沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

感情と理性

 メンタリストがごちゃごちゃ言うて問題になってましたが、俺はああいう「自分が成功しているのは自分の実力だけが理由であり、ホームレスとか百パー自業自得っしょ」的な思想の人々の二元論的な雑な思考回路と想像力の欠如を受け入れられません。が、まあそれはそれとして、近年文化人や知識人、文化や芸術を愛するリベラルな民達がTwitter界隈でよく口にする「しんどいことは無理にしなくてもいいんだよ」「辛かったり苦しかったりしたら逃げてもいいんだよ」「頑張らなくてもいいんだよ」「努力しなくてもいいんだよ」「生きているだけで偉いじゃないか」というコウペンちゃん思想にも、大いに抵抗がある。コウペンちゃんは可愛いからそれでええが、我々は人間だぜ、と思うのだ。人間至上主義である。頑張れるときには頑張れよ。努力は大切やろ。辛くても苦しくても、多少無理してでも踏ん張れよ。生きているだけで偉いっちゃ偉いけど、生きているだけなら死んでいるのと同じでしょ。などと思ってしまうのだ。こういうことを言うと、やれ鬱病だのブラック企業だのいじめだのを持ち出してくる人がいるが、そういうケースは「頑張らなくていい」「逃げてもいい」じゃなくて「頑張っちゃダメ」「逃げないとダメ」なやつだから、別件ですよ。病人や障害者についても同様で、「病気だろうが障害を持ってようがガムシャラに働け!」とは思いません。ただ、各人の病気や障害の度合いに応じて、頑張れるところは頑張るべきだとは思います(一日一日生きるだけで精一杯、という重篤な病気の人はそれで素晴らしいと思います。そういう人は、生きているだけ、ではなく、その状態が「頑張って生きている」訳ですから)。

 ともかく、味噌も糞も一緒にするんじゃないよ、っつー話です。そういやこの前看護師の兄貴と喋っていて、患者の糞尿を毎日のように処理しているから、飯時に固形の味噌を見ると「うんこやんけ」と思いながら食べるという話を聞いて、強えなあと思いました。

 俺は庶民的な家に生まれ、超贅沢ではないが大学まで進学させてくれたほどには恵まれた暮らしをさせてもらったし、今も自力でそこそこ稼げている。低身長はコンプレックスだが、まあ「アル・パチーノとかブルーノ・マーズとか、チビでもバリクソかっけえすわ」と笑える程度には気にしていないし、その他にコンプレックスは何もない。恋人も友人もいる(年収、学歴、恋人、結婚、子供、友人等の有無や多寡で人間の価値が決まるとは思っていませんが)。要するに、そこそこチョロく人生を生きている。であるが故に逆説的に、全然仕事や勉強ができない人や頑張れない人などに対しても、「しゃあない、しゃあない。そりゃ、俺くらいできる奴の方がおらんって」などと自惚れた笑顔で接することができる。交通事故に遭ったから、親の介護があったから、といった理由だけでなく、単に本人が自堕落な生活をしたから、根気がなくて働けないからといった「自業自得」な理由で生活保護を受けたりホームレスになったりしている人に対しても、まあいいんじゃないっすかーと思える。そういう人を社会的に不必要だから排除すべきという思想や姿勢は、恐ろしいと感じる。

 が、それはそれとして、個人的にはそういう人をあまり好きにはなれない。頑張れない奴のためのセーフティネットはいらない、社会から排除してしまえという動きには断固として抵抗するが、頑張れない奴は個人的には好きじゃない。メンタリストの「そんなに助けてあげたいなら、自分で身銭切って寄付でもしたらいいんじゃない?国がそういう人のために、みんなの給料から毎月3万円徴収しますって言い始めたら、皆さん賛成するんですかね?」という発言に賛同する気はないが、彼の暴言を批判していた人々のうち、果たして何割の人が街中でホームレスからビッグイシューを買ったことがあるのだろうか、そもそも目を向けたことさえあるのだろうか、とは俺も思う。言っちゃあ悪いが、嘘、悪いと思っていないので言うが、ビッグイシューを売っている人の殆どは、雑誌を手に持ちながら延々と突っ立っているだけだ。それさえ、彼らからしたら大きな一歩なのだということは理解できるし、だからちょこちょこそういう人からも買ってはいるが、そういうとき俺は「買ってあげている」と思っている。たまに、大きな声で通行人に呼び掛けて宣伝している人もいて、そういう人を見るとすぐに買うようにしているし、そういうときは「買ってあげている」ではなく「売ってもらっている」と感じている。

 人生に勝ち負けなんてない、という言葉は勝者が謙遜のために使うか、学歴だの収入だの人間関係だのにコンプレックスを抱き、他者と自分を比較して絶望している人を励ますときに使うものであって、てめえの人生を頑張らない言い訳に使う言葉ではない。あるとき、元気潑剌とビッグイシューを売っているホームレスのおっちゃんから一冊買い、少し喋ったとき、おっちゃんはめちゃくちゃニコニコしていた。何度もお礼を言ってくれた。えらい綺麗事やなあ、と嘲笑されかねないことを今から言うが、俺はあのおっちゃんの人生は「勝って」いると本気で思っている。

 さて、本来はこの話題からシームレスに次の話題へと接続する構想で書き始めたのだが、生まれてこの方ガンプラを完成させたことのない俺にはつなぎ目をヤスリで削る手間が苦痛なので、不器用にこのまま次の話題へと移ります。

 少し前、男が刃物で大学生の女性を含む10名の人々を斬り付けた事件が発生した。36歳の男は、「6年ほど前から幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」と供述したそうだ。で、この事件をきっかけにネット上では、弱者男性を救済せよという声や女性差別をなくせという声が噴出し、対立し始めた。弱者男性とフェミニストはフレディとジェイソン並みの死闘をしょっちゅう繰り広げている(余談ですが、俺は『フレディvsジェイソン』が大傑作だと思っていますし、これを評価しない日本の映画人やら映画ファンやらを小馬鹿にしています。高橋ヨシキくらいっすよ、評価してるの)

 はっきり言って、俺は弱者男性の気持ちが分からない。おらは強者男性だじょー、と威張るほどマッチョではないが、運、環境、才能、努力によって比較的ずっと勝ってきたしそこそこモテてきたので、申し訳ないが弱者男性の苦しみを芯からは理解できない。そこで、良い記事を見つけた。https://note.com/mefimefiapple/n/n6b712e954db8

 長いが、この人の記事は全て一読に値する。現代日本には、女性差別が確実にある。しかし一方で、弱者男性の置かれる苦しみも相当なものなのだと納得できる。一言一句疑問・反論の余地がない、という訳ではないが、理性的に書かれた文章だ。

 この記事を読む前、俺は下記のようなツイートをした。

現代日本は「強者男性>強者女性>弱者女性>弱者男性」なので、強者女性は「(同じ強者なのに)男は優遇されている」と感じるし、弱者男性は「(同じ弱者なのに)女は優遇されている」と感じる。で、ネットで戦ってるのは大体、弱者男性と強者女性。だから議論が噛み合わない。前提、見えている世界が違う。つー仮説を立てたけど、女性でも弱者男性でもないので実際のところは知らないです。

 これは今でも全くの的外れだとは思わないが、記事を読むと、もっと根深いんすね……と考えを改めさせられた。全ての弱者男性とフェミニストが、そして俺のようにそのどちらでもない人々が、攻撃的な闘争ではなく建設的な対話によって、男性優位社会と弱者男性差別の改善を図らねばなりません。改めて、ナイナイ岡村さんの風俗嬢に対する失言について、爆笑問題・太田が長尺で語ったカーボーイ回の素晴らしさを思い出しました。太田光の口から祈りのように繰り返し放たれた「分かり合えるんじゃないか」という言葉は、この一件にも通じるはずです。

 爆笑問題といえば、この前のラフ&ミュージック、ぶっちゃけ音楽と笑いの融合っつーコンセプトは最後までよう分かりませんでしたが、なんだかんだ最高のときのフジテレビでしたね。ナイナイ&中居は画面に映っているだけでめちゃめちゃ楽しく、松っちゃんは相変わらず最強に面白く、爆笑問題は超絶格好良かった。去年、ダウンタウン司会のTBS特番「お笑いの日」の中で松っちゃんが口にした「『笑いの日』を何カ月か前にスタッフがお願いしに来たじゃない? そのときに(ネタ)やらんでええのかなって思った。全然言ってけえへんから、やらんでええんかって。なんで言ってけえへんのかなってずっと思っていた」という発言を俺は忘れていない。しっかりと作り込まれた作品としての漫才は、それこそもう爆笑問題に勝つのは無理なので、ダウンタウンにはコントをして欲しい。ビジュアルバムやごっつええ感じとガキ使を信奉する者としては、コントとフリートークこそダウンタウンの真髄だと思っているからだ。

 最終的に何の話やねん、という感じですが、まあいつものことですわ。ほな、ONE PIECE100巻買いにコンビニ行ってくるんで、この辺で!終わり。

シャマラン監督『OLD』あっさり感想(ネタバレ有り)

 タイトル通り、シャマラン監督の『OLD』を観たので、その感想をば。ツイートするにはネタバレがあるし、かと言って、よく見かけるフセッターってやつの使い方を知らないので、ブログで。

 トリッキーな設定の超常現象モノを観ると我々ワガママな観客は、「この超常現象が起こる理由とは?」という部分もきちんと合理的に、必然性があって主人公達に降りかかった超常現象だと説明されることを望む。これにちゃんと応えたのが『GANTZ』であり、ガン無視したのが『僕だけがいない街』だ。「なぜ死んだ者がアパートの一室に転送されて、異星人達との殺し合いを強いられるのか」という読者の疑問に、GANTZはきちんと筋の通った理由を用意していた。一方、『僕だけがいない街』は、「タイムリープ現象はこの作品世界の中では存在する現象なんです!もうそれは何故?とか原理は?とか理由は?とかいう疑問を持つモノじゃなく、あるものはあるんです!たまたまそれに遭遇した人物の人生を描いているだけです。タイムリープ発生のタイミングがご都合主義過ぎる?ええい、やかましい!」といった塩梅だった。

 もちろん、説明の筋は通っているけど内容がつまんねーな、という作品はいくらでもある。逆に、超常現象の理由とかは考えずに「あるものはある」と受け入れちゃえば面白え〜、という作品もいくらでもある。ホラー映画にいちいち「死後に幽霊として出現する場合としない場合の違いは?どういう法則性があるんだよ、説明しろ!」なんてツッコミは野暮だ。

 で、シャマラン監督の『OLD』である。「バカンスに訪れたビーチの時間の流れが超絶速い」なんて設定は、そりゃ「何故そこだけそんな現象が起こるの?」「主人公達はたまたま訪れたの?それとも選ばれたの?たまたまだったらつまんないよね、選ばれたんだよね?それもきっと、面白い理由で選ばれたんだよね⁉︎」という観客のパワハラめいた疑問と期待が殺到すること必至である。ただ、「時間の流れが異常に速い」なんてのは、「そこだけ地球の磁場が〜」とか「特殊な気候で〜」とか、そういう「あるものはある」系の説明以外を作るのは難しい。そして、それでは我々観客は納得しない。「神が来るべき人類滅亡に備えてノアの箱舟を作り、新世界に連れて行くに値する人間を選抜するために過酷な試練を与えたのだ」みたいな理由でもイケるが、「ああ、そうっすか……笑」感は否めない。

 そこでシャマラン監督は、主人公達がビーチに閉じ込められて早々に、何者かが遠くからビーチの様子を監視していると明示することで、「時間の流れが超絶速い現象自体は、特殊な環境によって存在するもの。あるものはあるのです!ただし、主人公達がこの地を訪れたのは偶然ではなく何者かの意思が働いており、その理由は面白いですよ」というエクスキューズをさりげなくしている。このバランス感覚は、流石に巧いなあと上から目線に感心しました。難しい問いをさりげなく躱して、簡単かつ刺激的な答えを返す論点ずらしのプロ、ひろゆき氏に匹敵しますなあ、という感想は、シャマラン監督に失礼か。

 以上です。あんまり評判良くないらしいですが、最高傑作の『アンブレイカブル』あるいは『ミスター・ガラス』には及ばないものの、映画館で観る価値ありの一作でしたよ。

 あと、シャマラン監督、カメオ出演の範囲を超えてんじゃん、出たがりやなあ、小林賢太郎かよ、とも思いました。終わり。

非自粛宣言

 俺が住む大阪府に、4回目の緊急事態宣言が発出された。何回目だよ、もう緊急感全然ねえよ……などという声がネット上に溢れているが、大仁田厚の引退宣言回数は7回だ。上には上がいる。

 そして、緊急事態宣言が発出された今、俺はここに、非自粛宣言を発出する。そもそもなんやねん、発出って。いやまあ別に、発出という単語自体は新語・造語ではないらしいけどさ、それまで殆ど誰も使ってなかったのに、ある日「緊急事態宣言」の出現と共に何の注釈もなくメディアが「発出」と使い出し、なんとなく我々国民も字面と文脈から意味を推測してそれを受け入れたっつーことに、妙な気持ち悪さを覚える。

 閑話休題。非自粛宣言とは何か、だが、読んで字の如く、俺は自粛をしませんという宣言だ。ただ強調したいのは、反自粛宣言ではないということだ。一時期ヨドバシ梅田の下に集っていた、そして今は全員死んだのか知らんがめっきり姿を現さなくなった「コロナはでっち上げ」論者達のように、「自粛するなど愚か! 自粛するな! 貴様らも目覚めよ!」と声高に叫び、自粛しないことを尊ぶつもりはない。医療体制の逼迫・崩壊はヤバいらしいし、コロナに感染すると場合によっては結構ヤバいんでしょう。一人一人が外出自粛をして感染を広めないことが、市民の務めだという意見にも頷ける。

 が、俺は外出を自粛しない。先日は従姉妹と叔母と祖母と4人で飯を食ったし、恋人とUSJでデートもしたし、一人で映画館や喫茶店やパチンコ屋にも行っているし、来週は久しぶりに会う友達と県を跨いで酒を飲む。友達が少ないため田中圭みたいに大勢で集う予定は今のところないが、もし俺が田中圭の立場だったらやはり、誕生日パーティーを存分に楽しんだだろう。

 俺の人生は、俺の人生だ。俺には俺の人生を楽しく生きる権利があり、いつまで続くとも知れぬ外出自粛とやらにずるずる従った結果として数年後や数十年後に一生の後悔を背負う羽目になったとしても、責任を取ってくれる者はいない。無邪気で生意気なクソガキ生活を奪われた小学生も、繊細で多感で凶暴でやかましい集団でのはしゃぎを奪われた中学生も、甘酸っぱい青春を奪われた高校生も、最後のほろ苦いモラトリアム期間を封じ込まれた大学生も、その傷を癒されたり補償されたりすることはこの先決してない。それを忘れさせ、帳消しにしてくれるような幸福はきっと訪れるだろうが、コロナ禍で我慢した不要不急の活動のかけがえのなさ自体を取り返すことはできない。数年後や数十年後に、東京オリンピックの開会式の酷さやその原因が語られることはあるかもしれない。森喜朗電通のジジイは改めて批判されるかもしれない。当時の、つまり現在の政治や行政の無能や失策も非難の的に晒されるかもしれない。和牛商品券って正気か、マスク2枚ばら撒きってイカれてんな、通勤電車を減便ってなんで役人は誰も止めなかったんだよ、などと半笑いで語られるかもしれない。そして、「当時の若者、可哀想やなあ」と同情されるかもしれない。だが誰も、奪われた若者の暮らしの豊かさを復元はしてくれない。「第二次世界大戦の犠牲になった当時の日本人可哀想やなあ、でもまあ、政府や軍人だけが暴走したんじゃなくて、当時のメディアが戦意高揚を煽り、国民もそれにライドオンしてたっつー側面はあるんよねえ」と2021年を生きる我々が感じるのと同じように、「コロナ禍の政府は無能やったけど、そいつらにずっと政権を握らせてたのは当時のメディアであり国民やっつーのもまた事実やからなあ」と複雑な感情を抱かれるのだろう。あるいは、そんな批評をされないほど日本が劣化し、退化しているかもしれない。いずれにせよ、未来の誰も俺達の現在を取り戻してはくれない。

 俺は自粛をしない。それによってコロナに感染し、重篤な症状に見舞われたならば、無様に泣き、後悔し、ジタバタしながら生きていく。俺が自粛をしなかったせいで俺と接触をしていた大切な誰かが感染し、彼らや彼女らが重篤な症状に見舞われたならば、心苦しさや申し訳なさを感じ、でも俺と会ってたっつーことはお前らも自粛してなかったやんけと開き直り、でもやっぱ悪いなあと思い、そして引き続き生きていく。あるいは、俺も彼らもコロナで死ぬ。

 俺は自粛をしない。外出時には感染対策をしているが、飛沫の及ぶ範囲に人がいないときや、映画館の上映中のように声を発しない状況では、マスクを外している。俺が外出自粛をしなかったせいで感染し、重篤な症状に見舞われたり死んだりする人が、検証の仕様はないが、いるかもしれない。

 だが、どうでもいい。コロナ禍と外出自粛で若者が可哀想、と言う人が誰も若者一人一人の人生と向き合ってコロナ禍による喪失を埋める手助けをしてくれないように、俺もコロナ感染者が可哀想だとは思うが、もしかしたら俺が感染させた人もいるのかな、悪いな、などとは考えない。別に、「もっと俺達若者を哀れめ!」とか「若者ばっかり悪者扱いして、お前ら上の世代がそんな態度だから出歩くんだぞ、プンプン!」とか言いたいのではない。俺の人生は俺の人生で、あなたの人生はあなたの人生だ。互いに代わることはできないし、埋め合うこともできない。俺は好きなようにするから、あなたもどうぞ好きなようにしてください。自粛しない若者を非難する権利は当然あなたにあり、そのことを咎めるつもりはありません。俺は自粛をしない。あなたは自粛しない若者を責める。それを続けましょう。緊急事態宣言が明けるまで。コロナ禍が明けるまで。俺かあなたが死ぬまで。

 アイラウイスキーの巨人・ラガヴーリンを飲みながらこの記事を書いているが、別に酔ってはいない。なんとなく戯画的な口調になってきたのは、最近『忍者と極道』を一気読みして超面白かったからだ。幸か不幸か、酒で殆ど酔わない。ぽわーっとはするが、酩酊はできない。ぽわーっとするためだけならマリファナでもトルエンでも構わないが、酒を飲んでいるのは、旨いからだ。おいら、という一人称がサマになっていないでお馴染みのひろゆきは、「お酒って酔うために飲むんですよ。美味しいお酒を飲みたいとか、基本的にみんな嘘つきだと思ってます」と言っていたが、一生そう思っておけばいい。

 ラガヴーリンをストレートで飲んでいると喉が渇いてきたので、チェイサーを取りに台所に向かった。チェイサーは、アサヒスーパードライだ。ウイスキーのチェイサーにビールを飲むのは外国では割とポピュラーらしいが、日本でそれをしているのは余程の酒好きか、酒好きをアピールしたい奴か、俺のように『犬の力』を読んで「チェイサーにビール!イカしとんがな」と思ったかのどれかだ。

 スーパードライを飲み、どうやって本稿を終わらせようか考えていると、大学生の恋人からLINEが来た。7月中旬に大学で受けられるはずだったワクチンが厚生労働省による職域接種の確認作業の遅れのために8月中旬に延期になったが、もう8月だというのに何の連絡もない。絶対9月にもつれ込むだろう、とのことだ。

 返信を考えながら、暇潰しにテレビをつけた。河野太郎が若者のワクチン接種率向上を目指して、YOSHIKIと対談したらしい。若者の感染者数が増えているらしい。若者が街に出歩いているらしい。若者はワクチンを拒絶しているらしい。

「コロナの怖さ どうして若者に届かないのか」

 テロップが出た。若者に届かないのはコロナの怖さではなく、ワクチンの接種券やろ。

 大して気の利いていないツッコミを入れつつ、LINEに返信をした。

「ワクチンが間に合おうが間に合うまいが、10月ディズニーランド行こうぜー。ハロウィンやし」

 コロナ禍はどうせ、いつかは明ける。もしくは、明けたというフリをみんながする。それまで、俺は自粛をしない。何故なら、「自粛」するか否かの決定権は、俺にあるからだ。終わり。

小山田圭吾のこと(ウソ、ほぼ俺のこと)

 小山田圭吾が過去に凄絶ないじめを行なっていたと雑誌のインタビューでへらへら語っていた噂を知ったのは、もう随分と前のことだ。それ以来、小山田圭吾の手掛ける音楽を聴くときは意識的に、とっくの昔に死んだジャズ・ミュージシャンの曲を聴くときのような気分に切り替えてきた。

 小山田圭吾を糾弾してこなかったファンにも責任がある、と言われればその通りだが、好きな著名人全員の脛の傷を批判して謝罪や反省を求めるなんて、自分の人生を生きている人間にとっては時間も根気も足りない。そもそも、どこまで尾鰭が付いているのかも分からないし、それを調べるだけの気力もない。

 なんてのはまあ言い訳で、要はどうでもよかっただけだ。小山田圭吾の音楽は金と時間を費やして聴く程度には好きだが、熱心な追っかけ、一番好きなミュージシャンという程ではない。この人の人間性を変えたい!と思うほどの熱はない。素敵な音楽を奏でてくれるから、有り難くそれを聴かせてもらいやす。昔エグいことしてたっつーけど、まあ俺が小山田圭吾と知り合って友達になることは多分ないからええわ……という訳だ。

 この考え方が「ファンとしての責任がある」と言われれば反論はできないが、だったらあなた方は世に蔓延る理不尽で酷いことを可能な限り殲滅すべく行動しているのか、とは問いたい。ハッシュタグデモに参加しているだけで、自分は全身全霊をかけて闘っているのだと自負されては困る。ハッシュタグデモなんて何の意味も効果もない、と冷笑する気はないが。

 で、今回の小山田圭吾をオリパラ開会式に起用した件だが、「そりゃ悪手だろ 蟻んコ」とネテロ会長に見下されるやつだ。小山田圭吾の過去の暴行事件は、ネット上では何年も前から話題に上がっていた。小山田圭吾がメジャーなミュージシャンではないから(米津玄師とかと較べれば、という意味です)、小山田陣営が沈黙を貫いてきたから、我々ファンが見て見ぬ振りをしてきたから、この問題が炎上することはなかったが、少なくはない人々が東京オリンピックパラリンピックに反対している現状で小山田圭吾を開会式に起用すれば、燃え上がることは容易に想像がついたはずだ。

 件のインタビュー当時、ああいう露悪的なもの、鬼畜的なものを面白がる風潮が一部にあった……のかどうかは、1999年生まれの俺には分からない。小山田圭吾がつい話を盛ってしまった部分がどの程度あるのか、インタビュアーがどの程度誇張して記事にしたのかも知らない。ただ事実として、あの記事が世に出回り、それを長年否定したり反省を示したりしてこなかった訳だから、そんな奴を平和の祭典たるオリンピック・パラリンピックの開会式に起用してはいけないだろう、という論理は頷ける。辞任もやむなしだろう。

 ただ、小山田圭吾を熱心にネットで叩いているあなたに一つだけ言いたいのは、「小山田を叩くの、結構楽しんでますよね? それだけは自覚しておいてくださいよ」ということだ。小山田を叩く「楽しさ」は運動して汗を流す楽しさや酒を飲んで馬鹿話をする楽しさとは違って、陰性でじめっとしていてドロドロとした楽しさだろうが、それでも楽しんではいるはずだ。

 そう断言する根拠は、中学時代の経験にある。当時、クラスにKという男子がいた。ヤンキーぶっていて、クラスメイトの大半に煙たがられていた。しかも、同じヤンチャ系グループの男子からも「最近あいつイキって態度デカいけど、中学入ってからやろ、あいつがヤンキーになったの。筋金入りちゃう。成り上がりヤンキー、ナリヤンや」と疎まれ始めていた。大阪のクソ田舎でろくに殴り合いの喧嘩をしたこともない中坊たちが「本物だ」「ナリヤンだ」とマウントを取り合うのは、今思えば馬鹿馬鹿しくて微笑ましいが、当時の俺らにとってヤンキーグループはやっぱりそこそこ権力者達だった。

 で、ある日俺がそこそこデカい声で何かくだらないことを言い、教室が微妙な空気になったとき、Kがデカい声で言い放った。

「うわー、〇〇めっちゃスベってるやん!」

 女子達がクスクスと笑った。男連中も笑っていただろうが、思春期真っ只中の童貞中坊、女子の視線しか気にならなかった。バイセクシュアルを自覚するのは、もう少し先の話だ。俺は屈辱に燃えた。当時の俺は「オモロい奴」ということで、ムードメーカー的ポジションだった。ヤンキー君たちみたいに権力はなかったが、そこそこ権威はあった。それを一回スベったからって、鬼の首を取ったように騒ぎ立てて恥をかかせやがって。この朕に! Kのようなナリヤンの小童が! つー訳だ。Kはしつこく騒ぎ、教室も次第に白けていった。俺は心の中で「死ね」と毒づいた。

 以来、なぜかKはことあるごとに、俺をdisったり鬱陶しい絡みをしてくるようになった。教室で孤立し始めていた彼なりに、どうにかクラスメイト達と繋がろうとしていたのだろうか……なんてことを考えるはずもなく、俺はただただイラついた。「今度なんか言うてきたら、あいつに文句言うわ」と友達が言ってくれたり、優しい女子から「先生に言った方が良くない?私が言おか?」と尋ねられたりすると、余計腹が立った。いじめは数や空気やノリが支配するものだとは知らず、いじめられっ子は弱くてダサい奴だと思っていたからだ。親や教師に泣きついたり、クラスメイト達に助けられたりなんてダサい。俺はいじめられっ子じゃない。だから、「いやいや、あんなんただのイジリやろ。俺もようやるし、全然気にしてへんで」と虚勢を張り続けた。チビで童顔のくせに、マッチョイズムに満ちていた。

 ある日の休み時間、男女何人かで喋っているとき、Kの悪ぶっているけどサマになっていない言動をネタにしてみた。大いに盛り上がった。次の日も次の日も、俺はKを笑い話のネタにした。話を聞きにくる奴の数は増え、俺の知らないKの話を提供する奴もちらほら現れた。ヤンキー君たちが顔を出すこともあった。

 Kは居場所がないせいか、休み時間に殆ど教室にいることがなかったから、思う存分Kの悪口で盛り上がることができた。だがある日、どういう訳かKが休み時間になっても教室から出ていかなかった。もしかしたら、自分のいない間にクラスで悪口大会が開かれていると噂で聞き、それを確かめようと、あるいは阻止しようとしたのかもしれない。

 ともかく、本人がいるならできへんなあと思っていると、Nという男子が「今日はいつものやつせえへんの?」とデカい声で言ってきた。いや、本人がおる前でできへんやろ、と思ってから、俺はコペルニクス的転回を得た。「Kは他の奴の前で俺のこと揶揄ってくんねんから、別にえっか」と思ったのだ。十人ほどで輪になり、俺達は話し始めた。Kの名前は出さなかったが、しばらく耳を傾けていれば、自分がネタにされていると容易に分かる内容だ。俺達はチラチラKを見ながら悪口に興じ、笑い、いつの間にかKの存在を忘れてフツーに盛り上がり、気付けばKは教室から消えていた。罪悪感めいた胸の痛みが襲ってきたが、「先に理不尽に絡んできたんはあいつやからな。俺はやり返しただけや」と自らを正当化した。

 翌日から、Kがイキった言動をするたび、俺達は「うわ〜、ネタにして盛り上がってる言動そのまんまやなあ」とクスクス笑った。それまでと違って、Kを小馬鹿にしていることを誰も本人に対して隠そうとしなくなった。休み時間には、それまではKの言動を揶揄する話で盛り上がっていたが、次第に「過去にKにされた嫌だったこと」を発表するようになっていった。「ショートカットにしていったら、いきなり『似合ってへんなあ』って言われた」「体育のバスケで、『役立たず』って言われた」云々、Kから理不尽に受けた被害を報告し合い、Kは最低な奴だと確かめ合った。そうすることで、自分達がこれまで、そしてこれからもKの悪口を言い、小馬鹿にすることは、いじめではなく正当な報復なのだと思い込もうとした。誰も、明確に言葉にはしなかったが。

 ある日、Kは学校を休んだ。翌日も、その翌日も来なかった。俺達は休み時間にKの悪口を言って盛り上がるのを自然とやめたが、「俺らのせいで休んでんのかな」などと話し合ったりもしなかった。誰もが素知らぬ顔で、何気ない会話を繰り広げていた。

 Kが学校に来なくなって一週間以上経ったある日の放課後、先生が言った。

「Kに嫌がらせとかいじめをした覚えのある人はおらんかな」

 先生は一人一人、名指しで尋ねていった。俺達は平然とした顔で、小首を傾げた。綺麗な顔をしたとある女子は、「前にK君にこんなことをされて嫌やったっていう話をみんなでしたことはありますけど、悪口とかは言ってないです」と毅然とした態度で言った。「Kのあの舌を鳴らすクセ、ホンマきしょい」と笑っていた子だ。

 後方の席に座っていた俺は、内心ドキドキしていた。他のみんなのように「知らないです、いじめてません」と言えるだろうか。流石にそれは白こ過ぎひんか。格好悪いやろ。そうや、「確かに俺はKの悪口をめっちゃ言いました。でもそれは、元はと言えばあいつが俺に絡んできたからです。やり返しただけです」って言うたろ。だってそれ、ホンマやもん。俺はKが絡んできたからやり返しただけで、Kが何もしてこんかったら、俺も何もしてへんし。え、ホンマかな。いやぶっちゃけ、最初の数回だけやろ、Kへの憎悪で悪口を言ってたのは。残りはずっと、楽しかったからや。あいつの悪口でみんなが盛り上がって笑ってくれるのが、嬉しかったからや。あいつを寄ってたかって悪く言うてると、安心したからや。最悪やな、それ。俺の根性、大っ嫌いなKとほぼ同じやん。

 などと考えている間に、先生は一人一人に尋ねるのをやめてしまった。俺の番は回って来なかった。先生は「そうか……。じゃあまた、Kが学校に来たら、普通に迎えたってあげてな」と言った。俺達は「はあい」と口々に返事をした。

 未だに、あの先生が何を思っていたのかは分からない。いじめがあったと悟った上で諦めたのか、それともやや問題児だったKが少し自分のことを悪く言われただけで大袈裟に傷付いただけなんやなと解釈したのか。

 いずれにせよ、先生がそれ以上この問題を追及することはなかった。数日後、Kは登校してきた。俺達は誰も「おはよう」と言わなかったが、それ以来誰もKの悪口を言わなかったし、一時期Kの悪口で盛り上がってたなあと述懐することもなかった。俺達はしれっと卒業の日を迎えた。

 小山田圭吾を批判するなとは思わない。噂が事実なら、小山田圭吾が可哀想だとも思わない。ただ、小山田圭吾を大勢で吊し上げるとき、自分を突き動かしているのは「いじめは許せない」という正義感だけではないと自覚はしておくべきだと思うのだ。

 Kの悪口で盛り上がっていた当時の俺は、クラスメイト達にいきなり嫌なことを言うKと相似形だし、障害を持った同級生を暴行する小山田圭吾と相似形だし、小山田圭吾を攻撃的に吊し上げている人々と相似形だ。大小はあれど、形は同じだ。と、思うのですよ。

 俺は今でも、あのときKの悪口をみんなで言い合ったことを後悔している。「うっさいんじゃ、ボケ。いちいちしょうもないことで絡んでくんな、キモいねん。殺すぞ」と、俺一人で正面切ってKにキレればよかったのだ。

 以上。しっかりとした結論やオチはない。小林賢太郎解任の件はまた、気が向いたら書きます。開会式はまだ見ていませんが、録画しているので、休日に観ます。ガンバレ、ニッポン!終わり。

I love myself

 夜中の1時に仕事を終え(ブラック企業じゃねえっすよ、シフト制のサービス業なんで)、帰宅して飯を食った。翌日、日付変わって今日は休みだから、プレミアム・モルツを飲んで録画していたバラエティ番組でも観ながらソファで寝落ちしようかと思ったが、帰宅するなりお茶を飲んでしまったため、そこまで喉が渇いていない。その状態でプレモルを飲むのはもったいない。おまけに、眠気もない。少し悩んだ末、風呂に入り、家を出てバイクにまたがった。真夜中。大阪・梅田に向かって走り出した。「山本珈琲館 梅田YC」という朝5時30分からやっている喫煙可の喫茶店があるから、そこでダラダラと過ごしてから梅田で遊ぼうという計画だ。

 ORIGINAL LOVEの「夜をぶっとばせ」を聴きながら、殆ど車の走っていない道路をひた走る。「きみを愛してるのに 訳もなく 気分はどこかブルー 幸福な夏の午後なのに なにもかもひどくブルー」「きみのせいじゃないさ 訳もなく 気分はいつもブルー」「いますぐスピードを上げるから キスしておくれ」「悲しみをぶっとばせ」といった歌詞の数々に、これまで何度も救われてきた。大した理由もないのに鬱屈とし、死にたいとさえ感じてしまう自分を肯定されているような気がするし、生きる希望さえ与えてくれる。

 気分が高揚してきたところで曲が終わり、シャッフル再生で流れてきた二曲目は、七尾旅人「サーカスナイト」だった。YouTubeの公式MVに寄せられていた「この曲聴くたびに具体的にいつだったかは覚えてないけどすごく素敵だった夜のことを思い出して胸が苦しくなる」というコメントは秀逸だ。読点を打てよ、とは思うが。

「夜をぶっとばせ」のお陰で上がっていたバイクのスピードは一気に落ち、ゆったりとした速度で道路を走った。素敵だった様々な夜を思い出し、そうした夜を共に過ごしながらももう二度と会えない、あるいは会わないだろう何人かのことを思い出し、もっとああすればよかったと後悔し、小学生くらいから人生丸ごとやり直したいとさえ感じてしまって胸が苦しくなりながらも、何キロにもわたって一度も赤信号に引っ掛からないことが妙に可笑しく感じられてつい笑った。

 三曲目に流れてきたのはビル・エヴァンス「ワルツ・フォー・デビィ」だ。この世で最も美しい曲だ。俺は正しさや善悪よりも、美しく生きたいと願っているが、その美しさの基準とは要するに、この曲を聴く資格がある人間でありたいということだ。

 心が浄化されたところで、続いて四曲目に流れてきたのは、JITTERIN'JINN「夏祭り」だ。元カノと夏祭り行ったなあ、って俺は新海誠か、クソキショい、てか、今年も去年に引き続き夏祭りは開催されへんねやろなあ、オリンピックはすんのに、いやまあ、俺は既に「オリンピックやれ、やれ、どうなるか見たい、成功しても失敗してもオモロそうや」っつー偽筒井康隆モードに突入してるから、オリンピック賛成派ですけどね、そういえば昔、クイズ☆タレント名鑑の「カラオケ歌われるまで帰れません」というコーナーで「夏祭り」を自身の代表曲だと誇らしげに語る元Whiteberry前田に対して、有吉がワイプで「お前の曲じゃねえだろ」と呟いていて笑うたなあ……などと考えているうちに、曲は花火のように一瞬で終わった。捻りのない陳腐な比喩。

 そして五曲目は、PUNPEE「夢追人 feat.KREVA」だ。日本トップクラスのトラックメイカーにしてラッパーの2人が手を組んだ名曲で、「得も言われぬ気持ちはエモいじゃない」というパンチラインが素晴らしい。俺も「エモい」という言葉は好きじゃない。俺の彼女は俺以上に「エモい」という言葉を嫌っているが、その割にTikTokのあまりオモロない動画を見せてきたりもするので、「この手の動画を面白がる奴は『エモい』っつー言葉も好きじゃないとおかしいやろ」と内心思うが、まあ可愛いので構わない。

 エモい、という言葉の何が気に食わないかと言えば、そりゃもうなんとなく鼻につくから、というのが本音だが、あえて理屈を付けるならば、語義が漠然とし過ぎているからだ。

 修辞学者の香西秀信は、著書の中で次のように指摘している。曰く、「もしわれわれが豊富な語彙のストックをもたなければ、われわれは豊富な思考をもつこともできない。これを確かめたければ、試みに、不慣れな外国語で誰かと会話してみるといい。考えたことを言葉にしようと四苦八苦しているうちに、いつしか言葉にできることを考えるようになってしまった自分自身に気づくだろう。言葉が思考に限定をかけてしまうのである。これは外国語の例だが、母国語においても本質的な事情は同じである。そしてこれは思考だけに限ったことではない。例えば、自分の不快な感情を表現するのに「むかつく」という言葉しか持っていない子供は、複雑な感情を単純な言葉でしか表現できないのではない。「むかつく」という感情しかもてないのである。複雑で微妙な表現のできない人間に、複雑で微妙な思考も感情もありはしない。」

 名文だ。人間は厳密な定義のなされた豊富な語彙を用いるからこそ緻密な思考ができる訳で、曖昧な語彙しか持たなければ漠然とした思考しかできないのだ。極端な話、「切ない」も「悲しい」も「寂しい」も「苦しい」も「辛い」も知らず、プラスではない感情全てを「よくない」という言葉で表現する人がいたとすれば、そいつは愛する人が死のうが失恋しようが沈む夕陽を見ようがいじめられようが友人と喧嘩しようが、常に「よくない」としか口にせず、「よい」or「よくない」としか思考できない訳である。つまり、プラスとマイナスの二方向しか感情の機微がない、半分ロボットみたいな奴だ。

 エモい、に話を戻すと、作品の感想や自分の体験に対する感情に「エモい」という言葉を使うのは、何も言っていないに等しい、延いては何も感じていないに等しい、と言えるのだ……と、一応理屈を付けてみましたとさ。

 感情、という摑みどころのないもの、摑み得ないものをどうにかして摑もうとする営みが「表現」であって、まあ日常会話で「エモ〜い」と言っている人や「この曲エモい」とツイートしたりYouTubeにコメントしたりしている人を敵視も蔑視も軽視もしないし、可愛い女の子が「エモい」と口にしていたら「可愛い!」と思う程度には俺もアホだが、それなりの文量を割いたブログや作品レビューなんかで何の留保もなく「エモい」と綴っている人を見ると、「エモい、を解体するのが文章を書くということちゃうの?」と疑問に思ってしまう。

 と、以上のようなことを思考しているうちに五曲目は終わり、六曲目に流れてきたのはSTUTS「Rock The Bells feat. KMC」だった。大豆田とわ子のED曲を手掛けたトラックメイカー・STUTSのデビュー・アルバム『Pushin'』の掉尾を飾るこの曲は、STUTSの曲の中で一番好きであるばかりか、日本のヒップホップミュージックの中でもトップクラスに好きな一曲だ。ラップが上手くて声がデカいから、KMCは大好きだ。

「絶望感がメルトダウンする現代」という鋭いリリックに頭を、そして一曲を通して示される熱いHIPHOP愛に胸を撃ち抜かれる。

「Heads up 上を向けよ その先にはただ青い空が広がってるだけ どんなに高く声を飛ばしても そこにはただ風が吹いてくだけ 雲は落っこちてこない 神様だっていないし 天国もありゃしない 生まれたことに何の意味があるの 答えなんて何も教えちゃくれない だけど今も同じ空の下の 世界中ありとあらゆる街で ペンとマイクに想いを託して 同じ夢を見ている奴らがいる」という歌詞に合わせて夜が明け、大阪の空も濃紺から青へと変わった。俺はバイクから降り、エレベーターで地下の駐輪場へと向かった。

 余談だが、バイクに乗り始めてから、バイクを停められる駐車場の少なさを思い知らされた。そりゃ違法な路上駐車も減らへんわ、喫煙者と単車乗りに都会はもっと優しくなってくれ、あともっとベンチとゴミ箱を増やしてくれ、などと思いつつ、以前運良く見つけた数少ない格安駐輪場にバイクを停め、シートの下の収納スペースにヘルメットを仕舞った。エレベーターに乗り込み、地上へと向かうためにボタンを押した瞬間、六曲目が終わり、七曲目が流れ始めた。ケンドリック・ラマー「i」だ。

 「i」は彼の楽曲の中で一、二を争うほど好きな曲だ。アルバム『To Pimp A Butterfly』の終盤に位置するこの曲は、途轍もない自己肯定感に満ちている。アルバムは前半、中盤で散々自己嫌悪に陥った曲が続いたあとで色々あって徐々に精神が回復していき、「i」で完全に復活を遂げる。だから「i」だけ聴くよりもアルバム全体を通して聴いた方が「絶望からの希望」「どん底からの再生」といったストーリーやメッセージは伝わってくるが、まあ「i」自体がそれ単体で聴いても超名曲だし、かれこれ六年以上何百回とアルバム通して聴いてきたので、俺はもう「i」を聴くだけで「i」一曲に込められた以上のパワーを受信することができるようになった。これを世間では、思い込み、あるいは妄想と呼ぶ。

「i」のフックでケンドリック・ラマーは自分に言い聞かせるように明るく、曲のリスナーに訴えかけるように力強く、そして祈りのように優しく連呼する。I love myself.と。

 強烈で歪んだ自己愛や肥大化した希死念慮、そして意味もなく得体の知れない虚無感を抱えている俺が、自分のことを純粋に好きだと思える瞬間は、恋人に愛を囁かれたときと、この曲を聴いているときだけだ。I love myself. 

 エレベーターが開き、地上に出た。僅か数分で、大阪の空は先ほどまでとは較べものにならないほど青々と輝いていた。すっかり朝だった。太陽は「エモい」などという曖昧模糊とした感情が沸き起こる余地さえないほどの、あっけらかんとした清々しい眩しさだった。良い一日が始まる予感がした。終わり。

格好良いコント10選

 俺の好きなコントベスト10を書こうと思いましたが、流石に絞り切れなかったので、かっけー!と思ったコント、俺の美的感覚で言えばお洒落なコントを10本選びました。順不同です。

 

1.天竺鼠「将棋」

 中2のとき、オールザッツ漫才2012で観て衝撃を受けた。頭に将棋の飛車の駒の被り物を着け、縦方向に進みながら出てくるタキシード姿の瀬下。頭に角行の駒の被り物を着け、斜めに進みながら出てくるウェディングドレス姿の川原。カタコト神父の「健ヤカナルトキモ、助ケ合イ、イツマデモ愛シ合ウコトヲ誓イマスカ」という問い掛けに、瀬下は「ひしゃ、ひしゃ」と答えるが、川原は「……はい」としおらしく答える。この辺のいかにも川原っぽいボケも、くすぐりとして効いている。

 そして、Bruno Mars「Runaway Baby」が流れ始めると、瀬下は縦方向に、川原は斜め方向に動き出す。世界観の意味不明さと駒の動きに準じて動く律儀さに爆笑していると、サビの部分で二人は後ろを向き、「龍王」と「龍馬」に成り、一緒にボックスステップを踏み出した。この瞬間俺は、猛烈にお洒落やなと感じた。

 このコントの一番楽しい見方は、「それまでお互いバラバラの動き方をしていた飛車と角行が、龍王と龍馬に成り、苗字が同じ夫婦と成ったことで、縦横無尽に動けるようになったんやな!二人一緒なら、一人ではできないこともできるし、大きな幸せを得られるっちゅうメッセージやな! ……はあ?」だが、当時の俺はそこまでは考えず、シンプルに将棋の駒を着けた二人が超絶お洒落な曲で踊っているという意味不明さに笑い、感動した。音楽の力は強い。もちろん、このコントに「Runaway Baby」を選曲した川原のセンスも素晴らしいです。

 

2.バナナマン「secondary man 」

 バナナマンは作家としても演者としても剛腕という意味で、コント界のクリント・イーストウッドだと思っている。そんな彼らの2019年単独ライブのオープニングを飾ったコントです。

 親分を亡くした同格のマフィア二人は、どちらが次のボスになるか、敵のアジトに突撃するための作戦をどうするかなどについて、侃侃諤諤の議論を繰り広げる。濃いオレンジ色のスーツを着た設楽と鮮やかなイエローのスーツを着た日村のビジュアルは、格好良いだけでなく、妙に収まりが良い。バナナマンが売れっ子芸人として活躍していないパラレルワールド日本で、このビジュアルの二人組がアニメや映画にキャラクターとして登場すれば、瞬く間に人気が出るやろなあと想像できる。

 設楽は会話の中で上手い具合に日村を誘導し、コントは粋な小噺のようなオチを迎える。キャラクターとしての二人の関係性とバナナマンの二人の関係性がよく似ている、でも微妙に違うという絶妙な塩梅で、まさに近松門左衛門が唱えた「芸は虚実皮膜の間に漂う」という価値観を体現しています。歌舞伎も浄瑠璃も全然知らんけど。

 ベテランの堂々たる風格を見せつけつつ、コント師としての軽やかさも備えた、クールな一本です。

 

3.チョコレートプラネット「業者」

 観ましょう。https://youtu.be/UydyLvybRlU

 キング・オブ・コント2014で披露され、シソンヌに惜敗するも、爆笑問題や萩本家の欽ちゃんにも絶賛されたネタです。

 まず、設定が抜群です。映画や小説や漫画では「奇を衒っとんなあ」と鼻白んでしまうであろう、まさにコントでこそ映える発想です。多分、星新一がこの題材でショートショートを書くより、チョコプラがコントで表現した方が面白い。長田のいかにも業者っぽい演技が巧過ぎて、この前携帯会社で機種変更した際に延々とよう分からんプランの説明をされたとき、このコントを思い出しました。余韻を残さないけれどずしりと響くようなオチのセリフの言い方も格好良い。

 現代風刺的な読み解き方をしようとすればいくらでもできそうですが、抜群の題材を思い付いた発想力と、その魅力を損なうことなくコントとして拵えてみせた、チョコプラの二人の力量の高さを絶賛するに留めたいです。「コントの鍋を煮込んで煮込んできたのに、突き出しで出したモノマネとかキャラで売れちゃった」と「あちこちオードリー」で語っていましたが、チョコプラコント師としての実力、どんだけ〜。

 

4.さらば青春の光「臓器売買」

 観ましょう。https://youtu.be/x8J_eTmIa5E

 これもチョコプラの「業者」同様、コントが一番表現媒体として適している内容だと思います。世にも奇妙な物語にありそうだし、筒井康隆が書いていそう。でも多分、世にも奇妙な物語で放送されるより筒井御大が書くより、さらば青春の光がコントとして表現する方が面白いと思います。コントの特性の一つとして、嘘臭い設定でも気持ちが離れてしまわない、というのがありますよね。作家の花村萬月が「とんでもない偶然や出鱈目は現実にある。でも小説は虚構だからこそ、整合性の取れた嘘で塗り固めなければならない。じゃないと、ご都合主義だと思われてしまう」といった趣旨のことを仰ってましたが、コントや漫才は完全な虚構ではなく虚実皮膜、ざっくばらんな言い方をしてしまえば「どうせ作り物のネタやし」という俯瞰の視点がどうしても完全には拭い切れないからこそ、あり得ない設定や嘘臭い設定にもむしろ能動的に乗っかっていけるのでしょう。

 さらば森田の持つあっけらかんとした乾いた狂気が格好良い一本です。

 

5.シティボーイズ「灰色の男」

 名作公演「愚者の代弁者、西へ」に収録された一本。ゴッドタンでゾフィー上田が紹介した際、東京03飯塚が「あれは名作だよね」と言っていたのが印象的。

 幼女誘拐殺人の容疑者として送検されるも無罪判決を勝ち取ったサカキバラ(斉木しげる)を団地から追い出すべく、ニシオカ(大竹まこと)とツジ(きたろう)は家を訪れる。サカキバラを追い出せという団地の連中に反発を覚えつつも、無罪のサカキバラが無実だとは信じ切れていないニシオカ。サカキバラに悪意と敵意と好奇心の混じった視線を向ける、小市民の嫌なところを凝縮したようなツジ。東京03飯塚はこのコントのきたろうを「クズ」と評していたし、それはその通りなのだが、でもツジ(きたろう)的な要素は絶対にどんな人間にもある。だからこそ、それを包み隠さず全身で嬉々として表現するツジのクズっぷりを観て、笑ってしまうのだ。

 このコントで最も爆発的な笑いが生まれるのは、物腰の柔らかいサカキバラがほんのごく僅かな癇癪を見せた瞬間だ。ニシオカとツジは恐怖に慄いた表情をするが、観客は反射的に笑ってしまう。殺人鬼の本性が垣間見える……ってほどじゃない、誰でも起こし得るちょっとした癇癪だが、物腰の柔らかかったサカキバラがそれを見せた瞬間、つい「あ、こいつホンマは殺してるわ」と思ってしまう。一度誰かを灰色の男と見做すと、怪しい素振りや怖い素振りが見られれば「ほら、やっぱクロや」と思ってしまうし、穏やかだったらそれはそれで「逆に怪しい」と思ってしまう。人間の嫌な部分であり、しょうがない部分だ。

 笑いとは緊張の緩和、緊張が和らいだときにその落差で人は笑う……とさんまや松っちゃんがよく言っていますが、コント内のキャラクター(大竹/きたろう)にとっては緊張が高まって笑えない状況なのに、外側で観ている観客は笑ってしまう……というこのコントのような笑いの取り方の方が、俺は好みです。当事者にとっては気まずい状況や嫌な状況だけど、外側から見ていると笑ってしまう、っつーやつですね。玉田企画という演劇ユニットがこれをコンセプトにしているらしく、去年配信で視聴した「今が、オールタイムベスト」という公演もオモロかったです。

 シティボーイズ、公式YouTubeチャンネルの開設を検討してくれ!

 

6.シソンヌ「インドカレー

 観ましょう。https://youtu.be/N6fgYfBF_ik

 インド映画の愛好家として、色んなインドカレー屋によく通う者として、東北訛りの抜けきっていないじろうのインド人にはリアリティを感じないのですが、でも何故か違和感なく観られてしまうのが凄い。俺が知らないだけで、日本の何処かにはこういうインドカレー屋もあるかもな、と思えてしまう。じろうの誇張し過ぎていないカタコト感とか、レジからお釣りを取るときに小銭の音が微かに聞こえるところとか、ちょうどいいインドカレー屋っぽいBGMやレジの布とか、積み重ねられたリアリティがコントに厚みを出してるんでしょうな。

 2分以上経ってから巻き起こる爆発的な笑いを皮切りに、小気味好いテンポでお洒落なオチへと突き進む訳ですが、日常のワンシーンを切り取ったようなミニマムな雰囲気、コントの前にもその先にも各々の人生があるのだと想像させてくれる豊かさ等、とても良いです。

 ワイドナショーに出演した優勝直後のライスに対して、松っちゃんが「大丈夫か?シソンヌ感、えぐいよね」と言っていた。松っちゃんは大好きだし、シソンヌにもライスにもエールを送る意味でのボケだというのは分かっているけど、反射的に「シソンヌ最高やろ!マスが全てやと思うなよ」とイラつく程度には、シソンヌが好きです。

 

7.チョップリンティッシュ

 観ましょう。https://youtu.be/mIAXRe11VHk

 あまりにも過小評価されているコンビ。現在は、ザ・プラン9に加入しています。

 出荷予定のティッシュ箱を一度開封して、中身を「大丈夫なやつ」と「大丈夫じゃないやつ」に仕分けするというコントで、あり得ない設定のあり得なさの度合いが気が利いていて格好良い。絶対にあり得ない、という設定も好きだが、この手の不合理や無駄は世の中に氾濫しているよなあという部分で共感できてしまう塩梅が絶妙だ。

 意図したものかは分からないが、コント中一度も「ティッシュ」という単語を使わない辺りも、ソリッドな感じがして美しい。「大丈夫」という言葉が何度も何度も用いられてコントを埋め尽くしていくのは、水玉や網目でキャンバスを埋め尽くすことで図と地を反転させ、異様な迫力を醸し出す草間彌生の諸作を彷彿とさせる。どうですか、コントを評するのに草間彌生の名前とか出しちゃう感じ、鼻につくでしょう?

 ともかく、今はなき京都・祇園のフォーエバー現代美術館で開催された草間彌生の南瓜展で、和室に飾られた作品を目にして鳥肌が立ち、何十分も棒立ちのまま飽きることなく見続けたときのように、チョップリンティッシュ」はどれだけ観ても飽きることはありません。コント史に残る名作です。

 

8.ラーメンズ「名は体を表す」

 観ましょう。https://youtu.be/vAEitV5SPn0

 彼らの単独公演の最高傑作は、最後となった『TOWER』だと思っている。中でも「名は体を表す」は、漫才にするには些か弱いけどキャラクターの乗っかったコントなら抜群に面白い上質な会話劇から始まり、「たかしとお父さん」的な片桐仁の馬鹿馬鹿しい一人芝居へと雪崩れ込んでいくシームレスな美しさが堪らない。

「こいつらの上品でお洒落ぶったニヤニヤ笑いなんかより、泥臭い大笑いの方がよっぽど価値があるわ!」的な切り口のラーメンズ批判を何度も目にしたことがあるが、ラーメンズのコントって腹抱えて笑えるシーンもめちゃくちゃありますよね。言葉遊び的な面白さから身体的な笑いの取り方まで、実に幅広いコンビです。つくづく、小林賢太郎の引退が惜しまれますな。

 

9.HITOSHI MATSUMOTO VISUALBUM「巨人殺人」

 松本人志が作ったオリジナルコントビデオHITOSHI MATSUMOTO VISUALBUMに収録された一本。関(松本)、稲葉(板尾)、アキ(木村)、太一(今田)の4人は、長い付き合いの坂東を憎み、アキの知り合いのシン(東野)も誘って殺害計画を立てる。だが坂東は、奈良の大仏に匹敵する巨人で……といった内容。坂東が巨人であることに、特に説明や留保がなく進むのがクールだ。シュールな発想、底辺の屑達を描いた土着感のある短編ノワールのような味わい、板東と関のベタな言葉のやりとりなど、松本人志が持つ魅力が凝縮されている。特にハマり役は稲葉(板尾)で、あまり坂東の殺害計画に乗り気でない発言をしているが、その実一番強い殺意を抱いているように見えるのが素晴らしい。

 このコント然り、『大日本人』然り、リンカーンの巨大化シリーズ然り、「過剰にデカい」のを松っちゃんは面白いと思ってる節がある。俺もそう思います。

 

10.永野「顔面を負傷して再起不能と言われた五木ひろしが東京ドーム公演で復活するところ」

 タイトルで内容を説明してしまうライトノベルや火曜サスペンスは好きではないが、永野のタイトルそのままのコントは大好きだ。

 ネタパレで永野は満面の笑みでタイトルを述べたあと、一度袖にはけ、青いタキシードに無表情の白い仮面という姿でオートバイに乗ったマイムをしながら登場した。BGMは五木ひろしの楽曲ではなく、ロックンロール。舞台上を縦横無尽に駆け回ったあと、バイクから降り、ドラムの乱打音に合わせて飛び跳ねる永野。仁王立ちで息を弾ませながら、左右の観客席に向かって五木ひろしお馴染みの拳を握るポーズをしてみせると、左手を高く突き上げて人差し指で天を指す。歓声が鳴り響き、新たにアップテンポなギターのフレーズが流れ出すと、永野は白い仮面を剥ぎ取ろうとする。顔が見えそうになったその瞬間、緞帳が降りてコントは終わる。

アウトレイジ・ビヨンド』を思い出させるほど唐突で鮮やかな終わり方に、猛烈な格好良さを感じた。永野が五木ひろしのポーズをしたとき、ネタパレ観覧ゲストの陣内が「これはアカン」というツッコミを入れていたが、別に永野はこのコントで五木ひろしを単純に揶揄している訳じゃない。もちろんオモシロの対象として消費しているから、五木ひろし本人が気分を害したり馬鹿にされていると思う可能性はあるけれど、同業者の芸人がネタ中に「これはアカン」なんて二元論的なツッコミを入れるなよ。アカンかアカンくないかの二択しかないんか。アカン警察はダウンタウン×ナインティナイン14年ぶりの共演を唯一の功績として、もうとっくに終わっとんじゃ。明石家さんま筆頭にお前ら関西芸人って、結構そういう二元論的なとこあるぞ!……と俺も二元論的なことを思いました。あと、陣内のネタってディアゴスティーニ以外にもたまにつまんないのあるよねってのと、ヒルナンデス!の街ロケで「丁字路」と言ったおじいさんに対して「てい字路?www Tじゃなくて? てい字路?www」と笑っていたのだけは、ニューヨークを憎み続けるパンツマンのファンと同じくらいの熱量で忘れません。永野のコント中、一言も喋らずに笑顔を浮かべていた千原ジュニアを一層好きになりましたよ、俺は。

 ところで皆さん、ちゃんと永野のYouTubeチャンネルは登録してますか? 月額980円で、「ウエノシンイチ」を筆頭に、VISUALBUMに匹敵する不愉快な面白さを描いたコントを観られます。オススメです。結局、どんな芸人よりも永野が一番面白いんじゃないかと思うことがよくあります。ラッセンよりピカソゴッホの方が俺は好きなんで、そこくらいです、永野と意見が合わんなあと思うのは。まあ、あのネタもホンマにラッセンの方が好きって言うてる訳ではないですが。

 以上、私的・格好良いコント10選でした。終わり。

菊地成孔を知らない恋人の隣でDC/PRGの演奏を聴きながら踊った夜

※2021年3月26日に開催されたDC/PRG大阪公演に行った感想を綴ったブログですが、ライブレポではないのでセットリストや具体的な内容への言及は皆無です。また、6,000字のうち余談が9割を占めています。全員、敬称略です。

 

 先日、敬愛する坂元裕二が脚本を務めた映画『花束みたいな恋をした』を鑑賞した。小説や映画や音楽やお笑いといったカルチャーを愛する若者二人の恋の始まりから終わりまでを描いた作品で、面白いか面白くないかで言えば面白かったものの、どうも好きにはなれなかった。意図したものだと分かってはいるが、菅田将暉演じる麦と有村架純演じる絹が、あまりにも鼻に付いたからだ。俺はジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』も「優れた小説だとは思うけど、やっぱり好きにはなれない」と感じるタイプで、『花束みたいな恋をした』もそれに近い印象を受けた。

『花束みたいな恋をした』には、菅田将暉演じる麦が「粋な夜電波、聴いてます?」と尋ね、有村架純演じる絹が「菊地成孔さんの?もちろん」と答えるシーンがある。このシーンを観て俺は「絶対こいつら、菊地成孔の音楽業とか文筆業はノータッチやろなあ」と思った。根拠はない。完全なる偏見だ。でも多分、この偏見は当たっている。かく言う俺も菊地成孔の著作は一冊しか読んでいないし、「粋な夜電波」は一度も聴いたことがない。ブログも購読していない。とてもじゃないが、熱狂的なファンとまでは呼べない。まだ22歳だから、古参ファンでもない。だから、「ラジオを聴いていた程度で、俺の成孔さんを理解したと思うなよ!」とキレる権利はない。別に、粋な夜電波だけを聴いている人と菊地成孔の音楽活動だけ追っ掛けている人では、後者の方が上だとも思っていない。菊地成孔は音楽家であり文筆家であり元ラジオパーソナリティだった訳で、そういう多岐に渡って活躍する才人のどの分野での功績に惚れようが、そこに優劣は存在しない。

 だがそれでも思わず、麦と絹に向かって「なんや、その『もちろん』っちゅうすっとぼけた顔は?おどれ、菊地成孔の音楽を聴いたことあんのか、コラ!」と言いたくなった。 RHYMESTER宇多丸TBSラジオリスナーから褒められたり貶されたりしているときも、「おどれはRHYMESTERのアルバムを一枚でも持っとんか!」と文句を垂れたくなってしまう。「お前が『花束みたいな恋をした』の麦と絹を気に食わなかったのは、ただの同族嫌悪じゃねえか」と思ったそこのあなた、正解です。

 、俺にとって菊地成孔のイメージは圧倒的に、音楽家だ。JAZZ DOMMUNISTERSの2ndアルバムは私的・ジャパニーズ(日本語の)ヒップホップ名盤ベスト100に確実に入る。母音をはっきり発音していてフロウがあまりない朗読的なラップは、本来好みから外れるのだが、谷王 a.k.a 大谷能生のそれはどういう訳だかクセになる。ちなみに、このアルバムにfeaturingで参加しているOMSBのアルバム『Think Good』が、私的・ジャパニーズヒップホップアルバムの暫定トップだ。クリーピーナッツがブレイクし、フリースタイルダンジョンが人気を博したお陰で、ヒップホップを聴くと言うと「最近流行ってるもんね、日本語ラップ」と言われるようになったが、OMSBが米津玄師やOfficial髭男dism並の知名度を獲得しない限り、俺は日本語ラップブームの到来とやらを断じて認めない。

 菊地成孔の音楽活動に話を戻します。SPANK HAPPYも当然後追いながら好きだし、菊地成孔がプロデュースを務めたFINAL SPANK HAPPYの1stアルバム『mint exorcist』は、日本のミュージシャンのアルバムの中ではその年、KIRINJI『cherish』やORIGINAL LOVE『bless You!』に匹敵する素晴らしさだった。2020年12月に大阪で開催されたライブにも行き、CDにサインも貰った。「めちゃくちゃキュートでした」と伝えると、小田朋美アバターであるODに「わあ、嬉しいじゃないっスか。ありがとうじゃないっスか」と言ってもらえた。半端ないほど可愛くて、危うく「結婚してください」とプロポーズしそうになった。

 菊地成孔がプロデュースを務めた大西順子の復帰アルバム『Tea Times』も大好きで、彼女のスタジオアルバムの中では『WOW』と同じくらいの高頻度で聴いているし(6〜9曲目が特に好きだ)、菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール(ラジカル・ガジベリビンバ・システムくらい覚えにくいですね)の『戦前と戦後』は、何度聴いても陶然としてしまう。『CHANSONS EXTRAITES DE DEGUSTATION A JAZZ』にはデューク・エリントンの「Isfahan」をカバーしたライブ音源が収録されているが、本家やジョー・ヘンダーソンのカバーに匹敵する素晴らしさだ。

そして1999年、大阪の田舎で俺が生まれ、北の本物THA BLUE HERBが1stアルバム『STILLING,STILL DREAMING』をリリースし、「カリスマ」という言葉が日本新語・流行語大賞トップ10に入選したこの年に、菊地成孔が結成したのがDATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDENである。

 DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDENの1stアルバムの帯には、「70年代エレクトリック・マイルスからの源流をジャズ〜ソウル〜ファンク〜アフロ、さらには現代音楽までクロスオーヴァーした唯一無二なスタイルでダンスミュージックへと昇華した」と記されている。俺はマイルスのアルバムの中では『Round About Midnight』が一番格好良いと思っていて、エレクトリック・マイルスは例外的に『Get Up With It』はかなり好きで、ちょうどCD2枚組だから俺の通夜と葬式にそれぞれ流して欲しいとさえ思っているが、それ以外は正直そこまでピンときていない。ただ、俺がそこまで好きではないエレクトリック・マイルスの影響を受けたDATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN(その後、dCprGDCPRGと改称という名のイメチェンを重ね、現在はDC/PRG)は、大好きだ。

 DC/PRGは、とにかく踊れる。というか、踊り出してしまう。構成もリズムも複雑なのに(だかろこそ、なのか)、体を動かしたくて堪らなくなる。先述のFINAL SPANK HAPPYのライブやORIGINAL LOVEのライブに行ったとき、菊地成孔アバターであるBOSS THE NKや田島貴男は、「最後の曲なんで、皆さん踊りましょう!」と呼び掛けていたが、それでも微動だにせず棒立ちを続ける人は少なからずいた。ついでに言えば、スマホで撮影し続ける人も。まあ別にええねんけど、ホンマに家で見返すんかいな、それ。

 これだけ爆音で音楽を浴びながら微動だにしないとは、感性が死んどんちゃうか。死後硬直で固まっとんか。などと偉そうに訝りながら、俺は踊った。やっぱり俺にとって、音楽を聴くことと体を揺らすことは密接に繋がっている。めちゃくちゃ激しくダンスはしなくとも、どうしたって音楽を聴けば頭や体は揺れるし、そうして体を揺らすことでより一層、音楽が全身に染み渡るような気がするのだ。終始理論的ではない感傷的な言葉が続きますが、何卒ご勘弁を。楽曲の構造を分析して論じられるほど、音楽に精通していないので。

 DC/PRGは俺が聴いているミュージシャンの中では、トップクラスに体が動く楽曲を奏でてくれる。電車の中だろうが自室だろうが、DC/PRGの楽曲が耳に流れ込んでくる限り、そこはダンスフロアだ。……などと、ベタなことを言ってしまいたくなる。

 で、そのDC/PRGが2月下旬に解散を表明した。菊地成孔の声明文を読み、寂しさや悲しみと共に、妙な清々しさを覚えた。ゆらゆら帝国が解散したときも、リアルタイムのファンはこんな気持ちだったのだろうかと想像した。解散前最後の凱旋地は、大阪と東京。大阪での開催場所は、バナナホール。俺が大好きな梅田の街にある老舗のライブハウスだ。そして、日付は3月26日。『CITY HUNTER』で、生年月日が不明な冴羽リョウのために、相棒の香が「毎年この日に祝ってあげる」と決めた仮の誕生日だ。そして奇遇にも、俺の誕生日でもある。

 解散が発表された数日後、恋人とデート中に「俺が好きなバンドのライブが来月の26日にあって……」と切り出すと、「はいはい、どーぞ。行ってらっしゃい」と食い気味に返された。口調は怒っていなかったが、イラッとしているのは明確だった。熟年カップルじゃあるまいし、互いの誕生日を一緒に祝うのは、ハタチそこそこのカップルとして当然だ。ミュージシャンのライブを優先するのかと不満に思われるのも無理はない。逆の立場だったら、俺も不愉快になるかもしれない。だから、「チケット代出すから、一緒に行こう」と誘った。「え、ホンマに? 一緒に行っていいなら、行きたい!」と彼女が乗り気になってくれたので、抽選発売にチケット2枚を申し込んだ。そして、2枚とも当選した。

 DC/PRGのファンに申し訳ないな、という心苦しさも無論ある。「俺はチケット取れなかったから行けなかったのに、お前はファンでもない恋人を誘ったのかよ!ふざけんな!お前らが申し込まなきゃ、俺は行けていたかもしれないのに!」と今この文章を読みながら、チケットを取れなかったファンの方が怒っているかもしれない。それに関しては、伏してお詫び申し上げます。俺は「誕生日に恋人と過ごしたい」「DC/PRGのライブに行きたい」という二つの欲望をどうしても満たしたくて、どちらも譲ることができなかったので、ファンではない、どころか菊地成孔の名前すら知らなかった恋人の分もチケットを入手しました、当選確率UP券を使ってまで。すみません。後悔も反省もしていませんが、すみませんとは本気で思っています。

 ただ、「況してや、解散ライブなのに!」という怒りに関しては、納得いたしかねます。コロナ禍によって「不要不急」という言葉が幅を利かせるようになりましたが、人間の寿命が有限である限り、人生におけるありとあらゆることは全て、不要不急かつ必要緊急です。あなたも俺もいつ死ぬか分からないし、好きな飯屋はいつ閉店するか分からないし、好きなバンドはいつ解散するか分からない。毎回のライブで「これがラストかもしれない」と思いながら踊り、その一瞬一瞬を全力で味わうことこそ人生です。「解散ライブとか関係なく、音楽ライブにファンではない恋人や友人を誘う奴は全員許せない。しかも俺はこれまで、DC/PRGのライブには全て行ってるんだぞ!なのに、今回に限ってチケットを取れなかったんだ!」という人以外からの「折角の解散ライブなのに!」っつー苦情は、申し訳ないが受け付けません。受け付けたところで、陳謝する以外できませんが。

 さて、「本稿を読んで怒っているDC/PRGファン」という仮想敵と戦い終えたので、昨日3月26日、DC/PRGの大阪公演当日に話を移したいと思います。お気に入りのMEN'S BIGIのシャツにこれまたお気に入りのエンポリオ・アルマーニのジャケットを羽織り(今より稼げるようになり、かつもっとツラが渋くなったら、ジョルジオの方を着てギャグみたいにぶっとい葉巻を銜え、ぶくぶく太って禿げてやります)、恋人と合流した俺は、『あんさんぶるスターズ!』というスマートフォンゲームとコラボした天王寺アニメイトカフェで昼飯を済ませた。その後恋人の希望で、日本橋オタロードでフィギュアをあれこれ見て楽しんだ。『ジョジョの奇妙な冒険』や『ONE PIECE』のフィギュアを見て格好ええなあと思ったり、『殺しの烙印』の宍戸錠のソフビ人形を見つけて「これだけえらいマニアックやな!」と喜んだり、美少女フィギュアのスカートを下から覗き込んで「どいつもこいつも白しか履いてへんな」と言って恋人にど突かれたりしたあと、梅田の阪急三番街で早めの晩飯にたこ焼きと天麩羅を食べ、開場時刻ギリギリにバナナホールへと到着した。入場し、コインロッカーに荷物を預け、バナナジュースとキウイの果実酒を注文して開演を待った。そして、開演予定時刻を2、3分過ぎたとき、ライブが始まった。すぐ目の前にいるDC/PRGの面々を見て高揚し、スピーカーから大音量が流れ出した瞬間、「うわあ、久々にライブに来てる!」という途轍もない感動に襲われた。巨大なスピーカーから流れる音は文字通り全身を震わせ、体の内部にまでズンズン響いてくる。よほどのマニアでない限り、家のスピーカーではどうしても真似できない、ライブハウスならではの体験だ。

 冒頭に記した通り、ライブレポではないので、ここから一切の詳細は割愛する。ただ一つだけ言えるのは、日本時間で2021年3月26日の19時からおよそ2時間弱、世界中で最も格好良い音楽を聴いていたのは、梅田のバナナホールに集った俺達だということだ。

 最後の一曲の演奏中、会場にいた殆ど全員が頭や全身を揺らし、フロア全体が激しく波打っていたとき、ふと、隣の恋人を横目で見やった。菊地成孔のことを全く知らず、菊地成孔の手掛けた音楽を一度も聴いたことのなかった恋人は、その夜初めて聴く彼らの演奏で、体を揺らしていた。

『花束みたいな恋をした』の麦くんと絹ちゃんよ。君らはどうせ、「粋な夜電波を聴いている自分」像を作り上げるために「粋な夜電波」を聴き始めたのだろう。その気持ちは充分理解できる。俺もジャズを聴き始めた動機は、「ジャズを聴くって、なんかお洒落で格好良くね?」という勘違いからだった。だから、俺は「ジャズを聴いている格好良い俺」像のためにジャズを聴き始めた俺自身を肯定するし、他人の趣味を小馬鹿にしたり自分達のセンスの良さに特権意識を覚える麦や絹のことも、鼻に付くなあとは思うが、否定はしない。

 けど、初めて聴く楽曲で体を揺らす昨夜の恋人の姿こそ、音楽の豊かさを端的に、そして真に体現していたと思う。「売れているから」とか「音楽通に評判がいいから」とか、そういった前評判ではなく、「鳴っている音楽が格好良いから」という理由だけで、体を揺らしていたのだ。

 菊地成孔を知らない恋人の隣で、終始腕と腕が軽く触れ合う中で踊った夜、俺は確かに人生の真理の一端を摑んだ。恋人最高、恋愛こそ人生の醍醐味、なんて恋愛至上主義的なことではない。昨夜俺がDC/PRGの演奏を聴きながら覚えたのは、肌が粟立つほどの生きる喜びだった。毎日のように死にたいと感じてしまう人生と、今後も戦っていこう。その決意と覚悟だ。筆を擱く前に、俺がDC/PRGから受け取ったと勝手に信じている人生の真理の一端を、あなたにもお裾分けしましょう。

「人生はチョロい、恐るるに足らず」

 以上です。終わり。