沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

俺は「解像度」という比喩に対する「解像度」が低いんすかね?

「解像度が高い/低い」という比喩が好きではない。比喩的に用いられる「解像度」の意味は、文脈から察するに「物事やフィクション作品に対する理解度」あるいは「感情や状況を的確かつ具体的に説明・表現できる能力」といったところだろう。

 しかしそもそも、写真や映像の素晴らしさは、解像度だけでは決まらない。構図も重要だ。ジョン・フォードの映画の画面よりも現代の映画の画面の方が解像度が高いが、だからと言ってジョン・フォードの映画が現代の映画に劣る訳ではない。解像度の高くないカメラで撮影された息を呑むほど美しい構図の映像は、解像度の高いカメラで撮影された凡庸な構図の映像よりも遥かに勝る。

「この実写映画の制作陣は、原作漫画に対する理解度が深い」と述べたとき、「理解度」とは「原作漫画を多角的な視点で捉え、そこから映画化する際に最適な要素を選び、深く掘り下げ、原作漫画の良さを殆ど損なうことなく実写映画に移植することができている」という意味であり、比喩的に言えば「解像度の高いカメラを使って、被写体を素晴らしい構図で写真に収めてくれましたね!」だ。理解度という言葉は、解像度だけでなく、視点や構図といった意味も含んでいる。にも関わらず、どうして「理解度」ではなく、視点が欠落した意味の狭い比喩である「解像度」を使うのだろうか。

「感情や状況を的確かつ具体的に説明・表現できる能力」という意味での用いられ方についても、同様だ。「解像度が高い」ではなく、言葉選びが豊富で的確、感情が正確に理解できる、情景が具体的に想像しやすい……等々、いくらでも言い換え可能、どころか、より伝わり易い言い回しがあるのに、何故「解像度」を使いたがるのか。ただなんとなく格好良さげだから「解像度」と言いたいだけではないのか。違うと言うなら、「解像度」という語でなければ表現し得ない微妙なニュアンスを、是非とも教えていただきたいところです。

 利便性が高く、何か頭の良さそうなことを言っている風で、しかしその実ピントがぼやけた「解像度」という比喩に頼り続ける限り、「解像度が高い」人にはなれないだろう。なんつって、ごちゃごちゃとそれらしいことを述べたが、要はなんとなくこの言葉が鼻につくだけです。この嫌悪感は、『花束みたいな恋をした』の主人公二人に対する嫌悪感に近い。あいつら絶対、解像度って言いまくってますからね。終わり。