沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

かすり傷すら致命傷

 かつて、『今ちゃんの「実は…」』という番組で後輩芸人から、「小籔さんってモデルみたいにシュッとした体型で背ェも高いんやから、もっとモテてええのに!」とイジられた小籔が、すぐさま「アホか。背が高い、いうんは、ある程度のルックスがあって初めて価値が生まれんねん。うんこを高らかに持ち上げたところで、誰も褒めてくれへんやろ!」と返した姿は、バラエティ史に残る名シーンだと思うのだが、あまり話題になっていない。腹抱えて笑った記憶があるのに。

 これと並んでもう一つ、小籔のバラエティ番組における言動で印象的だったのが、アメトーークの「カメラかじってる芸人」における、「カメラ女子が撮ってるんは、空と犬と猫とカプチーノだけ」というものだ。スタジオ中が爆笑し、俺も大笑いした。「カメラ女子とかいけ好かないけど、理由をうまく言語化できない」という多くの人々のモヤモヤを凄まじい速度で吹き飛ばした瞬間だった。

 だが、2019年になろうかという今なお、この切り口で包丁を入れる人を見かけると、キッツ、と思う。この放送があったのは、2013年である。まだ言うてんの、それ? だ。

 インスタ映えとかティックトックとかフラッシュモブとかに対する批判も、同様だ。確かに俺の中にも、それらに対して「しゃらくせえ」と思う気持ちはある。だが、それを高らかに言ってしまうキツさ。「何がインスタ映えだよ! そんなもんしたところで、お前はブスのままだよ」という得意げな台詞は、「酢豚の中にパイナップル入れるっておかしいだろ!」と同レベルだ。そりゃそうかもしれんけど今更声高らかに言うのはダサいやろ、好きな人もおんねんからええがな、というヤツだ。

 特にインスタ映え批判。2017年に南海キャンディーズの山ちゃんが、インスタ映えを「いいねのカツアゲ」と評した。もう、本来はそこで終了のはずである。その時点で、この切り口におけるインスタ映え批判の最高速度が出たのだから、今後インスタ映えを批判する者は、さらなる面白フレーズを考案するか、全く別の切り口で批判するか、二者択一である。それをいつまでもダラダラと、同じ切り口でいつまでしゃばいことしとんねん、と思う次第だ。

 こういう、「安易に流行に流される奴らとは違う俺」を標榜する奴らは、「安易に流行に流される奴らとは違う俺」というポジションに安易に就こうとしている。ダサい、ダサい。

 ただ、オードリー若林が2015年辺りに「斜めからモノを見る奴らにとっては、お前がいるそこはもはや正面だよ」的なことを言っていた気がするので、本稿の主張もまた、新鮮さがないかもしれない。俺は俺で、「安易に流行に流される奴とは違う俺、というポジションに安易に就く奴はダサい、と批判するポジション」に安易に就いているのかもしれない。一度疑い出すときりがない。無間地獄。どうすればいいのか、って答えは単純、自分の好きなモノに素直に手を伸ばせばいいのだ。人間だもの。みつを。相田みつをって、あんま大したこと言うてへんよね、自己啓発本と変わらへん。「死ぬこと以外かすり傷」とか言う奴を見ると、「かすり傷やんな?」って言いながら半殺しにしたくなりますよね。ならないですか? ああ、そうですか。じゃあ結構。はい、終わり。

戦争は続くよ どこまでも

 2ちゃんねるの創設者として知られるひろゆき氏の、インタビュー時などにおける一人称が「おいら」である、というのを最近知った。超面白い。けどまあ、そんなことはどうでもいい。本稿にはマジで何の関係もないので、早速本題に入る。

 俺は、好きなお笑い芸人は? という質問をされる度に、迷わずダウンタウンと答えている。理由は単純、面白いからだ。これまでの人生で僕を笑わせてくれた総量が最も大きいのは、ダウンタウンである。一時期ネットで流行った「松本人志の才能は枯渇した」というクソな言説のせいで、大して映画を好きでもなければ詳しくもないであろう連中(柳下毅一郎は違うけど)から酷評されているが、『大日本人』は傑作である。『R100』だって良い。『しんぼる』と『さや侍』はまあアレだが、半分面白けりゃ、充分だろう。『大日本人』を批判してた奴らの大半は多分、黒沢清作品を観ても「よく分かんねえ、駄作」って言うと思う。特に『LOFT』とか。
 あと最近、「ダウンタウンはいじめ芸ばかりで面白くない」という人が続出し始めた。まあ、ダウンタウンの笑いを「いじめ芸だけ」と断じるのは視野狭窄だと思うが、本当にそう思うのなら何も言わない。ダウンタウンは面白くない、ダウンタウンの笑いは嫌いだ、という人も当然いるだろう。ただ俺が気に食わないのは、近頃「ダウンタウンは面白くない」という人々の多くが、どうやら、ワイドナショーでの松っちゃんの発言や政治的スタンスを受けて発言しているようだ、ということである(一応言っとくが、俺は安倍政権なんか微塵も支持していないですよ)。

 そして彼らは、「ダウンタウンの笑いは古い。サンドウィッチマンは人を傷付けない笑いだから好き」と言い、彼ら流のお笑い評やお笑い論を展開させる。だが、いちいち引用して反論はしないが、まあ的外れなことが多い。見解の相違とかではなく、単なる事実誤認とか、そういうレベルが大半である。

 さらに彼らは、決して、「佐久間一行は人を傷付けない笑いだから好き」とは言わない。何故か。佐久間一行を知らないからだ。何故知らないのか。お笑いに興味がないからである。でも、お笑いについて語るのだ。批判するならワイドナショーにおける松っちゃんの発言だけを批判すればいいのであって、何故、よく知らないお笑いの分野にまで乗り出し、「ダウンタウンの笑い」についてまで語り、批判したがるのか。多分、幼少期から身近にある「お笑い」は、他の娯楽に較べ、知識がなくとも語りやすいからだろう。「知らない分野について語りたがる人」の巣窟であるインターネットにおいて、お笑いは恰好の的だ。

 話は一瞬脇道に逸れるが、映画評論家の蓮實重彦は、ジャズミュージシャンの菊地成孔との対談で、「私は音楽が全く分からない」と早々に宣言していた。蓮實重彦ほどのクレバーおじいなら、知ってる風に語り、どうにかその場をやり過ごすこともできるだろうに、「分からない」と言ってのけたのである。見習うべき潔さだ。

 さて、閑話休題。インターネットは、こうした潔さを持たない人ばかりである。故に、ダウンタウンを「人を傷付ける笑い/傷付けない笑い」というガサツな基準によって批評(風の酷評)する者は後を絶たず、テレビの賞レースの時期だけお笑いについて語る演劇人も後を絶たない。

 教養のない芸人が雑に社会を斬り、教養のないお笑いファンがそれを支持する。それに対し、お笑いの教養がない文化人が雑なお笑い批評を返し、お笑いの教養のない教養人がそれを支持する。両者の議論という名の泥団子合戦は白熱し、教養のあるお笑いファンやお笑いの教養もある教養人は辟易する……。この地獄絵図はインターネット上のあらゆる場所で繰り広げられ、決して無くなることはない。戦争法案反対、というプラカードを掲げて街を練り歩く人々の内の何割かは、ネット上でお笑いファンに戦争を仕掛け続ける。いつかこの戦争が終結し、みんなで仲良く手を取り合って、『大日本人』を観られる日が来るといいですね。ハハハ。終わり。