沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

ブログ開設

ブログを開設した。新年ではなく、あえて大晦日に。インスタは写真を撮るのが面倒、ツイッターは人との距離感がバグった文盲が多すぎる、ということで、ブログである。尤も、定期的に文章を書いて文章力の衰えを防ごう、というのが主たる目的であるから、極論、アクセス数がゼロでも構わない。じゃあメールの下書きに書いとけよ、という話だが、誰かが読むかもしれない、という意識を持たねば書く気にならないし、誰も読まない文章をメールの下書きに書き連ね続けるのは、病んでる人かポエマー志願の高校生か自殺志願者のすることなので、ブログを開設した次第である。

と、眠れぬ真夜中にブログを始めてみた訳であるが、ここに至って、僕自身がブログを殆ど読まない人間であることに気付いた。唯一更新を楽しみにしているのは、「芽むしり」さんが運営している「石をつかんで潜め」というお笑い批評ブログだけである。大江健三郎大先生の傑作「芽むしり仔撃ち」について調べていたら「芽むしり」という名前のツイッターアカウントを見つけ、そのアイコンとヘッダーのチョイスが最高だったためその人のブログも覗いてみたら、これまた最高だったという訳だ。
(ちなみに余談だが、先日、大江健三郎全小説を全巻予約した者だけに届けられる特典が、自宅に送られてきた。お目当ての直筆サイン色紙は、著者のサインだけでなく中野重治の『十月』という詩も直筆で記されてあり、これを予約者全員分書いたのか、と大変感動した。修正液でドボドボに直した跡があるのもご愛敬である。)

さて、自分がブログを読む習慣を殆ど持たない人間だと思い出した訳だが、もう既にアカウントを作ってしまったあとである。書こう。テーマは色々考えた末、お笑いに決めた(本当は、そういう「色々考えた」の部分を面白おかしく活写すべきなんだろうが、面倒なのでやらない)。ただし、お笑い批評ブログではない。お笑い感想ブログである。僕に批評は出来ない。


そもそも批評とは、対象物の構造を分析し、個人的な嗜好を極力排して、その構造の優れた点や瑕疵を詳らかにする、非常にクールな芸のことである……と、僕は思っている。まあ、これが行き過ぎると、現代文の授業みたいなことになる訳である。僕は高校の国語の先生は好きだったが、小説を扱った授業は嫌いだった。
「小説の心理描写には波線を引き、情景描写には傍線を引き、順接には三角形を、逆接には逆三角形を記してマークを付け……」といった塩梅に、問題文として出題された小説を小説として味わうのではなく、図式的に解体するのが嫌だった。作者の魂の結実とでも言うべき文章が、魚を三枚におろすかの如く合理的に切り分けられていくのが、僕には我慢ならなかった。食べられないからという理由で魚の鱗や頭を取り除くのは構わないが、回答に不要だからという理由で小説の瑣末な部分を読み飛ばすように指示されるのは、甚だ苦痛だった。このやり方で小説を読めば、「この小説で作者が伝えたかったことを述べよ」という設問には答えられるだろうが、作者が望んだ形での伝わり方だとは、到底思えなかったのである。ライスとルーと人参と福神漬けと牛肉とをそれぞれ別々に食べさせられ、「料理名を答えよ」と言われているような気分だ。一応カレーライスだとは判るが、これではカレーライスを食べたとは言えない。

こういう不愉快な事態に陥るギリギリの一線、その手前で華麗に身を翻し、読者を楽しませながら斬新な視座を提示する……という離れ業こそ、批評である。先ほど名前を挙げたブログなんかは、まさにこれをハイレベルで体現している。繰り返すが、僕には出来ない。


だから、お笑いの感想や思ったことを書いていく。斬新な視座は提示しないし、思わず引き込まれるような、ユニークで饒舌な文体でもない。でも、書く。「モンスターハウス最終話の騒動に対して、『視聴者こそ本当のモンスターなのかもしれない』とかドヤ顔で言う奴、世にも奇妙な物語タモリにでもなりたいんか」みたいなレベルのことばかり書いていく。そして、誰にも読まれずにネットの海の底に沈んでいく。死体の山のように雑文が堆積していく。だから、沈澱中ブログである。一人くらい、この澱を掬ってくれる人がいてほしいものです……。あれ、メールの下書きではなくブログに書いているのに、これではまるで病んでる人である。アカンがな。終わり。