沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

非自粛宣言

 俺が住む大阪府に、4回目の緊急事態宣言が発出された。何回目だよ、もう緊急感全然ねえよ……などという声がネット上に溢れているが、大仁田厚の引退宣言回数は7回だ。上には上がいる。

 そして、緊急事態宣言が発出された今、俺はここに、非自粛宣言を発出する。そもそもなんやねん、発出って。いやまあ別に、発出という単語自体は新語・造語ではないらしいけどさ、それまで殆ど誰も使ってなかったのに、ある日「緊急事態宣言」の出現と共に何の注釈もなくメディアが「発出」と使い出し、なんとなく我々国民も字面と文脈から意味を推測してそれを受け入れたっつーことに、妙な気持ち悪さを覚える。

 閑話休題。非自粛宣言とは何か、だが、読んで字の如く、俺は自粛をしませんという宣言だ。ただ強調したいのは、反自粛宣言ではないということだ。一時期ヨドバシ梅田の下に集っていた、そして今は全員死んだのか知らんがめっきり姿を現さなくなった「コロナはでっち上げ」論者達のように、「自粛するなど愚か! 自粛するな! 貴様らも目覚めよ!」と声高に叫び、自粛しないことを尊ぶつもりはない。医療体制の逼迫・崩壊はヤバいらしいし、コロナに感染すると場合によっては結構ヤバいんでしょう。一人一人が外出自粛をして感染を広めないことが、市民の務めだという意見にも頷ける。

 が、俺は外出を自粛しない。先日は従姉妹と叔母と祖母と4人で飯を食ったし、恋人とUSJでデートもしたし、一人で映画館や喫茶店やパチンコ屋にも行っているし、来週は久しぶりに会う友達と県を跨いで酒を飲む。友達が少ないため田中圭みたいに大勢で集う予定は今のところないが、もし俺が田中圭の立場だったらやはり、誕生日パーティーを存分に楽しんだだろう。

 俺の人生は、俺の人生だ。俺には俺の人生を楽しく生きる権利があり、いつまで続くとも知れぬ外出自粛とやらにずるずる従った結果として数年後や数十年後に一生の後悔を背負う羽目になったとしても、責任を取ってくれる者はいない。無邪気で生意気なクソガキ生活を奪われた小学生も、繊細で多感で凶暴でやかましい集団でのはしゃぎを奪われた中学生も、甘酸っぱい青春を奪われた高校生も、最後のほろ苦いモラトリアム期間を封じ込まれた大学生も、その傷を癒されたり補償されたりすることはこの先決してない。それを忘れさせ、帳消しにしてくれるような幸福はきっと訪れるだろうが、コロナ禍で我慢した不要不急の活動のかけがえのなさ自体を取り返すことはできない。数年後や数十年後に、東京オリンピックの開会式の酷さやその原因が語られることはあるかもしれない。森喜朗電通のジジイは改めて批判されるかもしれない。当時の、つまり現在の政治や行政の無能や失策も非難の的に晒されるかもしれない。和牛商品券って正気か、マスク2枚ばら撒きってイカれてんな、通勤電車を減便ってなんで役人は誰も止めなかったんだよ、などと半笑いで語られるかもしれない。そして、「当時の若者、可哀想やなあ」と同情されるかもしれない。だが誰も、奪われた若者の暮らしの豊かさを復元はしてくれない。「第二次世界大戦の犠牲になった当時の日本人可哀想やなあ、でもまあ、政府や軍人だけが暴走したんじゃなくて、当時のメディアが戦意高揚を煽り、国民もそれにライドオンしてたっつー側面はあるんよねえ」と2021年を生きる我々が感じるのと同じように、「コロナ禍の政府は無能やったけど、そいつらにずっと政権を握らせてたのは当時のメディアであり国民やっつーのもまた事実やからなあ」と複雑な感情を抱かれるのだろう。あるいは、そんな批評をされないほど日本が劣化し、退化しているかもしれない。いずれにせよ、未来の誰も俺達の現在を取り戻してはくれない。

 俺は自粛をしない。それによってコロナに感染し、重篤な症状に見舞われたならば、無様に泣き、後悔し、ジタバタしながら生きていく。俺が自粛をしなかったせいで俺と接触をしていた大切な誰かが感染し、彼らや彼女らが重篤な症状に見舞われたならば、心苦しさや申し訳なさを感じ、でも俺と会ってたっつーことはお前らも自粛してなかったやんけと開き直り、でもやっぱ悪いなあと思い、そして引き続き生きていく。あるいは、俺も彼らもコロナで死ぬ。

 俺は自粛をしない。外出時には感染対策をしているが、飛沫の及ぶ範囲に人がいないときや、映画館の上映中のように声を発しない状況では、マスクを外している。俺が外出自粛をしなかったせいで感染し、重篤な症状に見舞われたり死んだりする人が、検証の仕様はないが、いるかもしれない。

 だが、どうでもいい。コロナ禍と外出自粛で若者が可哀想、と言う人が誰も若者一人一人の人生と向き合ってコロナ禍による喪失を埋める手助けをしてくれないように、俺もコロナ感染者が可哀想だとは思うが、もしかしたら俺が感染させた人もいるのかな、悪いな、などとは考えない。別に、「もっと俺達若者を哀れめ!」とか「若者ばっかり悪者扱いして、お前ら上の世代がそんな態度だから出歩くんだぞ、プンプン!」とか言いたいのではない。俺の人生は俺の人生で、あなたの人生はあなたの人生だ。互いに代わることはできないし、埋め合うこともできない。俺は好きなようにするから、あなたもどうぞ好きなようにしてください。自粛しない若者を非難する権利は当然あなたにあり、そのことを咎めるつもりはありません。俺は自粛をしない。あなたは自粛しない若者を責める。それを続けましょう。緊急事態宣言が明けるまで。コロナ禍が明けるまで。俺かあなたが死ぬまで。

 アイラウイスキーの巨人・ラガヴーリンを飲みながらこの記事を書いているが、別に酔ってはいない。なんとなく戯画的な口調になってきたのは、最近『忍者と極道』を一気読みして超面白かったからだ。幸か不幸か、酒で殆ど酔わない。ぽわーっとはするが、酩酊はできない。ぽわーっとするためだけならマリファナでもトルエンでも構わないが、酒を飲んでいるのは、旨いからだ。おいら、という一人称がサマになっていないでお馴染みのひろゆきは、「お酒って酔うために飲むんですよ。美味しいお酒を飲みたいとか、基本的にみんな嘘つきだと思ってます」と言っていたが、一生そう思っておけばいい。

 ラガヴーリンをストレートで飲んでいると喉が渇いてきたので、チェイサーを取りに台所に向かった。チェイサーは、アサヒスーパードライだ。ウイスキーのチェイサーにビールを飲むのは外国では割とポピュラーらしいが、日本でそれをしているのは余程の酒好きか、酒好きをアピールしたい奴か、俺のように『犬の力』を読んで「チェイサーにビール!イカしとんがな」と思ったかのどれかだ。

 スーパードライを飲み、どうやって本稿を終わらせようか考えていると、大学生の恋人からLINEが来た。7月中旬に大学で受けられるはずだったワクチンが厚生労働省による職域接種の確認作業の遅れのために8月中旬に延期になったが、もう8月だというのに何の連絡もない。絶対9月にもつれ込むだろう、とのことだ。

 返信を考えながら、暇潰しにテレビをつけた。河野太郎が若者のワクチン接種率向上を目指して、YOSHIKIと対談したらしい。若者の感染者数が増えているらしい。若者が街に出歩いているらしい。若者はワクチンを拒絶しているらしい。

「コロナの怖さ どうして若者に届かないのか」

 テロップが出た。若者に届かないのはコロナの怖さではなく、ワクチンの接種券やろ。

 大して気の利いていないツッコミを入れつつ、LINEに返信をした。

「ワクチンが間に合おうが間に合うまいが、10月ディズニーランド行こうぜー。ハロウィンやし」

 コロナ禍はどうせ、いつかは明ける。もしくは、明けたというフリをみんながする。それまで、俺は自粛をしない。何故なら、「自粛」するか否かの決定権は、俺にあるからだ。終わり。