沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

ケース・バイ・ケースであります。

 ピカレスク漫画の傑作『クロコーチ』にて、1974年に警察学校を優秀な成績で卒業した十名が、公安部配属のための筆記試験を受けるシーンがある。「あなたは連合赤軍の潜入捜査官として組織内で順調に出世しています。あなたを幹部に登用しようと考えた上層部が、あなたに最後の試練を与えます。幹部になりたければ警察官を一人殺害せよ。さて、あなたならどうしますか?簡潔に記しなさい。」という問いに対して、登場人物の一人が答える。「ケース・バイ・ケースであります。」と。「実に簡潔、そして実に冷酷」と公安のお偉いさんに気に入られて見事採用されるのだが、このエピソードがやたらと好きだ。

 ケース・バイ・ケース。実にいい言葉だ。世の中のありとあらゆることは、ほぼ全てケース・バイ・ケースである。それを「同じ警察官を職務のために殺せるか」という問いに対してまで適用してしまう冷徹さが凄えよなあ、というエピソードだが、今の世の中、そもそもケース・バイ・ケースで物事を片付けない人が多い。白黒はっきりつけたい性格、と言えば聞こえはいいが、ケース・バイ・ケースで終わる話にいつまでも拘る人は、アホや狂人と紙一重だ。もちろん、ケース・バイ・ケースで終わらせてはならない話もあり、ケース・バイ・ケースで終わらせていい話かケース・バイ・ケースで終わらせてはいけない話かは、それこそケース・バイ・ケースだ。お気付きの通り、ケース・バイ・ケースと言いたいだけだ。

 なぜこの話をしようかと思ったかというと、数日前、恋人から「デートでサイゼリヤはありかなしか」という問いをされたからだ。「なんで急に?」と吉良吉影に爆殺されるであろう質問返しをすると、「Twitterで話題になってたから」と言われた。その論争何回目やねん、と笑ってしまった。彼女の誕生日祝いのディナーにサイゼリヤはなしだと俺は思うが、彼女自身が「お金はないけど夢を追ってる彼氏くんが好き。サイゼリヤで全然いいよ。てか、サイゼリヤがいい。何時間でも夢の話を聞かせて」っつーならそれはそれで、皮肉や厭味ではなく、幸せそうだから結構な話だ。サイゼリヤ論争とか4℃論争とか、幾度となく繰り返される不毛な論争の火種が燻った時点で、全員で声を揃えて「ケース・バイ・ケースであります」と言って鎮火させましょう。

 ついでに言うと、ネット上で繰り広げられるこの種の論争に、あたかも初めて接したかの如く振る舞っている人に対しては、欺瞞を感じる。サイゼリヤデートはあり派、なし派の意見があらかた出尽くしている以上、それを踏まえた上で「逆にあり」「とはいえ、やっぱなし」といった意見を出せばいいものを、「サイゼリヤデートを嫌がるような女は嫌だ」という一歩目の主張を今更されても……と感じる。ゾンビ映画の登場人物が誰もゾンビという架空概念を知らない、みたいな違和感だ。「うわ、フィクションで観るゾンビそっくりやんけ、こいつら!」というリアクションを登場人物がしない作品は、あまりにも嘘臭い。「サイゼリヤのデートはなしっていう女の人もいるみたいだけど、私は全然ありだよ!と笑顔で言ってくれる女の子がいいなあ、でへへ」とか「そんな男は嫌だ。デートくらい、いいとこ連れて行けよ。てめえに会うために費やした化粧代考えろ、タコ」とか、まずはサイゼリヤ論争によって過去数多の血が流れてきたことを踏まえた上で、ありかなしか論ずるべきではあるまいか。

 といったことをコンマ数秒で考えたあと、恋人に対して「まあ、ケース・バイ・ケースやろ。てか、ちょこちょこTwitterでその論争生まれてるけど、何回目やねんな」と笑って答えると、「え、そうなん。知らんかったー」とあっけらかんと言われた。皆さん、サイゼリヤ論争の最適解が誕生しました。「サイゼリヤ論争の存在を知らない、あるいは2022年以降ようやく知った、というレベルのネットに毒されていない恋人を作り、サイゼリヤだろうが鳥貴族だろうが高級フレンチだろうが、きちんと話し合って、あるいは相手が喜ぶかどうかをケース・バイ・ケースで考えて、店を選ぶ」です。戦争終結。終わり。