沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

小山田圭吾のこと(ウソ、ほぼ俺のこと)

 小山田圭吾が過去に凄絶ないじめを行なっていたと雑誌のインタビューでへらへら語っていた噂を知ったのは、もう随分と前のことだ。それ以来、小山田圭吾の手掛ける音楽を聴くときは意識的に、とっくの昔に死んだジャズ・ミュージシャンの曲を聴くときのような気分に切り替えてきた。

 小山田圭吾を糾弾してこなかったファンにも責任がある、と言われればその通りだが、好きな著名人全員の脛の傷を批判して謝罪や反省を求めるなんて、自分の人生を生きている人間にとっては時間も根気も足りない。そもそも、どこまで尾鰭が付いているのかも分からないし、それを調べるだけの気力もない。

 なんてのはまあ言い訳で、要はどうでもよかっただけだ。小山田圭吾の音楽は金と時間を費やして聴く程度には好きだが、熱心な追っかけ、一番好きなミュージシャンという程ではない。この人の人間性を変えたい!と思うほどの熱はない。素敵な音楽を奏でてくれるから、有り難くそれを聴かせてもらいやす。昔エグいことしてたっつーけど、まあ俺が小山田圭吾と知り合って友達になることは多分ないからええわ……という訳だ。

 この考え方が「ファンとしての責任がある」と言われれば反論はできないが、だったらあなた方は世に蔓延る理不尽で酷いことを可能な限り殲滅すべく行動しているのか、とは問いたい。ハッシュタグデモに参加しているだけで、自分は全身全霊をかけて闘っているのだと自負されては困る。ハッシュタグデモなんて何の意味も効果もない、と冷笑する気はないが。

 で、今回の小山田圭吾をオリパラ開会式に起用した件だが、「そりゃ悪手だろ 蟻んコ」とネテロ会長に見下されるやつだ。小山田圭吾の過去の暴行事件は、ネット上では何年も前から話題に上がっていた。小山田圭吾がメジャーなミュージシャンではないから(米津玄師とかと較べれば、という意味です)、小山田陣営が沈黙を貫いてきたから、我々ファンが見て見ぬ振りをしてきたから、この問題が炎上することはなかったが、少なくはない人々が東京オリンピックパラリンピックに反対している現状で小山田圭吾を開会式に起用すれば、燃え上がることは容易に想像がついたはずだ。

 件のインタビュー当時、ああいう露悪的なもの、鬼畜的なものを面白がる風潮が一部にあった……のかどうかは、1999年生まれの俺には分からない。小山田圭吾がつい話を盛ってしまった部分がどの程度あるのか、インタビュアーがどの程度誇張して記事にしたのかも知らない。ただ事実として、あの記事が世に出回り、それを長年否定したり反省を示したりしてこなかった訳だから、そんな奴を平和の祭典たるオリンピック・パラリンピックの開会式に起用してはいけないだろう、という論理は頷ける。辞任もやむなしだろう。

 ただ、小山田圭吾を熱心にネットで叩いているあなたに一つだけ言いたいのは、「小山田を叩くの、結構楽しんでますよね? それだけは自覚しておいてくださいよ」ということだ。小山田を叩く「楽しさ」は運動して汗を流す楽しさや酒を飲んで馬鹿話をする楽しさとは違って、陰性でじめっとしていてドロドロとした楽しさだろうが、それでも楽しんではいるはずだ。

 そう断言する根拠は、中学時代の経験にある。当時、クラスにKという男子がいた。ヤンキーぶっていて、クラスメイトの大半に煙たがられていた。しかも、同じヤンチャ系グループの男子からも「最近あいつイキって態度デカいけど、中学入ってからやろ、あいつがヤンキーになったの。筋金入りちゃう。成り上がりヤンキー、ナリヤンや」と疎まれ始めていた。大阪のクソ田舎でろくに殴り合いの喧嘩をしたこともない中坊たちが「本物だ」「ナリヤンだ」とマウントを取り合うのは、今思えば馬鹿馬鹿しくて微笑ましいが、当時の俺らにとってヤンキーグループはやっぱりそこそこ権力者達だった。

 で、ある日俺がそこそこデカい声で何かくだらないことを言い、教室が微妙な空気になったとき、Kがデカい声で言い放った。

「うわー、〇〇めっちゃスベってるやん!」

 女子達がクスクスと笑った。男連中も笑っていただろうが、思春期真っ只中の童貞中坊、女子の視線しか気にならなかった。バイセクシュアルを自覚するのは、もう少し先の話だ。俺は屈辱に燃えた。当時の俺は「オモロい奴」ということで、ムードメーカー的ポジションだった。ヤンキー君たちみたいに権力はなかったが、そこそこ権威はあった。それを一回スベったからって、鬼の首を取ったように騒ぎ立てて恥をかかせやがって。この朕に! Kのようなナリヤンの小童が! つー訳だ。Kはしつこく騒ぎ、教室も次第に白けていった。俺は心の中で「死ね」と毒づいた。

 以来、なぜかKはことあるごとに、俺をdisったり鬱陶しい絡みをしてくるようになった。教室で孤立し始めていた彼なりに、どうにかクラスメイト達と繋がろうとしていたのだろうか……なんてことを考えるはずもなく、俺はただただイラついた。「今度なんか言うてきたら、あいつに文句言うわ」と友達が言ってくれたり、優しい女子から「先生に言った方が良くない?私が言おか?」と尋ねられたりすると、余計腹が立った。いじめは数や空気やノリが支配するものだとは知らず、いじめられっ子は弱くてダサい奴だと思っていたからだ。親や教師に泣きついたり、クラスメイト達に助けられたりなんてダサい。俺はいじめられっ子じゃない。だから、「いやいや、あんなんただのイジリやろ。俺もようやるし、全然気にしてへんで」と虚勢を張り続けた。チビで童顔のくせに、マッチョイズムに満ちていた。

 ある日の休み時間、男女何人かで喋っているとき、Kの悪ぶっているけどサマになっていない言動をネタにしてみた。大いに盛り上がった。次の日も次の日も、俺はKを笑い話のネタにした。話を聞きにくる奴の数は増え、俺の知らないKの話を提供する奴もちらほら現れた。ヤンキー君たちが顔を出すこともあった。

 Kは居場所がないせいか、休み時間に殆ど教室にいることがなかったから、思う存分Kの悪口で盛り上がることができた。だがある日、どういう訳かKが休み時間になっても教室から出ていかなかった。もしかしたら、自分のいない間にクラスで悪口大会が開かれていると噂で聞き、それを確かめようと、あるいは阻止しようとしたのかもしれない。

 ともかく、本人がいるならできへんなあと思っていると、Nという男子が「今日はいつものやつせえへんの?」とデカい声で言ってきた。いや、本人がおる前でできへんやろ、と思ってから、俺はコペルニクス的転回を得た。「Kは他の奴の前で俺のこと揶揄ってくんねんから、別にえっか」と思ったのだ。十人ほどで輪になり、俺達は話し始めた。Kの名前は出さなかったが、しばらく耳を傾けていれば、自分がネタにされていると容易に分かる内容だ。俺達はチラチラKを見ながら悪口に興じ、笑い、いつの間にかKの存在を忘れてフツーに盛り上がり、気付けばKは教室から消えていた。罪悪感めいた胸の痛みが襲ってきたが、「先に理不尽に絡んできたんはあいつやからな。俺はやり返しただけや」と自らを正当化した。

 翌日から、Kがイキった言動をするたび、俺達は「うわ〜、ネタにして盛り上がってる言動そのまんまやなあ」とクスクス笑った。それまでと違って、Kを小馬鹿にしていることを誰も本人に対して隠そうとしなくなった。休み時間には、それまではKの言動を揶揄する話で盛り上がっていたが、次第に「過去にKにされた嫌だったこと」を発表するようになっていった。「ショートカットにしていったら、いきなり『似合ってへんなあ』って言われた」「体育のバスケで、『役立たず』って言われた」云々、Kから理不尽に受けた被害を報告し合い、Kは最低な奴だと確かめ合った。そうすることで、自分達がこれまで、そしてこれからもKの悪口を言い、小馬鹿にすることは、いじめではなく正当な報復なのだと思い込もうとした。誰も、明確に言葉にはしなかったが。

 ある日、Kは学校を休んだ。翌日も、その翌日も来なかった。俺達は休み時間にKの悪口を言って盛り上がるのを自然とやめたが、「俺らのせいで休んでんのかな」などと話し合ったりもしなかった。誰もが素知らぬ顔で、何気ない会話を繰り広げていた。

 Kが学校に来なくなって一週間以上経ったある日の放課後、先生が言った。

「Kに嫌がらせとかいじめをした覚えのある人はおらんかな」

 先生は一人一人、名指しで尋ねていった。俺達は平然とした顔で、小首を傾げた。綺麗な顔をしたとある女子は、「前にK君にこんなことをされて嫌やったっていう話をみんなでしたことはありますけど、悪口とかは言ってないです」と毅然とした態度で言った。「Kのあの舌を鳴らすクセ、ホンマきしょい」と笑っていた子だ。

 後方の席に座っていた俺は、内心ドキドキしていた。他のみんなのように「知らないです、いじめてません」と言えるだろうか。流石にそれは白こ過ぎひんか。格好悪いやろ。そうや、「確かに俺はKの悪口をめっちゃ言いました。でもそれは、元はと言えばあいつが俺に絡んできたからです。やり返しただけです」って言うたろ。だってそれ、ホンマやもん。俺はKが絡んできたからやり返しただけで、Kが何もしてこんかったら、俺も何もしてへんし。え、ホンマかな。いやぶっちゃけ、最初の数回だけやろ、Kへの憎悪で悪口を言ってたのは。残りはずっと、楽しかったからや。あいつの悪口でみんなが盛り上がって笑ってくれるのが、嬉しかったからや。あいつを寄ってたかって悪く言うてると、安心したからや。最悪やな、それ。俺の根性、大っ嫌いなKとほぼ同じやん。

 などと考えている間に、先生は一人一人に尋ねるのをやめてしまった。俺の番は回って来なかった。先生は「そうか……。じゃあまた、Kが学校に来たら、普通に迎えたってあげてな」と言った。俺達は「はあい」と口々に返事をした。

 未だに、あの先生が何を思っていたのかは分からない。いじめがあったと悟った上で諦めたのか、それともやや問題児だったKが少し自分のことを悪く言われただけで大袈裟に傷付いただけなんやなと解釈したのか。

 いずれにせよ、先生がそれ以上この問題を追及することはなかった。数日後、Kは登校してきた。俺達は誰も「おはよう」と言わなかったが、それ以来誰もKの悪口を言わなかったし、一時期Kの悪口で盛り上がってたなあと述懐することもなかった。俺達はしれっと卒業の日を迎えた。

 小山田圭吾を批判するなとは思わない。噂が事実なら、小山田圭吾が可哀想だとも思わない。ただ、小山田圭吾を大勢で吊し上げるとき、自分を突き動かしているのは「いじめは許せない」という正義感だけではないと自覚はしておくべきだと思うのだ。

 Kの悪口で盛り上がっていた当時の俺は、クラスメイト達にいきなり嫌なことを言うKと相似形だし、障害を持った同級生を暴行する小山田圭吾と相似形だし、小山田圭吾を攻撃的に吊し上げている人々と相似形だ。大小はあれど、形は同じだ。と、思うのですよ。

 俺は今でも、あのときKの悪口をみんなで言い合ったことを後悔している。「うっさいんじゃ、ボケ。いちいちしょうもないことで絡んでくんな、キモいねん。殺すぞ」と、俺一人で正面切ってKにキレればよかったのだ。

 以上。しっかりとした結論やオチはない。小林賢太郎解任の件はまた、気が向いたら書きます。開会式はまだ見ていませんが、録画しているので、休日に観ます。ガンバレ、ニッポン!終わり。