沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

リクルートスーツの無個性さとやらについて

 僥倖に恵まれたお陰で無事に内定をゲトったので、映画観てメキシコ料理食ってパチンコ打ってバーで酒飲んで煙草吸って電車の中で本を読みながら帰宅するという、健康で文化的な最大限の生活を送っている。

 俺は就活に際して、黒のリクルートスーツを購入しなかった。買おう、という気すらなかった。理由は単純で、紺のスーツを既に持っていたからだ。だから、これ着て就活したらええわとしか考えていなかったのだが、先日某スーツ屋の前で黒のスーツが「就活生応援」として売り出されているのを目にし、ふと「リクルートスーツってそもそも何なんやろ」と疑問に思ったため、調べてみた。

 リクルートスーツとは、1970年代からデパートが主導して広めたものだそうだ。就活向けのスーツの特売、と大々的にキャンペーンを売って大儲けという戦略だ(それ以前は何と、学生服で就活を行なっていたのだとか!オモロい)。

 さて、その後1980年代に入るとリクルートスーツが学生服を駆逐していく訳だが、この当時のリクルートスーツの色は紺が主流だったという。それが、2000年以降に入ると、黒が主流に取って変わったそうだ。理由はよう分からん。

 ともあれ、俺はあたかも「リクルートスーツ」という、そういうスーツの形態があるのだとばっかり思っていたが、実は単に、スーツ屋やデパート等が、黒(かつては紺)の安価なスーツを「就活にはこれ!リクルートスーツです!」と銘打って売っているだけの話なのだ。

 最近Twitterを始めたので、「リクルートスーツ」で検索を掛けてサーチしたところ、リクルートスーツの無個性さを揶揄/批判している人は少なくなかった。だが、あんなものは別に単なる「就職活動における制服」以上の意味はない(元々は学校の制服で就活をしていたのだから、それがメーカーの営業努力によってスーツに変わっただけだ)。まあ、既にスーツを所有している状態で新たに就活のためだけに安いスーツを買うのは俺もアホらしいと思うが、にしたってやたらとリクルートスーツを揶揄/批判する理由が分からない。大勢の人々が、画一的、無個性、管理教育がどうのこうのと言い、Why so serious,inc.のCEOを務めている「さいとーだいち氏」(寡聞にして存じ上げないが、多分凄い人だ)なんかに至っては、「就活、かっこ悪い!就活は茶番でコスプレだ!就活というシステムに繋がれた奴隷たちよ!そんなものは現実じゃないんだぜ!ESには言いたいことだけ書きましょう!リクルートスーツとか(笑)そんな就活してたらドワンゴに拾ってもらったので僕は就活かっこ悪いと思ったままです」と、奴隷という言葉まで使って笑っている。また、黒のスーツや紺のスーツそのものまでを無個性だなんだと言う人も少なからずいたが、黒や紺のクラシックなスーツそれ自体には別に何の罪もない。安い黒(かつては紺)のスーツをメーカーが「リクルートスーツ! 就活生はこれを着るべし!」と売り出しているだけで、黒や紺のスーツを着たお洒落な人や個性的な人は大勢いる。

 さて、リクルートスーツを揶揄するツイートを大量に目にし、俺は思った。この人ら、そんなに個性的なんかな?と。これほどリクルートスーツを揶揄するからには、さぞ個性的でハイセンスで仕立ての良いスーツをお召しになっているのだろう。当然、日本人男性のほぼ全員が守っていない「着席時にはジャケットのボタンを外す」というマナーもさり気なく守っていることだろう。有名人で座るときにボタンを外していたのは、俺の知る限り、蓮實重彦バカリズムだけだが。いや、スーツは着ませんねんという人なら、その代わり、さぞアヴァンギャルドな私服で日々を過ごしているのだろう。とある人が、やたらと高級時計に執着する売れっ子芸人や成金は、それほど高価ではない衣服や時計をお洒落に合わせて着こなすセンスがないからブランドに縋るしかないのだと述べていたのだが、リクルートスーツの無個性さを揶揄する貴方は、きっとそうしたセンスも持ち合わせており、さぞ目を見張るようなファッションを披露してくれるのだろう。是非とも見せていただきたいものだ。

 なんて嫌味をうだうだ言うのはこのくらいにして、ホンマに言いたいことを言うが、若者は無個性だ、画一的だ、管理教育がどうのこうの、なんて言ってるそこの個性豊かな貴方、貴方の言っているそれは、「最近の若い奴は……」という言説と何ら変わらない。そしてその言説は、時間も場所も超えて数多の大人達が口にしてきた、極めて無個性で画一的な発言だ。

 リクルートスーツの無個性さとやらを揶揄/非難する人の果たして何割が、学校の制服や校則にまでその矛先を向けただろうか。「世の中に蔓延る同調圧力や不可思議でくだらない習慣のうち、リクルートスーツはその違和感や気味悪さが特に露骨で分かりやすいから、そしてそれを揶揄/非難したところで反論する者がいないから的にしただけ、所詮は就活生の無個性さをあげつらうことで己の個性を誇示したいだけ」というのは、ねじくれ曲がった俺の邪推でしょうか。

 就活生は「無難やし着とくかー、まあ、デメリットはないしなあ。そんな高いもんでもないし」程度の気持ちでリクルートスーツを着ている。先述したが、制服感覚だ。あんなものを着たところで、彼らの個性や魅力は掻き消されない。と、まあこう言うと、「だから、そうやって唯々諾々と着ちゃう時点で無個性なんだよ!私服で就活しろよ!」と反論する人もいるだろうが、あらゆる人間は絶対に何らかの規範に縛られて生きている。リクルートスーツ嘲笑組の皆さんも別の何らかの規範には従っているだろうし、それもその規範に従っていない人からすれば嘲笑の的だ。

リクルートスーツなんて無個性なもんはあかん、人間は好きな服を着るべきや、冠婚葬祭に適した服装とかフォーマルな服装とかドレスコードとか、そもそもそういう概念自体を崩しに掛からなあかんねん!」とまで言ってくれれば面白いのだが、そこまで気骨のある意見を持つ人は生憎殆ど見当たらない。みんな、リクルートスーツばっか、それだけ批判している。忌野清志郎の葬儀に革ジャンで参加した甲本ヒロトに「リクルートスーツなんて個性がないから、俺は好きじゃないな」とあの優しい口調と笑顔で言われれば俺も頷くが、就活に縁がなかったからリクルートスーツを着なかっただけで、他のあらゆる場面では別の何らかの規範に従っているような人々が、これ見よがしに自由人ぶってリクルートスーツを揶揄するのは、むしろ滑稽だ。俺は高校生のときに茂木健一郎の「近代科学の到達点と限界点を明らかにしつつ、気鋭の論客が辿りついた現実と仮想、脳と心の見取り図とは。画期的論考。」と銘打たれた著書『脳と仮想』を読んで「論理の飛躍と薄弱な根拠に基づく主張をロマンチックな文体とエピソードで誤魔化しただけの、要するにエッセイやんけ!」と思って以来、氏のことをあまり好きではないのだが、しかし少なくとも彼のリクルートスーツ批判は就活生のそうした気持ちなども斟酌した上で、新卒一括採用そのものへの疑問なども含めて展開されていた。

 リクルートスーツを安易に揶揄/批判している人のことを、俺は「型に嵌まりたくない!っていう型に嵌まっている人やなあ」と、まるで「レールの敷かれた人生なんざ真っ平御免だぜ!と叫んで非行に走るというレールに乗った反抗期の少年」を見るような目で見ている。視覚的にあからさまな無個性さを揶揄することで自身の個性の豊かさを嚙み締めている人々と、盗んだバイクで走り出し、自由になれたような「気がした」と歌った尾崎豊との違いに思いを馳せながら、本稿を終える。終わり。