沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

俺は「解像度」という比喩に対する「解像度」が低いんすかね?

「解像度が高い/低い」という比喩が好きではない。比喩的に用いられる「解像度」の意味は、文脈から察するに「物事やフィクション作品に対する理解度」あるいは「感情や状況を的確かつ具体的に説明・表現できる能力」といったところだろう。

 しかしそもそも、写真や映像の素晴らしさは、解像度だけでは決まらない。構図も重要だ。ジョン・フォードの映画の画面よりも現代の映画の画面の方が解像度が高いが、だからと言ってジョン・フォードの映画が現代の映画に劣る訳ではない。解像度の高くないカメラで撮影された息を呑むほど美しい構図の映像は、解像度の高いカメラで撮影された凡庸な構図の映像よりも遥かに勝る。

「この実写映画の制作陣は、原作漫画に対する理解度が深い」と述べたとき、「理解度」とは「原作漫画を多角的な視点で捉え、そこから映画化する際に最適な要素を選び、深く掘り下げ、原作漫画の良さを殆ど損なうことなく実写映画に移植することができている」という意味であり、比喩的に言えば「解像度の高いカメラを使って、被写体を素晴らしい構図で写真に収めてくれましたね!」だ。理解度という言葉は、解像度だけでなく、視点や構図といった意味も含んでいる。にも関わらず、どうして「理解度」ではなく、視点が欠落した意味の狭い比喩である「解像度」を使うのだろうか。

「感情や状況を的確かつ具体的に説明・表現できる能力」という意味での用いられ方についても、同様だ。「解像度が高い」ではなく、言葉選びが豊富で的確、感情が正確に理解できる、情景が具体的に想像しやすい……等々、いくらでも言い換え可能、どころか、より伝わり易い言い回しがあるのに、何故「解像度」を使いたがるのか。ただなんとなく格好良さげだから「解像度」と言いたいだけではないのか。違うと言うなら、「解像度」という語でなければ表現し得ない微妙なニュアンスを、是非とも教えていただきたいところです。

 利便性が高く、何か頭の良さそうなことを言っている風で、しかしその実ピントがぼやけた「解像度」という比喩に頼り続ける限り、「解像度が高い」人にはなれないだろう。なんつって、ごちゃごちゃとそれらしいことを述べたが、要はなんとなくこの言葉が鼻につくだけです。この嫌悪感は、『花束みたいな恋をした』の主人公二人に対する嫌悪感に近い。あいつら絶対、解像度って言いまくってますからね。終わり。

「コロナは茶番劇」というビラを配っている人に話し掛けてみた

【注意】陰謀論者を論破!みたいなドラマティックな展開も、ユニークなオチもありません。 

 

 俺は現在、外出自粛をしていない。時折恋人とデートをしているし、濃厚接触もたっぷりしている。デート以外にも、たった一人で街に出て、書店に赴き、百貨店をうろつき、映画を観て、飯を食い、喫茶店やバーでダラダラしている。パーティーやバーベキュー、飲み会なんかは随分長いことしていないが、まあこれは、元々殆ど友達がいないからである。孤独だ。

 不要不急の外出は自粛せよと叫ばれても、潰れて欲しくない飲食店やバー、喫茶店、書店、映画館等があり、そこに金を落とすことは、俺にとって不要でも不急でもない。揚子江ラーメン総本店という梅田の旨いラーメン屋がコロナ初期段階に閉店し、しばらく意気消沈した。あのような思いは、もう二度としたくない。街に出て各所に金を落とす必要があると思っているし、愛着のある店が潰れるのを阻止するという意味では、緊急性もあると思っている。また、人生は有限だ。人生における活動全てが不要不急とも言えるし、全てが必要緊急とも言える。今「不要不急だから」と我慢したものが、一生付き纏う後悔になる場合もある。

 と、まあうだうだ述べたが、これは言い訳だと自覚している。本音はシンプルに、自粛をしたくないだけだ。本来【自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと。】という意味であるはずの「自粛」が、強制力を持った命令かの如く扱われているムードに、抵抗したいだけである。自粛、と政府やマスコミが言い続ける限り、すっとぼけた顔で、「自粛なら、自分の意思で決めればいいんやんね? じゃあ、出歩こっと」と街に繰り出し続けるつもりだ。とはいえ、感染予防対策は怠らない辺り、所詮は小市民である。外山恒一とは違う。まあ別に、彼になりたい訳でもない。

 今日も、シネマート心斎橋で『クラッシュ4K無修正版』を観て興奮したあと、梅田の阪急三番街のMitsumineで可愛い柄シャツを2着購入し、大阪駅前第2ビルの祭太鼓でカツ丼を食べた。それから、テアトル梅田へ向かっていると、ヨドバシ梅田の前で行われている演説に遭遇した。「コロナはでっち上げ」「コロナは茶番」といった看板を持った十数名の人々が、マイクで演説をしていた。その前を通ってみると、一人の女性からビラを手渡された。以下、ビラと演説の内容の要点を列挙していく。

1.「PCR検査の陽性者=感染者」ではない。

2.無症状者が他人にうつすという証拠はない。

3.新型コロナウイルスは病原体として証明されていない。コロナの存在証明がないことは、厚労省も認めている。

4.「コロナ騒動は、中流家庭や中小企業を破壊し、金融業者を中心とした一握りの世界的大資本がその他大勢の一般庶民をIT技術で管理する社会構造を作るために、世界中ででっち上げられている茶番劇」「グローバル経済である現代においては、中国、ロシア、アメリカといった大国の上に、さらにグローバル企業、世界資本のネットワークが君臨しているため、そうした壮大なでっち上げが可能になる」(原文ママ)

5.4の首謀者はロックフェラー財団ビル・ゲイツ

6.黒幕である世界的大資本はコロナ騒動によって世界各国の経済を破壊し、その隙に付け込んで財を買い占めて莫大な富を築くことで、貧富の差を拡大させることが目的だった。

7.PCR検査、ワクチン開発は共に巨大利権だ。

8.新しい生活様式によってマスクで表情を隠させ、会話を控えさせ、集会を規制し、大学を封鎖して学生運動の勃発を抑え込むことで、反発勢力を弾圧した。

9.コロナワクチンは人間の遺伝子を組み換え、体を完全に支配することができる。

10.コロナの死者数は水増し報告されている。

 実際のビラには、それぞれについて色々と根拠等が詳細に付記されていた。たとえば9のワクチンについて言うと、「このような計画は陰謀論ではなく、実際に特許申請され、計画されている。WO2020060606 身体活動データを使用する暗号通貨システムだ!」とのことだ。

 高校生のとき生物で三度も赤点を取った俺には、コロナ関連の情報の正誤を判断するのは困難だ。ただ、コロナウイルスなど存在しないでっち上げ、という主張はそう簡単には受け入れ難い。そこで、ビラを渡してきた女性に話し掛けてみた。マイクで演説している人は、自分達は目覚めていると繰り返し強調する言葉遣いと口調が高圧的で、特権意識も垣間見え、話している内容ではなく口調を非難するのはトーンポリシングといって美しくない手法だと承知しているが、それでもやはり不愉快さは拭えなかった。だが、ビラを配っていた女性は、とても丁寧かつ柔和な態度だった。以下、やりとりを記す。一言一句正確ではないが、論旨はそのままだ。

俺「すみません、ちょっとお伺いしてもいいですか」

女性「はい、どうぞ」

俺「コロナは騒がれているほど大したウイルスじゃない、という考え方なんですか。それとも、そもそもコロナなんてのは完全に存在しないでっち上げや、という考え方なんですか」

女性「それは、ここに集まっている人の中でも、考えはまちまちだと思います。私は、よく分からないというか、あるかどうか分からないと思っています。にもかかわらず、そんなあやふやなものがここまで大騒ぎされて、色んなものが規制されていることがおかしいと思っています」

 女性が配っていたビラには、「現実世界は2019年までと何も変わっていないのです。中国発のトンデモ学説を基準に、全世界が動いているのです」と記されていたから、当然「コロナなんてありません」という返答だと思いきや、まさかの「よく分からない、あるかどうか分からない」という曖昧過ぎる回答だった。この時点で「自分の考えちゃうビラを配っとんかい」とつんのめりそうになったが、会話を続けた。

俺「芸能人とかがよく、コロナに罹った体験談をテレビとかラジオで話してるじゃないですか。味覚も嗅覚も無くなったって。あれは何なんですか。嘘ですか」

女性「う〜ん……。それはよく分からない。けど、やっぱりスポンサーに不利なことというのは、テレビでは言えないじゃないですか。芸能人も、そこには逆らえない。テレビが100%嘘とは言わないけど、嘘と真実がごちゃ混ぜにされていて……。やっぱり、スポンサーに不利なことは言えないでしょ」

 コロナの存在が捏造であり、そのことを隠蔽するように世界的大資本が大手スポンサーを通じてテレビ局に圧力を掛けていたとしよう。その場合、確かに芸能人は「コロナは実は茶番劇だ」ということを知っていても言えないかもしれない。だがそれと、コロナに罹患して味覚・嗅覚が一時的に失われたと嘘の体験談を話すことは、罪の重さが大きく違う。もっと具体的に言えば、爆笑問題の田中が「コロナは実は茶番劇だ」ということを知った上でスポンサーの顔色を窺って口を噤むことはまだしも、コロナに罹ったフリをして「怖いのが、味が全然分からないんだよね」と丸きり嘘のエピソードをスポンサーのためにラジオで話すとは、到底思えない。絶対にあり得ない。根拠は、ウーチャカがそんなことする訳ないやろ!だ。

 そんな俺の胸中を知らぬ女性は、尚も続けた。

「コロナの死者数も水増しされてますからね。だって、交通事故で病院に運ばれたとするでしょ。その人にPCR検査を受けさせて、陽性だったら、その人が死んだ場合、コロナでの死者数にカウントされるんですよ。事故なのに。これはおかしいでしょ。とにかく、皆さん何の疑問もなくコロナに関することを思考停止で受け入れてるでしょ。そういう態度はやめて、いっぱい自分で調べて、自分で考えてみませんか、ってことですよね」

 あなたはいっぱい自分で調べて考えたのに、コロナが存在するのかしないのかよく分からないんですか。さっきから何遍も、分からないって連呼されてますけど、分からないのに「コロナはでっち上げの茶番劇や」という喧伝活動に加担してるんですか。

 スカッとジャパンならそうやって詰めるだろうが、俺は何も言えなかった。ビラを配る彼女や、演説をする彼らの瞳は、とても澄んでいて、美しかったからだ。ぼかした言い方をするが、ある種の人々の目は、どういう訳か、不思議なほどとても綺麗だ。数時間前に観た映画『クラッシュ』に登場した、自動車事故に性的興奮を覚える人々の目の輝きを彷彿とさせた。ビラを配っている女性や演説をしている人達に対して差別的なカタカナ四文字が脳裏を過り、そんな自分を些か嫌悪しながら、軽く頭を下げた。

「なるほど〜。どうも、ありがとうございました」

 その場を足早に立ち去り、テアトル梅田に辿り着くと、『花束みたいな恋をした』を鑑賞した。敬愛する坂元裕二の脚本であり、最後まで観た感想としては面白かったが、菅田将暉有村架純が好きな作家や作品の名前を口にするときの雰囲気と固有名詞のチョイスが妙に鼻につき、この鼻白む感覚はまるで園子温監督作品のこれ見よがしさを観ているときのようだなと嘆息した。また、「俺、結構映画好きで、マニアックって言われるよ」と述べて某有名洋画を好きだと語る初対面の人物を菅田将暉が内心で軽く揶揄するような描写があり、「うわ〜、こいつ今時まだこの切り口かよ」と辟易もした。どれだけ映画好きか分からない初対面の人間だらけの場で、好きな映画に『不安は魂を食いつくす』とか『動くな、死ね、甦れ!』を挙げる奴の方がよっぽどキモい。フェリーニブニュエルヴィスコンティ辺りでギリだ。俺も初対面の人間と映画の話になったら、まずはメジャーな名作を挙げる。そこで普通に笑顔でリアクションしてくれる人なら徐々にマニアックな映画を挙げていけばいいし、「あー、そのメジャー過ぎる映画、挙げちゃいます?笑」みたいな顔をしてくる奴なら、こっちから願い下げだ。そんな奴と映画の話をしたくない。RHYMESTER宇多丸も過去に「ニューシネマパラダイスを第一に挙げる人とは映画の話をしたくない」とラジオで半笑いで語っていたと知り、RHYMESTERのアルバムを全て持っている俺でも、思わず「うっせえな」と思ってしまった。対談のとき、北野武のこと「殿」って呼んでたけど、いつから軍団に入ってん。「(実写映画だけじゃなく漫画の)デスノート自体がアホらしくて見てらんない。子供の遊びには付き合ってられない」っつー発言もどないやねん。などと思うが、まあそれは余談なので捨て置く。

 要するに、『花束みたいな〜』の菅田将暉有村架純は、ツラはごっつええけど、性格はサブカル文系ボーイ/ガールやTBSラジオリスナーのキモい部分をしっかり備えた、俺の嫌いなタイプの人間やんけー、と気付いて苦痛だったのだ。脚本上意図したものだろうが、それでも耐え難かった。

 映画館を出て、腹が減ったので晩飯になんか旨いもんでも食って帰ろうと夜の梅田を歩いた俺の目に飛び込んできたのは、「20時閉店」の張り紙の数々だった。落胆し、思わず肩を落として俯きそうになったので、逆に思い切り胸を張って空を見上げてやった。こういう日に限って、皓々たる満月である。一月末。夜気はまだまだ冷たい。終わり。

逃げ恥SP、騒ぐほど思想強くなくなくなくなくなくない?

 逃げ恥SPを観ました。「逃げ恥おもんないなー作ってる人朝鮮人フェミニスト?」という地獄を凝縮した感想ツイートを見掛けて爆笑してしまい、このインパクトにはどう足掻いたって勝てないので感想ブログは書かなくてええかなあとも思いましたが、大晦日も三ヶ日もお仕事をして頭おかしくなりそうなので、ストレス発散を兼ねて感想を書きます。プレモルを二本空けてほろ酔いなので、文章テキトーです。最近、ビール好きになりましてん。

 俺は右翼でも保守でもないが日本が好きだし、日本に生まれてよかったと思っている、けどまあ現在の与党は支持してないし、もし韓国やフランスやイギリスやインドに生まれていたら同じように「この国に生まれてよかった」と感じてたやろなーとも思ってます。また、左翼やリベラルによく見られる欺瞞に満ちた態度も、ネットフェミニストの当たり屋めいた姿勢も大嫌いですが、知人女性がフェミニストを自認していて、彼女のことはめちゃくちゃ尊敬しています。それから、自民党政権を嫌悪している友達とも、野党がだらしないと口にしてる友達とも、仲良くしてます。お世話になっている年上の方が二人いて、一人は暴力革命でしかこの国は変わらへんと言っているゴリゴリのアナーキスト、もう一人は朝日新聞社民党が大嫌いなゴリゴリの右派ですが、二人とも心底尊敬しています。そういう人間の感想だと思って、以下読み進めてください。

 逃げ恥SPの感想、言いたいことは五つある。

一、ガッキーが可愛い。

ニ、石田ゆり子がお美しい。

三、西田尚美がお美しい。

四、前半でみくりの妊娠が診察によって確定し、婚姻届を提出した帰り道、平匡が「子どもが産まれるにあたって、僕は全力でみくりさんをサポートします。何でも、遠慮なく言ってください」と発言すると、みくりは「違う!サポートって何?手伝いなの?一緒に親になるんじゃなくて?私だって子供産むの初めてで、何にも、どうなるか不安なんです。それなのに、私が一人で勉強して、平匡さんに指図しないといけないの?一緒に勉強して、一緒に親になって、夫婦ってそういうことじゃないんですか」と返すが、これはほぼ難癖だ。「〜にあたって」は「〜の前段階において」という意味で用いられることが大半であり、「サポートします」の目的語は、子育てではなく妊娠・出産だ。確かに、一緒に親になるべきという考え方は正しいが、妊娠も出産も女にしかできない以上、男が「子供が産まれる前段階において」できることは、所詮サポートに過ぎない。つわりの苦しみを真に理解することも代わることも、男にはできない。つわりに苦しむ妊婦の代わりに買い物をしたり、家事をしたりすることしかできないのだ。平匡はそういう申し訳なさと妊婦への敬意を込めてサポートという言葉を使った可能性もある訳で、「産まれてからは、サポートじゃなくて一緒に勉強して、一緒に親になるんですよ。分かってますよね」くらいの返答で済ませばいい話だ。「みくりさんが一人で勉強して、色々僕に指図してください」なんてことを平匡は一言も言っていないのに、「私が一人で勉強して、平匡さんに指図しないといけないの?」と問うのは、ネットフェミニスト(だけじゃなく、ネット論客)がよく使う「相手の言っていないことに反論する」という手法で、美しくないから俺は嫌いです。

 そして、本題の五つ目は、「逃げ恥SP、別にそこまで思想強くねえよ!」だ。フェミニスト/ポリコレ/リベラルの押し付けだー!プロパガンダだー!胸焼けするー!とTwitter等で騒がれており、俺はドラマを観る前にちらとそれらを目にしてしまっていたので、一体どんなもんかと思っていたら、別に大したことはなかった。選択的夫婦別姓も育休も無痛分娩も、入籍や妊娠・出産を控えた夫婦が直面し得るごく普通の課題だ。妊娠して入籍した夫婦を主人公に据えたドラマがそれらを描くことに、何の不思議もない。また、同性婚が認められないことの弊害も、今ここにある課題だ。同性愛者と打ち明けたときに相手がどんな反応を示すか怖いといった描写も、思想が強過ぎるなどと騒がれるほど大層なことではない。あのドラマを観て思想が強いだのプロパガンダだのと騒ぐ人は、日頃どれほど現代日本が抱える社会の課題から目を逸らして生きているのだろうか。ナイーブ過ぎる。うぶ過ぎる。

 そもそも、みくりと平匡は「妊娠して子供ができた以上は入籍しなきゃね」「森山姓か津崎姓かどちらにしようか。でも、森山みくりには兄がいるけど、津崎平匡は一人っ子だから、津崎姓にしようか(フリーランスとしての仕事云々の話は、第二の理由として挙げられていた)」と決断する訳だが、これらの考え方は、いわゆる日本の保守的思想に沿ったものだ。別に妊娠したって入籍する必要はないが、みくりと平匡は、妊娠→入籍の流れを割と当然のものとして受け入れている。また、選択的夫婦別姓を求めて裁判を起こしたりもしない。兄がいるから、一人っ子がいるから云々という話をしていることからも分かる通り、家制度に全く縛られない、完全に自由な考え方をしている訳でもない。

 みくりと平匡は、自分達の頭で物事を考え、受け入れられないものには極力従わないが、時には折れることもある人達だ。あえてこの言葉を使うが、「普通」の人達だ。リベラル、フェミのプロパガンダだ!という意見は、もう一度言うが、ナイーブ過ぎる。

 俺は前評判を目にして、「夫婦同姓など男尊女卑!アップデートできていない!人権意識が低い!そもそも、婚姻制度自体廃止すべき!」くらいのことをみくりさんが言っているのかなと思いきや、「婚姻とか姓もそれなりに大事にしてるけど、夫婦別姓の選択肢すらないのは嫌よねー。育休も大事よねー」という、よくいる人達のお話でした。三回目になりますが、これで騒ぐのはナイーブ過ぎます。

 選択的夫婦別姓、とっとと認められるといいですね。ただし、「夫婦同姓にする夫婦は遅れている!意識が低い!」という主張は、「夫婦別姓は家族の絆を破壊する!日本を壊す!」という主張と同じくらいダメということは、各自胸に抱いておきましょう。俺の恋人は選択的夫婦別姓に賛成してるけど、「もし結婚したら俺君の苗字になりたい」つってます。ええでしょ。惚気ですわ。終わり。

いつまでもピースを

 喫煙者に煙草を吸い始めたきっかけを尋ねると、決まって「嗜好品だから、一度は試してみたくて〜」「周りの人が吸ってたから、流されてノリで〜」などという答えが返ってくる。その度、嘘吐けと心の中で苦笑する。煙草を吸い始めるきっかけなど、よほどの例外を除けば、「格好良いと思って、憧れていたから」に決まっている。煙草は格好良い。この格好悪い考えのもと喫煙を始めたと認めない者は、信用できない。一円だって貸してやらない。

 俺が初めて煙草を吸ったのは、高校一年生のときだ。RCサクセションの『トランジスタ・ラジオ』という曲に憧れて、吸おうと決意した。進学校に通っていたが馴染めなかった忌野清志郎。授業をサボり、校舎の屋上で寝転んで煙草を吸う歌詞に、美しさと共感を覚えた。早速、煙草を買うことにした。銘柄は、ショート・ピースだ。フィルターの付いていない両切りの煙草で、紙巻煙草の最高傑作だというネットのレビューに心惹かれた。若者は普通吸わない銘柄だとも書かれていたから、童顔で煙草屋に見咎められないか心配していた俺は、好都合だと思った。「ショッピください」と言えば、「こいつ未成年ちゃうやろな?」という疑いはかけられまい。そう自分に言い聞かせ、授業をサボり、帽子を目深に被って、梅田の煙草屋に向かった。緊張で鼓動が速くなり、口に饐えた味が広がったが、拍子抜けするほどあっさりと購入できた。思わず、ため息が洩れた。

 立入禁止の校舎の屋上の代わりに、近くの河川敷に向かった。太陽が眩しかった。小さい男の子と女の子と母親らしき女性が、屈託ない笑顔を浮かべて遊んでいた。寝そべると、前日に降った雨の残り香と草の匂いがした。川を挟んだ向こう側では、隠居生活を送っていそうなおじいが同じように寝転がっていた。ウォークマンを取り出してRCサクセショントランジスタ・ラジオ』を再生し、ショート・ピースのフィルムを剥がした。箱を開けて煙草の匂いを嗅ぐと、バニラのような香りというネット情報とは違い、レーズンのような香りがした。いい匂いだった。

 コンビニで買ったマッチを取り出した。百円ライターよりマッチで煙草に火を点けた方が格好良い。そう思ったし、幼少期からマッチを擦るという行為自体がやたらと好きでもあった。

 煙草を一本口に銜え、マッチを擦って火を点けた。甘く華やかな香りというネット情報とは違い、ただただ煙草の味しかしなかった。烟の量と濃さが凄くて、危うくむせるところだった。信じられないほど、不味かった。でも、格好良いと思った。

 その日以降、親や同級生らにバレないよう臭いに気を遣いながら、時折ショート・ピースを吸った。次第に上手に吸えるようになり、旨いと感じるようにもなっていった。

 ある日、仲良くなった同級生の女の子が喘息持ちだと知った。煙草の烟が嫌いだと言っていた。大人になっても、煙草は吸わないで欲しいと言われた。その日の内に、まだ半分以上残っていたショート・ピースを処分した。

 その子とは高一の終わり頃に交際を始め、大学二年生の初めに破局した。原因は完全に俺だ。身勝手で、本当に申し訳なく思っている。俺は彼女と出会えて良かったと思っているし、今現在幸せでいることを心底願っているが、世の多くの男性諸君のように、向こうもそう思ってくれているはずだと勘違いはしていない。多分、いやきっと、出会わなければ良かった、死ねばいいのにと思われている。仕方ない。自覚はある。

 その後交際を始めた別の子は、喘息持ちではないが、煙草の臭いは好きではないと言っていた。ある日、大喧嘩になった。無性に苛立ち、ふと入った近所のコンビニで、ショート・ピースが売られているのが目に入った。コンビニではあまり売られていない銘柄だが、よりによって近所のセブンイレブンには置かれていた。何度も来ているのに、このとき初めて知った。少し迷った末、マッチと一緒に購入し、店の外の灰皿で吸った。底冷えのする冬の夜だった。新月だった。星は殆ど見えなかった。三年以上ぶりに吸うショート・ピースは、心底旨かった。

 数ヶ月後、喫煙を打ち明けると激怒され、また喧嘩になったが、旨いうどん屋に一緒に行って仲直りした。彼女の前では吸わないようにしたし、基本的に会う前にも吸わないよう心掛けた。別に、苦ではなかった。煙草をニコチンを摂取するためのストローだと勘違いしてスパスパと忙しなく吸っている人々と違い、俺は旨いから吸っているのだ。そして、格好良いから。バーと喫茶店と人がいない田舎の夜の公園。ニコチンに依存している訳じゃないからそこで時折吸うだけで充分だし、そっちの方が格好良い。

 ある夜、数少ない飲み友達と一緒に日本酒と料理が旨い店で飲んでいると、絶賛喧嘩中の彼女から電話が掛かってきた。どうしても会いにきて欲しいと泣きながら言われ、友達に詫びて解散し、彼女の元へ向かった。折角楽しく飲んでる最中やったのに。苛立ちが募り、道中のコンビニの前でショート・ピースを吸った。怒りが和らぎ、気分が多少落ち着いた。それから、彼女の部屋のチャイムを鳴らした。泣きじゃくりながら抱きつかれると、残っていた怒りも嘘のように消えた。キスをすると、煙草臭いと言われた。ざまあみろ。そう言って笑うと、何故か「嬉しい」と言ってさっきよりも泣かれた。

 さて、俺はショート・ピースを吸うとき、烟と一緒にこうした思い出も吸い込んでいるのである……といったまとめ方をしたい訳ではない。むしろ、逆だ。過度なノスタルジーは敵だと思って生きている。過去を振り返るのではなく、前を向いて生きることこそ人生の豊かさだと信じている。本稿を記すにあたって色々と思い出しはしたが、普段は隠れて煙草を吸っていた高校一年生の頃を懐かしんだりはしないし、高校時代の恋人のことをこれっぽっちも考えたりしない。現在も交際中の彼女との思い出は時折懐かしんだり慈しんだりすることもあるが、それよりも今度一緒にあれを食べよう、あそこに行こうという話をしたりそのことについて考えているときの方がよっぽど楽しいし、価値があると思っている。

 バーではマスターとだらだら喋っているから別として、喫茶店や夜の公園でショート・ピースを燻らせているとき、俺は全く何も考えていない。味と香りに浸りながら、立ち昇る烟を見つめているだけだ。起きている間中、ついつい憂鬱になるようなことを考えてしまったり、深い虚無感に襲われたり、理由のない死への衝動に駆られたりするタチだが、ショート・ピースを吸っているときだけは、何も考えないで済む。ひたすら、本当にただひたすらぼけーっとできる。そして吸い終えたあと、「無心で煙草を燻らせてた俺、かっこええなあ」と思いながらロッテのACUOガムを口に放り、何度も嚙むことで現実へと焦点を合わせていく。

 ショート・ピースを吸っているとき、俺の心には平和がもたらされる。数少ない憩いの時間だ。至福のひと時だ。この短い平和を守るためなら、俺はどんな強力な嫌煙論者とだって戦争をするつもりだ。

 眠いのに一体なぜこの記事を書こうと思い立ったのか、自分でもよく分からない。世間がすっかり年末ムードに突入し、あちこちで今年の総括が始まっていることへの反発だろうか。まだ、今年は終わっていない。コロナウイルスの存在が初めて日本国内で報じられたのは、2019年12月31日だぞ、諸君。一秒後に何が起こるか分からないのが、人生だ。だが願わくば、こんな無意味な文章を年の瀬にわざわざ読んでくれたあなたの心にだけは、いつまでもピースが訪れますように。終わり。

吉田豪!と思わず部屋で叫んだ話

 はっきりといつの頃からかは覚えていないが、少なくとも2017年4月、つまり大学に入学して以降、俺は徐々に妙な衝動に駆られるようになっていった。何でもいいから、心地好い「ものと数の組み合わせ」を見つけなければという不安感に、突然苛まれるのだ。たとえば、本棚に並べてある横溝正史の文庫本を数えてみる。24冊。「横溝正史の文庫本/24冊」という組み合わせは、俺にとっては心地好い。だから、すっきりして衝動は治まる。でもたとえば10月のカレンダーの「Happy Halloween」は、14文字で気持ちが悪い。何で偶数やねん、絶対奇数やろ。こんな風に不快なものと数の組み合わせを見つけてしまったり、気持ちいい組み合わせをなかなか見つけられなかったりすると、次第にイライラしてむず痒くなってくる。キツいときは、首から上がスッと冷たくなる。何とも言えない気色悪さとイライラと不安感。しっくりくる組み合わせを見つけるまで、色んなものを数えてしまう。

 今では毎日のように、この衝動に駆られる。数時間おきになる日もたまにある。こんなものを数えることに何の意味もないと理解しているし、組み合わせの心地好さに何の根拠もないことだって理解している。数えなくたって死ぬはずはない。でも、やってしまう。すっきりする組み合わせがいつまでも見つからないときには、こんな不合理な行為をしている自分にも苛立ってくる。何の意味もない行為だ。わかっている。でも、わかっちゃいるけどやめられねえlike a スーダラ節。ちなみに、植木等【ウエキヒトシ】の6音はなかなか心地好い。

 気持ちいいものと数の組み合わせを一つ見つけて、ずっとそれを覚えておけばいいじゃないか、衝動に駆られたらそれを数えればいい……という作戦も完璧ではない。衝動が軽いときは、たとえば「ウエキヒトシ」と何度も頭の中でゆっくり呟きながら音数を数え、植木等の6音っぷりを味わっていれば、不安はそのうち治まる。でも衝動が強い日は、予め知っている組み合わせでは効果が薄い。不安が和らぎはするが、強い衝動は完全には消えてくれない。「あ、これの数はこうなんや!」という、ものを数えるフレッシュな快感がないと駄目なのだ。

 しかもたとえば、「横溝正史の文庫/24冊」という組み合わせが気持ちいい日とそうでもない日がある。一度気持ちいいと感じた組み合わせが別の日には不快に感じられた、という経験は今のところ記憶にないが、この前気持ち良かった組み合わせが今日はあんましっくりけえへんな、ということは多々ある。ただし、「植木等/6音」のように、ずっと変わらず気持ちいい組み合わせもある。ものと数の組み合わせの心地好さには、それぞれ強度があるのだ。

 ちなみに、不快な組み合わせだと頭に刻まれてしまっているものも幾つかあって、それらは回避するようにしている。たとえば、ショート・ピースという一箱10本入りの煙草を吸っているのだが、残りの本数が2本か9本になるのは耐えられない。「ショッピ/2本」「ショッピ/9本」という組み合わせは気持ちが悪い。だから、残りの本数が10本のときと3本のときは、立て続けに2本吸う。

 ものと数字の組み合わせの心地好さには、消費期限がある。「植木等/6音」は最近見つけた心地好い組み合わせなので、当分の間は軽い衝動ならこれで打ち消せるはずだ。ただ、「前までなら、この程度の軽い衝動はこの組み合わせで打ち消せてたのに……」と落胆することはしょっちゅうある。お気に入りのAVを久しぶりに観たら、半勃ちはするけど、初めて観たときみたいに興奮はせえへん、という感覚に近い。

 だがそんな中でも「ほくとひちせい」の強度は素晴らしく、音の滑らかさと「七星」という意味が、文字数7と調和していて気持ちいい。文字数を数えながら「ほくとひちせい」と脳内で何度も呟くと、高確率で軽い衝動なら治まる。ただしやっぱり、思いがけない組み合わせを初めて見つけたときの方が何倍もスッキリする。

 伊坂幸太郎陽気なギャングが地球を回す』に登場する雪子という主要キャラは、コンマ一秒単位の正確な体内時計を有している。だが、学生時代に友達と音楽の話題になり、「あの曲、◯分×秒辺りがいいよねー」「え、いちいち時計観ながら曲聴いてんの?笑」というやりとりをするまで、その特殊能力を誰もが備えていると思い込んでいた。面白いエピソードだと思って記憶に残っているが、これは雪子が生まれ付き特殊能力を持っていたからそう思い込んでいた訳で、18歳になってから徐々に変な衝動に襲われるようになった俺は、きちんと「あかん、頭おかしなった」と思った。慌ててGoogle先生に尋ねると、軽度の強迫性障害ではないかと言われた。全く同じ症状は見当たらなかったが、「4や9など特定の数字に恐怖を覚える」「数や色、順番、対称性などに自分なりのルールがあって、そのことに過剰に囚われる」といった症状が典型的なものとして紹介されていたので、それらの亜種だろう。

 おいコラ、ブログのタイトルはいつになったら出てくんねん、と思ったそこのあなた、お待たせしました。今からです。昨夜、某Tubeで岡野陽一の動画を漁って笑っていた俺は、吉田豪岡野陽一が対談してるっぽい動画のサムネを見つけた。何の気なしに吉田豪の音を数えた俺は、なかなか心地ええなと感じた。「ヨシダゴウ」というややゴツゴツした響きが、5音によく合っている。本人の体格もヒョロガリではなく、どちらかと言えばガッチリ気味なのが尚良い。

 次に画数も数えてみて、激しく打ち震えた。「吉田豪!」と叫んだ。吉田豪、25画。めちゃくちゃ気持ちいい。かっちりした字面で画数が25、本人もかっちりした見た目、ゴツゴツした音の響きで5音。25と5で調和が取れているし、これはちょっと信じ難いほどの全方位的な気持ち良さだ。「吉田豪」と文字数が3で奇数なのも良い。吉田豪。ここまでの強度を誇る組み合わせを見つけたのは、過去記憶にない。どうせなら強い衝動に駆られているときに見つけたかった!とつくづく残念に思ったが、それでも嬉しい。

 経験から言って、画数は音数や文字数より強度が高い。「ほくとひちせい」は素晴らしいが、頭の中で呟く前にもう何となく7音だと分かってしまうから、やや数える快感が薄い。ところが画数はぱっと見て瞬時に画数を判断できないから、毎回指で書いて数える。たとえ画数を覚えている文字でも、毎回それなりにフレッシュな数える快感が生まれるのだ。

 吉田豪。これといった特別な感情を抱いたことはなかったが、ヒョロガリに育たなかった遺伝と環境、著名人になってくれた吉田豪本人、この名前を付けてくれた吉田豪の両親、吉田性を選んだ先祖、延いてはヒトの祖先から吉田豪まで連綿と紡がれてきた地球の歴史、それら全てに感謝したい。昨日『2001年宇宙の旅』を初めて観たので、気分がだいぶ壮大になっている。

吉田豪/25画」の強度を試したいから、初めて「早よ衝動こい!」とさえ思っている。そしてこういう日に限って、来ない。この衝動の原因が何なのか知らないが、仮に心因性のものであるなら、もしかしたら「早よ衝動こい!」と開き直って思ったことによって、衝動から解放されたのかもしれない。もし今後一切ものを数えたくなる衝動に襲われなかったら、吉田豪の著書を全部買って恩返しします。……と書いている時点で、結局本音は来て欲しくないっつーことですから、まだ当分この衝動とは付き合っていかなきゃならんのでしょうな。重症化して一日中数を数える羽目になったらキツいなあ、なんて不安が沸き起こってくることもありますが、気にせず笑顔で、平然と生きていく所存です。ワイルドだろ〜。終わり。

シティボーイズ公式YouTubeチャンネルの開設を強く願う

 東京03などに対して、「コントを超えてもはや演劇の域」といった褒め方をする人は少なくない。無論悪気はないのだろうが、この言い回しがあまり好きではない。長尺。戯画的なキャラではなく自然体の登場人物。設定がリアリティ溢れる日常、もしくは説得力を持って受け入れられる非日常。そうした要素だけで「コントを超えて、もはや演劇の域」と言ってしまうのは、コントの表現や形式の幅を、もっと言えばコントというジャンルの価値そのものを軽視しているように感じるのだ。「漫画を超えて、もはや文学の域」「テレビドラマを超えて、もはや映画の域」なども同様だ。

 上記の考えを抱くに至ったのは、シティボーイズが好きだからだ。彼らは最初の公演に『思想のない演劇よりもそそうのないコント!!』という挑戦的かつ格好良いタイトルを付けている。演劇なんかつまらないと言ってコントの道に進んだのが、シティボーイズの三人だ。シティボーイズのコントは、そして東京03バナナマンラーメンズやシソンヌやゾフィーやかが家などのコントは、たとえ演劇的な笑いの手法を取り入れていたとしても、コントを超えてもはや演劇の域に達している訳ではない。あくまでも、とても優れたコントなのだ。「もはや鮪を超えて牛肉の域に達してますねえ」と満面の笑顔で板前に向かって言えば、刺されても文句は言えまい。

 そんなシティボーイズのコントは現在、非常に由々しき事態だが、簡単に観られる状態にはない。新品で購入できるのは近作だけ(近作もオモロいですけどね)、レンタルビデオ屋は結構デカい場所でなければ置いていない、有料無料問わず、公演の配信も行っていない。直接的あるいは間接的にシティボーイズの影響を受けたコント師達が数多く活躍しているにもかかわらず、彼らを牽引してきたシティボーイズのコントを観る機会が気軽に得られないというのは、やるせない話である。ちなみに俺がシティボーイズに興味を持ったきっかけは、「ダウンタウン汁」という昔の番組を違法視聴した際、松っちゃんがゲストの大竹まことに向かって、「コントでくるっと演者が一回転して場面転換を表すのは、シティボーイズの発明ですよね。あれは凄い発明やなと思います」と述べていたからだ。

 そこで、シティボーイズの素晴らしさを知ってもらうために、俺が初めて観た彼らの公演『丈夫な足場』を取り上げてその面白さを述べていく。核心的なネタバレはしないつもりだが、いずれ真っさらな状態で観たい方は読まないように。

 既にシティボーイズのファンだよ、『丈夫な足場』も観てるよ、という方は、この先読まなくて大丈夫なので、代わりにこちらのブログをお読みください。『丈夫な足場』収録「もしかして、あなただけかもしれません」に関する痺れるような考察が記してありました。尤も2017年の記事なので、ファンの間ではとっくに知られている話かもしれません。

http://sweetbittercandypop.blogspot.com/2017/03/blog-post_17.html?m=1

 

 さて、『丈夫な足場』の一つ目の魅力は、登場人物に身体性が伴っていることだ。脚本を当て書きしているのだろうか、登場人物を演じている感が薄い。中にはトリッキーなキャラクターも登場するが、わざとらしさよりも、こんな変な人もいるかもしれないと思ってしまう説得力の方が勝つ。最近で言えば、ジェラードンの「握手会」なんかは、濃いキャラクターの割に妙なリアリティがあっていいですね。

 特に、「アヤムラのおばさん、チャーシュー泥棒を捕まえる」で斉木しげるが演じるアヤムラのおばさんは素晴らしい。ノーメイクで頭にスカーフを巻き、スカートを履いただけの斉木しげるが、見事におばさんに見えるのだ。登場時に笑いも起こっていない。コントにおける女装には、「女装姿で笑わせようとしているもの」と「コントの脚本に要請されて女装しているもの」の二パターンがあるが、「アヤムラの〜」は明らかに後者だ。だが後者の場合でも、東京03の豊本などの場合はどうしても登場時に軽く笑いが起きてしまっている。それを回避するためには、レインボー池田や空気階段かたまり、かもめんたる槙尾のようにがっつり女装メイクを施すことが有効だが、斉木しげるはスカーフとスカートと演技だけで成立させているのだから凄い。おばさんだから、というのも当然あるだろうけど。人間は歳を重ねるにつれ、外見的にも内面的にも性別の垣根が低くなっていく。

 そんなアヤムラのおばさんがコント中、煙草を落とすシーンがある。恐らく脚本にないアクシデントだが、斉木しげるはすぐさま「あら、勿体ない」と言いながら拾い上げ、コントを続ける。この「あら、勿体ない」にリアリティが詰まっている。無論、言わなくてもいい。無言で拾うのも現実にはあり得るし、なんら不自然ではない。だが、現実的な物の配置よりも画面に映る「それっぽさ」を優先した伊丹十三や、空を飛んでいる鳥に向かって「お前、飛び方が違うよ」と言い放った宮崎駿の例を出すまでもなく、リアルとリアリティは違う。「あら、勿体ない」は呟いても呟かなくてもリアルだが、アヤムラのおばさんにリアリティある奥行きを与えるためには間違いなく、「あら、勿体ない」と呟いた方がいい。同じような例として、黒川博行『桃源』の聞き込みの場面が挙げられる。「砂川」と名札を付けた従業員に対して刑事が「さがわさん?」と呼び掛け、「すながわです」と返され、「失礼しました」と謝るのだ。情景描写や人物描写にページを割かずとも、「さがわさん?」「すながわです」「失礼しました」の三行だけで登場人物達の輪郭が一気に濃くなるのだと、難読ではないが読み間違えられることが多々ある苗字の俺は、思わず唸った。

 また、『丈夫な足場』は1996年のライブだから、舞台上で平然と煙草を吸っている。煙草の先から煙が漂っているか否かは些細なことだが、やはり視覚的効果の差は歴然だ。

『丈夫な足場』の客演は中村有志いとうせいこうだが、やはりこの二人が数々の客演の中でも、シティボーイズとの呼吸という面で、頭一つ抜けている。余談だが、2007年に客演を務めたムロツヨシ、年々苦手になってきました。

 大竹まこと斉木しげる、きたろう、中村有志いとうせいこうの5名が審査員を務める裏キングオブコントを開催して欲しい。ネタは一つ、その代わり持ち時間は20分以内で。

 さて、二つ目の魅力は、メタネタの入れ込み方の絶妙さだ。俺は中学生のときにメタの巨匠・筒井康隆御大で本格的に小説を好きになったクチだから、その反動からか、メタネタや虚構の外を感じさせるアクシデントがそこまで好きではない。大好きな東京03の飯塚に対してさえ、「思わず笑っちゃうやつ、もうちょい我慢して欲しいかも」と思ってしまう。だが、シティボーイズはこの塩梅が絶妙だ。間や口調の妙なので文章にしにくいが、比較的リアリティある日常系コントの場合はさらっと、ドタバタと馬鹿馬鹿しいコントの場合はかなりがっつり演者自身を感じさせる言動をとる。コント毎に微妙にグラデーションがあり、作品を邪魔しない。ムロツヨシが苦手になってきたと先述したが、こうしたシティボーイズ的上品さ(粋さ)が彼から失われたように感じるのが、その理由かもしれない。水谷千重子宮迫博之横澤夏子、アルピー平子の瀬良社長、シソンヌじろうの「一見悪徳に見えて〜」シリーズ、園子温作品、中島哲也作品、福田雄一作品なども同様に、これ見よがしさに鼻白むから苦手だ。瀬良社長など何組かについて言えば、「あえてやっているのだ」という反論もあろうが、その「あえて」も含めてむず痒い。相棒シーズン16最終回で、加賀まりこ演じる大阪の極妻が大真面目な顔で「花のお江戸の刑事さん」と言い放つシーンがあったが、あれを観たときに覚えたむず痒さと同質だ。

 余談が長くなった。三つ目にして最大の魅力は、面白さの種類が多岐に渡っていることだ。落語のくすぐりのようにニヤニヤ笑いを誘う言葉のやり取り。声を出して笑ってしまうような、各人のキャラクターに依拠したパワーワードやアクション。笑いの手法一つとっても多様だが、単独ライブならではの構造的な面白さを備えた公演も存在するし、メッセージ性のあるコントも存在する。わざとらしくて鼻に付く構成でもなければ、メッセージを優先して作品としての質を疎かにしている訳でもない。面白いなあと楽しんでいるうちにメッセージも浸透してくるという、『寄生獣』並に優れた手付きだ。『丈夫な足場』で言えば「もしかして、あなただけかもしれません」がメッセージ性のあるコントとして顕著だが、「暗闇坂のオルガン教室」なども、当事者にとっての苦しみや恐怖の重さとそれを外から見たときの軽さとのギャップについて考えさせられる。いじめやパワハラで自殺する者は後を絶たないが、実際にいじめやパワハラを経験していない者はどうしても、「死ぬくらいなら逃げたらええのに」「死ぬくらいならぶん殴ったらええのに」という思いを完全には消せない。「暗闇坂のオルガン教室」は終始笑えるが、そんな深刻なことすら考えさせる馬力と余白がある。『思想のない演劇よりもそそうのないコント!!』を掲げていたシティボーイズのコントには、きちんと思想が練り込まれている。かまいたち山内が自身のネタとにゃんこスターを比較して(あくまでボケとしてだが)述べた言葉を借りれば、シティボーイズのコントは、「厚みが違う」のだ。

 以上。本稿を読んで、「ちょっと遠出して、デカいレンタル屋巡るか!」「高いけど中古で探すか」と重い腰を上げる人が現れてくれれば、こんなに嬉しいことはない。『丈夫な足場』を含む1992年〜2000年の公演を収録したDVD-BOX3巻セット(全て演出:三木聡の黄金期!)だけは持っているので、送料を全額負担してくれれば一年間くらいお貸しします。 

 では、本稿のタイトルに記した通り、シティボーイズ公式YouTubeチャンネルが開設されることを強く願って、筆を擱く。終わり。

「で、オチは?」

 2020年9月10日、コラムニストの小田嶋隆氏がこんなツイートをしておられた。

『大阪の会話マナーには私も適応できなかった。「お前はとっかかりからオチまで全部一人でしゃべるからダメなんや」と、豊中出身の同僚にきびしく指導されたのだが、結局身につかなかった。全員に話をふって、コールアンドレスポンスで回しながら最後にオトすとか、そんな高度な仕事は無理だった。』

『「昨日な梅田行ったんや梅田。知っとるか?」「ああ、あの赤くて酸っぱいヤツやな」「梅干しちゃうわ」みたいな、お約束のコール&レスポンスは、能力の問題を超えてテレパシーが通じてる人間同士でないと成立しないと思う。オレにはできない。一生涯無理だ。』

 小田嶋氏は一時期大阪に住んでいたそうだが、俺は上記のツイートを読んで、氏は「で、オチは?」と周囲の大阪人から時折言われただろうなと想像した。

「で、オチは?」は、他府県民がしばしば批判する大阪人の言動の一つだ。だが、「で、オチは?」には、三パターン存在する。一つ目は、仲の良い者同士の軽い戯れ。「で、オチは?」「ないよ笑」「ないんかい。時間返せ、なんの話やってん!笑」みたいなやつだ。

 二つ目は、バカリズムのコントに登場する中森くんのような、「わて、笑いの本場・大阪で生まれ育ちましてん!オモロいでっしゃろ!大阪人が二人集まれば、もうそれは漫才でっせ!そんじょそこらの東京芸人よりオモロいわ!」イズムの持ち主がマウンティングのために発するものだ。吉本興業の威を借るサブい奴である。小田嶋氏の周囲は多分、そういう人だらけだったのだろう。というのも、氏は「昨日な梅田行ったんや梅田。知っとるか?」「ああ、あの赤くて酸っぱいヤツやな」「梅干しちゃうわ」みたいなやりとりを大阪のお約束のコール&レスポンスだと思っているからだ。俺の周りの大阪人は最低でも、「あのカップル、あんなとこで何してんねんやろ」「夜景見てるんちゃう?」「ロマンチックやな。このあとホテル直行か。羨ましい」「夜景は労働者達の命の灯火やぞ。そんなもんで体、火照らすなっちゅうねん」程度の会話は即興でする。「梅田知っとるか?」「(梅田……梅……梅干し!)あの赤くて酸っぱいヤツやな」なんて面白くないかつ不自然(梅田を知らない大阪人などいないから、「梅田。知っとるか?」など大阪人相手に普通訊かない)なやりとりを大阪のお約束のコール&レスポンスだと思い込んでしまうほど、小田嶋氏の周囲の大阪人はつまらない奴ばかりだったのだろう。そうしたつまらない奴らはきっと、氏に対して「で、オチは?」と何度もドヤ顔で言ってきたに違いない。心底、同情します。

 さてところが、つまらない奴がマウントを取るために発する「で、オチは?」ではない「で、オチは?」も存在する。三つ目、「さっきから延々と独りよがりでつまらん話をした挙句、急に終わんなよ。どういうつもりやねん?」の意を込めた「で、オチは?」だ。大阪人は別に、毎回毎回話に落語のような「オチ」を期待している訳ではない。「で、オチは?」の「オチ」とは、「会話のパス」のことだ。特に小噺的オチのないバイト先での愚痴を話したあとに、「◯◯やったら、こういうとき客相手でも文句言う?」とか「だから、今めっちゃ落ち込んでんねん。◯◯はいつも気分転換に何してる?」などと言ってくれれば、「で、オチは?」などとは返さない。会話は楽しく進む。だが時折、「a scary story」の設楽みたいな口調で延々と話をした挙句、「だからまあ、いつもよりバイト疲れちゃったんだよねえ……」と言ってそれきり口を噤むタイプの奴がいる。会話はサッカーのパス回しと同じだ。パスを貰ったら、良きタイミングで誰かにパスを回せ。一人でボールを持ち続けるな。落語や芸人のエピソードトークほど面白い話なら、超絶技巧のリフティングみたいなものだから、一人でボール遊びしていても構わない。だが、ぼてぼてと蹴り続けた挙句にボールをほっぽり出し、「お前が取りに来い」とでも言わんばかりの奴には、そりゃ苛立ちもする。「ドリブルが下手なんはしゃあないからええけど、満足いくまで蹴ったならパス寄越せや!」という怒りが、「で、オチは?」には凝縮されているのだ。

 盛り上がりに欠ける話やユニークなオチのない話をしてくれても、一向に構わない。ただ、この話をあなたに伝えたい、共有したい、会話をしたいという姿勢を見せて欲しいのだ。自分の言いたいことを最初から最後まで全部一人で喋りたいだけなら、パートナーや恋人やよっぽど気の置けない親友を相手にしてください。拙いドリブルやリフティングでもニコニコ見守ってくれるような間柄の相手に。もしくは、SNS掲示板やブログに書き連ねてください。今の俺みたいにね。以上。終わり。