沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

『時効警察はじめました』に福田雄一を呼んだ奴の鼻梁を殴らせてくれ、マジで三十万円払うから。

こやけ!

色々とバタバタしていて半ば存在も忘れていたブログを、十か月ぶりに更新しやす。理由は、本稿のタイトルを見ていただければ分かるかと思いますが、ブチギレているからです。あまりにも腹が立ったものの周りに『時効警察はじめました』を観ている人がいないから共有できひんし、かと言って心の中に留めておくのは精神衛生上悪過ぎる、Twitterでも始めてブチギレるか、でもTwitterは嫌いや、アレがあるから人々は怒りや鬱屈をスライスして小出しにしよる、怒りは蓄えて蓄えてぶちまけてナンボやろ、Twitterの普及によって為政者に浅い傷をちょこちょこ付けることは可能になったが、デモは廃れ、革命の可能性は死んだ。プスプスプスプス屁ェみたいに怒りを小出しにすなよ、我慢して我慢して、巨大なクソを捻り出せ、あほんだら! と自室で一人声を荒らげたときに、ふと、「あ、ブログ始めたんやった」と思い出したのです。

さて、では始めます。え? お前も怒りを蓄えろって? 違う、こちとら今まで散々、福田雄一作品に対する怒りを溜め込み続けてきたのだ。それでも、「ああ、福田雄一は多分、映画とかドラマを軽んじてんねやろなあ、テキトーに仕事してんねんなあ、オモロい作品を撮ることよりも撮影後の打ち上げの方が楽しみなんやろなあ。でもまあ、もうええわ。勝手に自分の庭で遊んでてくれれば、こっちももう立ち入らへんし。世界中の全員がその庭で遊ぼうとも、俺が絶対に立ち入らんかったら済む話や」という悟りの境地に頑張って到達していたのだ。それが今日、「時効警察」という美しい枯山水の日本庭園を覗いてみたら、福田雄一が「ガハハハッ!」言うて笑いながらバケツで水をバシャバシャと撒き腐ってたんやから、そりゃブチギレまっしゃろ。

あ、文章がガタガタかもしれませんが、眠い目をこすりながら深夜に書いている、ジョニーウォーカー18年をストレートでやりながら書いている、っちゅうことで、まあ許してください。第一、福田雄一作品を批判するのに、流麗な文章で、巧みな構成で、なんてあほらしい話や。ゴキブリを叩くのにフェラガモの靴を手に取る奴がいるか? 薄汚いボロッボロの、捨てる寸前のスリッパでええやろ。

それから、もしこのブログを読んでいる人の中に「時効警察好きやけど、二話は福田雄一脚本かあ……観んのどうしよかなあ」と悩んでいる方がいらっしゃいましたら、即座に録画を消してください。福田雄一かあ、と一秒でも悩むタイプの人は、見終わった後、確実に目から光彩が失われています。

かつて、「伊集院光 深夜の馬鹿力」のオリジナルカルタを送るというコーナーの「大人のなんでだろう」回にて、「笑いの最高峰が岡崎体育という共通認識の男女のグループの中で免許合宿がスタートしたのだけれど、一日目の昼休みに既に限界を迎えていたのはなんでだろう」という最高に意地の悪いネタが読まれたことがあるのだが、いつぞやのMステはなかなかになかなかだったとはいえ、岡崎体育は基本オモロいし、そもそも岡崎体育を笑いの最高峰だと思っている人間は多分いない。ファンは彼のことを当然好きだろうが、それは楽曲のクオリティや岡崎体育という愛すべき人そのものを支持しているだけで、別に笑いの最高峰と思っている訳ではないだろう。それよりも令和を迎えた我々が真に受け止めなければならないのは、福田雄一作品における佐藤二朗ムロツヨシのやりとりが笑いの最高峰だと思っている人々の存在である。「佐藤二朗が台詞を噛んでグダグダになり、新井浩文の友達が懸命に笑いを堪える」という姿を見て「下手な芸人より面白い」と笑う人々の数は、僕のように舌打ちをする連中の数を遥かに上回る。この文章を読んでいる方がもしいたとして、あなたは恐らく社会人だと思うのでご存知ないだろうが、現役大学生として体感を申し上げておくと、大学生の福田雄一支持率、マジで半端ないですよ。福田雄一ディレクトした『銀魂』は稀に見る実写化作品の成功例という認識、なんなら、腐りきった日本映画界の数少ない希望、みたいな感すらあります。

人の好みは自由だ、というのはもちろんですが、やっぱりどうにも、福田雄一作品が人気を博すというのは僕には耐え難いものがある。ぬるいだけの笑いが「ゆるい」と評価されることが、心底嫌である(この世で「ゆるい笑い」というワードを使っていいのは、漫画『しろくまカフェ』だけだ。あの漫画はゆるい。ただ、動物と人間が共存している世界なのに動物園が存在し、主要キャラのパンダはそこで見世物パンダとしてバイトをしている、という設定はなかなかトリッキーで攻めている)。福田雄一作品にちょこちょこ出演して親交がある菅田将暉を役者として大好きだし、僕はバイセクシュアルなんでその視点から言ってもすごくタイプなのだが、『銀魂』の新八姿を見ているときの僕は完全に死んだ目をしていました。辛い。自分の好きな人が自分の嫌いな人と自分よりも仲良くしている姿を見るのは、とても嫌なものである。しかし、生きるということはそういうことだ。

僕は福田雄一作品を支持する人達の感性を否定はしないし、小馬鹿にもしない……と書こうと思ったが、嘘は吐けないので正直に白状すると、僕は心の底から愛する自分の彼女が、福田雄一監督のドラマ『今日から俺は!!』や実写映画『銀魂』に対して面白かったという感想を口にしたとき、心が薄い皮膜で覆われていくのを感じたし、多分、全く面識のないアホそうな男が「福田雄一、マジ神」と口にしていたら、口の端を痙攣させて陰湿な笑いを洩らすと思う。「作品を批判するのは構わないが、作品のファンを批判するのはダメだ」という言説がいつの頃からかネット上を席巻しているが、この言葉は紛れもなく正しく、そして正し過ぎるが故に、正しくない(余談だが、「何かを褒めるときに他の何かを貶めるのはダメだ」という言説もあるが、これに関しちゃあまりにも綺麗事だ。何かを「定義する」とは、その定義から外れるものを除外することと等しいように、何かを「評価する」際に、他のいかなるものも比較参照しないことなど、原理的に不可能だ。役者が格好良かった、演技が真に迫っていた、とかならいくらでも言えるが)。

僕はまあ、とにかく福田雄一作品のお仲間感、内輪ノリ感が嫌いで(同じく批判されがちなとんねるずの内輪ノリ感は全然好きなんやが)、傑作『シャザム!』の吹き替え監修に福田雄一(名前が長い。以下、fと記す。fuckのfやなしに、fukudaのfね)が就任したのはまあ、日本の配給会社がクソバカの集まりであることは今に始まった話じゃないのでもうどうでもよかったし、これまた傑作『50回目のファースト・キス』をfがリメイクすると聞いたときも、「俺は見いひん!」と目を背けたのでまあどうでもいいし、彼女が面白いと語っていたから観てしまった『今日から俺は‼』も大概酷かったが、面白いと言ったのが可愛い可愛い彼女なんでまあしゃあないと苦い微笑を浮かべるくらいで済んだし、実写版『銀魂』もまあ、何やかんや言うて菅田君が可愛いのでギリトントンって感じだったが(原作ファンからも評判良いみたいやけど、実写版『銀魂』って、漫画『銀魂』を面白いと感じるタイプの人が一番嫌いそうなノリですけどね。不思議ですわ)、『時効警察』だけはホンマに勘弁してほしかった。なんで呼んだんや? 誰が呼んだんや? 弱味でも握られたんか? と訝りたくなるクオリティでしたよ、f脚本の二話。

最大にして最悪な点が、三日月くんの心の声垂れ流しだ。副音声に頼るな、『バケモノの子』か。余談やけど、『バケモノの子』、なんで闘技場での熊徹と猪王山の戦いで、九太に開口一番「負けるな!」って叫ばせへんかったんやろ。指摘してる人を見たことないけど、あそこは絶対、「負けるな」ちゃうの? 

まあ、それは置いといて、あの三日月くんの心の声の演出だけで、fが絶対に『時効警察』を観てへんことが分かる。歴史あるシリーズ作品の中の一話を任されたのに碌に準備せず挑んじゃう辺り、ホンマに視聴者や創作物を舐め腐ってるので、とっとと引退して欲しい。もし全作観た上で、自分の色を出すための「あえて」やったんやとしたら、センスがなさ過ぎるのでやっぱり引退して欲しい。

表情やちょっとした仕草なんかで三日月くんの気持ちを言葉を使わずに語らせるのがドラマの醍醐味ちゃうんかい、大体過去作で、「心の声を実際に口に出しちゃう三日月くん」っちゅう描写があるのに、あんな大量にぼろぼろと心の声を喋らすな、ダボ。

全体的にギャグも薄いし、噓を吐いたサインが脇汗いうのも鼻くそみたいな発想やし、『今日から俺は!!』のパロディ、小ネタなんかに至っては、おのれのお庭でお仲間と一緒にやっとけやっちゅう話である。

あと、ミステリ小説のトリックを劇中で何個か挙げてたけど、楠田匡介の名前出そうが、仮に梶龍雄の名前出そうが草野唯雄の名前出そうが中町信の名前出そうが、fの脚本の質が上がる訳ではないからな、と釘は差しておきたい。fのどや顔が目に浮かぶので。

ほんで最後の最後、三日月くんは心の声で「霧山君、やっぱり今回もあなたの心に辿り着けなかったわ。あなたはいつでもミステリー」言うて終わるけど、そんなサブいことを言わせんとってくれ、三日月くんに。

こんだけ過剰なほど繰り出される心の声は、もしかしてあとあと何かしら意味を持つのか? 効いてくるのか? と期待した俺がアホやった。fやもん。意味なんかあるはずない。 ほんでシリーズお馴染みの「このドラマはフィクションです。」表記は、「何も思いつかないので僕の妹にフィクションに似た言葉は?と聞いたところ ローリングストーンズはサティスファクション インポッシブルはミッション サブスクリプションはビジネスモデルの一つ 間仕切りはパーテーション ベルリン国際映画祭金熊賞などと返事はきましたが、このドラマはフィクションです。」やったけど、ホンマにうざいし、長いし、しつこいし、くどいし、センス無い。過去の回を見いよ。もしくは、そんくらい長くするなら、矢作俊彦先生の最高な小説『あ・じゃ・ぱん!』の冒頭、「アテンション・プリーズ。このフィクションは小説です。あらゆる物語はロマンスなので、登場する団体名、会社名、及び個人名と現実のそれらとは一切関係がないなどと誰に断ずる権利があるでしょう」くらいの切れ味とクールさを兼ね備えんかいっちゅうねん。

ホンマにクソつまらん、どころか、腹立たしいことこの上ない回でした。僕は、ちん毛の如くいつまで経っても何処かからひょっこり出てくる淫夢厨を死ぬほどサブいと軽蔑しているし、「まーん」「まんさん」という単語を使う奴は脳味噌に蛆が沸いていると思っている。フィクションに登場する殺人鬼の肉付けが「サイコパスやから」で済まされるのを見るたびに、「なんちゅう安易さ。サイコパスやからシリアルキラーです、って、サイコパスも人間やろ、その言葉はそんな軽々に扱ってええもんと違う」と思ってきた。同様に、「原作レイプ」という言葉も、それを言っている奴らの性犯罪に対する軽過ぎる認識がしばしば垣間見えていたので好きではないが、『時効警察はじめました』の第二話を見た僕の脳裏には、この言葉が過ぎりましたよ。

フィクション作品を生身の人間のように尊く美しいものだと考えている僕からすれば、「時効警察」へのリスペクトの無さ(もしくは、シンプルにクリエイターとしての絶望的なセンスの無さ)がむき出しになったfの脚本回が紛れもなく「時効警察」の一話として刻まれてしまったという事実は、レイプという最悪の連想をするほどショックでした。

さて、文句は以上だ。fさんは、さっきも記したが、自分の庭でこれからもあんじょうやってくれたらかまへん。KKPの『Sweet7』のナッペの件とかと違って、fさんの作品における「演者が笑いを堪え切れずに思わず吹き出してしまうサマ」はクソ面白くないが、まあ自分の庭でわいわいしてくれたらよろしい。「頼むから時効警察の過去シリーズを観たり、シティボーイズの公演を三木聡演出回だけでもええから見てくれ」なんてことは言わない。ただただ、近寄らないでさえいてくれれば。

ムカつくのは、そんなご陽気fさんを起用し続けている連中やが、まあそれもしゃあない。fを起用したら作品が売れんねやろうから、映画会社やテレビ局がfを使うという選択は正しい。当然の選択だ。彼らは創作物に関する仕事に携わっているというだけで、作品に助言する出版社の編集者なんかとは違い、徹頭徹尾ビジネスマンなんやろう。

ただ、「時効警察」がそれをするんや、という悲しさはあった。マジで、fに脚本を書かせたんは、誰の意向なんやろか。三木聡なんやとしたら、どういう意図やったんかをホンマに訊きたい。

もし仮に、テレビ局の上層部やら何やらが、つまりは、高級スーツに身を包んではいるが、スーツのボタンを閉じたまま着席して平然とジャケットの形を崩すような連中が、「時効警察? ふーん、いいんじゃない、放送して。fとか人気だからさ、彼は呼んでね。それが企画書にゴーサインを出す条件だ」なんつって安易に依頼をさせたのだとしたら、僕はマジでそいつを許せない(まあ、こんな戯画的なことはないにしても、割と同レベルの話はあるんちゃうやろか)。でもそのおかげで「時効警察」の続編が観れたんやんか、一話くらい我慢しいな、なんちゅう小賢しい正論如きでは、僕の煮え滾った怒りは鎮火できない。

最後にタイトルに記したことをもう一度再掲するが、『時効警察はじめました』に福田雄一を呼んだ奴の鼻梁を殴らせてくれ、マジで三十万円払うから。以上、終わり。