沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

漫画原作者・狩撫麻礼

 最近、あまりテレビを観ていない。コロナのせいで再放送や総集編が多くなってしまったからだ。そんな中楽しみにしていた5月3日の「ボクらの時代」は、山田ルイ53世、スギちゃん、コウメ太夫というゲスト、しかも番組始まって以来初のリモート鼎談だったが、主に53世の達者ぶりのお陰で思いの外ちゃんとした出来になっており、放送事故すれすれのしっちゃかめっちゃかさを期待していた俺としては、些か肩透かしだった。いや、53世は何も悪くはないのだが。

 という訳で、最近は読書するか漫画を読むかGyao!で映画を観るか(平成ガメラシリーズ、初めて観たけどオモロいっす)YouTubeを漁るかしている。YouTubeのアカウントも作った。更新されたらすぐに動画をチェックしたいチャンネルが増えてきたからだ。登録しているのは、「矢作とアイクの英会話」「ランジャタイぽんぽこちゃんねる」「ジャルジャル公式チャンネル」「くっきー!」「ジュニア小藪フットのYouTube」「ジェラードンチャンネル」「さらば青春の光Official YouTube Channel」「しもふりチューブ」「かまいたちチャンネル」「チョップリン凸劇場」「ゾフィーOfficial YouTube Channel」「空気階段チャンネル」そして、某AV女優のチャンネルだ(エグめの性的嗜好を知られたくないので、誰かは秘密である)。この中で今一番更新が楽しみなのは、空気階段チャンネルだ。単独ライブの『baby』からコントが少しずつアップされていて、それが滅法面白い。俺は生でお笑いや演劇を観た経験が、両手で収まるほどしかない。だから、それらに触れる手段はもっぱらDVDや映像配信になるのだが、空気階段は残念ながらこれまで一度も円盤化されたことがない(はずだ)。ラジオは聴いているし、テレビやネットで合法/非合法問わず観れるコントは大抵観たが、単独ライブの一つも観ずにファンを名乗るのは憚られるので、是非とも『baby』は円盤化して欲しい。それを購入し、胸を張って空気階段のファンだと名乗りたいものだ(YouTubeで全部公開されたとしても買います、金を使うのが好きという悪癖を抱えているので)。

 空気階段をいつ知ったのか、記憶は定かでない。何となく色んな人の高評価を目にして存在だけは知っていたような気もするし、ふとしたきっかけでコントを違法視聴したような気もするし、読んでいるブログで紹介されているのを見て初めて知った気もする。ただ、二人に対して強烈な印象を抱いた瞬間は明確に覚えていて、それはこの動画の最初の25秒を観たときだ。
 めちゃくちゃ格好良いと思った。路地裏を歩き、喫茶店で揃って煙草を吸う二人の姿は、「まほろ駅前」シリーズの瑛太松田龍平に匹敵している。空気階段の二人ほど、狩撫麻礼の作品に登場していそうな雰囲気とビジュアルを持った人物を、俺は他に知らない。
 狩撫麻礼とは誰か? 俺が好きな漫画原作者だ。2018年に亡くなるまでの間、数多くの作品を世に残した。
 ところで、チャールズ・ブコウスキーの『パルプ』という小説の解説で、作家の東山彰良は次のように述べている。
ブコウスキーが好きだと吹聴するのは、あまりみっともいいものではない。誤解しないでほしい。彼は間違いなく二十世紀最高の作家のひとりだ。すくなくとも、俺やショーン・ペントム・ウェイツU2のボノにとってはそうだ。しかし、かつて俺自身がどこかで書いたことだが、ブコウスキーが好きだと公言するのは、おれは負け犬の味方さ、一筋縄ではいかない男だぜ、人生、酒と女以外になにがある、と嘯いているようで気が引ける。」
 狩撫麻礼が好きだと公言することにも、これとは少し違うが、まあ一種の特権意識や選民思想めいたものを感じさせる何かがある。が、それは自覚した上で、それでも今から狩撫麻礼の作品の中からおすすめをいくつか紹介したいと思う。このブログは一応お笑いを語るブログとして始めたが、狩撫麻礼はギャグ漫画家ではない。でも、間違いなく面白いし、笑いの要素も多く含まれているので、何卒ご勘弁を(今後は、お笑いが好きな人にお勧めしたい映画とか小説、漫画を紹介する記事も書きたいですね。ちなみに最近の収穫は、小説家だと木下古栗と佐川恭一です)。
 
1.『迷走王ボーダー』「原作」狩撫麻礼 「画」たなか亜希夫
 バブル全盛期。ボロアパートの便所部屋(家賃3000円)に暮らす蜂須賀、同アパートに住む久保田、東大志望の浪人生・木村の三人が主人公の物語だ。「ボーダー」というタイトルの通り、自分達〈こちら側〉と世間の多数派の連中〈あちら側〉という価値観がしばしば登場する作品だが、主人公たちの魅力あふれる人物造形のお陰で、貧乏な落ちこぼれが文句を垂れているだけ、という印象を読者に与えない。エキセントリック過ぎるストーリー展開と思わず抜粋したくなるような痺れる名言が醍醐味だが、作品の背景や文脈を排した名言の抽出を好まないので紹介はしない。ただ、多感な時期にこの作品を読んでしまえば人生が狂う可能性すらあるほどカリスマ性のある漫画だ。俺が人生をある意味で舐め腐り、どうも就活に精を出せないのは、この漫画を高校生の頃に読んだせいだ……なんて言い訳はしないが、まあエリート街道を歩めなくても安アパートでウイスキーがぶ飲みするだけで充分楽しいやろう、という心のセーフティネットにはなっている。かつてネットで見かけたこの作品の熱心なファンがめちゃくちゃイタい奴だったので、『迷走王ボーダー』は俺のバイブルだ、とは決して言いたくないのだけれど、とても大切な漫画であるのは確かだ。
 ちなみに、狩撫麻礼は様々な漫画家と組んでいるが、空気階段の二人が最も似合う絵柄は、本作のたなか亜希夫だ。
 
2.『湯けむりスナイパー』「原作」ひじかた憂峰 「画」松森正
 ひじかた憂峰というのは狩撫の変名だ。足を洗った殺し屋の源さんが、温泉旅館「椿屋」で働く中で様々な出来事に遭遇する……とあらすじを書くと、旅館に対して地上げを迫る暴力団を壊滅させる、みたいな話を想像しそうだが、源さんが殺し屋時代の暴力的な実力を発揮する話は殆どなく、基本的には個性豊かなキャラが織り成す人間ドラマである。ただ、その中で「元殺し屋」という造形がちりめん山椒のようにピリッとよく効いている(安い比喩や)。こんな奴おらんやろっちゅうような源さんの激渋ハードボイルドっぷりにも「元殺し屋なら……」と納得できるし、「足を洗った殺し屋が旅館で働く」という荒唐無稽な前提からスタートしている訳だから、多少非現実的だったりリアリティを欠きかねないストーリーであっても違和感を覚えることなく読むことができる。殺し屋万歳。殺し屋大好き。男女二元論には中指を立てているしジェンダーの多様性を重んじているが、それでもあえて言うと、男子はハタチを迎えるまでに一度は殺し屋に憧れるものだ。御多分に洩れず、俺もそうだった。
 ちなみに、本作に登場する裏社会の情報屋Qと瓜二つのキャラクターが、同コンビによる『ライブマシーン』にも登場する。同一人物かどうかは不明だが、同じ人だと思って読むと作品に一層深みが出る。『ライブマシーン』は殺し屋を主人公にしたアクションたっぷりのハードボイルド漫画で、次のサイトで登録不要・無料で読むことができる。広告がちょこちょこ出てくるが、広告料はきちんと著者に還元されます。https://www.mangaz.com/book/detail/193341
 
3.『タコポン』「原作」狩撫麻礼 「画」いましろたかし
 巨額の報酬と引き換えに、見知らぬ他人と疑似家族として暮らすことを受け容れた四人。一体、誰が何のためにそんな真似を?……というあらすじだけを頭に入れた状態で読み進めていくと、いつの間にか訳の分からない場所に連れて行かれている。ランジャタイの漫才を初めて観たとき、俺はこの作品や同コンビによる『ハードコア』を想起した。「なんやこれ、よう分からんけどオモロ!」てな感じだ(あ、でも一応言っておくと、『タコポン』や『ハードコア』よりランジャタイの方がよっぽど訳が分からないです)。
 正味の話、本作は序盤があまりにも期待に胸躍る魅力的な展開のため、中盤・終盤は些か凡庸な印象を抱いてしまう。同コンビなら、『ハードコア』の方が完成度は上だ。でも、ハードボイルド・無頼といったタイプの作品が多い狩撫麻礼が持つもう一つの強烈な側面を見ることのできる作品として、『タコポン』を推しておく。
 
4.『リバースエッジ 大川端探偵社』「原作」ひじかた憂峰 「画」たなか亜希夫
 東京浅草・隅田川沿いに事務所を構える大川端探偵社。スキンヘッドの渋い所長、天パでヒゲを生やした中年調査員・村木、セクシーでキュートなバイト・メグミ。以上三名が依頼人の依頼に応える、一話完結式の漫画だ。引き算の美学を体現したような短編集で、恐ろしく完成度が高い。シンプルな人情噺、ねっとりと絡み付くような性的な話、不穏な余韻を残す話、そして大人の寓話など、バリエーションが豊かだが、その全てが決して過度にウエットにならず、一定のクールさを保っていて心地好い。
「狂気や異常性は一部の人間にだけ宿るものだから、そうした異常性や異常者は社会から斬り捨てるべき」ではなく、「誰しもが狂気や異常性を抱えており、人は皆それを鎮めて生きていくのだ」という考えの人におすすめの作品です。
 
5.『ルーズ戦記 オールド・ボーイ』「原作」土屋ガロン 「画」嶺岸信明
 土屋ガロンはこれまた狩撫の変名です。
 謎の監禁施設に10年間幽閉されていた男が、ある日突然解放される。一体誰に何故監禁され、そして解放されたのか? 男は謎を追い始める。超わくわくするあらすじだ。最初から最後までずっと面白く、格好良く、熱い。浦沢直樹の『二十世紀少年』は間違いなくこの作品の影響をがっつり受けているはずだが、『ルーズ戦記 オールド・ボーイ』の方が濃い。ウイスキーをストレートで飲むかハイボールで飲むか、みたいな、要は好みの問題だから、『二十世紀少年』よりも優れているのだと断定はしないが。
 パク・チャヌク監督によって映画化もされたが、主人公が追う謎の答えは、映画と漫画では全く違う。そして、ともすれば漫画の方は、「は? なんや、その理由?」と納得できない人が続出する結果になりかねない。しかし、何百ページにも及ぶ物語の末に読者が知る、主人公が10年間監禁されていた理由の迫力は、納得できる人にとってはこの上ないほどの凄みを伴って胸に迫ってくる。
 刊行当時、この作品は全く評判にならなかったそうだ。だが狩撫麻礼は担当編集者と食事に行き、「俺達はいい仕事をした。それで充分だろう」とだけ言ったらしい。そのエピソード自体が上質な短編漫画みたいだ。しかも後に実写化された作品が韓国映画ブームの火付け役となり、漫画も再評価されるのだから、あまりにも格好良過ぎる。
 ハードボイルドが好きな人、ミステリが好きな人、サスペンスが好きな人、人生哲学云々が好きな人、そして何より、面白い漫画が好きな人におすすめの一作です。
 
 狩撫麻礼は他にも池上遼一谷口ジローとも組んだりしていて、それらも超面白いのだが、全部紹介する気力はないのでこの辺で。狩撫作品は紙の書籍だと絶版になっているものがいくつもあるが、Kindleなどの電子書籍では未だ大半が読めるみたいなので、お財布とお時間に余裕のある方は是非。終わり。

フェミニストが蔑称と化したこの国で

 志村けんの死はコロナの恐ろしさを我々に伝えてくれた最後の功績、という小池百合子の言葉が孕む無自覚なおぞましさに絶句したりしている内に、COVID-19(コロナ)の煽りを受けて俺の就職活動も半ばストップしてしまった。企業の多くが説明会の中止、ES締め切りや面接の延期を決めたのだ。さらに大学四年生でただでさえ少ない授業が全てオンライン授業になったため、もうとにかく暇である。小説や漫画を読んだりCD聴いたり映画観たりと、インドアの趣味に事欠かない俺でさえ鬱屈としているのだから、アウトドア派の人はさぞ辛いだろう。

 さてそんな中、4月28日に梅田の揚子江ラーメン総本店が閉店した。澄み切ったスープと白っぽい細麵が絶品の塩ラーメンを提供してくれる店で、梅田で映画を観る前や後に腹を満たしたり、梅田界隈で笑福亭松鶴が演じるような酔っ払いだらけの店で飲んだ帰りに〆として食うのにぴったりの店だった。店は最後まで閉店の告知をせず、口コミ的にTwitterで閉店の噂が広まったのだが(店主に直接確認したとの情報が相次ぎ、次第に本当らしいと判明していった)、あの店主さんはもしかしたら「張り紙で閉店を知らせたりしてお客さんが集まったら、感染拡大に繋がるかもしれない」と思って告知をしなかったのかしら、などと想像を巡らせては、自室で一人、「本券は無期限で使用できます。」と記された20円割引券を見ながら酒を飲んでいる。そしてアルコールが回るにつれて、舌が揚子江ラーメンを欲し始めるのだ。

 閉店の噂を知る数時間前、俺はリビングで「快傑えみちゃんねる」を観ていた。M-1の審査に関して批判されがちだが、俺は上沼恵美子のフアンだ(小4のときに市川崑の『犬神家の一族』を観て佐清マスクの美しさに惚れて以来、顔面の白塗りにフェティッシュの域で魅了され続けており、今もハードコアチョコレートの犬神佐清パーカーを着ているが、だからといって上沼恵美子のことが好きなのも、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のイモータン・ジョ―やウォーボーイズが好きなのも、顔の白さが理由ではない)。我らがえみちゃんは、ゲストのTKO木本に対して、「(相方は捨てて)一人でやったらええ」と言い放っていた。笑いを交えつつも、まあまあ本心っぽかった。「(先輩からしたら木下はええ奴というフジモンの発言を受けて)そんなん知らん。ええ人やとか奢ってもうたとか、そんなこと言われても知らない、私は。後輩にペットボトル水入ったまま投げたんやろ。絶対あかんやんか、何がええ人やねん」や「(木下が)14歳だったら変えてみせよう。でももうあの年では、人間性は変わらへんわ」といった言葉の数々は、やはり格好良かった(余談だが、とろサーモン久保田のYouTube企画「M-1審査員を批判せずに審査してみた。」、ベタやけど笑ったので、お暇があればぜひ観てください。あと、マヂカルラブリーのANN0、最高でしたね)。

 ただ、今日5月1日、岡村隆史オールナイトニッポンを聞き終えた俺は、えみちゃんの「あの年で人間性は変わらへん」という言葉に「いや、でも……」と口を挟みたい心境になっている。知り合いでもない著名人は呼び捨てでいいと思っている俺が唯一シンプルに「さん」を付けて呼んでいるのが、ナインティナイン岡村隆史だ。理由はもちろん、矢部っちの「岡村さぁん」が耳にこべり付いているからだ。バラエティ番組の原体験は確実にめちゃイケで、何度も腹を抱えて笑わせてもらった。中学に入って「勉強しながらラジオ聴くってなんか憧れんなあ」と思い立ち、ネットで面白いラジオを検索したときも、伊集院光爆笑問題ナインティナインの三組を薦めている人がぶっちぎりで多かった。白状すれば、伊集院と爆笑問題ほどは嵌まらなかったため毎週欠かさずとはいかないが、それでもやはりよく聴いてきた(オモロいと知っているナイナイがオモロい話をするANNは、「上品なタレントやと思ってたけど伊集院やっべえ!」や「太田総理でご当地ゆるキャラの頭部を外してケタケタ笑ってたクレイジー、こんな知的なボケすんねや!」といった衝撃に較べれば些か驚きが小さかった)。

 問題となった4月24日の放送を俺はリアルタイムで聴いておらず、ニュースを目にしてからラジコで聴いた。揚子江ラーメンの閉店で落ち込んでいる気分がさらに沈んだ。それから一週間、多くの人が岡村さんに怒りの声を上げた。中には、罰することそのものに意味や快楽を見出しているのではないかという人もいたが、基本的にはそりゃ批判を受けて然るべき発言だと思う。

 で、まあこの一週間、お笑いファンの意見も色々と見たが、岡村さんは悪くない派が多数を占めていた。Aマッソのときにも目にした「差別という方が差別です」論法は未だ界隈では通用していた。岡村さんは風俗嬢を蔑視していないことは長年の放送を聴いていれば分かる、彼女らを差別していないが故の発言だ、風俗嬢として働くことをお前らは下に見ているから岡村さんの発言を問題視するんだ、ってな具合だ。また、何なら岡村さんは風俗嬢をある種天使のように尊く見てすらいるんだぞ、と力説している方もいたが、過剰な美化の本質は蔑視と同じですから擁護になっていません。障碍者はみんな性格が良い、的な。

 彼らは何を目指しているんだろうか、とこの一週間ずっと考え続けてきた。彼らというのは、岡村さんを擁護する人々と岡村さんを批判する人々の双方を指す。前者の目指すものは明らかで、岡村さんのANNの継続、今後も楽しい放送を、だ。もっと言えば、深夜ラジオという聖域を守ることだろうか。もちろん、「岡村さんのあの発言は駄目、しっかり謝って反省した上で番組を続けて欲しい」というリスナーもいたが、あくまで俺の見た限りでは、「あの発言の何処が悪いんだよ。頑張れ岡村さん」一辺倒の人の方が断然多かった。一方後者の目指すものは、人によってグラデーションがあった。「もう自分は岡村隆史の番組は見ない」という人もいれば、「謝罪して考えを改めるべき」という人もいれば、「番組を降板せよ」という人もいた(どの番組かはこれまた人による。NHKだけの人もいれば、発端となったANNを指す人もいたし、芸能界を引退しろという人もいた)。罰を与えることが目的という人は圧倒的に多い訳ではないけれど、決して少なくもなかった(ニッポン放送吉本興業が謝罪し、次の放送で本人が説明しますと明言されたあとでも、待ちきれずに「本人が出てこい、謝罪会見を開け」と盛んに憤っていた人がいたのは、一刻も早く罰を受ける岡村さんを見たかったからではないだろうか)。

 差別心というのは往々にして無意識的であり、無意識的な差別心を発露させた人に対しては、「それは差別です。撤回し、考えを改めた方が良い」と説教することが大切だと思います。俺は軽口を叩いて生きているタイプなので、うっかりアウトな発言を自分がしてしまうかもしれないと危惧しているし、もしかしたら無意識的な差別心があるかもしれない、いやきっとあるだろうとも思っている(酒井順子の『男尊女子』という本を読んで以来、「かわいい」という言葉にさえ、一定の距離は抱いておこうと思っている。まあ、本人が喜ぶため恋人のことは相変わらず「かわいい」と褒めているが、しかしその言葉を口にするたび、「かわいい」という価値観の社会的意味を考えてしまう。そしてそれは、決して悪いことではない。そうやって考えを巡らせた上で、俺と恋人は「かわいい」という価値を尊び、選択しているのだという事実は、少なくとも俺にとっては大切だ)。

 俺は今回の一件、一リスナーとしてANNは続いて欲しいが、その代わり、岡村さんもリスナーも発言の問題点を認識して考えを改める、という着地をして欲しいと思っていた。でも心の底では、どうせ三十分ほど謝罪したあと徐々に通常の放送に移行し、リスナーは喜び、批判していた人は怒り、しかしやがて別の大きな話題にみんなの関心は移って、何となく忘れ去られていく、といういつものパターンになるだろうと諦めてもいた。実際、番組冒頭から岡村さんが謝り続けている間、Twitterで#99annの実況を観ていたが、「リスナーは岡村さんが悪くないと分かっています」系のコメントで溢れ返っていた。岡村さんの真摯な謝罪をリスナーが安易な擁護でぶち壊し続けていた。だが、矢部っちが来てから、風向きが変わった。

 今回の騒動を含む岡村さんの性格の駄目な部分を、厳しい言葉で矢部っちは公開説教していく。「リスナーは全員大好きよ、岡村隆史のことが。イエスマンで。だから気を付けなあかんと思うよ、注意してくれる人もおらんくなるよね」と言い、結婚したことで女性を尊ぶようになった自身の経験を語る。「ありがとう」と「ごめんなさい」の大切さを語る。男女二元論的な口ぶりだったし、結婚にフォーカスが当たり過ぎやったし、「結婚や交際相手は性格を変える道具じゃない」という批判を生み得る微妙な言葉選びでもあったが、まあ感情的になっている生放送のフリートークで矢部っち自身の体験をもとに「岡村隆史は視野を広げるべき、景色を変えるべき、対等な相手と接する機会を持つべき」ということを伝えようとしたのだから、許容範囲内だと俺は思う。それに、説教に入ってすぐ「結婚するのが偉い訳ちゃうけど」と断りも入れていたし。

 矢部っちの説教が続くにつれ、#99annの実況では、ぽつりぽつりと「自分に説教されてるみたい」「確かに、あの発言はよくなかったかも」「岡村さんを甘やかしてたし、岡村さんに甘えてた」といったツイートが散見されるようになった。全員ではない。過半数ですらなかったかもしれない。でも、「深夜ラジオの切り取った書き起こしで事実を歪曲されただけ」「批判している奴はどうせ放送を聴いちゃいない」という金科玉条、略して金玉をぶら下げていたリスナーが、少しずつパンツを履いていく様を目にして、そのツイートは一時的な感傷に過ぎないのかもしれないし、彼らの心の奥に根付いた意識がすぐさま急激な変革を遂げるとも思わないが、それでもやはり少し胸が熱くなった。M-1でのえみちゃんの立ち振る舞いをゲラゲラ笑って全肯定している俺だが、TKO木下に向けられた「あの年では人間性は変わらん」という発言にだけは、異を唱えようと思った。歳を重ねるほど難しくはなるが、それでも、何歳になっても人間性や性格・思想は変えられる。きっかけと意志さえあれば。綺麗事で大いに結構、俺はそう信じたい。矢部っちは説教を始める前、「ええ機会もらったよ。俺、思う。ええ機会貰ったと。公開説教しようと思う、今日は」と告げたが、我々リスナーにとっても、ええ機会になったはずだ。というか、ええ機会にすべきだ。

 笑いを含む多くの表現物が、差別性や暴力性、攻撃性を孕んでいる。それら全てを剥ぐべきだとは断じて思わない。不健全さを完全に漂白した健全さは、不健全だ。でも、表現物が内包する不健全さに無自覚であっていい訳ではない。不健全なものを表現に取り入れ、表現に奉仕させてこそナンボだ。表現というフィールドの上に、ただただ不健全なものを並べるだけなら、誰でもできる。「誰も傷付けない笑いばかりになるべき、という言説には反対する」という考えと「誰かを傷付けることが笑いなのだ」という考えは、全く違う。

 夫婦円満の秘訣は「ありがとう」と妻に伝えること、と述べた矢部っちに岡村さんが「白旗上げたんか」と言い放ったエピソードは、バラエティ番組で矢部っちがエピソードトークとして話していれば多分みんな爆笑しただろうが、その手の発言は「岡村さんはギャグで言ってるんやな」が「本音で言うてんのかな?」を上回っているから笑えていたのであって、今回の一件と矢部っちの説教で明かされたエピソードの数々によって岡村さんのキビシさが露呈してしまったからには、今後色々とむつかしいやろな、と思うが、まあこれまた矢部っちが公開説教前に言った「今後の岡村隆史ナインティナインを見てもらいたい」という発言に期待したい。というか、ラスト十五分ほどだけ行われたコーナーで、重い空気の中ネタメールを読む岡村さんと矢部っちの温かいテンションでの相槌、そして一枚メールを読むごとに「ごめん、ホンマにな」「かまへんよ」というやり取りが行われるという天丼によって、俺はくすくす笑い、やっぱりナインティナインが好きだし二人は面白いと再認識した(それまでの説教や今回の騒動によって作られた空気を長いフリにしつつ、でもそれらを茶化している訳ではないという絶妙なバランス感覚だった)。

 以上、そんな感じだ。朝、五時! 煙草が吸いたくなってきた。ショート・ピース。平和主義者なので。喫煙可のバーが梅田にあってちょこちょこ行ってるのだが、揚子江ラーメン総本店のように潰れていないか心配だ。行けるようになったらナンボでも金落としに行くので、生き延びていて欲しい。それだけが今の願いだ。ワーワー言うとります。お時間です。さようなら。ってので本稿を終えようとしたけど、「どうせコント師はみんな、最後のコントでそれまでのコントが全部繋がってました、みたいな公演がしたいんだろ」と文句を言っていた若かりし頃の永野に「ダセえな、普通に終われ!」と言われそうなので、普通に終わります。Blumioの『Hey Mr.Nazi』でも聴きながら寝ます。おやすみなさい。終わり。

『304号室 青木』を安易に怖いと言うのはやめませんか

 どうも、おはこんばんちは。元々俺はめちゃイケを観て育ったためネット民みたいに宮迫に対してそれほど嫌悪感がなく、「田村亮の復帰は歓迎するくせに、宮迫は嫌いやからって理由だけでバッシングしまくるの、キショいなあ」と思っていたのですが、岡本社長の会見みたいにテンポの悪い謝罪動画とそれをYouTubeにアップするタイミング、そしてその後のコラボの人選と動画内容を見るにつれ、普通に嫌いになってきましたね。

 まあそれはさておき、先日デート中に、前澤社長の100万円ツイートをRTしないという一線は自分の心の中に引いておきたいよね、という話をしたところ、「私、RTしたけど」と彼女に言われて空気が凍り付きました。口は災いの元である。さて、そんな彼女と以前デートをしていた際の話だ。俺らは駅でとあるポスターを見掛けた。障碍者への理解を呼び掛ける啓発ポスターだった。「障碍者のポスターあるなあ」「そうだねえ」という会話を交わしただけで別の話に切り替わり、デートを続けた。その晩、彼女の家でただれたセックスをし、一緒に風呂に入り、電気を消してベッドに潜り込んだ。彼女は今日のデートの感想や中学時代の嫌いな男子の愚痴などを色々と話し始めた。電気を消してから、色々と喋るのが好きな子なのだ。でも俺は眠るために生きているクチなので、内心「寝かせてくれえ……」と思いながら、ふんふんと相槌を打っていた。だが、しばらくして途端に目が覚めた。いきなり、「将来、もし結婚して子供が生まれたときに、その子が障碍を持ってたらどうする?」と問われたからだ。答えに窮していると、彼女は些か躊躇いがちに続けた。昼間ポスターを見てからずっと、そのことを頭の片隅で考えていたという。「障碍は個性」「障碍を持って生まれてきたこの子を誇りに思う」といった趣旨のポスターに対して彼女は、「自分の産んだ子が重度の障碍を持っていたときに、それを受け入れられるか分からない。愛せるか分からない」と述べた。それから、こんなことを言うと俺に嫌われるかもしれないと心配した上で、「お腹の子に障碍があると判明したら、私は堕胎手術を受けたいと思ってしまう気がする」と言った。殆ど泣きながら。その正直で誠実な吐露に思わず鼻の奥が熱くなり、俺は彼女を抱き締めた。障碍者を当然の如く自分と同じ現実世界に存在する人だと考え、自分の子が障碍を持って産まれる可能性もあると考え、その上で綺麗事ではなく自分はそれを受け入れられるだろうかと不安を口にする彼女の真摯さに、強く胸を打たれたからだ。性欲の捌け口がなさ過ぎて「セルフフェラって気持ちええんかなあ」と実践を試みようとしていた中学生のときの俺は到底信じないだろうが、この世には勃起を誘発しない抱擁も存在するのだということを思い知らされた瞬間である。
話は変わらないようで変わりますが(©︎竹原ピストル)、以前とある小説を読んだあとネットで感想を漁っていたら、「あのキャラの足が不自由って設定に最後までなんの意味もなかったのが気になった」というのを見つけたことがある。俺はこれに強烈な違和感を覚えた。確かにその作品が数十枚の短編で、どんでん返し的なトリックを売りにしたタイプの作家による作品だったならば、つまりトリックを際立たせるため以外の要素を極力削ぎ落としたソリッドなミステリだったならば、その主張も肯ける。だが当該作品は、現代を舞台にしたエンタメ長編だった。ならば、その作品内に障碍者を登場させる意味とは、「障碍者が現実に存在するから」に決まっている。半日でも街を歩いてみれば、何らかの知的障碍を患っていると思しき人も見掛けるし、車椅子の人も見掛ける。彼らは、この世界に存在する。だったら、フィクションに障碍を持ったキャラを登場させ、その障碍がストーリー上取り立てて意味を持たなかったとしても、何か問題があるのだろうか。「このキャラが禿げていることが最後までストーリー上有効なギミックとして活かされなかったのはおかしい!」と言う人はまずいないのに、「ハゲ」が「障碍」に切り替わった途端、そうした主張が現れる。彼らは障碍というものに、何か特別な意味を付与しなくては気が済まないのだ。
 さて、本題に入ろう。ネットで「怖いコント」としてしばしば名前が挙がるのが、ラーメンズ『採集』(中学生のときにYouTubeで違法試聴し、ラストで心臓が跳ね上がった。二人のことを全く知らない状態だったため、一層怖かった)、千原兄弟『ダンボ君』(このコントを収録したライブDVDは名作で、中でも最後のコント『お母さん』はコントという表現技法の一つの到達点と言える)、バナナマン『ルスデン』(現役最高のコント師だ。ハリウッドにおけるクリント・イーストウッドみたいなもんである)、そして、タイトルにも記した劇団ひとり『304号室 青木』だ。完売劇場というバラエティ番組のDVDに収録された撮り下ろしコントらしい。この番組が始まる一年前に生まれたのでこの番組のことは殆どよく知らないが、水道橋博士が司会、若手芸人がパネラーになって朝生のパロディ企画をし、「笑いの本質はテレビか舞台か」という議論を戦わせていたのだけはネットで違法試聴して、とても面白かった。小林賢太郎の気取ったカマシっぷりがまあ格好良いのだ。ちなみにこのとき、「ストレスで十円ハゲができた」という小林賢太郎の告白に対して「見して、見してー」と茶化したような合いの手を入れてコバケンから冷たい目を向けられた馬鹿なアナウンサーが、のちに安倍内閣で大臣を務める丸川珠代先生である。
 話が逸れた、元に戻そう。この『304号室 青木』というコントの舞台は、ビルの屋上だ。画面の右側から、緑の服を着た男(劇団ひとり)がとぼとぼと登場する。「しゅー、しゅー」という独特の音を響かせて呼吸をしているが、鼻の下にチューブを取り付けていることから、何らかの重い病気が原因だと察しがつく。男は紙を取り出し、用意した文章を読み上げる。それによって我々は、男が304号室に入院している青木であるということ、青木が小さい頃からマジシャンに憧れていたということ、院長の計らいで医師、看護師、患者達が青木のマジックショーを見るために屋上に集まったのだということを認識する。そして我々はそうした情報と同時に、青木の喋り方や拍手の仕方などから、重篤な病気を患っている他に、青木は何らかの知的障碍を持っているだろうと悟る。
 青木は用意したラジカセから「ふんわか、ふんわ〜、ふんわか、ふんわ〜、ふんわか、ふんわ〜、ふぇっふぇ〜」という笑っちゃうような、でもちょっと不気味な音楽を流し始める。それから、黄色と緑の二色に分かれたハンカチを取り出して、何度かひらつかせる。だが何も起こらず、青木はマジックグッズの説明書を堂々と読んでから、もう一度たどたどしい手つきでハンカチをまさぐる。するとハンカチの黄色い部分が赤色に変わる。
 続いて青木は、服をまくって腹を出す。手術後のガーゼの下から、定番の連なった国旗を取り出すマジックを披露し、お辞儀する。
 それから、封筒を手に取り、中から一枚の紙を取り出す。大きく一文字「死」も記された紙だ。青木は右手でブーイングし、紙を半分に破ってから封筒に戻す。何やら呪文を唱えるような仕草をしてから、封筒に手を入れて取り出した紙には、大きく一文字「生」と記されている。青木は嬉しそうに笑い、両手を上げてガッツポーズし、カメラの後ろにいるのであろう医師らに向けて親指を突き立てる。
 最後に、綿棒を鼻の穴に入れるマジックをしている途中で咳き込み、椅子に座って薬を飲む。苦しそうに喘いでから、多少おさまったという風に胸に手を当てて、コントは終わる。
 このコントに対する感想をネットで探すと、「怖い」「不気味だ」「狂ってる」「トラウマになる」「気持ち悪い」といった言葉ばかりが目に入る。確かに、ラジカセから流れる音楽は繰り返し聴く内にどんどん生理的な不気味さを感じさせるし、青木が登場する前のざらついた画面も何処となく不気味だ。都庁を含む無機質なビル群が立ち並ぶ中、中央の建物だけ赤いという色彩配置も何だか怖い。分かる。あのコントを観て怖いと感じる気持ちは分かる。でも僕は、『採集』『ダンボ君』『ルスデン』といったコントと並んで『304号室 青木』が「怖い」といった風に言われることが、どうしても我慢ならない。『304号室 青木』は、そんな風に言われるコントではないと思うのだ。もう一度、「検索してはいけない」みたいな前評判を排して、フラットな目であのコントを観て欲しい。
 小さい頃からマジシャンが夢だった青木が、集まってくれた医師や看護師、患者達に感謝を述べる冒頭の1分半は、本当に怖いだろうか。ハンカチマジックをしようとするも上手くできなくて観客の前で説明書を読んじゃうシーンは、「がっつり読んでるやん!」と笑っちゃわないだろうか。手術後のガーゼの下から連なる国旗を取り出すシーンも、「何処から出してんねん!」と笑えはしまいか。「死」と書かれた紙にブーイングし、破り、かわりに「生」と書かれま紙を取り出してその日一番の笑顔でガッツポーズをするシーンに、胸を打たれはしないだろうか。『304号室 青木』は、本当に怖いコントなのだろうか。
 俺は、『304号室 青木』が異常で異様で不気味で気持ち悪くて狂った怖いコントだと扱われているのを見ると、堪らなく不愉快になる。青木のような言動をする人を、街で何度も見たことがあるからだ。青木は確実に、この世界に存在する。俺は『304号室 青木』というコントが「重篤な病気を患う知的障碍者が病院の屋上で披露したマジックショー」にしか見えない。確かに、ラジカセから流れる音楽とざらついた画面は不気味だ。4の付く病室は本来存在しないのに304号室であるという点や、終盤の青木の苦しむ様も怖いかもしれない。でもそれは、青木には近い将来死が待ち受けているという悲しい暗示と表裏一体な訳で、怖い、不気味、気持ち悪い、狂ってるなどと安易に切り捨てられるのは納得できない。『304号室 青木』は知的障碍者を笑いのネタにするというタブーに挑戦した云々という感想を読んだことがあるが、果たしてそうだろうか。あのコントは、知的障碍者の行動の中で生じる笑いを描いたものだと俺は思っている。マジックの説明書を客の目の前で読んじゃう、手術後のガーゼの下から国旗を取り出すという多少グロテスクな発想を頓着なくしちゃう、楽しいマジックショーやのに不気味な音楽をBGMにしちゃう……そうしたおかしさを絶妙なバランス感覚で描いたものなのだ。変な顔、変な声、変な喋り方、ワッハッハ、面白え……なんて短絡的なものでは断じてない。
あのコントを観て、「怖い」「気持ち悪い」「不気味だ」と躊躇いなく口にしたあなたは間違いなく、青木のような言動をする知的障碍者に対して、同様の感情を抱いている。否定はさせない。あのコントにおける青木の細やかな機微を読み取らずに単純な言葉で感想を表明した者が、街で青木のような人を見て「怖い」「気持ち悪い」「不気味だ」と思わないはずがない。そして、あの夜俺に嫌われるのを恐れながらも本心を語った彼女を見習えば、俺はそんなあなたに対して「最低の差別主義者だ!屑め」などと言うことはできない。そうした気持ちを抱いてしまうのも理解できるからだ。俺はそこまで露骨にそれを表明することはしないが、それは俺の人間性が素晴らしいからではなく、差別的な感情の萌芽をすぐさま理性で摘むという作業を繰り返してきたからに過ぎない。だから、その芽を摘み損なって成長させてしまい、街で青木を見て嫌悪感を抱くようになってしまったあなたを否定はしない。電車内などで知的障碍者を目にして「怖い」と感じる気持ちを「駄目だ!そんなことを思うのは差別主義者だ!」と糾弾はしない(これはたとえば、同性愛者へ内心嫌悪感を抱く人についても同様だ)。心の中でそう思ってしまうのは、容易には変えることができない。俺だって、思ってしまうことは多々ある。しかし、そうした感情を表に出さない理性は持っているべきだ。差別的な感情を抱いてしまうこととそれを表明することには、大きな差がある。
 もう『304号室 青木』を安易に怖がるのはやめませんか。調べればいくらでもネットで違法試聴できるから、もう一度フラットな目であのコントを見てみませんか。それでもやっぱり気持ち悪いわ、このコント……そう思うならば、それは仕方ない。あなたの感情だ。ただ、あのコントに対して「怖い」「不気味だ」「狂ってる」「気持ち悪い」と表明することの重みは、『採集』や『ダンボ君』や『ルスデン』に対するそれとは明らかに質が違うということを考えて欲しい。言うのであれば、その自覚を持った上で言うべきだ。たかが個人のツイートやんか、たかがYouTubeのコメント欄やんか、じゃない。言葉には責任が伴う。その自覚がない者は、口を閉ざすべきだ。イ・チャンドンの『オアシス』のヒロインの女、気持ち悪いよな」と「三池崇史の『オーディション』の麻美、気持ち悪いよな」では、まるで意味が違う。喩えが分からないという文句は受け付けません。
 それと、多少本筋とはズレるのだが、最近日本で増えつつある、障碍者やホームレスといったいわゆる社会的弱者とされる人々への不寛容さ、反吐が出ますね。どいつもこいつも、自分が社会の「役に立つ」人間として生まれ育ったことは全て自分の努力の賜物であり、社会の「役に立たない」人間は自己責任だと思い腐ってやがる。自分が先天性の病気や障碍を持って生まれてきていたかもしれないという想像や、今後自分が不慮の事故や病気に遭って社会の「役に立たなく」なるかもしれないという想像ができない。自分が今の立場にあるのは恵まれた環境のお陰だという自覚や感謝もない。最悪だ。植松聖の犯行動機に賛同を示して、「社会の役に立たない者に存在価値はない」と述べているシニカルぶったクソ馬鹿を結構見掛けたが、役に立たないものを共同体から排除するのは獣のすることだ。お前ら、それでも人間か。「役に立たない」者を排除しない社会が形成されているからこそ、今現在「役に立っている」者は安心して生産活動を行えるんでしょうが。役に立たないもの(者/物)の存在できない社会は、社会として不完全だ。娯楽なんて軒並み役に立たへんっちゅうねん。これ以上社会を息苦しくさせんといてくれ。「それが何の役に立つの?」とか「コスパ悪いなあ」とか言う奴は、空気階段の名作コントに登場する浮気男が罰を与えられる空間をもっと酷くした場所に、あのコントを平山夢明がリメイクした場合に描かれるであろう地獄の空間に送られてしまえばいい。
 そういや、ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』って韓国映画パルムドールとかアカデミー賞とかバンバン獲りましたが(めちゃくちゃ面白い映画です)、俺は先述のイ・チャンドン『オアシス』が韓国映画史上一番の傑作やと思ってるので、まあお時間あるときにでも観てくださいな。あれを観たあとで、『304号室 青木』を観れば、怖い、不気味、気持ち悪いと簡単に口にすることはなくなるんじゃないかな、と思います。
 なんか説教臭い記事になってしまいましたが、まあそんな感じです。以上、終わり。

今更やが、ノルディック親父の話

 俺にとって、水曜日のダウンタウンと並んで毎週の楽しみ、生きる希望となっているのが、相席食堂だ。一時間番組になったことで多少の不安はあったが、今のところはきちんとパワーダウンせずに面白いままだ。ダウンタウンが天下を取る過程を観ていた視聴者の気持ちが、千鳥を見ていると分かるような気がして、とても嬉しい。

 ここから少し余談だが、以前、AbemaTVで千鳥がMCを務める「チャンスの時間」のニセ番組のオープニングをどれほど長く続けられるかというドッキリ企画に、金属バットが出演したことがある。他のコンビが数十分の記録を打ち立てる中、金属バットの二人は喫煙所で煙草を吸うシーンからオープニングを始め、一分そこらでさらっとオープニングを終えてしまう。ドッキリのネタバラシ後、「ラッキー、帰っていいんすか」「アツいな、めちゃめちゃええ仕事」と言って二人は煙草を吸う。スタジオではVTRを観た大悟が二人にクビを言い渡して盛り上がるが、俺はオープニングが始まってすぐに大悟が口にした「やめえよ、こういうの。昔のわしを思い出す」という言葉を聞いて大悟のM-1敗退コメント「これでテレビ出れるの最後かな~」を思い出し、また、黒澤明監督の『椿三十郎』でばっさばっさと敵を叩っ斬る椿三十郎に対して入江たか子演じる家老の奥方が言った「あなたはギラギラとして、まるで抜身の刀のようね。でも本当に良い刀は、きちんと鞘に入っているものですよ」という台詞を思い出してしまったので、どうしても「未だに抜身の金属バットと今や鞘に入った千鳥」と感じてしまい、あまり楽しめなかった。漫才は面白いネタが多いし、好きですけどね、金属バット。

 閑話休題。相席食堂で一番笑ったのは何か。長州力回の「こんちはー、皆さん!」「食ってみな、飛ぶぞ」「凄いね、お前たちー」や、研ナオコ回の「すべての字を吸い取ってんねん」「もう絵なんよ」、ダイアン津田回の「サックスと空手とバカ」、高橋ジョージ回の「田村のターキー」、テッシー回の「変化する帽子の数字」、チャーリー浜回の「チャーリー浜と末成由美の会話」、中尾彬&池波志乃回の「SO〜」などと迷ったが、やはり一番はノルディック親父である。しかしここで一つ言っておきたいのは、俺が死ぬほど笑ったのはあくまでも、「再登場したノルディック親父」だということだ。要するに、それまでのフリ込み、という訳である。

 この回は千鳥の故郷にゲストが訪れるという一時間スペシャルだった。大悟の故郷を訪れるゲストは、「大喜利がマジで結構面白い」でお馴染みのDJ KOO、ノブの故郷を訪れるゲストは、「たまにダウンタウンDXとかで見かける、くらいの認識の他府県民にとっては面白いかもしれないが、大阪人からしたらマジでもううんざり」でお馴染みの西川きよしだった。

 ノブの実家で両親と西川きよしが話をするところからスタートし、その後、西川きよしは外に出る。そこで、しっかりとジャケットを羽織り矍鑠としているように見えるノブの父親が、杖を両手に持って画面に現れる。「ちょっと待てぃボタン」が押され、両手に杖をつかなければならないほど老けたのかとノブは嘆き、「ノルディック複合みたいなんで来た」と口にする。咄嗟に「ノルディック複合みたいなんで来た」が出るノブのセンスはやっぱり凄い。「スキーみたいなんで来た」では、そこまでの笑いの威力はない。笑いの構造を分析して理論的に解明することはある程度できるし面白いと思うが、こういう「ノルディック複合」というワードの持つ面白さみたいなものは、どうしても感覚的な話になってしまう(もちろん、「ノルディック複合」という、知ってはいるがパッとは出てきにくい単語で喩えることにより、盲点を突かれると同時にすとんと腑に落ち云々かんぬん……と、ある程度合理的な説明は付けられるだろうが、やはりそれだけに留まらない何かが厳然と存在している、と俺は思う。令和一発目のアルピーラジオで、うしろシティの金子が狙ってる女の子は誰似かと訊かれて即座に答えた「本上まなみ」とか)。

 で、まあ話を戻すと、ここからノブのお父さんは画面から姿を消し、西川きよしはノブの実家を離れてノブの故郷散策へ繰り出そうとする。ところが、ノブのお母さんがやたらとしつこく西川きよしの後を付いて回り、ついに西川きよしはお母さんの呼び掛けを無視する。千鳥の二人は、「ロケしとんのにしつこいおかんやなあ、きよし師匠が無視したで、そんなんせん人やのに」と盛り上がる。

 ノブのお母さんを無視して歩き出した西川きよしは、曲がり角ではたと足を止める。曲がり角を曲がったところに、杖をついたノブのお父さんが立ち尽くしていたのだ。突如として再登場し、何一つとして言葉を発さないノブのお父さん。「ちょっと待てぃ」ボタンが押され、腹を抱えて笑う千鳥の二人。大悟が「今年一番オモロい」と口にした通り、俺もこの瞬間、息が詰まるほど笑った。

 この場面が死ぬほど面白いのは、大悟が指摘したように、「不意打ちで登場したノブのお父さんすなわちノルディック親父が何も喋らないから」と、「一度登場して存在を印象付けたあとで画面から消え、しつこいお母さんが新しいオモシロ対象になったところで、ノルディック親父が不意に再登場するから」である。もちろん、曲がり角を曲がったところで杖を両手についたノルディック親父が立っている、という絵面自体も強烈に面白い(後ろに黒の軽自動車が停まっているのも効いている)から某Tubeなんかでその一分ほどだけ切り取った映像がアップされるのも分かるが、「ノルディック親父は再登場である」「西川きよしに無視されるお母さん、という奇跡的に面白いミスディレクションがある」という文脈を踏まえないのは、やはり片手落ちだ。シリーズ作品ですがこの巻からでも楽しめます、という小説の惹句は大抵の場合嘘ではないが、1巻から読み進めないと真に面白さを理解したとは言えない。それと同じだ。

 それにしても昨今、こうした「フリ」や「文脈」の軽視が甚だしいと俺は危惧している。たとえばネットでよく使われる、「めっちゃ早口で言ってそう」という言葉。あれは、2chポケモンに関するスレッドで、「鹿みたいなやつなに? 強いの?」というポケモンにあまり興味のない人の書き込みに対して、親切なポケモンファンが句読点なしでつらつらと解説をしてあげたら、「めっちゃ早口で言ってそう」と質問した奴に返された……というのがそもそもの出典だ。つまり、「質問に答えてもらっといて、なんやその理不尽な返事は」という笑いや、「でもこの教えてくれた人の文章、確かにオタクが自分の好きなジャンルについてめっちゃ早口で捲したてる感じあるわ」という笑いを含有した面白いフレーズが、「めっちゃ早口で言ってそう」なのだ。それがいつの頃からか、相手を貶め、嘲笑うためのしょうもない道具として使われるようになってしまった。まあ、これを本気で煽り文句だと思って使ってる奴は漏れなく馬鹿なので、そうした馬鹿をいち早く見つけて離れられるという利点はあるが、それを理由にこの言葉を許容するのは、戦争映画に傑作が多いからという理由で戦争を肯定するのと同じであるため、今後も煽り目的で使用されるこの言葉を否定していこうと思う。

 余談ですが、2chのなんかのスレッドで「めっちゃ早口で言ってそう」と煽られた人が「早口に決まってんだろ。お前みたいな馬鹿にだらだら時間割くほど暇じゃねえから」と返していたのは、なかなかにクリティカルでした。あとサンド富澤の「ちょっと何言ってるか分からない」も、アレは「なんで分かんねえんだよ」というツッコミありきの言葉ですから、本当に何を言っているのか分からない発言に対して使うのは違いますし、況してや議論の場とかで、煽りのつもりでこれを言ったりこれを言ってる富澤の写真を送り付けたりする人もいますけど、完全にオウンゴールですからね。本来、「ちょっと何言ってるか分からない」ってフレーズを言ってる奴の方が頭おかしいんですから。

 余談の余談ですが、サンドウィッチマンを「人を傷付けない笑い」と称揚する人は、サンド伊達がカミナリのまなぶくんのブランド物のジャケットのタグに「ぐっち」と油性ペンで落書きしたりリュックに落書きしたりして楽しんでいる、というエピソードをどう思うのか、是非とも聞かせていただきたい。ギャランティが発生する番組内での「それでしか笑いを取れないダウンタウンによる後輩いじめ」を唾棄するならば、プライベートでのサンド伊達のまなぶくんへの仕打ちは当然、前者よりよっぽど悪質な後輩いじめとして断罪すべきでしょう。

 さて、「めっちゃ早口で言ってそう」然り、「ちょっと何言ってるか分からない」然り、文脈の上で成立していた面白い言葉が、そこだけ切り取られて、各人の意思に沿ったしょうもない使われ方をされるというのが、俺は好きではない(論文の引用のように、正確な切り取りならば構わないが)。たとえそれが良い使われ方だったとしても、どちらかと言えばあまり好きではない。一定のパーソナリティが見えるアカウントが小説や映画の特定の台詞だけをツイートする場合はまだ、「ああ、この人はあの作品のあの台詞に魅力を感じんねんなあ」という感想を抱けるが、所謂「名言bot」みたいなアカウントが、小説の台詞を、作品背景もキャラの性格もそのシーンの状況も一切説明せず、そこだけ切り取ってツイッターに貼り付けて名言として賞賛する行為は、好きではない。この行為の延長線上には、美女の生首を刎ねて皿の上に載せ、「美しい」つって陶然とするホラー映画の殺人鬼がいると思うんですよ。相当な距離延長した先、とは言え。文脈を剥ぎ取った安易な名言の抽出は、美しくないどころか、おぞましさすら感じさせかねない。俺もやってしまいがちだからこそ、自戒を込めて、そう記しておきます。

 もう一度言うが、マジでみんな、「文脈」を軽視し過ぎである。YouTubeTwitterでドキュメンタルの一部分だけ切り取った動画ばっかり見過ぎだ。ザコシショウと猿の人形とハーモニカの場面はあそこだけ見ても確かに面白いけれど、それまでの時間を費やして醸成された空気感を理解して観た方が面白いに決まっている。

「文脈」を踏まえずに物事の一部だけをつまみ食いして不味いだのなんだのと怒る貧乏性の人々が氾濫しているのは、半分くらいツイッターのせいだと思う。俺が「ワロタ」「エモい」といったネットスラングも、淫夢ネタやら金曜ロードショーバルス祭りといったネットのノリも受け付けられないし、何なら語尾に「w」を付けるのすら好きではない……というジジイのように凝り固まった価値観を持っているからかもしれないが、ツイッターってホントに危険だと思いますよ。ウルトラの瀧の逮捕を受けてツイッター上で石野卓球にまで怒りの矛先を向けていた奴は全員、ツイッターという合法ドラッグにどっぷりと依存している。 瀧はコカインをやめられるかもしれないが、彼らはツイートを絶対やめられないと断言できる。

 かく言う俺も、ツイッター嫌いなくせに、何か大きなニュースがあるたび、関連ワードでツイッター検索を掛けて色んな人の意見をついつい見てしまう。で、その度に「アホしかおらんのか」と苛立ち、しかもツイッターをやっていないからそのアホさを指摘できず、かと言ってアホを指摘するために距離感バグった文盲だらけの世界であるツイッターに飛び込むのも癪なので、ただひたすら家で一人苛々し続けるのだ。俺が一番のアホである。

 さて、文脈に関しての愚痴をもう一つ。日本一の書評家(皮肉じゃなくガチで)である豊崎由美が、2017年のキングオブコント放送後に、「にゃんこスターなんかを凄いと絶賛している人は、◯◯(数日後に開催される演劇)を観に行きましょう! より爆笑できます」といったことを書いておられたのだが、これはおかしい。にゃんこスターがあのとき爆笑を取ったのは、「数多くの芸人が人生をかけて練りに練ったコントを披露する年に一度の場・キングオブコント」にて、「ダウンタウンさまぁ〜ずバナナマンが審査員」の中、「わらふぢなるお、ジャンポケがややウケ、かまいたちがドカンとウケ、アンガールズもまあまあウケて、パーパーでアレッ?となり、さらばが居酒屋ネタでドンッと盛り返した後に」、「伊集院光が推薦VTRで『この二人が優勝したら、長いお笑いブームが次の局面に入るかも』と述べてから」、満を持して登場した「審査員や観客、視聴者の大半が知らない謎の二人組」が、「普通のコントのイメージからはかけ離れたお遊戯会のようなネタをやり通してしまった」という文脈がある。だから、大ウケした。ある意味、当日の放送開始から一時間以上ずっと、もっと言えばキングオブコントという大会が創設されてからにゃんこスターが登場するまでの数年間がずっと、あの日のにゃんこスターのネタの前フリの役目を果たしていた訳である。それを、後になってYouTubeで4分間のネタの部分だけを見て(しかも、どんなネタをするかも知った状態で)、「クソつまんない。これで準優勝? 審査員、見る目ねえ……。やらせ?」とか言ってニヒルに笑う上から目線のバカ、ごねさらせ、とは言わないが、ドヤ顔でお笑いに口を挟むな、とは言いたい。豊崎由美にゃんこスターをリアルタイムで観たのかYouTubeで観たのかは知らないが、「あの日あのときあの場所でのにゃんこスターのネタ」は、「演劇集団のとある日の公演」と単純に比較できる類のものではないと思うのです、どちらが上とか下とかではなく。「にゃんこスターなんかを凄いと絶賛している人は、◯◯(数日後に開催される演劇)を観に行きましょう!」ってのは、「伊坂幸太郎の小説なんかを会話が面白いと絶賛している人は、学天即の漫才を見ましょう!」って言うようなものです。小説内における会話の面白さと会話形式の漫才の面白さ、単純比較できますか? って話だ。多分小説を読まないお笑いファンが上記の発言をしたら、豊崎由美は怒りはるでしょう。

 豊崎さんは2018年にも、「クソみたいな歌手と女優(指原莉乃松岡茉優)がずっとクソみたいな話(モー娘。の話)をしているせいで、ゲストの安藤サクラの話が全然聞けない。ほんとクソ番組」みたいなツイートをしておられたが、松岡茉優をマジでクソみたいな女優だと思っているのかお伺いしたい。もし本気でイエスと言うならばそれはもうしゃあないが、ついイラっとして言うてもうた、という場合には、ありゃりゃ、である。

 瞬間湯沸かし器的にキレちゃう人(そしてそのキレ方が見てられない人)にはツイッターやらないでほしいな、というのが個人的な願望だ。匿名一般ピーポーならいいが、著名人にそれをやられると、本業ファンとしてはキツいものがある。あんな素敵な書評を書く人やのに、と思ってしまう。かつて「中二病」という言葉を巡って伊集院光に的外れな苦言を呈した日本語ラップのレジェンドとかも、音源は超カッコいいんですよ。

 あとさらにもう一個、にゃんこスターアンゴラ村長ダウンタウン司会のネタ番組で尼神インターの誠子に「あんたもブスやで!」と言われた際、「ジャンヌダルクはそんなこと言わない!」と返してスタジオが冷え冷えになり、ネットでも「意味不明」と盛大に叩かれたことがあったが、あれは多分、その少し前に放送された27時間テレビ内の「さんまのお笑い向上委員会」(出演者全員が世界の偉人に扮装するというオモシロ企画だった)で、尼神・誠子がジャンヌダルクに扮していたから、それを踏まえての発言だろう。まあ、だからって別にあの場でそれを言うのは的確でもないし面白くもないから擁護はしないが、一応全くのデタラメを口にした訳ではないと思うよ、とは述べておく。アンゴラ村長は少なくとも、アンゴラ村長のあの失態を猛烈にdisる人々の大半よりも、文脈というものを意識していたのだ。アウトプットの仕方には盛大に失敗したが。あと、アンゴラ村長は誰が何と言おうと、顔が可愛い。俺は芸人の顔ファンとかファンアート、全然いいと思う派です。

 キングオブコントと言えば今年2019年の大会についてやが、という話をし出すと文字数が一万を超えてしまうので、この辺で筆を措きます。皆さん、相席食堂、超面白いので観ましょう! あらゆる物事に関して、文脈を考慮しましょう! 以上!

映画『シャイニング』がアメリカの観客に与えた恐怖の根源とは何か

『JOKER』を観に行ったら『ドクター・スリープ』の予告が流れてきたので、かつて大学の講義の課題として提出したキューブリック版『シャイニング』について、再掲します。ちなみに成績は、百点くれるかな、と意気揚々としていたら、八十五点というボチボチな点数でしたが、まあそれなりに読める文章ではあるかと。いま読み返して、言及が甘いな、と感じた部分もありましたが、今更追記するのもイヤなので、そのまま載せます。

 

1. 映画『シャイニング』がアメリカの観客に与えた恐怖の根源とは何か

 1977年の発売以来、未だに20世紀ホラー小説の金字塔として燦然と輝き続けているスティーヴン・キングの『シャイニング』。冬の時期だけ閉鎖されるオーバールックホテルの管理人として雇われた、小説家志望で元アルコール依存症のジャック・トランスは、妻のウェンディと超能力(シャイニング)を持つ五歳の息子ダニーの三人でホテルを訪れ、様々な怪異に見舞われる……という、「幽霊屋敷もの」である。1980年には、スタンリー・キューブリックの手によって映画化もされた作品であり、本稿ではこの映画について取り上げる。

 さて、2013年に発表されたキングの小説『ドクター・スリープ』は、『シャイニング』の36年ぶりの続編である。同作の作者あとがきの中でキングは、前作『シャイニング』について、「わたしのどの作品がいちばん怖かったかということが世間で話題になると、『シャイニング』はいちばんよく題名のあがる長編だ。くわえて、いうまでもないことながら、スタンリー・キューブリックの映画化作品もあり――わたしには理由がさっぱり分からないが――これをもっとも怖かった映画のひとつとして記憶されている向きも多いようだ」と述べた上で、「原作こそ‘’トランス一家の正史‘’だ」と強調する。

 キングはこれまでにも、キューブリック版『シャイニング』を度々批判している。1997年には、自身の脚本で改めてテレビドラマとして実写化したほどだ。キングが映画『シャイニング』に対して否定的なのは、小説の特徴であった「上巻からじっくりとページを割いて読者の期待を煽っていき、グツグツと高まった物語の圧が最高潮に達した瞬間、恐怖が爆発する」という構成が変更されていたり(映画『シャイニング』では、ジャック・ニコルソン演じるジャック・トランスの狂気は早々に芽吹く。なんてったって、ジャック・ニコルソンである)、ダニーが持つ「シャイニング」のストーリー上の意味が希薄になっている……といった、「自身の小説との違い」が主たる理由だろう。

 だが、本当にそれだけなのだろうか。本稿では、キングが映画『シャイニング』に拒否感を抱くのには、他にも何か理由があるのではないか、ということについて考察する。そして恐らくそれは、アメリカ国内で映画『シャイニング』を「もっとも怖かった映画のひとつとして記憶されている向きも多い」理由と表裏一体である。

 

2.ストーリー概説と考察に必要なシーン/台詞/ショットの抜粋

 映画は、山道を往く黄色いモービルの空撮から始まる。車を追っていたカメラが切り替わり、「コロラド」の字幕が浮かび上がるとともに、オーバールックホテルの外観が映し出される。続いて「THE INTERVEW」と画面一杯に表示されたあと、ジャック・ニコルソンが建物へと入っていき、冬の間ホテルの管理人として雇われる面接を受ける。かつて、このホテルで同じく冬季管理人をしていたグレーディーという男が同居していた妻と娘を「斧」で殺害した、という話をジャックは聞かされるが、自分は大丈夫だと一笑に付し、無事採用が決まる(図1)。

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(図1 ホテルのオーナー)

 母親のウェンディと一緒に家で留守番をしていたダニーは、超能力(シャイニング)で父親の採用を感じ取り、同時に、不吉なホテルのイメージを幻視する(図2)。

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(図2 ウェンディとダニー)

 シーンが変わり、ジャック、ウェンディ、ダニーの三人はモービルでホテルへと向かう。車内では、次のような会話が交わされる。「ドナー隊が遭難した所ね(ウェンディ)」「もっと西だ。シエラ山脈だ(ジャック)」「ドナー隊?(ダニー)」「幌馬車隊だ。雪に閉じ込められて、ひと冬を過ごしたんだ。そして、生きるために人肉を食べた(ジャック)」

 「ドナー隊の遭難」とは、西部開拓時代の悲劇として語られている出来事だ。1846年、ドナー隊はカリフォルニア入植のため出発し、悪路に道を阻まれ、当初の計画を変更して山で冬を過ごすことを余儀なくされた。食料が尽きた一行は、病気や怪我で命を落とした者らの肉を食べ、生き延びたのである。

 さて、ホテルに到着し、関係者から内部を案内されたジャックとウェンディは、ホテルがかつてはインディアンの墓地であり、建設中にも襲撃を受けたと語る(本稿におけるアメリカ先住民の呼称は、作品に合わせて「インディアン」とする)(図3)。またダニーは、ホテルの黒人料理人ハロランとテレパシーで会話し、彼もまた自分と同様「シャイニング」を持つ者だと知る。

 

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(図3 ホテルを案内されるジャックとウェンディ)

 その後、ホテルは冬季休業に入り、三人はホテルに住み始める。ダニーは双子の少女の幽霊やかつて斧で惨殺された管理人家族の姿などを度々幻視する。そして、小説の執筆が捗らないジャックは次第に精神に異常をきたし始め、建物内のバーへと足を運ぶ。そこで突如、「ロイド。客が遅いな」と言って病的な笑い声を上げると、「さようで トランス様。ご注文は?」とバーテンダーの幽霊が出現する。ジャックは「white man’s burden」と呟き、ジャック・ダニエルをロックで飲む。

 かつての管理人グレーディーの幽霊とも会ったジャックは、「あなたこそ、ここの管理人です。ずっと昔から。存じております。私もずっとここにいます」と告げられる。また、ダニーが「外部の者」=「ニガーの料理人」を「私たちの世界」へ連れ込もうとしている、と教えられたジャックは、ウェンディとダニーを「しつける」よう焚き付けられる。

 ジャックの狂気に気付いたウェンディは反対にバットでジャックを昏倒させ、食糧庫に閉じ込める。だが、ジャックは何処からともなく聞こえてきたグレーディーの声と会話し、鍵を開けて貰う(図4)。

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(図4 グレーディーと会話し、妻子へのしつけを誓うジャック)

 斧を携えたジャックはウェンディとダニーを襲撃するが、二人は辛うじて逃げる(図5)。「シャイニング」によってウェンディとダニーの危機を察知し、ホテルへと舞い戻ってきたハロランは、ジャックに殺害される。ホテル内に残ったウェンディは、冒頭でダニーが幻視した血の海を目の当たりにする(図6)。一方ダニーはホテルの庭に出ると、迷路型の巨大な生垣に逃げ込む。生垣で遊んだことのあるダニーは機転を利かせ、雪に偽の足跡を残すことでジャックの追跡を躱し、ウェンディとともに逃げ延びる。ジャックは生垣から抜け出せず、凍死する。

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(図5 斧でドアを破壊するジャック)

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(図6 オーバールックホテルを満たす血の海)


 映画は、ホテル内部に飾られた写真のクローズアップで幕を閉じる。1921年7月4日にホテルで開催された、舞踏会の写真である(図7)。

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(図7 オーバールックホテルの舞踏会 1921年7月4日) 



3.2で暗示されている一つの方向性

 白人はかつて、西部開拓の名の下にインディアンを虐殺し、その土地を奪ってアメリカを建国した。インディアンの墓地を破壊して建設されたオーバールックホテルは、アメリカそのものを表象していると言える。そのことは台詞で示されている他、図1のホテルのオーナーが白いシャツを着、赤いネクタイを締め、青いジャケットを羽織っていることからも察せられる。机の上には、駄目押しのように小さなアメリカ国旗も飾られており、図3のホテル内部にもアメリカ国旗が飾られている。

 ウェンディとダニーもまた、アメリカを表象している。初めて画面に姿を現したとき(図2)、二人は赤、青、白の服を着ており、これ以降も(特にダニーは)この三色を基調とした服をよく着ているのだ。またジャックは、ハロランを「ニガー」と呼ぶなど、旧来の白人的価値観が根底に流れている人物だということがその言動の端々から分かる。

 白人の三人家族が、インディアン虐殺という負の歴史を持つアメリカを表象したホテルを訪れ、怪異に見舞われる。原因が「インディアンの呪い」であるというのは、明白だろう。作中で描写される幽霊の見た目は全員白人だが、それについては後述する。

 さて、中盤、バーでジャックに禁酒を破らせ、狂気の道へと後戻りできないほど駆り立てる切っ掛けとなった酒は、ジャック・ダニエルだ。バーテンダーの幽霊がこのウイスキーを差し出したのには、ジャックがジャックを演じてジャックを飲む、というジョーク以上の意味がある。かつて、ヨーロッパからアメリカへとやってきた白人たちは、インディアンに酒を飲ませた。酒を知らず、アルコールに対する抵抗力のなかった彼らは、瞬く間に酒に飲まれた。酒は、白人がインディアンから土地を奪うのに大きく貢献した要素の一つなのだ。そしてその酒の代表格が、ウイスキーである。加えて、ジャックがジャック・ダニエルを飲む前に呟く「white man’s burden(白人の責務)」にも意味がある。イギリスの作家キップリングが1899年に発表した詩の一節を起源とした言葉であり、やがて「白人は文明化していない他の人種を文明化する責務を果たすべきだ」という西洋人の植民地政策を正当化する言葉へと拡大していく。ジャックはこの言葉を引用し、酒を飲むことこそ白人の責務だと笑ったのだ。

 「インディアンの呪い」は、インディアンの虐殺、迫害に寄与したウイスキーを使い、白人のジャックが白人の妻子を殺害するという「白人の虐殺」を実現させようとしたのである。

 その後、グレーディーから「ダニーが外部の者を私たちの世界へ連れ込もうとしている」と言われたジャックは、ダニーへのしつけを決意する。場所は、左右が反転する「鏡」が数多く設置されたトイレの中だ。ここでジャックは、インディアンの土地を奪って住み着いた「白人=外部の者」から、「『黒人=外部の者』の流入を防ごうとする内部の者」へと立場を転じる。このときのジャックの心情は、かつて「白人=外部の者」の侵略に抵抗した「インディアン=内部の者」と相似形だ。

 そして、終盤で食糧庫に閉じ込められたジャックは幽霊と会話し、妻子をしつけると約束する。不敵に笑うジャックの背後に置かれた缶詰には、インディアンのイラストが描かれている(図4)。ウェンディとダニーを襲うジャックが使う武器は、斧だ(図5)。かつての管理人グレーディーもまた、妻と娘を殺すのに斧を使っている。斧と言えば、インディアンの武器である。妻子を殺害せんとして斧を振り上げたとき、ジャックの心は完全に、白人を自分たちの土地から追い出そうとするインディアンと一体化してしまう。

 ダニーとウェンディが視たホテルを流れる血の海は、ホテル建設の際に取り壊した墓で眠っていたインディアンたちの血であり、同時にそれは、アメリカが建国される際に流れた大勢のインディアンたちの血を意味している。

 さて、では図7のラストショットは何を意味しているのか。1921年の舞踏会の写真にもかかわらず、そこに映っているのは、ジャックだ。日付は7月4日、アメリカ独立記念日である。アメリカという国がインディアンの屍の上に建国された以上、アメリカ独立記念日とは同時に、インディアンの土地がインディアンの土地ではなくなったということが決定付けられ、インディアンから土地を奪った事実が多くの人々に肯定された日でもある。

 この写真について考える上で思い出すべきが、ジャックがバーで酒を飲むシーンである。ここでジャックは、唐突に「ロイド」とバーテンダーの幽霊に呼び掛ける。ロイドもまた、「トランス様」と返す。また、グレーディーはジャックに対して、「あなたこそ、ここの管理人です。ずっと昔から。存じております。私もずっとここにいます」と告げる。これら二つの描写と最後の写真から導き出せる考察は、「ジャックは生まれ変わっている」というものだ。だからこそジャックはバーテンダーの名前を知っており、グレーディーは「あなたこそ、ここの管理人です。ずっと昔から」と告げるのである。

 つまり、独立記念日を祝う1921年の舞踏会に参加した白人たちは、オーバールックホテルのインディアンの呪いによって、幽霊として永遠にホテルに留まることを余儀なくされたのである。そして当時のホテルの管理人だったジャックは、生まれ変わり、再びホテルを訪れて、妻子を惨殺しようとしたのだ。

 これは、単なるホラー映画としての味付けではない。インディアンの多くには輪廻の価値観があり、「死とは魂だけの状態になったこと」と考えられている。その魂が、人だけでなく、植物や動物や鉱物といった様々なものに再び宿る、というのだ。

 オーバールックホテルに宿った数多くのインディアンの魂は、白人の魂を幽霊としてホテルに縛り付けたり、白人の魂を再び白人の肉体に宿らせて妻子を殺害するという惨劇を引き起こさせたりして、白人に対して復讐しているのである。

 

4.アメリカの国民が抱く、インディアン虐殺に対する罪悪感と怯え

 アメリカはインディアンを虐殺し、その土地を奪い、国を創立した。それは動かしようもない事実であり、取り返しのつかない惨劇である。アメリカの国民、とりわけ白人は、そのことに関する罪悪感を根底に抱えている。

 歴史は繰り返すものだ。アメリカはインディアンを人間扱いせずに虐殺したあと、今度は黒人を奴隷として連れてきた。映画『シャイニング』の最後の写真は、オーバールックホテルの惨劇が繰り返されていることを示し、同時に、アメリカが建国、発展に際して繰り返し行ってきた負の歴史を暗示している。そして、それだけではなく、「今度はアメリカが被害者となって、残虐な歴史が繰り返されるかもしれない」という可能性をも示唆している。

 普段アメリカの国民が胸の底に沈めているインディアンに対する罪悪感と、それに付随した「いずれその罰が下るのではないか」という恐怖を、映画『シャイニング』は大きく揺さぶる。斧を振るうジャックに追われるウェンディとダニーの怯えた姿は、アメリカの観客が決して訪れて欲しくないと願うアメリカ国民の最悪の未来だ。だからこそ、アメリカの観客の多くは映画『シャイニング』を「もっとも怖かった映画のひとつとして記憶」しているのである。また、キリスト教的価値観に立脚して小説『シャイニング』を執筆したスティーヴン・キングも、だからこそ事程左様に、映画『シャイニング』に対して否定的なのだろう。

 映画『シャイニング』がアメリカの観客に与えた恐怖の根源は、かつてアメリカを創った白人たちがインディアンに対して与えた恐怖そのものなのである。

                                       

【引用映画/参考文献/参考URL】

・『シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン』

スタンリー・キューブリック監督、1980年、DVD(ワーナー・ホーム・ビデオ、2005年)

 

https://camarinlife.blogspot.com/2011/06/blog-post_05.html

 

http://www.prideandhistory.jp/topics/000718.html「インディアン殲滅作戦と酒」

 

・山川世界史小辞典(改定新版)、山川出版社、2011年

 

・『死ぬことが人生の終わりではない インディアンの生きかた』

加藤諦三ゴマブックス株式会社、2015年

 

・『ドクター・スリープ』スティーヴン・キング(著)、白石朗(訳)、文藝春秋、2018年

 

 以上でーす。終わり。

『時効警察はじめました』の第二話よ

 こやけ!

 『時効警察はじめました』の第二話を観て愕然としたんですが、あのドラマを観ている人が周りにいないから共有できひんし、かと言って心の中に留めておくのは精神衛生上悪過ぎる、Twitterでも始めてブチギレるか、でもTwitterは嫌いや、アレがあるから人々は怒りや鬱屈をスライスして小出しにしよる、怒りは蓄えて蓄えてぶちまけてナンボやろ、Twitterの普及によって為政者に浅い傷をちょこちょこ付けることは可能になったが、デモは廃れ、革命の可能性は死んだ。プスプスプスプス屁ェみたいに怒りを小出しにすなよ、我慢して我慢して、巨大なクソを捻り出せ、あほんだら! と自室で一人声を荒らげてしまいました。

 なので、今から長々と文句を綴ります。え? お前も怒りを蓄えろって? 違う、こちとら今まで散々、福田雄一作品に対する怒りを溜め込み続けてきたのだ。それでも、「ああ、福田雄一は多分、映画とかドラマを軽んじてんねやろなあ、テキトーに仕事してんねんなあ、オモロい作品を撮ることよりも撮影後の打ち上げの方が楽しみなんやろなあ。でもまあ、もうええわ。勝手に自分の庭で遊んでてくれれば、こっちももう立ち入らへんし。世界中の全員がその庭で遊ぼうとも、俺が絶対に立ち入らんかったら済む話や」という悟りの境地に頑張って到達していたのだ。それが今日、「時効警察」という美しい枯山水の日本庭園を覗いてみたら、福田雄一が「ガハハハッ!」言うて笑いながらバケツで水をバシャバシャと撒き腐ってたんやから、そりゃブチギレまっしゃろ。

 もしこのブログを読んでいる人の中に「時効警察好きやけど、二話は福田雄一脚本かあ……観んのどうしよかなあ」と悩んでいる方がいらっしゃいましたら、即座に録画を消してください。福田雄一かあ、と一秒でも悩むタイプの人は、見終わった後、確実に目から光彩が失われています。

 かつて、「伊集院光 深夜の馬鹿力」のオリジナルカルタを送るというコーナーの「大人のなんでだろう」回にて、「笑いの最高峰が岡崎体育という共通認識の男女のグループの中で免許合宿がスタートしたのだけれど、一日目の昼休みに既に限界を迎えていたのはなんでだろう」という最高に意地の悪いネタが読まれたことがあるのだが、いつぞやのMステはなかなかになかなかだったとはいえ、岡崎体育は基本オモロいし、そもそも岡崎体育を笑いの最高峰だと思っている人間は多分いない。ファンは彼のことを当然好きだろうが、それは楽曲のクオリティや岡崎体育という愛すべき人そのものを支持しているだけで、別に笑いの最高峰と思っている訳ではないだろう。それよりも令和を迎えた我々が真に受け止めなければならないのは、福田雄一作品における佐藤二朗ムロツヨシのやりとりが笑いの最高峰だと思っている人々の存在である。「佐藤二朗が台詞を噛んでグダグダになり、新井浩文の友達が懸命に笑いを堪える」という姿を見て「下手な芸人より面白い」と笑う人々の数は、俺のように舌打ちをする連中の数を遥かに上回る。この文章を読んでいる方がもしいたとして、あなたは恐らく社会人だと思うのでご存知ないだろうが、現役大学生として体感を申し上げておくと、大学生の福田雄一支持率、マジで半端ないですよ。福田雄一ディレクトした『銀魂』は稀に見る実写化作品の成功例という認識、なんなら、腐りきった日本映画界の数少ない希望、みたいな感すらあります。

 人の好みは自由だ、というのはもちろんですが、やっぱりどうにも、福田雄一作品が人気を博すというのは耐え難いものがある。ぬるいだけの笑いが「ゆるい」と評価されることが、心底嫌だ。この世で「ゆるい笑い」というワードを使っていいのは、漫画『しろくまカフェ』だけだ。あの漫画はゆるい。ただ、動物と人間が共存している世界なのに動物園が存在し、主要キャラのパンダはそこで見世物パンダとしてバイトをしている、という設定はなかなかトリッキーで攻めている。福田雄一作品にちょこちょこ出演している菅田将暉は好きだが、『銀魂』の新八姿を見ているときの俺は完全に死んだ目をしていました。辛い。自分の好きな人が自分の嫌いな人と自分よりも仲良くしている姿を見るのは、とても嫌なものである。しかし、生きるということはそういうことだ。

 俺は福田雄一作品を支持する人達の感性を否定はしないし、小馬鹿にもしない……と書こうと思ったが、嘘は吐けないので正直に白状すると、俺は仲のいい人が、福田雄一監督のドラマ『今日から俺は!!』や実写映画『銀魂』に対して面白かったという感想を口にしたとき、心が薄い皮膜で覆われていくのを感じたし、多分、全く面識のないアホそうな男が「福田雄一、マジ神」と口にしていたら、口の端を痙攣させて陰湿な笑いを洩らすと思う。「作品を批判するのは構わないが、作品のファンを批判するのはダメだ」という言説がいつの頃からかネット上を席巻しているが、この言葉は紛れもなく正しく、そして正し過ぎるが故に、俺には受け入れられない。

 俺はまあ、とにかく福田雄一作品のお仲間感、内輪ノリ感が嫌いで(同じく批判されがちなとんねるずの内輪ノリ感は全然好きなんやが)、傑作『シャザム!』の吹き替え監修に福田雄一が就任したのはまあ、字幕で観るからどうでもよかったし、これまた傑作『50回目のファースト・キス』を福田雄一がリメイクすると聞いたときも、「俺は見いひん!」と目を背けたのでまあどうでもいいし、実写版『銀魂』もまあ、何やかんや言うて菅田君が可愛いのでギリトントンって感じだったが(原作ファンからも評判良いみたいやけど、実写版『銀魂』って、漫画『銀魂』を面白いと感じるタイプの人が一番嫌いそうなノリですけどね。不思議ですわ)、『時効警察』だけはホンマに勘弁してほしかった。なんで呼んだんや? 誰が呼んだんや? 弱味でも握られたんか? と訝りたくなるクオリティでしたよ、二話。

 最大にして最悪な点が、三日月くんの心の声垂れ流しだ。副音声に頼るな、『バケモノの子』か。余談やけど、『バケモノの子』、なんで闘技場での熊徹と猪王山の戦いで、九太に開口一番「負けるな!」って叫ばせへんかったんやろ。指摘してる人を見たことないけど、あそこは絶対、「負けるな」ちゃうの? 

 まあ、それは置いといて、あの三日月くんの心の声の演出だけで、福田雄一が絶対に『時効警察』を観てへんことが分かる。歴史あるシリーズ作品の中の一話を任されたのに碌に準備せず挑んじゃう辺り、ホンマに視聴者や創作物を舐め腐っている。もし全作観た上で、自分の色を出すための「あえて」やったんやとしたら、センスがなさ過ぎる。

 表情やちょっとした仕草なんかで三日月くんの気持ちを言葉を使わずに語らせるのがドラマの醍醐味ちゃうんかい、大体過去作で、「心の声を実際に口に出しちゃう三日月くん」っちゅう描写があるのに、あんな大量にぼろぼろと心の声を喋らすな、ダボ。

 全体的にギャグも薄いし、噓を吐いたサインが脇汗いうのも微妙やし、『今日から俺は!!』のパロディ、小ネタなんかに至っては、おのれのお庭でお仲間と一緒にやっとけやっちゅう話である。

 あと、ミステリ小説のトリックを劇中で何個か挙げてたけど、楠田匡介の名前を出そうが、仮に梶龍雄の名前を出そうが草野唯雄の名前を出そうが中町信の名前を出そうが、脚本の質が上がる訳ではないからな、と釘は差しておきたい。福田雄一のどや顔が目に浮かぶので。

 ほんで最後の最後、三日月くんは心の声で「霧山君、やっぱり今回もあなたの心に辿り着けなかったわ。あなたはいつでもミステリー」言うて終わるけど、そんなサブいことを言わせんとってくれ、三日月くんに。

 こんだけ過剰なほど繰り出される心の声は、もしかしてあとあと何かしら意味を持つのか? 効いてくるのか? と期待した俺がアホやった。意味なんかあるはずない。 ほんでシリーズお馴染みの「このドラマはフィクションです。」表記は、「何も思いつかないので僕の妹にフィクションに似た言葉は?と聞いたところ ローリングストーンズはサティスファクション インポッシブルはミッション サブスクリプションはビジネスモデルの一つ 間仕切りはパーテーション ベルリン国際映画祭金熊賞などと返事はきましたが、このドラマはフィクションです。」やったけど、長い、長い。過去の回を参照せえよ。もしくは、そんくらい長くするなら、矢作俊彦の最高な小説『あ・じゃ・ぱん!』の冒頭、「アテンション・プリーズ。このフィクションは小説です。あらゆる物語はロマンスなので、登場する団体名、会社名、及び個人名と現実のそれらとは一切関係がないなどと誰に断ずる権利があるでしょう」くらいの切れ味とクールさを兼ね備えんかいっちゅうねん。

 ホンマにつまらん、どころか、腹立たしいことこの上ない回でした。俺は、ちん毛の如くいつまで経っても何処かからひょっこり出てくる淫夢厨を死ぬほどサブいと軽蔑しているし、「まーん」「まんさん」という単語を使う奴は短小包茎早漏ちんこくんだと思っているし、フィクションに登場する殺人鬼の肉付けが「サイコパスやから」で済まされるのを見るたびに、「なんちゅう安易さ。サイコパスやからシリアルキラーです、って、サイコパスも人間やろ、その言葉はそんな軽々に扱ってええもんと違う」と思ってきた。同様に、「原作レイプ」という言葉も、それを言っている奴らの性犯罪に対する軽過ぎる認識がしばしば垣間見えていたので好きではないが、『時効警察はじめました』の第二話を見た俺の脳裏には、この言葉が過ぎりましたよ。

 フィクション作品を生身の人間のように尊く美しいものだと考えている身からすれば、脚本家の「時効警察」へのリスペクトの無さ(もしくは、シンプルにクリエイターとしての絶望的なセンスの無さ)がむき出しになった回が紛れもなく「時効警察」の一話として刻まれてしまったという事実は、それほどショックでした。

 さて、文句は以上だ。福田雄一は、さっきも記したが、自分の庭でこれからもあんじょうやってくれたらかまへん。KKPの『Sweet7』のナッペの件とかと違って、福田雄一の作品における「演者が笑いを堪え切れずに思わず吹き出してしまうサマ」はクソ面白くないが、まあ自分の庭でわいわいしてくれたらよろしい。「頼むから時効警察の過去シリーズを観たり、シティボーイズの公演を三木聡演出回だけでもええから見てくれ」なんてことは言わない。ただただ、近寄らないでさえいてくれれば。

 ムカつくのは、そんなご陽気な福田雄一を起用し続けている連中やが、まあそれもしゃあない。福田雄一を起用したら作品が売れんねやろうから、映画会社やテレビ局が彼を使うという選択は正しい。当然の選択だ。彼らは創作物に関する仕事に携わっているというだけで、作品を共にブラッシュアップする出版社の編集者なんかとは違い、徹頭徹尾ビジネスマンなんやろう。

 ただ、「時効警察」がそれをするんや、という悲しさはあった。マジで、彼に脚本を書かせたんは、誰の意向なんやろか。三木聡なんやとしたら、どういう意図やったんかをホンマに訊きたい。

 もし仮に、テレビ局の上層部やら何やらが、つまりは、高級スーツに身を包んではいるが、スーツのボタンを閉じたまま着席して平然とジャケットの形を崩すような連中が、「時効警察? ふーん、いいんじゃない、放送して。福田雄一くんとか人気だからさ、彼は呼んでね。それが企画書にゴーサインを出す条件だ」なんつって安易に依頼をさせたのだとしたら、俺はマジでそいつを許せない(まあ、こんな戯画的なことはないにしても、割と同レベルの話はあるんちゃうやろか)。でもそのおかげで「時効警察」の続編が観れたんやんか、一話くらい我慢しいな、なんちゅう小賢しい正論如きでは、俺の煮え滾った怒りは鎮火できない。

 以上、終わり。

かすり傷すら致命傷

 かつて、『今ちゃんの「実は…」』という番組で後輩芸人から、「小籔さんってモデルみたいにシュッとした体型で背ェも高いんやから、もっとモテてええのに!」とイジられた小籔が、すぐさま「アホか。背が高い、いうんは、ある程度のルックスがあって初めて価値が生まれんねん。うんこを高らかに持ち上げたところで、誰も褒めてくれへんやろ!」と返した姿は、バラエティ史に残る名シーンだと思うのだが、あまり話題になっていない。腹抱えて笑った記憶があるのに。

 これと並んでもう一つ、小籔のバラエティ番組における言動で印象的だったのが、アメトーークの「カメラかじってる芸人」における、「カメラ女子が撮ってるんは、空と犬と猫とカプチーノだけ」というものだ。スタジオ中が爆笑し、俺も大笑いした。「カメラ女子とかいけ好かないけど、理由をうまく言語化できない」という多くの人々のモヤモヤを凄まじい速度で吹き飛ばした瞬間だった。

 だが、2019年になろうかという今なお、この切り口で包丁を入れる人を見かけると、キッツ、と思う。この放送があったのは、2013年である。まだ言うてんの、それ? だ。

 インスタ映えとかティックトックとかフラッシュモブとかに対する批判も、同様だ。確かに俺の中にも、それらに対して「しゃらくせえ」と思う気持ちはある。だが、それを高らかに言ってしまうキツさ。「何がインスタ映えだよ! そんなもんしたところで、お前はブスのままだよ」という得意げな台詞は、「酢豚の中にパイナップル入れるっておかしいだろ!」と同レベルだ。そりゃそうかもしれんけど今更声高らかに言うのはダサいやろ、好きな人もおんねんからええがな、というヤツだ。

 特にインスタ映え批判。2017年に南海キャンディーズの山ちゃんが、インスタ映えを「いいねのカツアゲ」と評した。もう、本来はそこで終了のはずである。その時点で、この切り口におけるインスタ映え批判の最高速度が出たのだから、今後インスタ映えを批判する者は、さらなる面白フレーズを考案するか、全く別の切り口で批判するか、二者択一である。それをいつまでもダラダラと、同じ切り口でいつまでしゃばいことしとんねん、と思う次第だ。

 こういう、「安易に流行に流される奴らとは違う俺」を標榜する奴らは、「安易に流行に流される奴らとは違う俺」というポジションに安易に就こうとしている。ダサい、ダサい。

 ただ、オードリー若林が2015年辺りに「斜めからモノを見る奴らにとっては、お前がいるそこはもはや正面だよ」的なことを言っていた気がするので、本稿の主張もまた、新鮮さがないかもしれない。俺は俺で、「安易に流行に流される奴とは違う俺、というポジションに安易に就く奴はダサい、と批判するポジション」に安易に就いているのかもしれない。一度疑い出すときりがない。無間地獄。どうすればいいのか、って答えは単純、自分の好きなモノに素直に手を伸ばせばいいのだ。人間だもの。みつを。相田みつをって、あんま大したこと言うてへんよね、自己啓発本と変わらへん。「死ぬこと以外かすり傷」とか言う奴を見ると、「かすり傷やんな?」って言いながら半殺しにしたくなりますよね。ならないですか? ああ、そうですか。じゃあ結構。はい、終わり。