沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

青春の終焉と「青春」の誕生

はじめに

 日々過ごしていると、しばしば「青春」という単語を目にする。「青春」を題材にした映画や ドラマ、アニメ、CM、広告、小説、漫画、音楽などは絶えず登場し、SNS上は「青春」を謳歌していることをアピールしたり、過ぎ去った「青春」を懐かしんだりする声で溢れている。

  「青春」の語源となった陰陽五行思想において、人生における春は15 歳から29 歳を指す。だが、現代の日本において「青春」と言えば、中学校入学から大学卒業までの期間をイメージ する者が多い。とりわけ、高校三年間の輝きは強烈だ。インターネットで「青春」と画像検索すると、制服を着た高校生の画像が大半を占めている。いくら多感な時期とは言え、たった三 年間だけがかくも特別視されることに、違和感を覚える。「青春」とは、それほど素晴らしいものだろうか。 本稿では、近代の青春と現代の青春――「青春」と鍵括弧付きで表記――の違い、及び各々の日本社会との関係から、その性質を考察していく。

 俺にとって「青春」という言葉は、高校の授業を怠けて映画館に赴き、サム・ペキンパー監督の『ゲッタウェイ』のリバイバル上映を観ていた瞬間しか想起しない。だが、だからと言って、高校生活を楽しめなかったが故の私怨を綴る訳では、決してない。

 

1. 近代の青春

 1880 年(明治13 年)、東京基督教青年会の発足に際して「ヤング・メン」は青年と訳され、 西欧から日本に輸入された。その5年後、徳富蘇峰が『第十九世紀日本ノ青年及其教育』を上梓して、青年という単語や、青年が送る日々を指す青春といった単語は、徐々に日本全国に知られていく。

 そして20年後、青春という言葉は小栗風葉が小説『青春』を『読売新聞』に連載しはじめた1905 年の段階においてはじめて、一般に広く流布した」のだという。 次いで、島崎藤村『春』、夏目漱石三四郎』、森鴎外『青年』、雑誌『白樺』などが刊行され、日本近代文学が隆盛期を迎えるとともに、青年や青春という言葉は益々市民権を獲得していく。 青春という新しい概念は、日本近代文学の主題として扱われ、やがて一部読者の生き方を支配するまでに至る。

 では、日本に輸入された青春という概念は、そもそも西欧でどのように誕生したのか。その 答えは、イギリスで起こった産業革命にある。

 1700 年代にイギリスの工業分野において技術革新が起こり、工場制機械工業が主流となっ た。それに伴い、資本家と労働者という階級が誕生し、資本主義社会が確立された。技術革新 に端を発したこの一連の社会変動が、産業革命である。 産業革命によって、イギリスの経済体制が封建制から資本主義体制へと移行した結果、労働者の酷使や幼い子供が工場で働かされるといった問題が起こる。イギリス政府はそうした事態を改善するため、法改正に乗り出した。その一環に、義務教育の導入がある。労働者として働き出す前に一定程度の教育を受けさせることで、資本家からの過剰な搾取を防ぐことを目的としたものだ。だが長期的に見れば、義務教育は資本家にも利益をもたらした。労働者達が識字や計算、工場での労働に必要な技能などの教育を受けたことで、労働者としての質が向上し、結果的に工場の生産性が上がったのだ。

 また、資本主義の勃興に伴い、中産階級も誕生した。医師、弁護士、法律家、自由業者、中小商工業者など、資本家階級と労働者階級の中間に位置する層だ。現代で言うホワイトカラーである。彼ら中産階級の人間は、自身の子に義務教育以上の教養や専門的な知識を身に付けさせることで、階級の維持を図ろうとした。その目的のために中産階級の子供達が特別に受けさせられたのが、義務教育の上に位置する、高等教育である。 労働者や中産階級が資本家に取って代わることなどあり得ない時代において、義務教育である初等教育中等教育は、労働者育成の場として機能することとなった。そして初等教育を受ける者を幼年、中等教育を受ける者を少年、そして高等教育を受けることのできた一部の特権的な者を青年と呼ぶようになり、「幼年、少年、青年という区分」が生まれたのだ。 つまり、「青春も、青年も、資本主義の勃興、市民社会の勃興とともに生じた集団概念」であり、青春の生みの親は、産業資本主義なのである。

 さて、そうした青年は特権的であるが故に、「失うものは何もない」という根源的な強みを 有していた。幼年や少年には、社会の矛盾や破綻に気付き、それを是正できる頭脳や能力がな い。一方大人は、階級に依って性質は違えど、既得権益や地位、仕事といった守るべきものを有しているため、社会の矛盾や破綻の是正には動けない。あるいは、動かない。そんな中で、 青年だけが幼年や少年と違って社会を変える能力を有しつつも、大人と違って守るべきものや 失うものがないという特異な強みを持っていたのだ。 「失うものは何もない」という強みによって燃え上がった青年の若き情熱は、飽くなき探求心と挑戦する精神を支えた。そして青年は、既存のシステムに対する創造的破壊を繰り返し、 それが結果的には、産業資本主義にさらなる発展をもたらした。

 先述した通り、青年や青春という概念は明治以降日本に輸入され、広く意味が知られるよう になった。だが、日本で実際にそうした青春を送ることができたのは、西欧と同様、高等遊民など一部の特権的な者だけだった。 以下に、西欧と日本に共通する青春の実態を述べた文章を引用する。

青春は、洋の東西を問わず、中産階級にのみ許された特権だった。特権のもとで特権そのものに歯向かうこと、それが青春の実質だった。だからこそ青年は必然的に、挫折し、 苦悩し、絶望したのである。

 

 明治以降、日本で巻き起こった青春という新たなブームは、1960 年代にピークを迎える。その背景にあったのは、学生運動だ。1960 年代の男女合計の大学進学率は、僅か10%台である。 学生運動に身を投じていた者は皆、紛れもなく特権的だった。つまり、青年だったのだ。 彼ら新左翼の学生が理論的支柱としていたジェルジ・ルカーチ『歴史と階級意識』は、エピグラフとしてカール・マルクスヘーゲル法哲学批判序説』を引用し、その主張を以下のよう に端的に表明している。

ラディカルということは、ものごとを根本からつかむということである。だが人間にとっての根本は、人間そのものである。

 あらゆる人間が人間らしくある、という根源的なことを実現するための方法として、マルク スはラディカルな思想を持った階級を形成するよう訴える。具体的には、次の通りだ。

社会の他のあらゆる階層から自分を解放するとともに社会の他のあらゆる階層を解放 することなしには、自分を解放することができないような、ひとことでいえば、人間性を完全に失ったものであり、したがって人間性を完全にとりもどすことによってだけ 自分自身を自由にすることができるような、そういう階層を形成することである。社会のこういう解体を、ある特定の身分であらわせば、それはプロレタリアートである。

 どのような社会であれ思想であれ、その根源にまで遡れば、矛盾は必ず見えてくる。本気で 社会に変革をもたらすのであれば、枝葉の部分を切り揃えるのではなく、根源的な矛盾を正す しか方法はない。そうしたマルクス(及びジェルジ・ルカーチ)のラディカルな論理が、「大学 解体」を掲げる学生運動のエンジンとなった。ラディカルを和訳すれば、急進的/徹底的/過激/ 根源的といった語が当て嵌まる。青年の「失うものは何もない」という強みと、非常に親和性が高い。「特権のもとで特権そのものに歯向かうこと、という青春の実質」は、学生運動のラディカリズムと通底していたのである。だから、1960 年代に青春のブームはピークを迎えた。

 しかし1970 年代に入り、青春というブームは瞬く間にその力を失っていく。 一つ目の要因は、大学進学率の増加――1976 年には男女合計の大学進学率は27.3%を記録する――を始めとした学校制度の整備に伴い、高等教育を受けられることがそれまでに較べて小さな特権になったことだ。青年層を形成していた中産階級が、大衆に接近したのである。 二つ目の要因は、青年という概念の弱体化だ。先述の通り、少年は中等教育を受ける者を指す言葉として誕生したため、本来は男女ともに対して使用することができる。だが現実には、 男子に対してのみ使用される。戦前の日本では男女共学が認められていなかったため、中等教育を受ける男子を少年と呼び、中等教育を受ける女子のことは少女と呼ぶようになったからだ。 そうして、「少年=男子」「少女=女子」という棲み分けがされた。

 一方、1960 年代までの日本における男子の大学進学率は女子のそれを圧倒的に上回ってい たため、青年という言葉の定義は、「高等教育を受ける者」から「高等教育を受ける男子」へと変化していた。圧倒的大多数の大学生が男子である以上、「青年=高等教育を受ける男子」という定義が大きな不都合を招くこともなかった。少年という語に対して少女という語が生まれたのとは異なり、大学に通う女子だけを指す言葉は生まれなかった。生み出す必要性がなかったからだ。 そのツケが、1970 年代に入ってやってくる。女子の大学進学率が上昇し、女性の社会進出が進んだ結果、大学に通う男子だけを指す青年という概念が弱体化したのだ。対になる言葉がないため、少年と少女のように共存することもできない。青年という語は次第に廃れ、性別を問わず年齢が若い集団全般を指す「若者」へと置換されていった。

 三つ目の要因は、人々の価値観が変容したことだ。1970 年代に入り、高度経済成長期の終焉やオイルショックの発生、公害問題の認知などによって、社会は不安定なものだという認識が人々の間に広まった。また、消費資本主義社会の本格的な到来に伴い、大量生産、大量消費、 そしてその裏にある大量廃棄までもが是とされた結果、大衆のものに対する価値観は変わってしまう。大衆にとって日本はもはや、失われることを前提としたものの集合体と化したのだ。 青年層以外の人々は、何かを失うことを極端に恐れる。その前提があったからこそ、青年の 「失うものは何もない」という急進性は意味を持っていた。だが青年層が大衆化し、なおかつ 「失われないものなど何もない」と大衆が考える世界において、「失うものは何もない」という思想は、大きな価値を持たない。こうして、産業資本主義と密接に結び付いていた青年は根源的な闘いを挑む相手を失い、「特権のもとで特権に歯向かうこと」はできなくなっていった。

 上記の要因が重なり、近代の青春は終焉を迎えた。1960 年代は、青春が輝きを失う寸前にラ ディカルな学生運動と結び付き、最後の光を放っていた時間だったのである。

 

2.現代の「青春」

 本稿冒頭で記した通り、現代(2021年)の日本は「青春」で溢れている。この現代の「青春」 は、1 章で述べた近代の青春とは別物だ。単語は同じでも、語義は全く違う。 近代の青春の定義を、三浦雅士は次のように述べた。

青春の規範とは、根源的かつ急進的に生きることにほかならなかった。近代の過程で、 この青春の規範は、表現行為のほとんど全域を席巻したのである。革命の挫折も、恋愛の挫折も、その裏面にほかならなかった。むしろ、この裏面によってもたらされる苦悩と絶望こそが、青春の主題を形成するにいたったのである。

 青年は根源的かつ急進的な生き方を貫き、革命や恋愛に挫折し、傷付く。その苦悩の軌跡が、 日本近代文学だ。 「青春」は、こうした根源的かつ急進的な生き方とは無縁である。そんな生き方など、殆どの若者は求めていない。恋愛の挫折も、革命の挫折(現代のレヴェルで言えば、部活動の苦悩など)も、「青春」の裏面ではなく表面だ。「青春」の規範とは、中学・高校時代の恋愛や友情といった「青春」のイメージに相応しいものを謳歌することに他ならない。「青春」は、明確な実態を持たない。換言すれば、「青春」っぽいイメージの集積こそが、「青春」の実態なのだ。

 では、終焉したはずの青春を輝きに満ちた「青春」として甦らせたのは、一体何か。それを考えるために、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』の一節を引く。

ナショナリズムを発明したのは出版語である。決してある特定の言語が本質としてナ ショナリズムを生み出すわけではない。

 印刷技術の進歩によって出版産業が登場・発展し、国内の出来事を一つの言語で大量の読者 に伝え始めた。それによって人々の間に仲間意識が芽生え、国に対する帰属意識が生まれた。 つまり、国民という概念は一人一人の心の中に想像されるイメージに過ぎないというのが、ベ ネディクト・アンダーソンの指摘だ。 同様の関係が、現代日本とメディアにも見出せる。映画やドラマやアニメや漫画や音楽といったメディアがこぞって、中学入学から大学卒業までの期間――とりわけ高校三年間――をさも人生における最重要な時間のように描き、そうした輝かしい描写に過去の思い出を刺激された人々が、SNSなどを通じて学生時代を称揚する。だからそれらを目にした人々は、「青春」 に対してフィクショナルで美しいイメージを付与するようになったのだ。メールや掲示板で児童買春の約束を取り付ける際の隠語として用いられていたJK(=女子高生)は、今や「JK ブランド」と呼ばれているし、InstagramTikTokでは高校生達がいかにも「青春」っぽい構図で写真を撮ったり動画を上げたりしている。それを否定する訳でも嘲笑する訳でもない。俺の周りにもそういう人はいたし、俺自身そうした側面はあった。あくまでも、確実に現代の若者は、フィクショナルな「青春」に寄せにいっている側面はあるだろうということを指摘したいだけだ。

 あるときは恋愛がうまくいった作品を観て、また別のときは友情を感じられる作品を観て、 またあるときは失恋を味わう作品を観て……という風に、「青春」のあらゆる側面をフィクシ ョンやSNSなどのメディアから過剰に摂取した結果、現代人は「青春」に対して、一人の人 間が一度きりの人生では絶対に体験できないほど肥大化した、戯画的なイメージを抱くように なったのではないだろうか。 近代の青春において、恋愛や友情という営みは「根源的かつ急進的に生きること」を表象していた。しかし、現代の「青春」における恋愛や友情は、何も表象していない。恋愛の甘酸っぱさは、恋愛の甘酸っぱさ以外の何物でもない。「青春」に存在するのは、表層的なイメージだけだ。 だが青春が終焉を迎え、「青春」の萌芽が既に見られていた1976 年の時点で、ショートショ ートの神様・星新一は著作で次のように述べ、「青春」の正体を喝破していた。

青春(引用者注:本稿における現代の「青春」)はもともと暗く不器用なもので、明るくかっこよくスイスイしたものは、商業主義が作り上げた虚像にすぎない。かりにそんなのがいたとしても、あまり価値のある存在とは思えない。

 「青春」のイメージに囚われ、そのイメージ通りの経験をすることに価値を見出している限 り、悔いのない学生時代を送ったと胸を張ることはできない。隣の芝生は青く見えるものであ り、メディアや大衆によって創り出された「青春」のイメージは、太刀打ちできないほど圧倒 的に青いからだ。

 

3. 虚像へのノスタルジー

 メディアなどが提供する「青春」のイメージに固執し、輝かしい「青春」を追体験させてくれる作品や情報に触れ続けると、いつしか存在しないはずのノスタルジーを「青春」に感じてしまう可能性がある。祖父母の代から都会で生まれ育った者が、田舎の田園風景を見て何故か郷愁に駆られる現象によく似ている。

 17 世紀後半、戦地に赴いたスイスの傭兵達が故郷を懐かしみ、ヒステリー発作や不眠などの 症状を呈す事態が発生した。同様の出来事は、十字軍遠征においても報告されている。スイス 人の医師、ヨハネス・ホーファーは、こうしたノスタルジーを「脳疾患」と診断した。

 だが近年の研究では、ノスタルジーを感じることは正常であるばかりか、「ネガティブな精 神状態、すなわち『心理的脅威』に立ち向かう方法のひとつ」だというのが定説だ。 だから、人々が自分の実際の学生時代だけを懐かしむのであれば、何の問題もない。しかし、 そうした純然たるノスタルジーではなく、メディアによって形成された「青春」の戯画的なイメージに対してノスタルジーめいた感情を抱くことには、危うさを感じる。 学生時代に恋人はいなかったはずが、街中で放課後デートをする学生カップルを見てノスタルジックな気分に陥り、部活動に入っていなかったはずが、たむろして帰る部活動終わりの学生を見てノスタルジックな気分に陥る。そして、「あの頃」など自身の過去にはないはずなのに 「あの頃に戻りたい」という思いが湧き上がるのを抑えられず、今の現実に絶望し、生きていく気力を失って自ら命を絶つ――という結末は些か安手のホラー小説じみているが、しかし少なくとも、現実に体験した学生時代ではなく虚構の「青春」に対してノスタルジーを抱き続ければ、存在しない「あの頃」への妄執が生まれ、強烈な「青春」コンプレックスを発症することは必至だ。変えられない過去に囚われてしまったせいで、現在の日々を楽しく送ることができなかったり、多くの可能性を秘めた未来の幅を狭めてしまったりするのは、不毛だ。恋愛や友達や部活や勉強や趣味やボランティアやアルバイトなど、何か一つでも思い出に残っていることがあれば、それだけで充分素晴らしい。仮に何もない怠惰な生活を送っていたのだとしても、所詮は自分の選んだ道だ。それに、そうした自堕落な生活を送ることができたのも貴重で楽しい時間だった――そう割り切ることが大切だ。送ることのできなかった「青春」 のイメージをいつまでも抱き続けて苦しむことは、水面に映る月をどうにかして掬おうとする行為に等しい。後に残るのは、疲労と虚しさだけだ。

 

4. 成熟からの逃避

 近代の青春は1960 年代に終焉を迎えたと1 章で述べたが、大学進学率が50%を超えた現在でも、青春や青年の規範が完全に消滅した訳ではない。「若気の至り」という言葉が未だ通用す るように、若さ故に無茶をしたり勇敢な行動を取ったりする者は少なくない。学生運動に身を 投じた青年に較べれば「失うものは何もない」という強みは大幅にスケールダウンするだろう が、社会人よりも学生の方が失うものが少ないという図式は、完全にはなくなっていない。退 学とリストラでは、失うものの大きさは明らかに違うだろう。 ただし、「失うものは何もない」という強みを権力への反抗や社会の矛盾の是正のために使う若者は、少数派だ。停学を恐れずに屋上や夜の校舎に忍び込んで遊んだり、授業を怠けて遊んだりすることでスリルや背徳感を味わう者は少なくないが、不合理な校則や理不尽な教師に抗議したり、学校の不当な処分や要求に対して反対運動を行う者は、限りなく少ない。

 また、青年や青春の規範の残滓は、「青春」に溶け込み、「青春」の輝かしいイメージをより強固にする役割も果たしている。青春とは特権的な青年だけが送れる期間だ、という近代の価値観は現在、学生時代こそ人生で最も楽しい時間だ、という歪んだ特権意識へと変貌を遂げた。 大人が何かに夢中になることを「第二の青春」と呼び、何かに熱中する大人を「青春は終わらない」と鼓舞する者がいる。彼らは、情熱的な営みをすることは「青春」の特権だという意識を抱いているのだ。

 こうした「青春」への特権意識の背景には、メディアが生み出した「青春」幻想の他にもう 一つ、エイジズムが潜んでいる。 エイジズムとは、「1986 年に米国の老年医学者ロバート・バトラーが造りだした新語」であり、「年をとっているという理由で老人たちを組織的に一つの型にはめ差別をする」ことだ。 「老人に対する偏見、嫌悪感、恐怖心といった心理的・文化的要因に起因する」という。

 現代日本のメディアで描かれる高齢者は、認知症や病気、寝たきりといった死に接近してい るイメージか、偏屈や頑固な「老害」といった醜いイメージを与えられることが多い。あるい は、「可愛いおじいちゃん、おばあちゃん」といった風に、老いて弱くなった庇護すべき対象として扱われる。そうした人物が実在する以上、病気の高齢者や「老害」や「可愛いおじいちゃ ん、おばあちゃん」を描くことは間違いではない。だが、この三類型に落とし込むことのできない高齢者像が滅多に描かれない現状には、偏りを感じる。少年漫画などでは「格好良くて強い老人キャラ」がよく登場するし、俺自身そうしたキャラクターは大好きだが、敬意を込めてこの表現を使えば、それらのキャラクターはどうしても「漫画的」である。

 1920 年代にアメリカで生まれたフェミニストにしてレズビアンのバーバラ・マクドナルド は、フェミニズムによって自己解放を遂げたあとは、エイジズムに立ち向かうべきだと主張し た。1994 年に邦訳された『私の目を見て――レズビアンが語るエイジズム』で、彼女は次のように述べている。

レズビアンが存在することやレズビアンであることが喜びだと教えてくれるような小 説も映画もテレビ番組もない中でずっと生きてきた。(中略)今度もまた、高齢女性が存在すること、高齢女性であることが喜びだと教えてくれるものはなにもなかった。

 バーバラ・マクドナルドは、自身がレズビアンであることも女であることも、自分の頭で考 えて肯定し、生き方を見つけてきた。同様に、どのように老いていくかも自らの頭で考え、模 索しながら生きた。彼女のように、老いを受け容れつつも活動的に強く生き続ける人生を選ぶ ことは美しいが、困難でもある。だから、ひっそりと穏やかな老後を送る人生を選択すること も、何ら恥じることではない。そこに優劣は存在しない。

 しかし現代日本には、上記の二つの道ではない、第三の道が存在する。「若さ」vs「老い」という二項対立を是とし、自分は年齢にかかわらず「若い」のだと主張する道だ。この道を選べば、必然的に対立概念である「老い」を貶めることとなる。「美魔女」ブームが起こった際も、 年を重ねた美しさではなく若々しさに美の基準が置かれていた。

 成熟した大人の先には、醜い老人が待っている――このイメージに抗うため、人々は成熟から逃避し、若さを称揚し、「青春」に特権を付与した。「俺たち男は馬鹿だから、いつまでもガキのままなんだよ」と嘯く彼らの表情と声は、いつも何処か誇らしげだ。貞操観念に凝り固まったマザーコンプレックスの男性が多いのは、成熟から逃避した結果ではないだろうか。

 成熟を拒絶する思想には、相容れないものがある。老いによって視野狭窄になったり判断力 が低下したりする側面は、確かにある。それをもって、「老害」と呼ばれる。だが、老人の「老害さ」というのは、若者の未熟さや中高年の事なかれ主義といった傾向に較べて、特筆すべきほど醜いものだろうか。思慮深い若者も、挑戦的な中高年も、度量の広い老人も大勢存在する。 結局は年齢に依らず、当人が美しいか醜いかだけの話である。 恋に溺れることも熱い友情を育むことも、何かに真剣に打ち込むことも、断じて若者だけの特権ではない。成熟した大人として何かに夢中になり、熱中すればいい。成熟した大人の先には老いた大人が待っているが、その姿が醜いかどうかは本人次第だ。むしろ、老いを唾棄し、 成熟から逃れて若さに縋り付く姿勢こそ、よほど美しくない。

 ヌーヴェル・ヴァーグの旗手、フランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』 で、12 歳の少年アントワーヌは大人達に反抗し、鑑別所に送られる。隙を見て脱走するが、 延々と走った先には海が広がっており、逃げ場を失った彼は波打ち際で立ち止まることを余儀 なくされる。振り返って観客に視線を向けたアントワーヌをクロース・アップで映して、映画 は終わる。その無表情は戸惑いや諦念に覆われているが、逃げることを止めて現実に立ち向か おうという決意も確かに見て取れる。 僅か12 歳のアントワーヌが『大人は判ってくれない』の最後で見せた表情は、現代日本の多くの大人よりも、遥かに大人びている。

 

おわりに

 産業資本主義によって誕生した近代の青春のイメージは、日本文学の歴史を形作り、ラディカルな学生運動を駆動させた。一方、商業主義によって形成された現代の「青春」のイメージ は、ひたすら「青春」幻想に溺れる人々を増やし、「青春」にまつわる商業を潤わせるというサイクルを繰り返している。近代の青春を襲ったような終焉が現代の「青春」にもやってくるとは、今の段階では考え難い。現代の「青春」はフィクショナルであるからこそ、そのブームの持続力は近代の青春を凌駕している。

 ただし「青春」は、その輝かしさを過大評価して妄執することさえしなければ、問題ない代物だ。自分が実際に体験した「青春」の思い出を懐かしむことは正常であるし、「青春」コンプ レックスを発症せずに気持ちを切り替えられるならば、「青春」の幻想を追体験させてくれる ものに時折触れるのも一興かもしれない。

 だが、あくまでも個人的な好悪の観点から述べれば、「青春」を追体験することはもちろん、 実際の思い出に浸ることも、断固として拒否したい。ノスタルジーはネガティブな精神状態に立ち向かう方法の一つだ、という近年の研究を知ってもなお、ノスタルジーを敬遠する気持ちを拭い去ることはできない。ノスタルジーに浸るよりもフレッシュな空気を吸い込むことの方が、遥かに豊かだと信じているからだ。甘さと青さを拒絶した先にこそ、成熟した人生が広がっているはずだ。

 高校生のときに『ゲッタウェイ』を映画館で観てスティーヴ・マックイーンに憧れ、早く大人になりたいと感じた気持ちだけを唯一の「青春」の証として胸に刻み、低身長ながら精一杯背伸びして生きていきたい。

 

参考文献

三浦雅士『青春の終焉』講談社、2001 年。 ・ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行』リブロポート、1997 年。

星新一『きまぐれ博物誌』角川書店、1976 年。

・岩波講座 現代社会学 第13 巻『成熟と老いの社会学岩波書店、1997 年。

ロバート・バトラー『老後はなぜ悲劇なのか? アメリカ老人たちの生活』メヂカルフレン ド社、1991 年。

政府統計の総合窓口e-Start「学校基本調査 年次統計」2016 年8 月4 日 ;https://www.e[1]stat.go.jp/dbview?sid=0003147040(アクセス日2021 年1 月17 日)

・lifehacker 日本版:「懐かしい気持ち」がもたらす意外なメリット2015 年2 月17 日;https://www.lifehacker.jp/2015/02/150217how_to_use_nostalgia.html(アクセス日2021 年1 月17 日)

 

 

M-1グランプリは超オモロい漫才特番な訳で

 大阪・宗右衛門町にある雑居ビルの地下2階で開催されたM-1賭博に参加し、単勝モグライダーに有り金350万を突っ込んで負けた訳ですが、やっぱり今でもモグライダーが一番面白かったという感想は揺るぎません。今回の決勝進出者のほぼ全組を知らなかったという恋人にM-1について尋ねると、「猫のやつと一日署長のやつが面白かった」とのことでした。初見でランジャタイと真空ジェシカが刺さるとは、素敵なパートナーを見つけたものです。ちなみに、卒論のために上野千鶴子の『発情装置』という本を読んでとても面白かったとも語っており、お、マジでか、上野千鶴子読んだことないけどほな読んでみよかな、という気になっています。まあ、こう書きつつ、読むのはどうせしばらく先になるんですが。

 で、M-1の話に戻ると、どの組が一番面白かったかなんつーのは好みでして、M-1に限らずあらゆるものの審査というのは、好みに尽きます。ただ、構造を分析して、よくできているか否か、上手いか下手か、みたいなジャッジを下すことは可能です。が、M-1の決勝に進出するような漫才師ならば基本的にはいずれもハイレベルな訳で、ファイナリスト10組を綺麗に10段階に割り振れるほどの明確な差はありません。お笑いは構造分析が可能であり、批評や評論の対象となり得るが、その分析だけでは到達できない「なんかよう分からんけどオモロい」という部分がほんの少しだけある、と俺は思っています。お笑いに限らず、大体なんでもそうでしょうが。

 で、M-1レベルの戦いならば、勝敗を分けるのはその「なんかよう分からんけどオモロい」部分なんじゃないかなあと思う訳で、だから、審査員は好みで審査していい、というか、よほど明確な差がない限り、好みでしか審査し得ない、というのが俺の考えです。

 であるからして、我らがえみちゃんこと上沼恵美子の審査を今年も肯定する次第です。えみちゃんが付けた各組への点数と順位は次の通り。

同率1位.インディアンス ハライチ(98点)

3位.ロングコートダディ(96点)

4位.錦鯉(95点)

5位.ゆにばーす(94点)

同率6位.モグライダー オズワルド(93点)

8位.もも(90点)

9位.真空ジェシカ(89点)

10位.ランジャタイ(88点)

 基準点のモグライダー(93点)から±5点です。俺は先述の通りモグライダーがベストでしたし、インディアンスもハライチもそこまでピンときませんでしたし、真空ジェシカとランジャタイで結構笑ったので、えみちゃんの点数と俺の感想は全然違います。けどまあ、別にいいんじゃなかろうかと思います。万人受けする笑いなど存在しない以上、審査員の好みが違って当然です。他の審査員と異なる基準や価値観の審査員が批判されるならば、観客の笑い声の大きさを測って一位を決めればいいじゃないすか、と思います。ちなみに、えみちゃんを除いた六名が審査員だった場合の1stステージの順位は、次の通りです。

1位.オズワルド

2位.錦鯉

3位.インディアンス

4位.もも

5位.ロングコートダディ

6位.真空ジェシカ

同率7位.モグライダー ゆにばーす

9位.ランジャタイ

10位.ハライチ

 上位3組は変わらず、実際には4位だったロングコートダディが5位に、5位だったももが4位になります。また、真空ジェシカと同率6位だったゆにばーすがモグライダーと同率の7位に、最下位がランジャタイではなくハライチに、という結果です。これをどう思うかは各人の価値観に依るでしょうが、上位3組はブレていないですし、7人の審査員のうちの一人がもたらす順位への影響としては、全然許容範囲内だと感じます。面倒なので調べていませんが、他の六名の審査員を対象に同様の試算をしても、似たような違いが生まれるでしょう。

 というかそもそも、M-1でのえみちゃんが批判されているのって、点数じゃなくて審査コメントなどの番組全体を通した振る舞いが原因な訳ですよ。えみちゃんの振る舞いへの嫌悪感が、えみちゃんの審査にまで遡及してしまっている訳です。けど、俺はえみちゃんのM-1での振る舞いも肯定しています。どこまで意識的・自覚的なのか知りませんが、競技化されたM-1、感動的なスポーツ大会のような様相を呈しているM-1を、えみちゃんだけは内部の人間でありながら適度に茶化しています。「いうて、M-1もテレビのお笑い番組やんか」というえみちゃんの態度は、M-1に人生を賭けている多くの芸人や彼らを愛する多くのお笑いファンの目には、ある種の侮辱に映るのかもしれません。しかし、俺はそこに大衆と寝てきた女帝の矜持というか信念みたいなものを勝手に感じ取って、ええなあと思う訳です。お笑い芸人の格好良いエピソードや格好良い姿がバンバン表に出る現状や、それを多くの人々が是としている現状に若干の抵抗を感じる人間にとって、そうした流れを加速させている要因であるM-1を心置きなく楽しむためには、えみちゃんの存在は最高の清涼剤になるのです。

 過去にM-1の決勝でネタを披露したハライチの漫才を「初めて見た」とえみちゃんは言いました。でも、キングオブコントに出場した芸人と後々バラエティ番組で会っても全く覚えていない、なんつーのは松本人志もしょっちゅうです。また、真空ジェシカのセンスを誉めつつ、知識不足でついていけなかった、悔しいと正直に語るのが世間の人々に言わせりゃ「審査員失格」らしいですが、なんつー誠実な態度だろうと俺は感動しましたよ。しかもその後、真空ジェシカの川北が「本当に、センスがあって良かったです」とコメントしたあと速攻でコケるジェスチャーをしてみせるのも、芸人らしくていいじゃないですか。

 ハライチに高得点を付けたあとの「他の審査員おかしいわ」という発言も、そう言いたくなるくらい私はハライチの漫才を面白いと思ったという激励な訳で、まあ自分と異なる他の審査員をdisるなんてのは当然悪手ですが、M-1を神聖なる漫才界の頂上決戦ではなく面白い漫才特番だと思っている身からすると、フツーに笑いました。

 ファイナルステージ直前の「一組はダメだろうなっていうのはわかっています」というのも同様で、そりゃ不快に思う人の気持ちも分かりますが、でも俺は、なんでそんないらんこと言うねん、と笑っちゃいました。大事な場面で言うたらあかんいらんことを言う、というのが、どうしても好きなんですよ。

 えみちゃんが好みで点数をつけていることを批判している人々もまた、審査員を好みで審査しているのでは?と感じます。たとえば板尾創路がえみちゃんみたいに他の審査員とは違う点数を付けていった場合、同じように批判するのでしょうか。やっぱり板尾は独特やなあ、と笑いませんか。笑いませんか、そうですか。

 ま、あなたがえみちゃんの審査やM-1での態度をどう思っていようが、一向に構いません。俺はええと思うし、あなたはええとは思わへん。それだけの話、好みです。それより俺は、ランジャタイが手紙を書いて送ってくれた実は礼儀正しい奴っちゃという話を長々と喋ったオール巨人に対して首を傾げましたし、その話に対して「もー」と苦笑していた塙はやっぱええなあ、と思いました。そして、実はその手紙はランジャタイ二人合わせて便箋9枚送ったというイカレエピソードを大会終了後に披露していたランジャタイを、やっぱええなあと改めて思いました。

 M-1への感想はそんな感じです。M-1が終わり、今年のクリスマスイブは、恋人と香川県に旅行に行きました。うどんも骨付鳥もオリーブハマチも旨く、栗林公園の松の美しさは圧巻で、父母ヶ浜で夕陽が沈むまさにその瞬間を見られたのは最高の思い出になりました。メリークリスマス、ミスターローレンス、と恋人に言うと、何それ?と言われました。翌日、坂本龍一戦場のメリークリスマスの音符を一音ずつNFTで販売したというニュースを見て、何それ?と今度は恋人と声を揃えて言いました。昨今流行りのNFTの良さを分かりたい、悔しい、というこの思いはきっと、真空ジェシカの漫才を観たえみちゃんの気持ちと同じでしょう。

 嘘。NFTの良さを分かりたいとも悔しいとも思いません。だって、訳分からんもん。無知・未知に対する不誠実な態度ですが、しかし改める気もありません。俺は何も審査しないので。終わり。

女帝っちゅうたら小池百合子なんかやのうて、上沼恵美子なんやわ

 俺はお笑いが好きだ。が、ネットでよく見かける「お笑いファン」には若干の悪感情を抱いている。理由はいくつかあるが、一番の理由は、例の武智と久保田のインスタライブが批判を浴びた際、誰もが口を閉ざしていたからだ。自分らの大好きなお笑いが少しでも侵されれば、BPOめ!ポリコレめ!フェミめ!差別と言う方が差別なんですー!などと鼻息荒く持論を展開するのに、えみちゃんへの「嫌いです、なんて言われたら、更年期障害か?と思いますよ」っちゅう暴言はフルシカトっすか、それとも世論や他のお笑いファンの意見が出揃ってどっちに付いた方が得策か判断できるようになるまでは知らぬ存ぜぬ我関せずっすか、情勢を見極める優れた軍師にでもなったつもりか知らんけど、情勢が落ち着くまで動けへん奴は単なる腰抜けっちゅうねん……などとイラついたことを覚えている。

 俺は上沼恵美子a.k.aえみちゃんのフアンだ。大阪人はみんなえみちゃんが好きやでー、などとのたまうつもりは毛頭ない。大阪人でも関西人でも、えみちゃんを好きではない人は少なくない。俺も、えみちゃん同様に「大阪」の象徴的な扱いを受けているやしきたかじんや維新のことは全く好きではない。大阪人はガチで全員たこ焼きが好きだが、お好み焼きをおかずに米を食う奴は別に多数派ではない。

 えみちゃんは面白い。そして、格好良い。宮迫らの闇営業騒動後、「嫌いにはならない。応援する」と語るFUJIWARAの二人に「なんかスポーツマンの仲間みたい。ライバル違うの? そんなことなって、『スッとしたわ。消えるし』とか思わなかった?」「芸能界は椅子取りゲームやもん」「私なら消えてくれてよかったなと思うかも。私はそうだった。お姉ちゃんと漫才やってたときに、上が消えてってくれたらいいのにと思いました」「私が若いときと時代が違ってる。けど、だからいまの芸人はオモロないねん。頭ひとつ出たろと思わないから。みんなで一緒に『オモロないようにしよな』ってスクラム組んでんねやろ」と痛烈な言葉を浴びせた様には、その後、やや重たくなった空気を笑いで和ませるところまで含めて、非常に痺れた。

「実家は大阪城」「父親の遺産の淡路島を日本政府に貸している」「財産目録に琵琶湖がある」「通天閣は上沼家の物干し台」「金閣寺を購入したときのポイントで家電一式を揃えた」といった有名なホラの数々は、先日生前退位を表明された黒瀬深陛下のホラの数々とは較ぶべくもないユーモアを孕んでいる。そこそこ旨いつけ麺屋を経営しているシャンプーハットのてつじを寵愛したり、同じく寵愛していたカジサックと詳細不明な、しかし満更デマでもないらしいトラブルを起こしたりしている点も、人間臭くてチャーミングだ。以前ココリコ遠藤のYouTubeチャンネルに出演していたカジサックは、「揉めてはいないが、何かしらはあった。でも、詳細を話すと色々な人を傷付けてしまうから言えない」と前置きをした上で、「死ぬまで上沼恵美子さんを尊敬している」と断言していた。根拠はないが、本心っぽかった。

 礼儀にうるさく、ズケズケとモノを言い、ステレオタイプな「お茶の間の主婦」よろしく芸能人の不倫に厳しく、大ホラ吹きで、めちゃくちゃ金持ちなのに庶民的で、案外夫を立てる性格で、しかし姑の悪口はよく言い、吉村イソジン知事辺りの見た目それなりにシュッとしたタイプにはコロッとイカれてちやほやし、過去にスキャンダルがあったりした芸能人がゲストに来ると妙に優しく接することもある、嘘みたいに顔を白く塗った嘘みたいに面白い芸人、それがえみちゃんだ。武智と久保田の件のあと、松本人志がわざわざ詫びを兼ねた挨拶のためだけに大阪を訪れる人物であり、千鳥ノブが「女子史上一番面白い」と(その後の「けど、島田珠代が迫ってきている」というコメントのための前フリとはいえ)褒め称える人物なのだ。古き良きヤクザの大親分やマフィアの首領のような風格とキャラクターだ。『グッドフェローズ』を初めて観たとき、ジョー・ペシレイ・リオッタを理不尽にツメてから冗談だと笑う最悪で最高なシーンで、「えみちゃんみたいやなあ」と思ったのをよく覚えている。

 突き抜けた俗物は、聖人の如き輝きを帯びる。えみちゃんは女帝でありながら同時に、神話に登場するキレどころの分からん神のようでさえある。そんなえみちゃんがお笑いファンのヘイトを集めてしまったのは、ひとえにM-1の審査が理由だろう。俺はM-1のスポーツ大会化やM-1が加速させた「芸人は格好良い、芸人の知られざる苦労や裏側は格好良いということは隠さず見せてもいいのだ」という昨今の風潮が嫌いだから余計に思うのかもしれないが、えみちゃんのM-1の審査はあそこまで苛烈に批判されるほど酷いものではない。ギャロップとミキの自虐の比較は、依怙贔屓ではなく筋の通った審査としか思えなかったし、最後の出場となった和牛への激しめの言葉も頷けるものだった。自分のCDの宣伝を始めるくらいの小ボケは許してくれよ、アレがそんなにダメなら、2020年までのキングオブコントの審査員は全員死刑にでも処されてしまうでしょうが、と俺は思うが、諸君の見解はいかがかね。

 えみちゃんの2021年M-1審査員続投とYouTubeチャンネル開設というめでたいニュースを知り、この記事を書いた次第だ。今年のM-1終了後、もしまたM-1を愛するお笑いファンの皆様がえみちゃんを批判した場合、2016年から2021年までの6大会分全てのえみちゃんの点数と審査コメントを抽出してえみちゃんを擁護し、えみちゃんを批判していた人々を撃っていく所存だ。異教徒は皆殺し、我、狂信者なり! 最近、ヒラコーの『HELLSING』読み返しましてん。7巻のラスト、アーカードが幽霊船で帰還したシーンは、漫画史上に残る美しさです。終わり。

「親ガチャ」を討て

 どうも、日本語警察 不正造語取締課の者です。今回は、昨今急速に蔓延し始めている「親ガチャ」を取り締まりたいと思います。製造拠点は不明ですが、Twitterや匿名掲示板を流通経路としてここ数年で急激に猛威を奮っており、芸能界や政財界にまでその被害は広がっている模様です。また、「上司ガチャ」などの亜種の流通も確認されていることから、早急な対処が求められるでしょう。

 さて、しょうもない前口上はこの辺にして平生のトーンに戻るが、「親ガチャ」という造語・比喩表現が俺は嫌いだ。「親に対してそんな表現は失礼だ!産んでくれただけで感謝をせんか、このバカチンが!」といった理由ではなく、単に比喩としてキマっていないからだ。

「子は親を選べないこと」と「ガチャを回す者は出てくる中身を選べないこと」は全然違う。子にはそもそも「産んで欲しい/産んで欲しくない」の選択権はない。つまり、「ガチャを回す権利」自体がそもそもない。産まれた時点で(もっと言えば体内に宿った時点で)親は決定している。過去の事象だし、ニュアンスとしては受動的だ。一方、ガチャを回す者には「回す/回さない」の権利があり、ニュアンスとしては能動的かつ未来の事象だ。どう考えても、子供はガチャガチャの中身の方だろう。だが、じゃあ「子ガチャ」という比喩がキマっているかというと、それも微妙だ。子は親の遺伝子や育て方、環境等で大きく変化・成長するが、ガチャの中身が回す者の努力で事後的に変化・成長することはないからだ。

 ともあれ、「既に決定されてしまったことに対する、選びたかったなあ、でも選べないんよなあという気持ち」と「これから決定されることに対する、選びたいなあ、でも選べないんよなあという気持ち」は全く違うのに、「選べなさ」だけを抽出してニアリイコールで結ぶのは、あまりにも乱暴だ。こんな不恰好な比喩がこれほど広まったのはやはりそのキャッチーさが理由だろうが、不正造語取締課としてはその流れには断固として立ち向かう所存である。我々は、「穿った見方の悲劇」を繰り返してはならない。そして、伊集院光が提唱する「泥目線」をもっと広める努力もしなければならない。

 あともう一点、この「親ガチャ」という表現が好きになれない理由は、この言葉を使う人々がガチャの面白さを理解していないからだ。ガチャは必ずしも、欲しい中身を手に入れることだけが目的ではない。どう考えてもあの中身で一回この値段は高いよなあと分かっているのについつい回してしまうのは、ガチャを回すのが楽しいからだ。古き良きガチャポンにせよ、スマホゲームの「ガチャ」にせよ、あれを回して「うわ〜、何が出るかなあ」とドキドキワクワク、ウキウキバクバクするのが醍醐味の一つなのだ。ガチャは、ゲートウェイドラッグならぬゲートウェイパチンコである。

 一番欲しい商品じゃなくても、「ああ〜、外れた! でもまあ、これならえっか」というのも楽しいし、「よりによって一番欲しくないやつ出るんかい!」というのも、それはそれで楽しい。ガチャで一番辛いのはハズレを引くことよりも、同じ商品が何回も出ることだ。この点からも、基本的に一度しか決まらない親を「ガチャ」と喩えることのズレっぷりが分かる。尤も、家族や恋人や友人とガチャを回していれば、「何回こいつ出んねん!」と言って笑い転げられるし、昨今ではダブった商品をメルカリで売る戦法も一般化しているから、同じ商品が何回出ても楽しめる場合もある。

 さて、現場からは以上だ。我々は今後「親ガチャ」を服用している者を発見した場合、直ちに身柄を確保、抵抗される場合は射殺も辞さない構えである。ゆめゆめ、お忘れなきように。終わり。

推ししか勝たん

 キングオブコント2021、面白かったですね。一番笑ったのは空気階段の一本目、良いな〜としみじみ感じたのは空気階段の二本目とうるとらブギーズ男性ブランコの二本目、とある事情で感動したのはマヂカルラブリー、トータルで一番好きなのはニッポンの社長でした。ケツの頭にボールが直撃し、軽々しく悲鳴をあげない良いお客さん達がほんのちょっぴり引いた瞬間、めちゃくちゃ笑いました。吉本新喜劇とたけし映画で育ったので、反復と暴力に弱いんですよ。

 詳細なネタの評価や審査員達への評価は他の方に任せるとして、トロフィー返還でジャルジャルが登場してワチャワチャしていたとき、「ジャルジャルのノリで浜ちゃん、笑ろてくれてるや〜ん」とほっこりしました。好きなアイドルがバラエティ番組で爪痕を残したのを見て喜ぶおじさんファンの気持ちが分かりました。ジャルジャルもゴリゴリの芸人なのに、この気持ちは何だろうと思いましたが、オタクの恋人に聞いて分かりました。推ししか勝たん、というやつです。

 俺も好きな人や作品は山程あれど、「無条件に幸せを願う」「存在自体を肯定している」という推しの感覚が理解できませんでしたが(この定義自体、恋人が言っていたものなんで、合っているか知りませんが)、KOC2021に登場したジャルジャルを観て、少し理解できました。

 推し。ジャルジャルの他に誰がおるやろかとしばらく考えましたが、ぱっと思い付いたのは池上遼一バスター・キートンの二人です。前者は劇画・漫画界のレジェンド、後者はチャールズ・チャップリンハロルド・ロイドと並んで「三大喜劇王」と称されるアメリカの喜劇役者です。原作者が誰であろうと、「画・池上遼一」の文字を見ただけで即買いします。最新作の『トリリオンゲーム』バカオモロいっすよ。原作者は『アイシールド21』や『Dr.STONE』の稲垣理一郎。どっちも読んでないですが、『トリリオンゲーム』を読んだだけで天才やと思いました。

 で、もう一人の推しであるバスター・キートンですが、もうとっくに亡くなっているので「無条件に幸せを願う」ことはありませんが、彼が画面に映っているだけで嬉しくなってしまうので、やはり推しと言えるでしょう。うっとりするほどハンサムで、それでいて意外と身長が低いのがチャーミングです(160cm代後半かと思われます)。

 小柄かつ小粋な彼は「The Great Stone Face(偉大なる無表情)」と称されています。今見ても驚き、昂奮するようなドタバタアクションを終始無表情でこなすのです。苦しそう、辛そうな気配は微塵も見せません。身体能力が異様に高く、美しささえ覚えるほど見事なスタントアクションだけでも笑えるのに、そこに「無表情」という要素が加わると、ある種のハードボイルドささえ感じられて、非常に格好良いです。しかしながら、先述の通り小柄なため、コミカルさが損なわれないのが素晴らしい。我々短躯の希望の星です。ジャッキー・チェンや『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は明らかに、バスター・キートンの系譜に連なっています。

 俺には好き嫌い、面白い面白くないの枠を超えて愛している映画が何本かあり、魂の浄化のためにそれらの作品を時折観るようにしています。たとえばそれはフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』や『甘い生活』であり、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』であり、ゴダールの『気狂いピエロ』であり、エドガー・ライトの『ベイビー・ドライバー』であり、ルネ・クレマンの『狼は天使の匂い』であり、チャールズ・ロートンの『狩人の夜』であり、パク・フンジョンの『新しき世界』であり、イ・チャンドンの『オアシス』であり、ジョージ・ミラーの『マッドマックス 怒りのデス・ロード』であり、黒澤明の『用心棒』であり、S・S・ラージャマウリの『バーフバリ』であり、フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』であり、ルイス・ブニュエルの『ビリディアナ』であり、ロニー・ユーの『フレディVSジェイソン』であり、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『ベロニカ・フォスのあこがれ』であり、そして、バスター・キートンの『キートンの蒸気船』なのです(『花束みたいな恋をした』くらい固有名詞を羅列してやりました)。

 Perfumeフジファブリックの「若者のすべて」について、「この曲を聴いているときにしか味わえない感情がある」といった趣旨のコメントをしたことがあったと記憶していますが、上で挙げた映画達はまさに、その作品を観ているときにしか味わえない固有の幸福感があります。過去の自分の記憶や思い出を重ね合わせて感情を揺さぶられる作品は多々あれど、躍動するバスター・キートンの滑らかなアクションを見ているときの感動は、バスター・キートンの映画を観ているときにしか味わえないものなのです。映画の本質はアクションである、ということをまざまざと認識させてくれます。別にそれは、静謐な映画よりもド派手なドンパチ映画の方が優れている、という意味ではなく、映像作品たる映画の本質は言葉や台詞ではなく、役者の表情や視線や動きやカメラの構図、つまりはアクションにある、という意味です。

 ところで、キングオブコント2021を観ていた俺は、マヂカルラブリーのネタで少し驚き、感動しました。それはひとえに、野田クリスタルの身体的な笑いの取り方の面白さが理由です。M-1でも「あれは漫才ではない」論争を巻き起こすほどしゃべくりではない身体的な面白さを発揮していた彼らですが、キングオブコント2021での野田クリスタルの滑らかかつ躍動感溢れる動きの面白さは素晴らしく、展開が云々、構成が云々といった批評の言葉を奪ってしまい、ただ「動きが面白い」としか言えなくなってしまう魅力がありました。コックリさんに取り憑かれた野田クリスタルの動きはバスター・キートンでしか味わえないはずのあの面白さにやや肉薄しており、「推ししか勝たん。推ししか勝たん……けど、野田クリスタルもええやん」と、許されざる恋に溺れる女の子の気持ちを追体験させてくれました。

 どうですか、キングオブコント2021の話から始まって別の話題に移ったかと思いきや、もう一度キングオブコント2021の話に戻る。冒頭でさりげなく張った「とある事情で感動したのはマヂカルラブリー」という言葉を見事に拾ってやりました。これが昨今流行りの伏線回収っちゅうやつですわ! 終わり。

感情と理性

 メンタリストがごちゃごちゃ言うて問題になってましたが、俺はああいう「自分が成功しているのは自分の実力だけが理由であり、ホームレスとか百パー自業自得っしょ」的な思想の人々の二元論的な雑な思考回路と想像力の欠如を受け入れられません。が、まあそれはそれとして、近年文化人や知識人、文化や芸術を愛するリベラルな民達がTwitter界隈でよく口にする「しんどいことは無理にしなくてもいいんだよ」「辛かったり苦しかったりしたら逃げてもいいんだよ」「頑張らなくてもいいんだよ」「努力しなくてもいいんだよ」「生きているだけで偉いじゃないか」というコウペンちゃん思想にも、大いに抵抗がある。コウペンちゃんは可愛いからそれでええが、我々は人間だぜ、と思うのだ。人間至上主義である。頑張れるときには頑張れよ。努力は大切やろ。辛くても苦しくても、多少無理してでも踏ん張れよ。生きているだけで偉いっちゃ偉いけど、生きているだけなら死んでいるのと同じでしょ。などと思ってしまうのだ。こういうことを言うと、やれ鬱病だのブラック企業だのいじめだのを持ち出してくる人がいるが、そういうケースは「頑張らなくていい」「逃げてもいい」じゃなくて「頑張っちゃダメ」「逃げないとダメ」なやつだから、別件ですよ。病人や障害者についても同様で、「病気だろうが障害を持ってようがガムシャラに働け!」とは思いません。ただ、各人の病気や障害の度合いに応じて、頑張れるところは頑張るべきだとは思います(一日一日生きるだけで精一杯、という重篤な病気の人はそれで素晴らしいと思います。そういう人は、生きているだけ、ではなく、その状態が「頑張って生きている」訳ですから)。

 ともかく、味噌も糞も一緒にするんじゃないよ、っつー話です。そういやこの前看護師の兄貴と喋っていて、患者の糞尿を毎日のように処理しているから、飯時に固形の味噌を見ると「うんこやんけ」と思いながら食べるという話を聞いて、強えなあと思いました。

 俺は庶民的な家に生まれ、超贅沢ではないが大学まで進学させてくれたほどには恵まれた暮らしをさせてもらったし、今も自力でそこそこ稼げている。低身長はコンプレックスだが、まあ「アル・パチーノとかブルーノ・マーズとか、チビでもバリクソかっけえすわ」と笑える程度には気にしていないし、その他にコンプレックスは何もない。恋人も友人もいる(年収、学歴、恋人、結婚、子供、友人等の有無や多寡で人間の価値が決まるとは思っていませんが)。要するに、そこそこチョロく人生を生きている。であるが故に逆説的に、全然仕事や勉強ができない人や頑張れない人などに対しても、「しゃあない、しゃあない。そりゃ、俺くらいできる奴の方がおらんって」などと自惚れた笑顔で接することができる。交通事故に遭ったから、親の介護があったから、といった理由だけでなく、単に本人が自堕落な生活をしたから、根気がなくて働けないからといった「自業自得」な理由で生活保護を受けたりホームレスになったりしている人に対しても、まあいいんじゃないっすかーと思える。そういう人を社会的に不必要だから排除すべきという思想や姿勢は、恐ろしいと感じる。

 が、それはそれとして、個人的にはそういう人をあまり好きにはなれない。頑張れない奴のためのセーフティネットはいらない、社会から排除してしまえという動きには断固として抵抗するが、頑張れない奴は個人的には好きじゃない。メンタリストの「そんなに助けてあげたいなら、自分で身銭切って寄付でもしたらいいんじゃない?国がそういう人のために、みんなの給料から毎月3万円徴収しますって言い始めたら、皆さん賛成するんですかね?」という発言に賛同する気はないが、彼の暴言を批判していた人々のうち、果たして何割の人が街中でホームレスからビッグイシューを買ったことがあるのだろうか、そもそも目を向けたことさえあるのだろうか、とは俺も思う。言っちゃあ悪いが、嘘、悪いと思っていないので言うが、ビッグイシューを売っている人の殆どは、雑誌を手に持ちながら延々と突っ立っているだけだ。それさえ、彼らからしたら大きな一歩なのだということは理解できるし、だからちょこちょこそういう人からも買ってはいるが、そういうとき俺は「買ってあげている」と思っている。たまに、大きな声で通行人に呼び掛けて宣伝している人もいて、そういう人を見るとすぐに買うようにしているし、そういうときは「買ってあげている」ではなく「売ってもらっている」と感じている。

 人生に勝ち負けなんてない、という言葉は勝者が謙遜のために使うか、学歴だの収入だの人間関係だのにコンプレックスを抱き、他者と自分を比較して絶望している人を励ますときに使うものであって、てめえの人生を頑張らない言い訳に使う言葉ではない。あるとき、元気潑剌とビッグイシューを売っているホームレスのおっちゃんから一冊買い、少し喋ったとき、おっちゃんはめちゃくちゃニコニコしていた。何度もお礼を言ってくれた。えらい綺麗事やなあ、と嘲笑されかねないことを今から言うが、俺はあのおっちゃんの人生は「勝って」いると本気で思っている。

 さて、本来はこの話題からシームレスに次の話題へと接続する構想で書き始めたのだが、生まれてこの方ガンプラを完成させたことのない俺にはつなぎ目をヤスリで削る手間が苦痛なので、不器用にこのまま次の話題へと移ります。

 少し前、男が刃物で大学生の女性を含む10名の人々を斬り付けた事件が発生した。36歳の男は、「6年ほど前から幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」と供述したそうだ。で、この事件をきっかけにネット上では、弱者男性を救済せよという声や女性差別をなくせという声が噴出し、対立し始めた。弱者男性とフェミニストはフレディとジェイソン並みの死闘をしょっちゅう繰り広げている(余談ですが、俺は『フレディvsジェイソン』が大傑作だと思っていますし、これを評価しない日本の映画人やら映画ファンやらを小馬鹿にしています。高橋ヨシキくらいっすよ、評価してるの)

 はっきり言って、俺は弱者男性の気持ちが分からない。おらは強者男性だじょー、と威張るほどマッチョではないが、運、環境、才能、努力によって比較的ずっと勝ってきたしそこそこモテてきたので、申し訳ないが弱者男性の苦しみを芯からは理解できない。そこで、良い記事を見つけた。https://note.com/mefimefiapple/n/n6b712e954db8

 長いが、この人の記事は全て一読に値する。現代日本には、女性差別が確実にある。しかし一方で、弱者男性の置かれる苦しみも相当なものなのだと納得できる。一言一句疑問・反論の余地がない、という訳ではないが、理性的に書かれた文章だ。

 この記事を読む前、俺は下記のようなツイートをした。

現代日本は「強者男性>強者女性>弱者女性>弱者男性」なので、強者女性は「(同じ強者なのに)男は優遇されている」と感じるし、弱者男性は「(同じ弱者なのに)女は優遇されている」と感じる。で、ネットで戦ってるのは大体、弱者男性と強者女性。だから議論が噛み合わない。前提、見えている世界が違う。つー仮説を立てたけど、女性でも弱者男性でもないので実際のところは知らないです。

 これは今でも全くの的外れだとは思わないが、記事を読むと、もっと根深いんすね……と考えを改めさせられた。全ての弱者男性とフェミニストが、そして俺のようにそのどちらでもない人々が、攻撃的な闘争ではなく建設的な対話によって、男性優位社会と弱者男性差別の改善を図らねばなりません。改めて、ナイナイ岡村さんの風俗嬢に対する失言について、爆笑問題・太田が長尺で語ったカーボーイ回の素晴らしさを思い出しました。太田光の口から祈りのように繰り返し放たれた「分かり合えるんじゃないか」という言葉は、この一件にも通じるはずです。

 爆笑問題といえば、この前のラフ&ミュージック、ぶっちゃけ音楽と笑いの融合っつーコンセプトは最後までよう分かりませんでしたが、なんだかんだ最高のときのフジテレビでしたね。ナイナイ&中居は画面に映っているだけでめちゃめちゃ楽しく、松っちゃんは相変わらず最強に面白く、爆笑問題は超絶格好良かった。去年、ダウンタウン司会のTBS特番「お笑いの日」の中で松っちゃんが口にした「『笑いの日』を何カ月か前にスタッフがお願いしに来たじゃない? そのときに(ネタ)やらんでええのかなって思った。全然言ってけえへんから、やらんでええんかって。なんで言ってけえへんのかなってずっと思っていた」という発言を俺は忘れていない。しっかりと作り込まれた作品としての漫才は、それこそもう爆笑問題に勝つのは無理なので、ダウンタウンにはコントをして欲しい。ビジュアルバムやごっつええ感じとガキ使を信奉する者としては、コントとフリートークこそダウンタウンの真髄だと思っているからだ。

 最終的に何の話やねん、という感じですが、まあいつものことですわ。ほな、ONE PIECE100巻買いにコンビニ行ってくるんで、この辺で!終わり。

シャマラン監督『OLD』あっさり感想(ネタバレ有り)

 タイトル通り、シャマラン監督の『OLD』を観たので、その感想をば。ツイートするにはネタバレがあるし、かと言って、よく見かけるフセッターってやつの使い方を知らないので、ブログで。

 トリッキーな設定の超常現象モノを観ると我々ワガママな観客は、「この超常現象が起こる理由とは?」という部分もきちんと合理的に、必然性があって主人公達に降りかかった超常現象だと説明されることを望む。これにちゃんと応えたのが『GANTZ』であり、ガン無視したのが『僕だけがいない街』だ。「なぜ死んだ者がアパートの一室に転送されて、異星人達との殺し合いを強いられるのか」という読者の疑問に、GANTZはきちんと筋の通った理由を用意していた。一方、『僕だけがいない街』は、「タイムリープ現象はこの作品世界の中では存在する現象なんです!もうそれは何故?とか原理は?とか理由は?とかいう疑問を持つモノじゃなく、あるものはあるんです!たまたまそれに遭遇した人物の人生を描いているだけです。タイムリープ発生のタイミングがご都合主義過ぎる?ええい、やかましい!」といった塩梅だった。

 もちろん、説明の筋は通っているけど内容がつまんねーな、という作品はいくらでもある。逆に、超常現象の理由とかは考えずに「あるものはある」と受け入れちゃえば面白え〜、という作品もいくらでもある。ホラー映画にいちいち「死後に幽霊として出現する場合としない場合の違いは?どういう法則性があるんだよ、説明しろ!」なんてツッコミは野暮だ。

 で、シャマラン監督の『OLD』である。「バカンスに訪れたビーチの時間の流れが超絶速い」なんて設定は、そりゃ「何故そこだけそんな現象が起こるの?」「主人公達はたまたま訪れたの?それとも選ばれたの?たまたまだったらつまんないよね、選ばれたんだよね?それもきっと、面白い理由で選ばれたんだよね⁉︎」という観客のパワハラめいた疑問と期待が殺到すること必至である。ただ、「時間の流れが異常に速い」なんてのは、「そこだけ地球の磁場が〜」とか「特殊な気候で〜」とか、そういう「あるものはある」系の説明以外を作るのは難しい。そして、それでは我々観客は納得しない。「神が来るべき人類滅亡に備えてノアの箱舟を作り、新世界に連れて行くに値する人間を選抜するために過酷な試練を与えたのだ」みたいな理由でもイケるが、「ああ、そうっすか……笑」感は否めない。

 そこでシャマラン監督は、主人公達がビーチに閉じ込められて早々に、何者かが遠くからビーチの様子を監視していると明示することで、「時間の流れが超絶速い現象自体は、特殊な環境によって存在するもの。あるものはあるのです!ただし、主人公達がこの地を訪れたのは偶然ではなく何者かの意思が働いており、その理由は面白いですよ」というエクスキューズをさりげなくしている。このバランス感覚は、流石に巧いなあと上から目線に感心しました。難しい問いをさりげなく躱して、簡単かつ刺激的な答えを返す論点ずらしのプロ、ひろゆき氏に匹敵しますなあ、という感想は、シャマラン監督に失礼か。

 以上です。あんまり評判良くないらしいですが、最高傑作の『アンブレイカブル』あるいは『ミスター・ガラス』には及ばないものの、映画館で観る価値ありの一作でしたよ。

 あと、シャマラン監督、カメオ出演の範囲を超えてんじゃん、出たがりやなあ、小林賢太郎かよ、とも思いました。終わり。