沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

「教養のある笑い」を称揚する諸君は、『大日本人』を評価してんねやろな?

 「教養のある笑い」という言葉がよく使われますが、「戦争は続くよ どこまでも」という記事でも書いた通り、僕は松本人志監督の『大日本人』を傑作だと考えているため、お笑いファンやダウンタウンファンも含めた大勢の人々が『大日本人』を駄作やと断じている時点で、そんな人々が語る「教養のある笑い」など価値がない、と思っています。

 ただ、『大日本人』に対する批判は、「こいつはオモチャにしてもいい」と決めた瞬間に寄ってたかって袋叩きにするようなカスばかりのインターネットが生み出した、「松本人志、才能枯れたww」というノリに依るものかもしれません。ノリに迎合した無思想な連中が叩いていただけで、そいつらは多分、今頃水曜日のダウンタウンを観て腹を抱えて笑っているはずなので、もしかしたら将来、死後に評価されたゴッホの如く『大日本人』も評価されるかもしれません。そう信じて、辛抱強く待ちましょう。

 しかし、とはいえ腹が立ちましたね、あの松本人志disブーム。特に「ナンシー関が生きていたら、今の松本人志の醜態を何と斬っただろう」とかほざいてた奴。ナンシー関を神格化してその著作を聖書みたいに崇め奉るのは勝手だが、その聖書で今を生きる人間をぶっ叩くな。確かに僕もナンシー関は好きで、彼女の着眼点と舌鋒鋭い文体の凄さは半端無いと思っているし、「水曜日のダウンタウン超面白い! ナンシー関が生きてたら、なんて言ったかな?」っちゅうパターンなら全然ええけども、「ナンシー関が生きていたら、このくだらない芸人をどのように斬ってくれただろうか」とか言うことで自分の格も一段上がったような気になっている奴には、拘束椅子に縛り付けて勇者ヨシヒコ以外の福田雄一作品を全部観させる、というルドヴィコ療法を強いたい。「ナンシー関が生きてたら……」っちゅうツイートに「ナンシー関はもう死んでいる」ってリプを飛ばすためだけのアカウントを作りたいくらいムカついてます。自分の気に食わないものを叩っ斬るための道具に、ナンシー関を使うなや。ナンシー関の名前、そんな軽ないで(cv.アウトレイジビヨンドの西田敏行)。「ナンシー関が生きてたら」「ナンシー関が生きてたら」っちゅうけど、ナンシー関が生きてたら多分、「ツイッターって、自分一人で喧嘩できずに虎の威を借る輩が多いな」って言うと思う。もしくは本人もツイッターアカウントを開設して、偏見に塗れた芸能人disをして、炎上してると思う。

 とまあ、この「ナンシー関が生きてたらって言う奴は鬱陶しい」という事実は既に、高橋維新のお父さんもメディアゴンの連載でその著作を絶賛していた、でお馴染みの武田砂鉄氏によって指摘されている訳で、怒りに任せて今更新鮮味のないことを長々と書いてしまった、と反省。

 反省ついでにもう一つ、ファンの神格化が鬱陶しい人物を挙げておくと、上岡龍太郎である。ぜんじろうの師匠だ、と言うとアレだが、上岡龍太郎は超面白い。でも、上岡龍太郎のオカルト否定論はあくまでも即興エンターテインメントだから振り返って見れば当然穴があるし、余裕で反論の余地はある。「ホンマに幽霊がおるなら、広島球場でバースがホームラン打つはずないやないか!」っちゅうのは最高に面白いし、「検証もせずに心霊動画を垂れ流すテレビは無責任」っちゅうスタンスにも首肯できるが、上岡龍太郎のオカルト否定論に何の留保も補足もしないまま「上岡龍太郎の言う通り! オカルト肯定派、バーカ、バーカ」って嗤ってる人達は、オブラートに包んで言うが、あまり頭がよろしくない。多分、ネットで上岡龍太郎を盲目的に持て囃している人達の六割以上は、キンコン西野が近大卒業式で披露した時計の針漫談をもし上岡龍太郎がしていた場合、深イイ! レバーを前に倒してると思う。

 幽霊だ超能力だ宇宙人だってのは現状完全には肯定も否定も出来ない訳で、「そんなものは非科学的だ。あり得ない」って科学のことなんか碌に知らないくせにドヤ顔かます人々は、「この写真の影! これは幽霊ですよ! 怨念ですよ!」って目を血走らせる連中と同レベルです、ベクトルが真逆なだけで。

 それと、ネットでやたらと人気の「EXテレビにて、上岡龍太郎がスタジオで一人きりになり、丸々一時間過激テレビ論を語る」という回、あれは確かに僕も某Tubeで違法視聴して、爆笑問題の漫才のように題材は古びても視座は古びないな、面白いなと感じたが、ちと持ち上げ過ぎな気もする。僕が天邪鬼でひねくれ者だから、というのもあるのだが、何より、コメント欄に溢れる「流石は上岡龍太郎上岡龍太郎が引退してからテレビはつまらなくなった、見なくなった、今のテレビはつまらない、教養や知性がない、騒がしいだけ」というコメントの数々にイラついたから、というのが主たる理由だ。昔だってつまらない番組は数多あり、今だって面白い番組は数多ある。こうした盲目的な上岡龍太郎ファンは、物事に対する上岡龍太郎の視点の鋭さは褒めそやすが、相席食堂の西川のりお回で千鳥の二人が土佐かつお太鼓持ち感に瞬時に目を付け、笑いどころとなるように視聴者を誘導した視点の鋭さや、水曜日のダウンタウンで矢作が勝俣を「芸能界三大愛妻家、落合博満、ペタジーニ、勝俣州和」とイジった際に、すかさず「嫁の趣味特殊な人ばっか」と口を挟んだフット岩尾の頭の回転の速さなどは、決して褒めない。というかそもそも、それらの番組を見てやしないだろう。

 僕は、知性や教養のないお笑いも最高に面白いと思っている。それに、一見そう見えるお笑いの中に、緻密な計算や巧みに形成された流れといった知性を感じることもある。あと、上岡龍太郎なきテレビは知性も教養もない騒がしいだけの笑いだ、と語る人は、バスター・キートンやドリフの笑いも「騒がしいだけ、体を張ってるだけ」と切り捨てるのだろうか、というのも疑問だ。

 また、上岡龍太郎が「横山ノック立川談志と並んで自身の心の支柱となる三人のうちの一人だ」と語る桂枝雀の落語なんかは、結構顔芸や誇張した口調で笑わせることも多い。最近のお笑いを否定する上岡龍太郎の厄介なファンの中には、桂枝雀の落語を面白いと言う人が結構いると思うが、では何故ハリウッドザコシショウの誇張し過ぎたモノマネはダメなのかを教えてください。どっちもオモロいですよ、ヘアースタイル一緒やし。

 大体、上岡龍太郎の一時間一人喋りを「面白い、凄い、こんな芸人今はいない」と言う人は絶対、深夜の馬鹿力を聴いていない。「日本の笑いのレベルは低い」と言う奴は何故か、そう言う割にテレビにだけこだわり、ラジオにも舞台にも手を伸ばそうとしないからだ。それにもし仮に馬鹿力を聴いたとしても、「おちんちん」といったワードにだけ過敏に反応し、「知性がないトーク」と判断するだろう。「教養のある笑い」が好き、と語る人の「教養がある」判断基準は、薄っぺらいことが多いからだ。以前、文部科学省が道徳の教科書の「パン屋」という表記を「国や郷土を愛する態度を養うため」というトチ狂った理由で「和菓子屋」に変更させたことがあったが、まさに同レベルと言える。

 余談だが、上岡龍太郎ファン以外だと、Aマッソファンの言う「教養がある」の基準もなかなかキビしいものがある。【加納演じる娘が延々と芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の本文を読み上げていき、村上演じる母親が「もういい加減にしなさい! 黙りなさいって言ってるでしょ! なんで蜘蛛の糸ばっかり諳んじるの!」と怒る】というコントに対して、「諳んじる、なんて言葉を使うのは凄い、教養を感じさせる」と褒めているファンの人達が結構いたのだが、「諳んじる」という語を選択しただけで褒められるって、そんなにコントっちゅうのはレベルの低い創作ジャンルなんかね? 小学生の作文やないねんから。たとえば、「幼い子供のくせに大人びた口調や物の考え方をする」というコントで、子供の格好をした芸人が「諳んじる」という言葉を使えば、「子供のくせに子供らしくないというキャラクター性を印象付けるために『諳んじる』を持ってくるのはセンスがある」と褒められるのも分かる。だが、どうもあのAマッソのコントにおける「諳んじる」を絶賛していた人らは、「諳んじる」という語が使われたという、ただそれだけの事実でもって褒めていたような気がするのだ。というか現に、「コントで諳んじるなんて使われてるの、聞いたことないぞww」や「諳んじるなんて言葉、初めて知った。凄い、やっぱ教養あるなあ」ってコメントがいくつもありましたし。あ、長々と愚痴を言いましたが、僕はAマッソ好きですよ。村上派です。

 あとラーメンズの「不思議の国のニポン」とかも、あのコントの構成の妙や発想のキレなんかは確かに小林賢太郎の教養を感じさせるかもしれないが、「このネタはある程度の教養がないと楽しめないからなww。つまんないって言ってる奴はそういうことだろww」みたいなコメントをしている大半の人が意味する「ある程度の教養」って、どうも「四十七都道府県に対するざっくりとした知識」くらいの意味合いな気がする。根拠はない。文面から推測した偏見である。

 しかし、ラーメンズは最近減ってきた印象があるけど、Aマッソって厄介なファンが多いですよね。まあ、厄介なファンが多い、ってのは、カリスマに必須の条件ではありますが、Aマッソが無料イベントで大坂なおみに関する人種差別的なボケをした件に関して、「差別って言う方が差別です」みたいな小学校でしか通用しないはずのロジックを振りかざすことでAマッソを擁護していたファンの厄介さは、いずれAマッソの未来を滅ぼしかねないと思いました。

 あの発言に関してはあとで触れるとして、個人的には、2018年の紅白に出場したSuchmosを「NHKで尖る〜♪」とイジっていた方が気になりましたね。「臭くて汚えライブハウスから来ました。Suchmosです。よろしく」ってのは、「紅白がなんぼのもんじゃい」という尖りではなく、そんな場所から始めた自分達が紅白の舞台に立つまでになったという感慨、それでもそういう場での経験が自分達のキャリアを作ったのであり、あくまでもホームは臭くて汚いライブハウスだ、という矜持を込めた言葉でしょう。確かにそれは言わない方がクールだし、あの場で言うのはなんとも青臭い。他の紅白出演者だって同様の感慨はあるだろうし、しかも彼らはそれを口にしていないのだから、「それ、言うてまうんや」という格好悪さもちょっぴりある。東京03の「美談」におけるラブピエロ角田みたいだ。でも、それを視聴者が面白半分にイジるのはまだしも、Aマッソがイジるのは、個人的には堪らなく悲しかった。だって、臭くて汚えライブハウスから紅白に行ったSuchmosの楽曲はやっぱり格好いいし、Aマッソの普段の尖り方も正直、臭くて汚えライブハウスから紅白にまで上り詰めたと紅白の舞台で口にしちゃうSuchmosみたいに、めちゃくちゃ青臭いからだ。Suchmosのアレをそのままストレートに「 NHKで尖る〜♪」とイジった安易さは、「女芸人の扱いに物申す、意識高い系尖りww」という揶揄の安易さに等しいと、僕は思う。

 さてさて、では問題の発言に話を戻そう。先に結論を言うと、あの発言は駄目だと僕は思います。ただ、アレは「全ての質問に薬局にあるもので答える」という設定の漫才で、「大坂なおみに必要なものは?」っちゅう問いに対する答えとしての「漂白剤。あの人、日焼けしすぎやろ」だった訳で、彼女らにとってはある種の大喜利的感覚に基づいたボケというか、KKKのような白人至上主義者が抱いている「意識的な」差別心の発露ではないと、僕は思っている。

 これから言うことは、二人のネタや多少パーソナリティが窺える動画などを観てきた一ファンとしての意見なので、「根拠がない」と言われればそれまでですが、「女芸人」という安易な属性に押し込まれるのを頑なに拒んでいるAマッソの二人が、黒人差別なんちゅう安易なレッテル張りの頂点みたいなもんに、「嬉々として」加担するとはどうしても思えないんですよ。結果的に加担はしたが、意識の問題として、です。あの発言は、「攻めたことを言ってウケを取りたい」という意識や「攻めてる芸人だと思われたい」という意識の発露ではあったかもしれないが、人種差別を目的/意図したものでは絶対になかったはずです。そんな意図はなかった、なんちゅうのは失言をした政治家のゴミみたいな言い訳であり、Aマッソの二人のあの発言に関しては、意図はどうであれ、立派な人種差別として受け取られ、批判されて然るべきだとは思う。誤解を招く表現だった、なんちゅう政治家のゴミみたいな言い訳ver.2を言うつもりもない。誤解ではなく、ストレートに解釈して、人種差別的やな、と判断されて仕方がない発言だ。

 つまりあの発言は、「意識的な差別心の発露」ではなく、「無知による問題意識の低さ」「人種差別問題の軽視」が招いたものである。すなわち、「無意識的な差別心の発露」だ。某おわライターは、件の発言を「内なる差別心の発露ではないと考えるのが自然」であり、「差別心から発した本物の差別発言ではなく、無知や誤解からたまたま生じた差別発言」と書いていたが、意識的ではなく無意識的だとは言え、あの発言は間違いなく内なる差別心の発露であり、無知や誤解から「必然的に」生じた差別発言だ(てかね、自戒を込めて言いますが、差別心っちゅうのは往々にして無意識的なんですよ。そして、だからこそ厄介な訳です。「黒人は劣等種族だ、ぶち殺せ!」みたいなのだけが差別心やと思うたら、大間違いです)。

 あと、「漂白剤、ってところだけ切り取られてるけど、そのあとにちゃんと『日焼けしすぎやろ』って言ってるから。人種差別じゃない」というトンデモ理論で擁護している人も割といたが、「日焼けし過ぎ」って言葉なんざ、アホなファンがそうやって擁護してくれるだろう、自分達も「日焼けっちゅう意味ですがな。黒人いう意味やおませんで」と言い逃れできるだろう、っちゅうチキン丸出しの保険に過ぎない。もしくは「いや、日焼けちゃうやろ!」という観客のツッコミを想定したボケであって、Aマッソが本気で大坂なおみを日焼けして肌が黒い人として扱っていた訳がない。もし本気でそう思っていたのなら、それはそれで今度はお笑い芸人として致命的だ。多くの人が知っている事柄を知らない、かつそんな全然知らない人物をネタに組み込んじゃうってのは、漫才師としていかんでしょ。

 「松崎しげるなら許されるだろうに、大坂なおみは許されないなんて。むしろそっちの方が差別では?」という、「他のみんなも騒いでたのに、なんで僕だけ叱るんですか、先生。僕を差別してる!」みたいなレベルの愚痴もようけ見掛けましたが、完全に日焼けによって創り上げられた肌の黒さを持つ松崎しげるを取り上げて「漂白剤。日焼けし過ぎやろ」と言うのと、生まれつき黒い肌を持つ大坂なおみを取り上げて「漂白剤。日焼けし過ぎやろ」と言うのでは意味が全然違うということを、本気で分からないのでしょうか。あんな取って付けたような「日焼けし過ぎやろ」でAマッソを擁護するのは、いくらなんでも無理筋過ぎる。

 まあ、Aマッソファンとしては擁護意見を言いたくなる気持ちも分からないではないが、でもやっぱり、「あの発言は無問題だ、芸人というのは非常識なことを言って云々」「肌の色差別は駄目でハゲ差別、ブス差別はいいのか。人種差別って過敏に騒ぐくせに、容姿イジりはスルーすんのかよ」という風に擁護している大半のお笑いファンの方々は、黒人に対する差別の歴史についてあまりにも無知過ぎます。笑いの本質の一端はいじめであり(僕の知る限り、爆笑問題を除く全ての芸人がいじめといじりは別物と言っていますが、僕は同じだと思っています。笑いは、というか映画も小説も漫画も、差別に大きく依っています)、僕もよくそうしたいじめが核にある笑いを見て笑っていますが、「人種」や「肌の色」というのは、そう簡単に笑いのネタにできるものではないでしょう。

 「傷付く人がいるからという理由で人種差別をネタにするのが駄目なら、ハゲもブスもデブもネタにしたら駄目やし、ウザい奴やムカつく奴の言動も駄目やし、何もかも笑いの対象にできなくなる」というのは、「人を傷付けてはいけないという理由で殺人が駄目なら、殴るのも駄目やし、暴言も駄目やし、大声で怒るのも愚痴を言うのも駄目になる」に近い極論でしょう。人種も民族も宗教もハゲもブスもデブもウザい奴も田舎者もおバカも童貞も、ネタにすれば誰かしら傷付く人はいるんですよ。「誰も傷付けない笑い」という、ダウンタウンが嫌いでサンドウィッチマンが好きな、そして、佐久間一行のことは存在すら知らない人がよく言うセリフは、大いなる欺瞞を孕んでいます。

 笑いの本質の一端にはいじめや差別がありますが、それでも、歴史的な出来事を鑑みて、工夫なく扱っても笑いのネタになる差別とならない差別の線引きはすべきです。少なくとも、「地下のアングラだけでひっそりやっているならまだしも、表に出た場合には批判されても文句は言えない」という線は、どうにかして引かなければならない。「 Aが駄目ならBもCも駄目で、全部駄目になる、だから Aもオッケーにすべきだ」というのは、思考停止に過ぎません。「芸能レポーターなんて賤業やろ」と「畜産業なんて賤業やろ」では、意味が全く違う。京都人差別とユダヤ人差別では、意味が全く違う。AはいいのにBはダメなんてダブスタだ、じゃないんですよ。差別を(お笑いを含むあらゆる)創作のネタにするなら、対象に関する歴史的文脈の考慮は必須でしょう。

 1.肌の色に関する安直なボケを、2.個人名を出して(しかも大坂なおみというチョイス)、3.カメラの入っていない自分達の単独ライブではなく、Aマッソ主催ではない無料音楽イベントで披露した(この三つ目のミスが何気に超デカい)……ということで、 Aマッソはスリーアウトです。ネテロ会長が言うところの、「そりゃ悪手じゃろ」ってヤツだ。

 でも、Aマッソの二人は蟻んこじゃないし、況してや人種差別主義者なんかでは絶対にない。無意識的な差別心は抱えていたが、人種差別「主義」者ではない。一度最低な発言をしたからって、必ずしも最低の人間だということにはならない。口を滑らせる、筆が滑る、なんちゅうのは、どんな人間にだってあることだ。バイキングの坂上忍くらい口を滑らせ続け、百田尚樹氏のツイートくらい筆を滑らせ続けていれば、最低の人間だと断じてもいいかもしれないが、たった一度の発言で、最低な人間性、最低なコンビだと断じないで欲しい。

 況してや、漫才のネタ中の台詞なのである。芸人が提示する価値観と観客の持つ常識の差異の中に、笑いは生じる。その差異を狙った結果、笑えない差別になってしまったのだ(どうでもいいが、あのボケで笑っていた会場の人々と、僕は多分一生相容れない)。繰り返すが、Aマッソのあの発言は漫才中の台詞だ、ということを認識して欲しい。ネタだから構わない、という意味ではない。ネタだから、本人達の思想には必ずしも直結しない、という意味だ。無論、直結する場合もある。でも、少なくともあの発言は、直結はしない。無意識的な差別心と、攻めた笑いをせねばというAマッソのSuchmos風尖りが、トムブラウン的悪魔合体をしたことによって生み出されたのが、「漂白剤。日焼けし過ぎやろ」だ。Aマッソの二人が常々、大坂なおみに対して漂白剤で肌を白くすべきだと思っている訳では決してない。根拠? ゲラニチョビを全部観りゃ分かる。かの高橋源一郎は、誰かを批判するコラムを書くときは、当該人物が上梓した書籍を極力全て読むらしい。そこまでしろ、とは言わないが、ネットニュースの概略だけで、Aマッソを人種差別主義者と断じないで欲しい。芸人差別だ、なんてエセナンシー遠田みたいな戯言を言うつもりはないが、一度のアウトを許さずに徹底的に糾弾する過剰な正義心は相当に危うい、とは述べておく。

 超長くなったので僕の意見をまとめると、「Aマッソのあの発言は彼女達の意識的な差別心の発露ではなく、無意識的な差別心が『攻めたネタをしたい』という思いによって増幅され、発露したもの。結果としては笑いにならない差別であり、批判されても仕方がない。でも、Aマッソは差別主義者じゃないと僕は信じているし、今回の件が差別になるのだということを認識した(無意識的な差別心を意識した)はずなので、もう許して欲しい。早々に謝ったことやし」だ。典型的なほどダメな謝罪構文やったけど、それはまあ、ナベプロの責任である。

 いつの日か、「臭くて汚いライブハウスから来ました、Aマッソです。よろしゅう」ってM-1の決勝で言うて欲しいですね。と思ったら、今年出てないんかい。

 あ、書き忘れがあったので追記。「漫才という舞台で、ボケという異常な役割を演じるキャラクターが異常な発言として人種差別的発言をすること」と「映画という舞台で差別意識に染まったキャラクターが人種差別的な発言をすること」は、似て異なるものです。前者が「差別的な表現」ではなく「差別を扱った表現/差別を内包した表現」と見做されるのは、後者の場合よりよっぽど難しい。漫才は映画などよりも虚構性が低く、演者と本人がどうしても地続きに感じられてしまいますから。

 もしも、加納が完全に無邪気で天然で頭のおかしいヤバい奴にしか見えないキャラを見事に演じた上で「漂白剤。だって、お肌は白いほうがええもん」などと『十三人の刺客』のゴロちゃんばりにサイコ感漂う絶妙なトーンと間で言い、村上がキレ気味にツッコむ(orドン引きする)……という漫才だったならば、あるいは、村上も加納の発言に「せやんなあ」と当たり前の如く賛同して「ヤバい奴二人の会話」という異常な虚構世界を提示していたのであれば、僕は完全にAマッソの漫才を擁護していたと思います。

 目的にはしていなかったはずですが、結果として、Aマッソは笑いを差別に使ってしまいました。駄目です。差別を笑いに使うのです。

  Aマッソはとりあえず、『有吉弘行のドッ喜利王』におけるアントニーと有吉の絡みとか、『テベ・コンヒーロ』におけるボビーの米俵の件を観て、「差別に対する自覚の有無とそれを取り扱う際のバランス感覚」について思いを馳せてみましょう。

  ただ、Aマッソを痛烈に批判していた人々に言いたいのは、世の中から差別をなくそうとするなら、無意識的な差別心を抱えた人に対しては、そのアウトな言動を注意し、無意識的な差別心を認識してもらうことが大切だということです。無意識的な差別心を抱えた人がやらかしたときに、その人を意識的な差別主義者として徹底的に糾弾するのは、却って「やっぱ差別、差別うるせえ奴はウザい」と反発を招き、彼/彼女らを本物の、意識的な差別主義者にしてしまいかねません。尤も、今回の件でAマッソの二人がそうなるとは思いませんが。だって、あの二人は教養がありますから。諳んじるって言葉を知ってるしね。

 しかし、爆発的には売れていない芸人が臭くて汚えライブハウスで披露する安易な黒人差別ネタを大勢のお笑いファンは絶賛するのに、芸人として天下を取っていた松本人志が監督した『大日本人』を酷評するのは、どうしてでしょうね。穢多を扱った映画ですよ、尖り過ぎでしょ(穢多=穢れが多い、という表記は好ましくないので、以降はエタと表記します)。

 『シン・ゴジラ』を観て、「ゴジラ東日本大震災のメタファーで~、最後の作戦は原発作業員のメタファーで~」なんちゅうて得意げな顔をしてるそこのあなた、あれはメタファー(隠喩)ではなく、直喩です。古畑任三郎を観て、刑事コロンボの影響を感じるね、って言うてるようなもんです。そんなにメタファーという言葉を使いたいのなら、松本人志監督の『大日本人』はエタのメタファーである、と言いなはれ。

 『大日本人』が表象するエタのイメージを、マジで誰も感じ取っていないのか? 指摘しているのが菊地成孔氏だけってのは、結構ヤバいでしょ。興行収入11.6億円やのに。キューブリックの『シャイニング』にネイティブ・アメリカンのイメージを感じ取る人も、黒沢清の『カリスマ』に天皇のイメージを感じ取る人も少なくないのに、『大日本人』にエタのイメージを感じ取る人がこんなにもいないのは何故だ。

 『大日本人』は、ラストで没入感ある映画っぽいCG映像からテレビコントそのままな映像に切り替えることで、日本の観客にとって戦争は所詮テレビの向こうの出来事だということを表現したのも面白いと思いますし、大日本人の四代目、五代目、六代目がそれぞれ、戦後日本、高度経済成長期の日本、現代日本と対応しているのもユニークだし、何より、繰り返すが、お笑いで天下を取ったあとで堂々とエタを表象した映画を撮っちゃう松本人志の感性は、ガッチガチに尖っている(大日本人がエタのメタファーっちゅう根拠はなんやねん? と問われれば、作品を観て感じ取ってください、としか言えないが、『大日本人』に二時間も時間を割いてられないというコスパ依存症の皆様のために軽く根拠を記しますと、「大日本人もエタも、その身分が親から子へと世襲される」「エタの担っていた皮細工や屠殺の職業は祖先の時代にはそれほど賤しいものではなかったが、中世以来、世間から嫌忌されるようになった。同様に、大日本人も四代目は正義の味方として人気を誇っていたが、松本人志演じる六代目は世間から嫌われている」「ってか、ストーリーもあからさまにそうやし」などです)。

 エタのイメージを放つ『大日本人』を観て、殆どの(もはや全てと言っていいかもしれない)観客がそのイメージを感じ取らなかったという事実は、被差別部落という負の歴史を日本人が抑圧し、忘却し、葬り去ろうとしていることを意味している。『大日本人』は日本社会に内在する排他性をスクリーン上に描いているが、『大日本人』を観る殆どの観客がエタのイメージを受容しないという事実もまた、日本社会に内在する排他性を描き出している。スクリーン上にではなく、現実に、だ。映画の内と外で同時に日本社会の排他性を浮き彫りにする、この二重構造のハンパなさは、金属バットの黒人差別漫才の反転構造とは、尖りの鋭さが違う。流石は僕らの松っちゃんだ(金属バットの「黒人の触ったもの座れるかい」ネタは、Aマッソとは違い、差別を描いた表現として成立はしていると思いますが。宇野維正氏はキレてましたけど、だったら宇野氏が好きなタランティーノ映画もギリアウトちゃうか?)。

 しかし、ビシュアルバムを傑作と持ち上げて、「こんな感じで映画も撮ればよかったのに……」と嘆息している自称お笑いファン、自称ダウンタウンファンの人は、他のお笑いファンが絶賛しているからビシュアルバムを褒めているだけで多分面白さを理解していないし、他のお笑いファンが貶しているから『大日本人』を貶しているだけだと、僕は邪推している。どっちもつまらん、なら分かるが、「ビシュアルバムは傑作」と感じる人がこぞって、「『大日本人』は駄作」と酷評するのがどうも解せないのだ、たとえ絶賛はしないにしても。

 ちなみに僕が今年一番教養のある笑いやと思うたのは、爆笑問題カーボーイ太田光が言った「(神田松之丞は)人間として不良品だと思った。……これ言うと炎上するんだっけ?」です。松之丞が太田光ピカソの件をイジった放送を聴いて僕は大笑いしてもうたが、アレはまあアンダーグラウンド感があるというか、アカンやろ、と感じる人も多いはずだ(というか僕含め、大笑いした人の中にも、アカンやろ、と思った人は多いと思う。むしろ、アカンやろ、という意識があるからこそ、カーボーイでこの話題が出たとき、田中は「やっぱすげえな、松之丞」と大笑いしていたのだろう)。そのアンダーグラウンドな笑いをきちんと多くのリスナーが笑えるところまで押し上げた太田光は、めちゃくちゃ格好良い。まあ、発端の発端が凄惨な事件ですから、一ミリの屈託も無く笑える、という性質のものではないが、それでも太田光のあの発言は、テレビ、ラジオ、舞台、活字というグラデーションの異なるメディアを横断して活躍する爆笑問題の底力を感じさせた。しかも、ダウンタウンの松っちゃんの発言を踏まえてのボケやし。アディダス事件とやらが何処まで本当なのかは不明だが、少なくとも「とんねるずダウンタウンのライバル関係」なんてレベルではない、何らかのはっきりとした確執がダウンタウン(の松っちゃん)と爆笑問題の間にあったのは事実だろう。 いいともの最終回で半分ほど溶けたその雪を、太田光は堂々と踏み付け、爆笑問題という足跡を残した。ダウンタウン派の僕が思わず耳を塞ぎたくなるほど鮮やかに、あの瞬間の太田光は、松本人志に「打ち勝って」いた。

 ただ、僕は松っちゃんの「不良品」発言があそこまで批判されていることに、「誰だって川崎殺傷事件の犯人になり得るのだ」ということを殊更に言う人が大勢いることに、一抹の違和感を覚える。いや、分かる、ダメやで、松っちゃんのあの発言は。人間は大量生産される工業製品ちゃうし。でも、幼い娘を持つ松っちゃんが、「無差別」という名を借りて己の人生に対するむしゃくしゃを弱者にぶつけた奴がいる、という取り返しのつかない理不尽に対して、「あんなことをする奴は不良品」と言ってしまう気持ちを少しは汲めないものだろうか? 松っちゃんは、引きこもり全般を指して「不良品」と言った訳ではない。無関係の弱者を殺害した人間に対して、「不良品」と言ったのだ。「犯人に対して、『自分は無関係だ、あんな奴は自分達とは違う』と切り捨てる姿勢は危険。誰もがそうなる可能性を孕んでいるのだから」という言説は全くもって正しいと僕は思うが、じゃあ何故、凄惨な殺人を犯した者を「不良品」という言葉で糾弾してしまった松っちゃんの気持ちに寄り添うことはできないのだろう。松っちゃんの「人を殺す奴=先天的に決まっている、そういう奴らだけで殺し合ってほしい」という考え方は、極めて危うい。優生思想に繋がりかねないし、この価値観が蔓延すれば、「変な奴」を迫害する世界を形成しかねない。だが何故、毅然とした態度で「そんなことを言うのはダメ、危険な思想です」と指摘できないのだろう。松っちゃん本人をヒトラーになぞらえたりして、感情的に、松っちゃんの方が犯人よりもよっぽど極悪かのようなトーンで批判するのだろう。どうして、「誰の心の中にも、犯人と同じ闇が潜んでいるかもしれない」とは思えるのに、「誰の心の中にも、松っちゃんと同じ無自覚な差別意識が潜んでいるかもしれない」とは思えないのだろう。安倍政権みたいなゴミを支持しているからって、松っちゃんが川崎殺傷事件の犯人より鬼畜であるはずがないではないか。

 犯人を「不良品」と呼ぶことで、現在犯人に近い境遇にいる人を追い込んでしまうかもしれない……という視点は、確かに大切だ。でも、被害者やその遺族の視点だって大切に決まっている。誰だってあの事件の犯人になり得るが、それよりも高い確率で、あの事件の被害者やその遺族になり得るのだ。そのことを分かっているのか。

 「誰だってあの事件の犯人になり得る」というのはその通りだが、だからこそ、僕達は絶対にあの事件の犯人になってはいけない。引きこもりでもニートでも、断じて「不良品」なんかじゃない。でも、路上で何の恨みもない他人を刺し殺した瞬間、そいつはもう人間ではない。僕はそう思う。人権派諸氏は僕の考えも否定するかもしれないが、何の恨みもない人間を己が人生の憂さ晴らしのために殺す奴など、人間であるはずがない。あの事件を犯す前の犯人と僕達は同じ人間だし、あの事件を犯した後の犯人と僕らは紙一重だ。でもその紙だけは、人間と非人間を分かつ、絶対に踏み越えてはならない一線である。僕は人権派ではないので、その一線を越えた者を、もはや人間だとは思わない。松っちゃんの「そういう奴らだけで殺し合ってほしい」という発言は、「そういう奴ら=先天的に決定された、人を殺すタイプの奴」というニュアンスだったからダメだが、実際に通り魔殺人を実行しようと決意し、誰かを刺そうと刃物を振りかざした瞬間の奴らについてなら、そいつらだけで勝手に殺し合ってくれ、と僕も思う。この考えも、人命軽視、人権無視つってダメなのだろうか。

 志らくはんなどが口にした「死にたい奴は勝手に一人で死ね」はあまりにも雑なくくり方をした、想像力と配慮の欠如した乱暴な発言であり、ダメだと思います。でも、何の恨みもない他者を殺害しようとして実際に刃物を振り上げるような奴は、その刃物を振り下ろす前に、頼むから死んでくれ。僕は本気でそう思うし、そして今、死にたいと考えている人は、誰かにその絶望の矛先を向ける前に、何かささやかな人生の希望を見つけてほしいと、切に願っています。

『リミット-刑事の現場2-』というドラマが、かつてNHKで放送されていた。僕の嫌いな武田鉄矢が主人公のベテラン刑事を演じているし、最終回の結末は若干合わなかったが、それでもいいドラマなので、是非見てほしい(余談だが、アニメやゲームと現実の区別が付いていないオタクより、武田鉄矢金八先生の区別が付いていない非オタクの方が深刻だ)。

 このドラマの第一話で、若い女性を刺し殺し、反省の色を見せない通り魔犯に対して、ベテラン刑事は激昂する。お前に人権なんかねえ、とまで言い放つ。川崎殺傷事件について被害者側の視点が欠落している人に、見て欲しいドラマである(ただ、その「犯人に対する説教のシーン」だけが切り取られてネットにアップされ、どういう理屈か知らないが、「在日コリアンの犯罪を批判している素晴らしいドラマだ」と拍手喝采する馬鹿が現れ始めた、という負の側面もある)。ちなみにこのドラマの2話目は、公園を不法占拠し、住民に煙たがられていたホームレスが放火によって殺害される、というものだ。この事件の犯人に対して、主人公の刑事は、「こいつ(被害者のホームレス)はゴミか? 違う! 人間だ!」と告げる。互いに微妙に呼応し合う1話目と2話目の完成度は、とても高い。甚だ遺憾ではあるが、武田鉄矢の演技もいい。

 川崎殺傷事件について、「誰もがあの事件の犯人になり得る」ってことだけをやたらと強調して何かを言った気になっているコメンテーター気取りの大半は多分、根拠はないが、「学校に侵入し、女子高生の運動靴を大量に盗んだ男、逮捕」みたいなニュースの犯人に対しては、めちゃくちゃ侮蔑の眼差しを向けていると思う。自分も一歩間違えばJKの饐えた靴の匂いで絶頂するために法を犯していたかもしれない、ってちゃんと思えよ、あほんだら、っちゅう話である。

 話が脱線し過ぎて別の駅に到着してしまいましたが、まあ要するに本稿の結論を一言でまとめると、「僕は女の子の饐えた足の匂いが好き」です。はい、じゃあまたのご乗車、お待ちしております。終わり。