沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

『304号室 青木』を安易に怖いと言うのはやめませんか

どうも、おはこんばんちは。元々僕はめちゃイケを観て育ったためネット民みたいに宮迫に対して嫌悪感がなく、「田村亮の復帰は歓迎するくせに、宮迫は嫌いやからって理由だけでバッシングしまくるの、キショいなあ」と思っていたのですが、岡本社長の会見みたいにテンポの悪い謝罪動画とそれをYouTubeにアップするタイミング、そしてその後のコラボの人選と動画内容を見るにつれ、普通に嫌いになってきましたね。
まあそれはさておき、先日デート中に、前澤社長の100万円ツイートをRTしないという一線は自分の心の中に引いておきたいよね、という話をしたところ、「私、RTしたけど」と彼女に言われて空気が凍り付きました。口は災いの元である。さて、そんな彼女と以前デートをしていた際の話だ。僕らは駅でとあるポスターを見掛けた。障碍者への理解を呼び掛ける啓発ポスターだった。「障碍者のポスターあるなあ」「そうだねえ」という会話を交わしただけで別の話に切り替わり、デートを続けた。その晩、彼女の家でただれたセックスをし、一緒に風呂に入り、電気を消してベッドに潜り込んだ。彼女は今日のデートの感想や中学時代の嫌いな男子の愚痴などを色々と話し始めた。電気を消してから、色々と喋るのが好きな子なのだ。でも僕は眠るために生きているクチなので、内心「寝かせてくれえ……」と思いながら、ふんふんと相槌を打っていた。だが、しばらくして途端に目が覚めた。いきなり、「将来、もし結婚して子供が生まれたときに、その子が障碍を持ってたらどうする?」と問われたからだ。答えに窮していると、彼女は些か躊躇いがちに続けた。昼間ポスターを見てからずっと、そのことを頭の片隅で考えていたという。「障碍は個性」「障碍を持って生まれてきたこの子を誇りに思う」といった趣旨のポスターに対して彼女は、「自分の産んだ子が重度の障碍を持っていたときに、それを受け入れられるか分からない。愛せるか分からない」と述べた。それから、こんなことを言うと僕に嫌われるかもしれないと心配した上で、「お腹の子に障碍があると判明したら、私は堕胎手術を受けたいと思ってしまう気がする」と言った。殆ど泣きながら。その正直で誠実な吐露に思わず鼻の奥が熱くなり、僕は彼女を抱き締めた。障碍者を当然の如く自分と同じ現実世界に存在する人だと考え、自分の子が障碍を持って産まれる可能性もあると考え、その上で綺麗事ではなく自分はそれを受け入れられるだろうかと不安を口にする彼女の真摯さに、強く胸を打たれたからだ。性欲の捌け口がなさ過ぎて「セルフフェラって気持ちええんかなあ」と実践を試みようとしていた中学生のときの僕は到底信じないだろうが、この世には勃起を誘発しない抱擁も存在するのだということを思い知らされた瞬間である。
話は変わらないようで変わりますが(©︎竹原ピストル)、以前とある小説を読んだあとネットで感想を漁っていたら、「あのキャラの足が不自由って設定に最後までなんの意味もなかったのが気になった」というのを見つけたことがある。僕はこれに強烈な違和感を覚えた。確かにその作品が数十枚の短編で、どんでん返し的なトリックを売りにしたタイプの作家による作品だったならば、つまりトリックを際立たせるため以外の要素を極力削ぎ落としたソリッドなミステリだったならば、その主張も肯ける。だが当該作品は、現代を舞台にしたエンタメ長編だった。ならば、その作品内に障碍者を登場させる意味とは、「障碍者が現実に存在するから」に決まっている。半日でも街を歩いてみれば、何らかの知的障碍を患っていると思しき人も見掛けるし、車椅子の人も見掛ける。彼らは、この世界に存在する。だったら、フィクションに障碍を持ったキャラを登場させ、その障碍がストーリー上取り立てて意味を持たなかったとしても、何か問題があるのだろうか。「このキャラが禿げていることが最後までストーリー上有効なギミックとして活かされなかったのはおかしい!」と言う人はまずいないのに、「ハゲ」が「障碍」に切り替わった途端、そうした主張が現れる。彼らは障碍というものに、何か特別な意味を付与しなくては気が済まないのだ。
さて、本題に入ろう。ネットで「怖いコント」としてしばしば名前が挙がるのが、ラーメンズ『採集』(中学生のときにYouTubeで違法試聴し、ラストで心臓が跳ね上がった。二人のことを全く知らない状態だったため、一層怖かった)、千原兄弟『ダンボ君』(このコントを収録したライブDVDは名作で、中でも最後のコント『お母さん』はコントという表現技法の一つの到達点と言える)、バナナマン『ルスデン』(現役最高のコント師だ。ハリウッドにおけるクリント・イーストウッドみたいなもんである)、そして、タイトルにも記した劇団ひとり『304号室 青木』だ。完売劇場というバラエティ番組のDVDに収録された撮り下ろしコントらしい。この番組が始まる一年前に生まれたのでこの番組のことは殆どよく知らないが、水道橋博士が司会、若手芸人がパネラーになって朝生のパロディ企画をし、「笑いの本質はテレビか舞台が」という議論を戦わせていたのだけはネットで違法試聴して、とても面白かった。小林賢太郎の気取ったカマシっぷりがまあ格好良いのだ。ちなみにこのとき、「ストレスで十円ハゲができた」という小林賢太郎の告白に対して「見して、見してー」と茶化したような合いの手を入れてコバケンから冷たい目を向けられた馬鹿なアナウンサーが、のちに安倍内閣で大臣を務める丸川珠代先生である。
話が逸れた、元に戻そう。この『304号室 青木』というコントの舞台は、ビルの屋上だ。画面の右側から、緑の服を着た男(劇団ひとり)がとぼとぼと登場する。「しゅー、しゅー」という独特の音を響かせて呼吸をしているが、鼻の下にチューブを取り付けていることから、何らかの重い病気が原因だと察しがつく。男は紙を取り出し、用意した文章を読み上げる。それによって我々は、男が304号室に入院している青木であるということ、青木が小さい頃からマジシャンに憧れていたということ、院長の計らいで医師、看護師、患者達が青木のマジックショーを見るために屋上に集まったのだということを認識する。そして我々はそうした情報と同時に、青木の喋り方や拍手の仕方などから、重篤な病気を患っている他に、青木は何らかの知的障碍を持っているだろうと悟る。
青木は用意したラジカセから「ふんわか、ふんわ〜、ふんわか、ふんわ〜、ふんわか、ふんわ〜、ふぇっふぇ〜」という笑っちゃうような、でもちょっと不気味な音楽を流し始める。それから、黄色と緑の二色に分かれたハンカチを取り出して、何度かひらつかせる。だが何も起こらず、青木はマジックグッズの説明書を堂々と読んでから、もう一度たどたどしい手つきでハンカチをまさぐる。するとハンカチの黄色い部分が赤色に変わる。
続いて青木は、服をまくって腹を出す。手術後のガーゼの下から、定番の連なった国旗を取り出すマジックを披露し、お辞儀する。
それから、封筒を手に取り、中から一枚の紙を取り出す。大きく一文字「死」も記された紙だ。青木は右手でブーイングし、紙を半分に破ってから封筒に戻す。何やら呪文を唱えるような仕草をしてから、封筒に手を入れて取り出した紙には、大きく一文字「生」と記されている。青木は嬉しそうに笑い、両手を上げてガッツポーズし、カメラの後ろにいるのであろう医師らに向けて親指を突き立てる。
最後に、綿棒を鼻の穴に入れるマジックをしている途中で咳き込み、椅子に座って薬を飲む。苦しそうに喘いでから、多少おさまったという風に胸に手を当てて、コントは終わる。
このコントに対する感想をネットで探すと、「怖い」「不気味だ」「狂ってる」「トラウマになる」「気持ち悪い」といった言葉ばかりが目に入る。確かに、ラジカセから流れる音楽は繰り返し聴く内にどんどん生理的な不気味さを感じさせるし、青木が登場する前のざらついた画面も何処となく不気味だ。都庁を含む無機質なビル群が立ち並ぶ中、中央の建物だけ赤いという色彩配置も何だか怖い。分かる。あのコントを観て怖いと感じる気持ちは分かる。でも僕は、『採集』『ダンボ君』『ルスデン』といったコントと並んで『304号室 青木』が「怖い」といった風に言われることが、どうしても我慢ならない。『304号室 青木』は、そんな風に言われるコントではないと思うのだ。もう一度、「検索してはいけない」みたいな前評判を排して、フラットな目であのコントを観て欲しい。
小さい頃からマジシャンが夢だった青木が、集まってくれた医師や看護師、患者達に感謝を述べる冒頭の1分半は、本当に怖いだろうか。ハンカチマジックをしようとするも上手くできなくて観客の前で説明書を読んじゃうシーンは、「がっつり読んでるやん!」と笑っちゃわないだろうか。手術後のガーゼの下から連なる国旗を取り出すシーンも、「何処から出してんねん!」と笑えはしまいか。「死」と書かれた紙にブーイングし、破り、かわりに「生」と書かれま紙を取り出してその日一番の笑顔でガッツポーズをするシーンに、胸を打たれはしないだろうか。『304号室 青木』は、本当に怖いコントなのだろうか。
僕は、『304号室 青木』が異常で異様で不気味で気持ち悪くて狂った怖いコントだと扱われているのを見ると、堪らなく不愉快になる。青木のような言動をする人を、街で何度も見たことがあるからだ。青木は確実に、この世界に存在する。僕は『304号室 青木』というコントが「重篤な病気を患う知的障碍者が病院の屋上で披露したマジックショー」にしか見えない。確かに、ラジカセから流れる音楽とざらついた画面は不気味だ。4の付く病室は本来存在しないのに304号室であるという点や、終盤の青木の苦しむ様も怖いかもしれない。でもそれは、青木には近い将来死が待ち受けているという悲しい暗示と表裏一体な訳で、怖い、不気味、気持ち悪い、狂ってるなどと安易に切り捨てられるのは納得できない。『304号室 青木』は知的障碍者を笑いのネタにするというタブーに挑戦した云々という感想を読んだことがあるが、果たしてそうだろうか。あのコントは、知的障碍者の行動の中で生じる笑いを描いたものだと僕は思っている。マジックの説明書を客の目の前で読んじゃう、手術後のガーゼの下から国旗を取り出すという多少グロテスクな発想を頓着なくしちゃう、楽しいマジックショーやのに不気味な音楽をBGMにしちゃう……そうしたおかしさを絶妙なバランス感覚で描いたものなのだ。変な顔、変な声、変な喋り方、ワッハッハ、面白え……なんて短絡的なものでは断じてない。
あのコントを観て、「怖い」「気持ち悪い」「不気味だ」と躊躇いなく口にしたあなたは間違いなく、青木のような言動をする知的障碍者に対して、同様の感情を抱いている。否定はさせない。あのコントにおける青木の細やかな機微を読み取らずに単純な言葉で感想を表明した者が、街で青木のような人を見て「怖い」「気持ち悪い」「不気味だ」と思わないはずがない。そして、あの夜僕に嫌われるのを恐れながらも本心を語った彼女を見習えば、僕はそんなあなたに対して「最低の差別主義者だ!屑め」などと言うことはできない。そうした気持ちを抱いてしまうのも理解できるからだ。僕はそこまで露骨な感情を抱いたことはないが、それは僕の人間性が素晴らしいからではなく、差別的な感情の萌芽をすぐさま理性で摘むという作業を繰り返してきたからに過ぎない。だから、その芽を摘み損なって成長させてしまい、街で青木を見て嫌悪感を抱くようになってしまったあなたを否定はしない。電車内などで知的障碍者を目にして「怖い」と感じる気持ちを「駄目だ!そんなことを思うのは差別主義者だ!」と糾弾はしない(これはたとえば、同性愛者へ内心嫌悪感を抱く人についても同様だ)。心の中でそう思ってしまうのは、容易には変えることができない。しかし、そうした感情を表に出さない理性は持っているべきだ。差別的な感情を抱いてしまうこととそれを表明することには、大きな差がある。
もう『304号室 青木』を安易に怖がるのはやめませんか。調べればいくらでもネットで違法試聴できるから、もう一度フラットな目であのコントを見てみませんか。それでもやっぱり気持ち悪いわ、このコント……そう思うならば、それは仕方ない。あなたの感情だ。ただ、あのコントに対して「怖い」「不気味だ」「狂ってる」「気持ち悪い」と表明することの重みは、『採集』や『ダンボ君』や『ルスデン』に対するそれとは明らかに質が違うということを考えて欲しい。言うのであれば、その自覚を持った上で言うべきだ。たかが個人のツイートやんか、たかがYouTubeのコメント欄やんか、じゃない。言葉には責任が伴う。その自覚がない者は、口を閉ざすべきだ。イ・チャンドンの『オアシス』のヒロインの女、気持ち悪いよな」と「三池崇史の『オーディション』の麻美、気持ち悪いよな」では、まるで意味が違う。喩えが分からないという文句は受け付けません。
それと、多少本筋とはズレるのだが、最近日本で増えつつある、障碍者やホームレスといったいわゆる社会的弱者とされる人々への不寛容さ、反吐が出ますね。どいつもこいつも、自分が社会の「役に立つ」人間として生まれ育ったことは全て自分の努力の賜物であり、社会の「役に立たない」人間は自己責任だと思い腐ってやがる。自分が先天性の病気や障碍を持って生まれてきていたかもしれないという想像や、今後自分が不慮の事故や病気に遭って社会の「役に立たなく」なるかもしれないという想像ができない。自分が今の立場にあるのは恵まれた環境のお陰だという自覚や感謝もない。最悪だ。植松聖の犯行動機に賛同を示して、「社会の役に立たない者に存在価値はない」と述べているシニカルぶったクソ馬鹿を結構見掛けたが、役に立たないものを共同体から排除するのは獣のすることだ。お前ら、それでも人間か。「役に立たない」者を排除しない社会が形成されているからこそ、今現在「役に立っている」者は安心して生産活動を行えるんでしょうが。役に立たないもの(者/物)の存在できない社会は、社会として不完全だ。娯楽なんて軒並み役に立たへんっちゅうねん。これ以上社会を息苦しくさせんといてくれ。「それが何の役に立つの?」とか「コスパ悪いなあ」とか言う奴は、空気階段の名作コントに登場する浮気男が罰を与えられる空間をもっと酷くした場所に、あのコントを平山夢明がリメイクした場合に描かれるであろう地獄の空間に送られてしまえばいい。
そういや、ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』って韓国映画パルムドールとかアカデミー賞とかバンバン獲りましたが(めちゃくちゃ面白い映画です)、僕は先述のイ・チャンドン『オアシス』が韓国映画史上一番の傑作やと思ってるので、まあお時間あるときにでも観てくださいな。あれを観たあとで、『304号室 青木』を観れば、怖い、不気味、気持ち悪いと簡単に口にすることはなくなるんじゃないかな、と思います。
なんか説教臭い記事になってしまいましたが、まあそんな感じです。次はもうちょい明るく、5月にさらば青春の光のライブに行くつもりなんで、そのタイミングでさらばのコントと漫才を称揚する記事を書きます。忙しかったら書きません。以上、終わり。