【注意】陰謀論者を論破!みたいなドラマティックな展開も、ユニークなオチもありません。
俺は現在、外出自粛をしていない。時折恋人とデートをしているし、濃厚接触もたっぷりしている。デート以外にも、たった一人で街に出て、書店に赴き、百貨店をうろつき、映画を観て、飯を食い、喫茶店やバーでダラダラしている。パーティーやバーベキュー、飲み会なんかは随分長いことしていないが、まあこれは、元々殆ど友達がいないからである。孤独だ。
不要不急の外出は自粛せよと叫ばれても、潰れて欲しくない飲食店やバー、喫茶店、書店、映画館等があり、そこに金を落とすことは、俺にとって不要でも不急でもない。揚子江ラーメン総本店という梅田の旨いラーメン屋がコロナ初期段階に閉店し、しばらく意気消沈した。あのような思いは、もう二度としたくない。街に出て各所に金を落とす必要があると思っているし、愛着のある店が潰れるのを阻止するという意味では、緊急性もあると思っている。また、人生は有限だ。人生における活動全てが不要不急とも言えるし、全てが必要緊急とも言える。今「不要不急だから」と我慢したものが、一生付き纏う後悔になる場合もある。
と、まあうだうだ述べたが、これは言い訳だと自覚している。本音はシンプルに、自粛をしたくないだけだ。本来【自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと。】という意味であるはずの「自粛」が、強制力を持った命令かの如く扱われているムードに、抵抗したいだけである。自粛、と政府やマスコミが言い続ける限り、すっとぼけた顔で、「自粛なら、自分の意思で決めればいいんやんね? じゃあ、出歩こっと」と街に繰り出し続けるつもりだ。とはいえ、感染予防対策は怠らない辺り、所詮は小市民である。外山恒一とは違う。まあ別に、彼になりたい訳でもない。
今日も、シネマート心斎橋で『クラッシュ4K無修正版』を観て興奮したあと、梅田の阪急三番街のMitsumineで可愛い柄シャツを2着購入し、大阪駅前第2ビルの祭太鼓でカツ丼を食べた。それから、テアトル梅田へ向かっていると、ヨドバシ梅田の前で行われている演説に遭遇した。「コロナはでっち上げ」「コロナは茶番」といった看板を持った十数名の人々が、マイクで演説をしていた。その前を通ってみると、一人の女性からビラを手渡された。以下、ビラと演説の内容の要点を列挙していく。
1.「PCR検査の陽性者=感染者」ではない。
2.無症状者が他人にうつすという証拠はない。
3.新型コロナウイルスは病原体として証明されていない。コロナの存在証明がないことは、厚労省も認めている。
4.「コロナ騒動は、中流家庭や中小企業を破壊し、金融業者を中心とした一握りの世界的大資本がその他大勢の一般庶民をIT技術で管理する社会構造を作るために、世界中ででっち上げられている茶番劇」「グローバル経済である現代においては、中国、ロシア、アメリカといった大国の上に、さらにグローバル企業、世界資本のネットワークが君臨しているため、そうした壮大なでっち上げが可能になる」(原文ママ)
5.4の首謀者はロックフェラー財団やビル・ゲイツ。
6.黒幕である世界的大資本はコロナ騒動によって世界各国の経済を破壊し、その隙に付け込んで財を買い占めて莫大な富を築くことで、貧富の差を拡大させることが目的だった。
7.PCR検査、ワクチン開発は共に巨大利権だ。
8.新しい生活様式によってマスクで表情を隠させ、会話を控えさせ、集会を規制し、大学を封鎖して学生運動の勃発を抑え込むことで、反発勢力を弾圧した。
9.コロナワクチンは人間の遺伝子を組み換え、体を完全に支配することができる。
10.コロナの死者数は水増し報告されている。
実際のビラには、それぞれについて色々と根拠等が詳細に付記されていた。たとえば9のワクチンについて言うと、「このような計画は陰謀論ではなく、実際に特許申請され、計画されている。WO2020060606 身体活動データを使用する暗号通貨システムだ!」とのことだ。
高校生のとき生物で三度も赤点を取った俺には、コロナ関連の情報の正誤を判断するのは困難だ。ただ、コロナウイルスなど存在しないでっち上げ、という主張はそう簡単には受け入れ難い。そこで、ビラを渡してきた女性に話し掛けてみた。マイクで演説している人は、自分達は目覚めていると繰り返し強調する言葉遣いと口調が高圧的で、特権意識も垣間見え、話している内容ではなく口調を非難するのはトーンポリシングといって美しくない手法だと承知しているが、それでもやはり不愉快さは拭えなかった。だが、ビラを配っていた女性は、とても丁寧かつ柔和な態度だった。以下、やりとりを記す。一言一句正確ではないが、論旨はそのままだ。
俺「すみません、ちょっとお伺いしてもいいですか」
女性「はい、どうぞ」
俺「コロナは騒がれているほど大したウイルスじゃない、という考え方なんですか。それとも、そもそもコロナなんてのは完全に存在しないでっち上げや、という考え方なんですか」
女性「それは、ここに集まっている人の中でも、考えはまちまちだと思います。私は、よく分からないというか、あるかどうか分からないと思っています。にもかかわらず、そんなあやふやなものがここまで大騒ぎされて、色んなものが規制されていることがおかしいと思っています」
女性が配っていたビラには、「現実世界は2019年までと何も変わっていないのです。中国発のトンデモ学説を基準に、全世界が動いているのです」と記されていたから、当然「コロナなんてありません」という返答だと思いきや、まさかの「よく分からない、あるかどうか分からない」という曖昧過ぎる回答だった。この時点で「自分の考えちゃうビラを配っとんかい」とつんのめりそうになったが、会話を続けた。
俺「芸能人とかがよく、コロナに罹った体験談をテレビとかラジオで話してるじゃないですか。味覚も嗅覚も無くなったって。あれは何なんですか。嘘ですか」
女性「う〜ん……。それはよく分からない。けど、やっぱりスポンサーに不利なことというのは、テレビでは言えないじゃないですか。芸能人も、そこには逆らえない。テレビが100%嘘とは言わないけど、嘘と真実がごちゃ混ぜにされていて……。やっぱり、スポンサーに不利なことは言えないでしょ」
コロナの存在が捏造であり、そのことを隠蔽するように世界的大資本が大手スポンサーを通じてテレビ局に圧力を掛けていたとしよう。その場合、確かに芸能人は「コロナは実は茶番劇だ」ということを知っていても言えないかもしれない。だがそれと、コロナに罹患して味覚・嗅覚が一時的に失われたと嘘の体験談を話すことは、罪の重さが大きく違う。もっと具体的に言えば、爆笑問題の田中が「コロナは実は茶番劇だ」ということを知った上でスポンサーの顔色を窺って口を噤むことはまだしも、コロナに罹ったフリをして「怖いのが、味が全然分からないんだよね」と丸きり嘘のエピソードをスポンサーのためにラジオで話すとは、到底思えない。絶対にあり得ない。根拠は、ウーチャカがそんなことする訳ないやろ!だ。
そんな俺の胸中を知らぬ女性は、尚も続けた。
「コロナの死者数も水増しされてますからね。だって、交通事故で病院に運ばれたとするでしょ。その人にPCR検査を受けさせて、陽性だったら、その人が死んだ場合、コロナでの死者数にカウントされるんですよ。事故なのに。これはおかしいでしょ。とにかく、皆さん何の疑問もなくコロナに関することを思考停止で受け入れてるでしょ。そういう態度はやめて、いっぱい自分で調べて、自分で考えてみませんか、ってことですよね」
あなたはいっぱい自分で調べて考えたのに、コロナが存在するのかしないのかよく分からないんですか。さっきから何遍も、分からないって連呼されてますけど、分からないのに「コロナはでっち上げの茶番劇や」という喧伝活動に加担してるんですか。
スカッとジャパンならそうやって詰めるだろうが、俺は何も言えなかった。ビラを配る彼女や、演説をする彼らの瞳は、とても澄んでいて、美しかったからだ。ぼかした言い方をするが、ある種の人々の目は、どういう訳か、不思議なほどとても綺麗だ。数時間前に観た映画『クラッシュ』に登場した、自動車事故に性的興奮を覚える人々の目の輝きを彷彿とさせた。ビラを配っている女性や演説をしている人達に対して差別的なカタカナ四文字が脳裏を過り、そんな自分を些か嫌悪しながら、軽く頭を下げた。
「なるほど〜。どうも、ありがとうございました」
その場を足早に立ち去り、テアトル梅田に辿り着くと、『花束みたいな恋をした』を鑑賞した。敬愛する坂元裕二の脚本であり、最後まで観た感想としては面白かったが、菅田将暉と有村架純が好きな作家や作品の名前を口にするときの雰囲気と固有名詞のチョイスが妙に鼻につき、この鼻白む感覚はまるで園子温監督作品のこれ見よがしさを観ているときのようだなと嘆息した。また、「俺、結構映画好きで、マニアックって言われるよ」と述べて某有名洋画を好きだと語る初対面の人物を菅田将暉が内心で軽く揶揄するような描写があり、「うわ〜、こいつ今時まだこの切り口かよ」と辟易もした。どれだけ映画好きか分からない初対面の人間だらけの場で、好きな映画に『不安は魂を食いつくす』とか『動くな、死ね、甦れ!』を挙げる奴の方がよっぽどキモい。フェリーニ、ブニュエル、ヴィスコンティ辺りでギリだ。俺も初対面の人間と映画の話になったら、まずはメジャーな名作を挙げる。そこで普通に笑顔でリアクションしてくれる人なら徐々にマニアックな映画を挙げていけばいいし、「あー、そのメジャー過ぎる映画、挙げちゃいます?笑」みたいな顔をしてくる奴なら、こっちから願い下げだ。そんな奴と映画の話をしたくない。RHYMESTER宇多丸も過去に「ニューシネマパラダイスを第一に挙げる人とは映画の話をしたくない」とラジオで半笑いで語っていたと知り、RHYMESTERのアルバムを全て持っている俺でも、思わず「うっせえな」と思ってしまった。対談のとき、北野武のこと「殿」って呼んでたけど、いつから軍団に入ってん。「(実写映画だけじゃなく漫画の)デスノート自体がアホらしくて見てらんない。子供の遊びには付き合ってられない」っつー発言もどないやねん。などと思うが、まあそれは余談なので捨て置く。
要するに、『花束みたいな〜』の菅田将暉や有村架純は、ツラはごっつええけど、性格はサブカル文系ボーイ/ガールやTBSラジオリスナーのキモい部分をしっかり備えた、俺の嫌いなタイプの人間やんけー、と気付いて苦痛だったのだ。脚本上意図したものだろうが、それでも耐え難かった。
映画館を出て、腹が減ったので晩飯になんか旨いもんでも食って帰ろうと夜の梅田を歩いた俺の目に飛び込んできたのは、「20時閉店」の張り紙の数々だった。落胆し、思わず肩を落として俯きそうになったので、逆に思い切り胸を張って空を見上げてやった。こういう日に限って、皓々たる満月である。一月末。夜気はまだまだ冷たい。終わり。