観がある。もちろん、その中でもグラデーションはある。俺はウィル・スミスの方がかなり痛烈にdisられるアメリカ世論の価値観を全然理解できないが、それでもそういう文化と価値観なのだと尊重する。キリスト教なんざ年季が入ってるだけのカルト宗教じゃねえかと思うが、俺だって神社の境内に唾を吐けと言われれば躊躇する。「俺はウィル・スミスの方が批判されるの理解できないなあ、日本の世論もそういう意見の方が多いなあ、でもアメリカだと逆なんやあ、文化の違いやねえ」はい、これで終わりである。原爆投下は正当化できると未だに国民の過半数が思っているようなファッキン宗主国の価値観が絶対的に正しいとは限らない。唯々諾々と受け入れる必要はない。中華を祭り上げて日本はNo.2の座に就き、シン・大東亜共栄圏を作るべし。

 さて、伝説の一日に話を戻す。お笑いライブを配信で観るのは、永野が酒を飲んで他の芸人を論破していくやつ以来だった。ドキドキしながら、伝説の一日のアーカイブを再生した。以下、ネタバレありの感想だ。

 前説はみんな大好きレギュラー。松本くんがお馴染みの「ドゥドゥビィ♪ ドゥバァ♪ ドゥビィ♪ ハイッ! ハイッ! ハイ、ハイ、ハイッ!」と元気よくリズミカルに口にする際、西川くんが「ハッ!ハッ!ハッ!」と裏拍を取っているのが妙に面白かった。昔は無言でニコニコしているだけだったのに。

 前説の後の口上は、海原やすよ・ともこ&中田カウス。司会はあべこうじ。緊張気味のやすとも、あべこうじに対し、終始笑顔のまま、心底楽しそうやけどホンマは冷え切ってんちゃうやろか、と勘繰ってしまう胡散臭い喋り方で滔々と話す中田カウスが最高だった。マジで、一秒も真顔の瞬間がない。ずっとタレ目で口角上がりっぱなし。皮肉や厭味ではなく、中田カウスのこういう怪人っぽいところが好きだ。つくづく、『アウトレイジ』シリーズに出演して欲しかった。

 口上が終わり、トップバッターはさや香。人体の不思議というネタだ。

石井「人体の70%は水なんやって」

新山「へえ!(ちょっとしたボケを挟んだあと)歴代彼女、何人いる?」

石井「10人くらいかなあ」

新山「え、ていうことはホンマは3人ってこと?」

 という件は面白かったが、歴代彼女の人数を尋ねる質問に若干の唐突さというか御都合主義感というか作為性というか、を感じた。歴代彼女の数を尋ねた時点で新山は既に「人体の7割が水なら、人数×0.3がホンマの人の数や」と思っている訳で、だったら「人体の7割が水」と石井に言われてすぐ「じゃあ、10人おってもホンマは3人ってことやん」と返すのが会話としては自然だ。それなのにあえて歴代彼女の質問を挟んだのは、「10人は実質3人」という抽象的な表現よりも「歴代彼女」という具体性を持った人数が雑に減らされてしまう方が明らかに面白い、というのを新山が理解しているからだ。そこがちょっとだけ醒めてしまった。「人体の70%は水やねんて」「じゃあ、イナバ物置に乗ってるのはホンマは30人ってこと?」とかの方が会話の流れとしては綺麗だ。けど、相方の歴代彼女が減る方がオモロいよなあ、歴史とか思い出が詰まってるから。難しいところや。

 などと、コンマ数秒で思考した。漫才を観てこういうことを瞬時に考えるようになったら、人として終わりです。何故なら、視聴者の中でお前しか気にしていないから。ベロ嚙んで死になさい。

 二組目はスーパーマラドーナ。俺は上沼のえみちゃんのフアンなので、ニューヨークの活躍に歯軋りするパンツマンのファンと同じ気持ちで観るつもりだったが、武智の覇気がなさ過ぎて心配になった。ネタに合わせてあえてそういうトーンだったら、すんません。

 三組目はビスケットブラザーズ。シュッとしてはらへんので人気爆発とまではいっていないが、やっぱり面白いコント師です。

 四組目は2丁拳銃。むちゃオモロかったです。

 五組目は横澤夏子阿藤快が言うところの「好きな人には堪りませんねえ」というやつでしたが、「〜に多いです」という一言で一度笑った。

 六組目はあべこうじ。妻・高橋愛がめちゃくちゃタイプなんで嫉妬しまくりながら観ましたが、舞台慣れしまくった職人っつー感じがして面白かったです。

 七組目はまるむし商店。何をしていたのか全く覚えていない。

 八組目は「中田カウス 漫才のDENDO ゲスト:すゑひろがりず」。すゑひろがりずがネタを披露したあと、中田カウスと軽くトークをするという流れ。すゑひろがりずの漫才とトークは面白く、中田カウスは俺の大好きな中田カウス節を炸裂させていました。『ゴッドファーザー』を日本でリメイクするなら、バルジーニ役は中田カウスで決まりです。もちろん、劇中では真顔で。

 換気のための休憩を挟んで、九組目はコロコロチキチキペッパーズ。平場のナダルの奇人ぶりが好き過ぎるので、漫才を見ても西野のボケがパンチ弱く感じてしまいました。

 十組目は月亭方正。ガキ使にまつわる鉄板トークでした。いずれは方正の落語を見に行こうと思う。

 十一組目はジャングルポケット。コントなのに、明転して客席に軽くお辞儀してしまったおたけが可愛かったです。ネタはコントコントした濃い味付けでしたが、バズレシピと違って自覚と品のある濃さでした。名前を覚えてないけどバズレシピのあの料理研究家、料理に罪はないとか言ってロシアのウクライナ侵攻後にロシア料理を紹介するあの感じ、きちんと全部に言い訳を用意しているあの感じ、海砂利水魚の比じゃないくらい邪悪なお兄さんですよ。

 十二組目はライセンス。藤原が過去一、藤井隆に似ていました。

 十三組目は木村祐一の写術。クスッと笑えるタイプのネタ。餃子をめちゃくちゃ推している中華屋のメニューの写真を見せたあと、「一番人気チャーハン!」という写真を出した際、キム兄の芸風的に「どっちやねん!」とか強めにツッコミそうなもんだが、「まあ、中華屋ですからねえ。みんなでシェアして、ってことですかねえ」などと穏やかな口調で言っていたのが少し意外で、面白いなあと思いました。好きなネタでした。案外、キム兄のことが好きな俺です。ダウンタウン組はみんな好きです。ほんこんでさえ。

 十四組目はCOWCOW。楽しそうで何よりでした。

 十五組目はテンダラー。浜本の不倫騒動のネタへの組み込み方がクール。ベテランの余裕と風格という感じ。ただ、他の組の持ち時間が3〜4分のところ、何故か8分くらい使っていたのが不思議でした。

 十六組目は海原やすよともこ。ぶっちゃけステレオタイプ感さえある大阪・東京の違い話も、切り口に斬新さはないがきっちり面白い。巧い監督が撮ったお約束だらけのアクション映画みたいだ。

 幕間は四組の芸人による1分ショートネタ。MCはおいでやす小田。囲碁将棋がこの枠かあ、漫才オモロいのに……という思いと、小田が幕間を「まくま」と言っていたのが気になった。ガリットチュウの暴力的な笑いが好きだった。

 そして、真打・ダウンタウンが登場する。出囃子はEPOシュガーベイブの名曲をカバーした「DOWN TOWN」で、舞台の中央にはサンパチマイクが現れる。お、と思わず小さく声が出た。内容は、チンピラの立ち話でした。良い一日でしたよ。終わり。