沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

フェミニストが蔑称と化したこの国で

志村けんの死はコロナの恐ろしさを我々に伝えてくれた最後の功績、という小池百合子の言葉が孕む無自覚なおぞましさに絶句したりしている内に、COVID-19(コロナ)の煽りを受けて俺の就職活動も半ばストップしてしまった。企業の多くが説明会の中止、ES締め切りや面接の延期を決めたのだ。さらに大学四年生でただでさえ少ない授業が全てオンライン授業になったため、もうとにかく暇である。小説や漫画を読んだりCD聴いたり映画観たりと、インドアの趣味に事欠かない俺でさえ鬱屈としているのだから、アウトドア派の人はさぞ辛いだろう。勇者ああああのリズム-1グランプリや上岡龍太郎のように自らの意思でサクッとブログを閉鎖したが、俺にとって一番のストレス発散は文章を書くことだと気付いたから、いいや、早々に再開しちゃえ、ということで再開した。そうです、私が大仁田厚です。

さてそんな中、4月28日に梅田の揚子江ラーメン総本店が閉店した。澄み切ったスープと白っぽい細麵が絶品の塩ラーメンを提供してくれる店で、梅田で映画を観る前や後に腹を満たしたり、梅田界隈で笑福亭松鶴が演じるような酔っ払いだらけの店で飲んだ帰りに〆として食うのにぴったりの店だった。店は最後まで閉店の告知をせず、口コミ的にTwitterで閉店の噂が広まったのだが(店主に直接確認したとの情報が相次ぎ、次第に本当らしいと判明していった)、あの店主さんはもしかしたら「張り紙で閉店を知らせたりしてお客さんが集まったら、感染拡大に繋がるかもしれない」と思って告知をしなかったのかしら、などと想像を巡らせては、自室で一人、「本券は無期限で使用できます。」と記された20円割引券を見ながら酒を飲んでいる。そしてアルコールが回るにつれて、舌が揚子江ラーメンを欲し始めるのだ。

閉店の噂を知る数時間前、俺はリビングで「快傑えみちゃんねる」を観ていた。M-1の審査に関して批判されがちだが、俺は上沼恵美子のフアンだ(小4のときに市川崑の『犬神家の一族』を観て佐清マスクの美しさに惚れて以来、顔面の白塗りにフェティッシュの域で魅了され続けており、今もハードコアチョコレートの犬神佐清パーカーを着ているが、だからといって上沼恵美子のことが好きなのも、今貂子や由良部正美らの舞踏が好きなのも、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のイモータン・ジョ―やウォーボーイズが好きなのも、顔の白さが理由ではない)。我らがえみちゃんは、ゲストのTKO木本に対して、「(相方は捨てて)一人でやったらええ」と言い放っていた。笑いを交えつつも、まあまあ本心っぽかった。「(先輩からしたら木下はええ奴というフジモンの発言を受けて)そんなん知らん。ええ人やとか奢ってもうたとか、そんなこと言われても知らない、私は。後輩にペットボトル水入ったまま投げたんやろ。絶対あかんやんか、何がええ人やねん」や「(木下が)14歳だったら変えてみせよう。でももうあの年では、人間性は変わらへんわ」といった言葉の数々は、やはり格好良かった(余談だが、とろサーモン久保田のYouTube企画「M-1審査員を批判せずに審査してみた。」、ベタやけど笑ったので、お暇があればぜひ観てください。あと、マヂカルラブリーのANN0、最高でしたね)。

ただ、今日5月1日、岡村隆史オールナイトニッポンを聞き終えた俺は、えみちゃんの「あの年で人間性は変わらへん」という言葉に「いや、でも……」と口を挟みたい心境になっている。知り合いでもない著名人は呼び捨てでいいと思っている俺が唯一シンプルに「さん」を付けて呼んでいるのが、ナインティナイン岡村隆史だ。理由はもちろん、矢部っちの「岡村さぁん」が耳にこべり付いているからだ。バラエティ番組の原体験は確実にめちゃイケで、何度も腹を抱えて笑わせてもらった。中学に入って「勉強しながらラジオ聴くってなんか憧れんなあ」と思い立ち、ネットで面白いラジオを検索したときも、伊集院光爆笑問題ナインティナインの三組を薦めている人がぶっちぎりで多かった。白状すれば、伊集院と爆笑問題ほどは嵌まらなかったため毎週欠かさずとはいかないが、それでもやはりよく聴いてきた(オモロいと知っているナイナイがオモロい話をするANNは、「上品なタレントやと思ってたけど伊集院やっべえ!」や「太田総理でご当地ゆるキャラの頭部を外してケタケタ笑ってたクレイジー、こんな知的なボケすんねや!」といった衝撃に較べれば些か驚きが小さかった)。

問題となった4月24日の放送を俺はリアルタイムで聴いておらず、ニュースを目にしてからラジコで聴いた。揚子江ラーメンの閉店で落ち込んでいる気分がさらに沈んだ。それから一週間、多くの人が岡村さんに怒りの声を上げた。中には、藤田孝典氏のように罰することそのものに意味や快楽を見出しているのではないかという人もいたが、基本的にはそりゃ批判を受けて然るべき発言だと思う。ちなみに、議論の最中に議論から離れて相手の過去の言動を非難する、というのは極めて卑劣な戦法ですが、卑劣であることを自覚した上で同種のことをしますと(人間は自覚さえあれば何をしてもいいのだという信念を抱いて生きているので)、深酒した勢いとは言え、藤田氏も過去に女性運動家を侮辱する発言をして弁護士の佐藤倫子氏から批判を浴び、謝罪したことがあります。

で、まあこの一週間、お笑いファンの意見も色々と見たが、岡村さんは悪くない派が多数を占めていた。Aマッソのときにも目にした「差別という方が差別です」論法は未だ界隈では通用していた。岡村さんは風俗嬢を蔑視していないことは長年の放送を聴いていれば分かる、彼女らを差別していないが故の発言だ、風俗嬢として働くことをお前らは下に見ているから岡村さんの発言を問題視するんだ、ってな具合だ。また、何なら岡村さんは風俗嬢をある種天使のように尊く見てすらいるんだぞ、と力説している方もいたが、過剰な美化の本質は蔑視と同じですから擁護になっていません。障碍者はみんな性格が良い、的な。

彼らは何を目指しているんだろうか、とこの一週間ずっと考え続けてきた。彼らというのは、岡村さんを擁護する人々と岡村さんを批判する人々の双方を指す。前者の目指すものは明らかで、岡村さんのANNの継続、今後も楽しい放送を、だ。もっと言えば、深夜ラジオという聖域を守ることだろうか。もちろん、「岡村さんのあの発言は駄目、しっかり謝って反省した上で番組を続けて欲しい」というリスナーもいたが、あくまで俺の見た限りでは、「あの発言の何処が悪いんだよ。頑張れ岡村さん」一辺倒の人の方が断然多かった。一方後者の目指すものは、人によってグラデーションがあった。「もう自分は岡村隆史の番組は見ない」という人もいれば、「謝罪して考えを改めるべき」という人もいれば、「番組を降板せよ」という人もいた(どの番組かはこれまた人による。NHKだけの人もいれば、発端となったANNを指す人もいたし、引退しろという人もいた)。藤田氏のように罰を与えることが目的という人は圧倒的に多い訳ではないけれど、決して少なくもなかった(ニッポン放送吉本興業が謝罪し、次の放送で本人が説明しますと明言されたあとでも、待ちきれずに「本人が出てこい、謝罪会見を開け」と盛んに憤っていた人がいたのは、一刻も早く罰を受ける岡村さんを見たかったからではないだろうか)。

以前も書いたのだが、差別心というのは往々にして無意識的であり、無意識的な差別心を発露させた人に対しては、「それは差別です。撤回し、考えを改めた方が良い」と説教することが大切だと思います。俺は軽口を叩いて生きているタイプなので、うっかりアウトな発言を自分がしてしまうかもしれないと危惧しているし、もしかしたら無意識的な差別心があるかもしれない、いやきっとあるだろうとも思っている(酒井順子の『男尊女子』という本を読んで以来、「かわいい」という言葉にさえ、一定の距離は抱いておこうと思っている。まあ、本人が喜ぶため恋人のことは相変わらず「かわいい」と褒めているが、しかしその言葉を口にするたび、「かわいい」という価値観の社会的意味を考えてしまう。そしてそれは、決して悪いことではない。そうやって考えを巡らせた上で、俺と恋人は「かわいい」という価値を尊び、選択しているのだという事実は、少なくとも俺にとっては大切だ)。

俺は今回の一件、一リスナーとしてANNは続いて欲しいが、その代わり、岡村さんもリスナーも発言の問題点を認識して考えを改める、という着地をして欲しいと思っていた。でも心の底では、どうせ三十分ほど謝罪したあと徐々に通常の放送に移行し、リスナーは喜び、批判していた人は怒り、しかしやがて別の大きな話題にみんなの関心は移って、何となく忘れ去られていく、といういつものパターンになるだろうと諦めてもいた。実際、番組冒頭から岡村さんが謝り続けている間、Twitterで#99annの実況を観ていたが、「リスナーは岡村さんが悪くないと分かっています」系のコメントで溢れ返っていた。岡村さんの真摯な謝罪をリスナーが安易な擁護でぶち壊し続けていた。だが、矢部っちが来てから、風向きが変わった(泣きそうになったね、矢部っちが来た瞬間)。

今回の騒動を含む岡村さんの性格の駄目な部分を、厳しい言葉で矢部っちは公開説教していく。「リスナーは全員大好きよ、岡村隆史のことが。イエスマンで。だから気を付けなあかんと思うよ、注意してくれる人もおらんくなるよね」と言い、結婚したことで女性を尊ぶようになった自身の経験を語る。「ありがとう」と「ごめんなさい」の大切さを語る。男女二元論的な口ぶりだったし、結婚にフォーカスが当たり過ぎやったし、「結婚や交際相手は性格を変える道具じゃない」という批判を生み得る微妙な言葉選びでもあったが、まあ感情的になっている生放送のフリートークで矢部っち自身の体験をもとに「岡村隆史は視野を広げるべき、景色を変えるべき、対等な相手と接する機会を持つべき」ということを伝えようとしたのだから、許容範囲内だと俺は思う。それに、説教に入ってすぐ「結婚するのが偉い訳ちゃうけど」と断りも入れていたし(ちなみに俺は矢部っちの話を聞くにつれ、「ああ、矢部っちの岡村さんに引いたエピソードの視線や対応の仕方、俺がネトウヨ化する父親に向けてる視線や対応と一緒や」と些か苦しくなった)。

矢部っちの説教が続くにつれ、#99annの実況では、ぽつりぽつりと「自分に説教されてるみたい」「確かに、あの発言はよくなかったかも」「岡村さんを甘やかしてたし、岡村さんに甘えてた」といったツイートが散見されるようになった。全員ではない。過半数ですらなかったかもしれない。でも、「深夜ラジオの切り取った書き起こしで事実を歪曲されただけ」「批判している奴はどうせ放送を聴いちゃいない」という金科玉条、略して金玉をぶら下げていたリスナーが、少しずつパンツを履いていく様を目にして、そのツイートは一時的な感傷に過ぎないのかもしれないし、彼らの心の奥に根付いた意識がすぐさま急激な変革を遂げるとも思わないが、それでもやはり少し胸が熱くなった。M-1でのえみちゃんの立ち振る舞いをゲラゲラ笑って全肯定している俺だが、TKO木下に向けられた「あの年では人間性は変わらん」という発言にだけは、異を唱えようと思った。歳を重ねるほど難しくはなるが、それでも、何歳になっても人間性や性格・思想は変えられる。きっかけと意志さえあれば。綺麗事で大いに結構、俺はそう信じたい。矢部っちは説教を始める前、「ええ機会もらったよ。俺、思う。ええ機会貰ったと。公開説教しようと思う、今日は」と告げたが、我々リスナーにとっても、ええ機会になったはずだ。というか、ええ機会にすべきだ。

笑いを含む多くの表現物が、差別性や暴力性、攻撃性を孕んでいる。それら全てを剥ぐべきだとは断じて思わない。不健全さを完全に漂白した健全さは、不健全だ。でも、表現物が内包する不健全さに無自覚であっていい訳ではない。不健全なものを表現に取り入れ、表現に奉仕させてこそナンボだ。表現というフィールドの上に、ただただ不健全なものを並べるだけなら、誰でもできる。「誰も傷付けない笑いばかりになるべき、という言説には反対する」という考えと「誰かを傷付けることが笑いなのだ」という考えは、イコールでは結べない。

夫婦円満の秘訣は「ありがとう」と妻に伝えること、と述べた矢部っちに岡村さんが「白旗上げたんか」と言い放ったエピソードは、バラエティ番組で矢部っちがエピソードトークとして話していれば多分みんな爆笑しただろうが、その手の発言は「岡村さんはギャグで言ってるんやな」が「本音で言うてんのかな?」を上回っているから笑えていたのであって、今回の一件と矢部っちの説教で明かされたエピソードの数々によって岡村さんのキビシさが露呈してしまったからには、今後色々とむつかしいやろな、と思うが、まあこれまた矢部っちが公開説教前に言った「今後の岡村隆史ナインティナインを見てもらいたい」という発言に期待したい。というか、ラスト十五分ほどだけ行われたコーナーで、重い空気の中ネタメールを読む岡村さんと矢部っちの温かいテンションでの相槌、そして一枚メールを読むごとに「ごめん、ホンマにな」「かまへんよ」というやり取りが行われるという天丼によって、俺はくすくす笑い、やっぱりナインティナインが好きだし二人は面白いと再認識した(それまでの説教や今回の騒動によって作られた空気を長いフリにしつつ、でもそれらを茶化している訳ではないという絶妙なバランス感覚だった)。

以上、そんな感じだ。朝、五時! 煙草が吸いたくなってきた。ショート・ピース。平和主義者なので。喫煙可のバーが梅田にあってちょこちょこ行ってるのだが、揚子江ラーメン総本店のように潰れていないか心配だ。行けるようになったらナンボでも金落としに行くので、生き延びていて欲しい。それだけが今の願いだ。ワーワー言うとります。お時間です。さようなら。ってので本稿を終えようとしたけど、「どうせコント師はみんな、最後のコントでそれまでのコントが全部繋がってました、みたいな公演がしたいんだろ」と文句を言っていた若かりし頃の永野に「ダセえな、普通に終われ!」と言われそうなので、普通に終わります。Blumioの『Hey Mr.Nazi』でも聴きながら寝ます。おやすみなさい。終わり。


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