沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

中山秀征への好感

Twitterで相互フォローだった人のアカウントが消えていた。時折いいねをしたりされたりする程度で喋ったことはなかったが、ほんのり寂しい。一度、「前澤友作をRTしないプライドに百万円の価値はあるのだろうかと自問自答している」といったツイートを見たときに、「あると思いますよ。あれをRTするのは、美しくないですから」と話し掛けようかと思ったが、結局辞めてしまった。

美しく生きるというのが、俺にとっての課題だ。善悪とか正しさとか面白さよりも、美しさを判断の基準に据えて生きている。日本に限らず、この世界は理不尽で出鱈目で最低だし、人生は地獄だ。死にたくなるようなことばかり起こるし、殺したくなるような奴ばかり歩いている。でもそんな感情はおくびにも出さず、余裕ぶって、格好付けて、気取って、平然とした顔をして生きていきたい。「ここは天国じゃないんだ かと言って地獄でもない いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない」というブルーハーツの言葉は100%現実に即していると信じて疑わないフリをして、生きていく。そうやって美しく生きようとすることが、クソだらけの世界に対する唯一の抵抗だと信じている。恋人から「俺くんくらい鈍感でいられるの、本当羨ましい。良い意味でね。悩みなさそうだもんね。メンタル強いよねえ」と言われるくらいで丁度いいのだ。そこで「俺かて色々我慢しとんねん!」なんて激昂するのは美しくない。「せやろー?」と呑気な声で返せばいいのだ、内心軽くイラつきながら、笑顔で。そうやって生きていれば、時折いいこともある。「勇者ああああ」がプライムタイムに昇格したり、『ドキュメンタル』のお蔵入りシーズンが公開決定したり。

前置きが長くなったので、一気にタイトルに話を移行させる。俺は、中山秀征が結構好きだ。太田上田と日曜サンデーに立ち続けに出演した秀ちゃんを観て(聴いて)、そう再認識した。秀ちゃんは、お笑いファンからすこぶる評価が低い。今は「YouTuber」に取って代わられたが、それまで秀ちゃんは、お笑いファンにとって「つまらなさの権化」だった。この原因の九割以上は、ダウンタウン伊集院光ナンシー関にある。先陣切って、秀ちゃんのつまらなさを攻撃していたカリスマ達だ(俺も三組とも好きです)。

だが、俺は秀ちゃんをつまらないっつーか「普通のことをさもオモロいやろってテンションで喋るなあ」と思ったこともあるが、一方でフツーに笑わせてもらったこともある。どんなギャグやコメントだったかという具体例が一つも浮かばないので、松っちゃんの天才的なボケや伊集院光のラジオのキレとは較べられないフツーのボケだったのだろうが、でも、ちゃんとフツーに面白くて笑ったはずだ。

お笑いファンは、卒なく面白いときもあれば、明るく楽しいだけでそんなに面白くないときもあれば、めちゃくちゃつまらないときもある秀ちゃんを、常時めちゃくちゃつまらない人として扱う。松本人志(伊集院光/ナンシー関)が言っているから秀ちゃんはつまらない奴だという先入観、もっと嫌味な言い方をすれば、「秀ちゃんをつまらないと言っておけばお笑い通っぽいんじゃね?」感によって、秀ちゃんはポテンシャル以上のつまらないイメージを付与されてしまっている。あなたが抱く「秀ちゃん=つまらない」というイメージは、あなたがテレビを実際に観て培ったものですか?それとも、誰かの意見を見聞きして育まれたものですか?胸に手を当てて、よくお考えください。

「そりゃたまには面白いかもしれないけど、人気や露出度と釣り合ってないからつまらないって言ってんだよ」という反論もあるかもしれない。だが、だったらEXITの方がよっぽどつまんねえよ、と言いたい。さらに「どっちもつまんねえよ」と反論されれば、何も言い返せない。

俺がなぜ秀ちゃんが好きかと言えば、明るく楽しいからだ。アホみたいな理由だが、ぼけっとテレビを観ているときに秀ちゃんを見ると心が安らぐ。ゴリッゴリのお笑い番組がもっと増えて欲しいし、ゴリッゴリのお笑い番組に秀ちゃんは出なくてもいいが、疲れているときに晩飯食いながら漫然とテレビを眺めているときに秀ちゃんが出てきたら、少しだけ元気が出る。秀ちゃんが持つ陽気さは、明石家さんまに匹敵する。「チーズ牛丼食ってそうな顔の奴」って意味の「チー牛」という意味不明な蔑称がネットで流行ったが、明石家さんまや秀ちゃんは、「なんや、それ? チーズ牛丼、美味しいがな」「なんで? チーズ牛丼、美味しいでしょ?」とあっさり言ってくれそうだ。ネットのじめっとしたしょうもないノリを寄せ付けない、カラッとした陽気さがある。

ここまで書いて、ふと、某Tubeで違法視聴した映像を思い出した。昔放送されていたアンタッチャブル司会の競馬番組に明石家さんまがゲスト出演し、たまたま局内にいた紳助と遭遇してトークが繰り広げられるという映像だった。そこで、紳助とさんまが次のような会話をする。

紳助『お前、馬買え』さんま「馬に名前付けたら、運気が落ちるって言うやろ」『じゃあ金だけ出せ。名義は俺にしたらええ』「お前は運気下がってええの?笑」『全然かまへん…笑』(中略)「馬買うたら、お前病気になるぞ」『そんなん、もう負けへん』「地獄見てきたから笑顔やねんな。俺と一緒や。俺、二回見たもん。閻魔さん、二回ここ来たもん(掌を顔の前にかざす)。でも笑顔で地獄見たら勝ち、人生」

しょーゆこと!とか、ホンマや!と言うときのような口調ではなく、ものすごくさり気ない、思わず聞き逃してしまいそうなほどさらっとした口調で放たれた「笑顔で地獄見たら勝ち、人生」の重みたるや、凄まじかった。

そういえば、さんまは2010年にしゃべくり007に出演した際、ポストさんまの筆頭に秀ちゃんを挙げていた。しゃべくりメンバーは意外そうな表情を浮かべていたが(そして今なら意外に思う気持ちも分かるが)、当時小5だった俺にはしっくりきた。さんまも秀ちゃんも明るいし、司会をしているときの立ち姿もシュッとしてるし……とあっさり納得した。

ニコニコしながら立っているシュッとした秀ちゃんを見ていると、まるでこの世界に理不尽な出来事など一つもないような気がしてくる。秀ちゃんは一言で言えば、いつだって余裕があるのだ。だから、何でもないことでも秀ちゃんが言うと面白いっぽい空気が漂う。それが時に「生ぬるい」と評される所以だろう。あらゆる規制に反抗し、面白くて攻めた笑いを追求する芸人や、そうした笑いを求めるお笑いファンにとって、生ぬるい番組の潮流に迎合しているように映る秀ちゃんは、嘲笑や憎悪の対象なのかもしれない。だが、神に問う。無抵抗は罪なりや?

筆が滑って思わず『人間失格』の一節を引いてしまったが、よく考えれば違う。秀ちゃんは、攻めた笑いから逃れた末にああしたスタンスを取っているのではない。元々は尖った芸人だったが数多の困難に立ち向かうことができずに流され、タレント化してしまったその辺の芸人についてならば、「無抵抗は罪なりや?」の問いにも意味があろう。だがしかし、もう一度言うが秀ちゃんは違う。秀ちゃんは最初からずっと余裕があり、面白いときもあれば面白くないときもあればつまらないときもあるという、物凄く自然体の人間らしいスタンスを何十年も維持し続けているのだ。抵抗とか無抵抗とか、そんなみみっちい場所に秀ちゃんはいない。太宰治みたいに死ぬことさえ一人でできない鬱陶しい腰抜けと一緒にされては困る。秀ちゃんは超然としているのだ。

2020年6月放送の深夜の馬鹿力で、伊集院光が「三密と壇蜜を掛けたギャグは流石にみんな言わないだろうけど、太田光は我慢できずに言いそう。あと、秀ちゃんは言ってるかも…笑。それと、一周回ってさんまさん」と言っていた。口ぶり的に、秀ちゃんへの攻撃ってほどではなかった。揶揄、と言うのも大袈裟な、まあ軽ーい「秀ちゃん、つまらないギャグも平気で言うよね」イジリだったが、「太田光/中山秀征/明石家さんま」という並びは、強烈に印象に残っている。

知的で思慮深く、センスも抜群で、高校時代は友達がゼロで、当初は芸風もクールだったが、徐々に掲示板やSNSで視聴者から煙たがられるほど特番などではしゃぐようになる太田光。とても暗い過去を持つが、そんな素振りすら見せず、「笑顔で地獄見たら勝ち、人生」と笑顔で言ってのける明石家さんま。そして、中山秀征。秀ちゃんだけが浮いている。秀ちゃんだけが陽気さの根源を見出せない。太田光の陽気さは、知性や繊細さ、優しさに裏打ちされている。明石家さんまの陽気さの裏には、人生が詰まっている。だが秀ちゃんだけが、全く分からない。秀ちゃんの真顔や怒り顔を脳裏に描くことができない。頭の中の秀ちゃんは、いつでも笑顔だ。余裕たっぷりの自然体だ。秀ちゃんの過去も未来も、家族もプライベートも全く想像できない。秀ちゃんはある日突然、何処からか「秀ちゃん」として完成された姿で現れたような気がする。そしていずれ、音もなく立ち去るのだ。フォローしていた人がアカウントを削除し、タイムラインから姿を消すように。

秀ちゃんが醸し出す空虚なまでの余裕は、俺の判断基準で言えば、とても美しい。終わり。

https://m.youtube.com/watch?v=iXCytb9TvrI