沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

朝井リョウ『正欲』について

 東宝西宮で一人、ポップ&コークを携えてご機嫌に『ジョン・ウィック:コンセクエンス』を鑑賞した。上映時間169分のうちアクションシーンが大半を占め、『ブレードランナー』感溢れるニッポンの描写も真田広之の地に足のついた格好良さも座頭市リスペクトなドニー・イェンの殺陣も楽しかったが、全編を通してずっと没入できた訳ではない。改めて、同じくほぼ全編アクションのつるべ打ちだった『Mad Max: Fury Road』がいかに素晴らしい映画だったかを思い知らされた。俺は現在24歳だが、もう既に過去のことを全然覚えていない。悪い思い出と猛烈に良い思い出は鮮明だが、ちょい良い思い出とどうでもいい思い出は次々に忘れていっている。そんな中、2015年という年は、『Mad Max: Fury Road』が公開された年として強烈に覚えている。他にも、高校をサボって梅田の映画館で『ショーシャンクの空に』『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』『キングスマン』をハシゴしてから、紀伊國屋で『殺し屋1』新装版を全巻買って読んだ2015年の一日も最高の思い出だ。こと2015年に関しては、どうでもいい記憶も割と覚えている。朝井リョウvsデブッタンテもこの年に起きた。うしろシティ、解散しちゃいましたね。

 で、まあ、vsデブッタンテがあったからとかではなく、朝井リョウ作品には2023年に至るまで、特に理由なく触れてこなかった。映像化された作品も、一切鑑賞していない。ただ、『正欲』は評判の高さや新垣結衣稲垣吾郎のWガッキーキャストで映画化されるとのことで興味を抱いていた折、妻が文庫本を購入してきたため、読んでみることにした。

 この文章を書いている俺は、24歳、生物学上も性自認も男、けどかつて恋人=現妻から女子高校生時代のセーラー服を着せられたらすっげー興奮したんで、もうちょい金と時間に余裕があれば女装趣味に走りそう、らんま1/2みたいに両方コロコロ行き来できたら最高っすなあ、多様性やLGBTQという言葉に拒否反応を示したことはないけど、アプリのアップデートという名の改悪を何度も経験しているはずの現代人が、平然と人権意識やコンプライアンスについては「アップデート」という言葉を用いてその善性や正しさを信じて疑わないのは理解に苦しむなあ、そういやこの前友達2人と酒飲んでたら「同性愛って意味分からん。キモい」「最近のLGBTは普通って風潮はおかしい。生物学的に普通ではないやろ」と言われたので、「いやいや、こっちは相手の性別じゃなくて、エロいかエロくないかの判断基準で生きてるから」と返して、「え、ゲイなん? 偽装結婚?」「違う。性別を重要視してへんっちゅうだけで。そもそも、一番身分の低い童貞の分際で、恋愛とセックスを語るなよ。俺みたいに処女まで失ってから言え」「さらっと衝撃のカミングアウトやな。てか、童貞disり過ぎ。大体、セックスってホンマは存在しないんやろ?陰謀論やろ?」「ルシファー吉岡か、お前」というガラケーみたいな会話をゲラゲラしたあと、三軒目にみんなでバニーちゃんのいるガールズバーに行ったりするようなタイプです。俺自身の具体的な「性欲」についてまでは言いませんが、少なくとも性的対象は人間で、人間以外の獣や物には昂奮しません。ただ、可愛い男の娘にも墓場までもう一歩の老婆にも涎だらだらの赤子にもあるいは実の父親にさえ欲情しているのかもしれないし、三浦瑠璃の言説に内心「何言うてんねん」と思いながらも頭を踏み付けられて「仰る通りです」と服従させられたいのかもしれないし、黒ギャルの全身を刃物で切り刻んで命を弄びたいのかもしれないし、『我が子を食らうサトゥルヌス』の絵を見ながら毎晩自慰に耽り、いずれ本当に我が子を食らう目的のために妻と結婚したのかもしれない。あらゆる理解不能で邪悪な性欲を抱えている可能性があります。ただ現時点では、性欲を爆発させて誰かを傷付けたことはありません。性欲以外の面では少なくはない人を直接的/間接的に傷付け、法的にだけではなく、苦い罪を背負っているあまり立派ではない人間です。以下は、そういうフツーの人間が、坂本慎太郎の『まともがわからない』をええ曲やなあとうっとり聴いているような、朝井リョウが言うところの「まとも側の岸にいる人間」が、『正欲』を読んだ感想です。ネタバレ全開、A.T.フィールド全開です。エヴァ15はロングST系パチンコの最高傑作ですな。ライトミドルも登場したけど、やはり319の方が楽しいでしょう。アニメは一話も観てません。

 さて、本題。小説の内容の要約で読書感想文の文字数を埋めてはならないと中学生のとき国語の教師に言われたので、あなたが『正欲』を読んでいる前提で話を進める。俺はこの小説を超面白いと思った。「自分が想像できる"多様性"だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」という台詞を筆頭に、昨今流行りの多様性やアップデートの欺瞞への批判の切れ味は鋭い。自分達がまとも側にいると信じて疑わないから、あらゆるものを正しいと信じて規制できるのだ、少数派にも「理解がある」という態度は自分が常に受け入れる側の多数派だと思っているからこそだろう、といった主張には大いに頷けるし、「マジョリティへの悪影響を助長し得る場所でようやく息継ぎをし、マイノリティを都合よく利用した場所に傷つけられてきた。前者が規制され、後者が礼賛される場面ばかりに出会ってきた」は名文だ。何かと批判されがちなお笑いが好きな身として、結構刺さった。ま、余談ながらお笑いファンって好きな芸人や好きな番組が批判に晒されることに関してナイーブ過ぎないか、とも思っている。バラエティ番組に規制の波が押し寄せようと視聴者的には知ったこっちゃねえ、オモロいもん放送せんかい、あの芸人また色々やらかしたんか、ふはは、てな感じで気楽に観ればいいのに、こんなの放送して批判されないかな、こんな言動叩かれちゃわないかな、とテレビ制作者やマネージャーみたいな眼差しでお笑いを見ている人が割といた。裏側を見せることをも興行にしてしまった弊害か。つって、俺がTwitterで有象無象のお笑い好きを観測していた頃の印象で語っているので、今は違うかも。Xになったらしいし。名称変更が発表されたタイミングで、Twitter JAPANはX JAPANになっちゃうじゃん、というヒューモアがTwitter上に溢れた、に5000ペリカ、缶ビール一本分賭けます。

 あと、これはもう全然関係ない話だが、物語終盤で諸星大也と八重子が「多様性の称揚は、単に少数派にも理解ある自分をアピールしたいだけではないか」という対話をするシーンで、何故だか分からないが、古典文学を読んでいない読書好き、古い映画を観ていない映画好き、落語を見聞きしていないお笑いファンなどがよく使う「履修していない」という表現に対して、広く括れば同じジャンルでもその辺は興味ないっす、守備範囲外っす、と言えばいいだけなのに、「ジャンル愛好者として興味関心はありますよ、アンテナは張ってますよ」という目配せや言い訳のための表現に感じられて気に食わねえな、そもそも授業じゃないし、単位出ねえし。てなことを、頭の片隅でなんとなく思った。

 『正欲』の話に戻る。『正欲』はとてもバランス感覚に優れた作品だ。諸星大也や佐々木佳道、桐生夏月は、啓喜と彰良を性の対象として消費してはいないが、彼らのYouTube活動を性欲の発散のために利用している。噴出する水、という性的対象のお陰で清らかに隠蔽されていたが、不審視もされず金も掛からない、手っ取り早い手段として啓喜と彰良に性欲発散の手伝いをさせる構造は、グロテスクだ。子供らにとってはただの水遊びではないか、ディルドやアナルパールを用途を知らせずに子供らに持たせるのとは訳が違う……という反論もあるだろうが、YouTuberとしてビックになるぜと懸命に頑張るガキ2人を己の性欲発散のために利用してええ訳ないやろ、というのが俺の価値観だ。同じように思う読者は、一定数いるだろう。『正欲』はこの点に関しても、子供を利用せざるを得なかった切実さを描き、しかしそれってホンマにええんかいなという疑問も提示している。それがその後の「自分達で動画を撮る」という展開に繋がり、結末へと向かう。子供を利用するなんて、と批判的なトーンで描き過ぎると小説として破綻するし、かといってそこをスルーすると俺みたいなダルい奴は引っ掛かってしまうので、絶妙な塩梅だ。

 バランス感覚で言うと、大也と八重子の終盤の対話も素晴らしい。俺は中盤までずっと面白く読みつつも、何処かで「水にしか性的興奮を抱けず、そのことで社会規範とは根本的に相容れないと諦め、社会を恨んでしまった3人」に対して、不幸自慢みたいでイラつくな、とも思っていた。そこにきて、それまでずっと浅薄なキャラとして描かれていた八重子が「はじめから選択肢奪われる辛さも、選択肢はあるのに選べない辛さも、どっちも別々の辛さだよ」と言い、苦しみには色んな種類があり、そっちだってこっちの辛さは分からないだろうと述べることで溜飲も下がったし、それでもなおそこから執拗に対話を迫るシーンは、とても美しかった。Twitterではおよそ存在しない「対話」の姿勢がそこにはあった。名称が変わったくらいで中身が変わるとは思わないので、Xにも恐らく存在しないだろう対話、そして、繋がりというこの小説を通底するテーマをビシビシと感じさせてくれる名シーンだ。

 さて、ここからは反対に「うん?」と思ったことを書く。諸星大也、佐々木佳道、桐生夏月(以下、「主人公達」)は「水にしか性的興奮を抱けない性欲は、いずれ自分達の理解できる範囲の多様性のみを礼賛し、自分達の文脈に組み込んでも大丈夫か否かを上から目線で選別することをアップデートと称する連中によって、正しくないものとして排除されかねない」という懸念を抱いている。だが、果たしてそうだろうか。アニメや漫画のキャラを愛する二次元オタク、そして初音ミクと結婚したフィクトセクシュアルと呼ばれるような人は、作中の田吉のようなタイプからは「キモい、キチガイだ」と言われそうだが、むしろLGBTQを理解しよう、ダイバーシティ、アップデート、多様性!と盛り上がる人々、つまり主人公達が敵視していた人々からは、次の受け入れる対象として「選ばれ」そうだ。主人公達の対物性愛に関しても同様で、旧態依然とした反アップデーターからはキチガイ扱いされるだろうが、八重子らアップデーターからは新たな庇護対象として扱われる可能性の方が高いと思うのは、俺だけだろうか。つーか、軽く検索を掛けただけで、対物性愛者のインタビューが何件か出てきた。八重子の大学の学祭が10年後には対物性愛を取り上げている様は、容易に想像できる。無論、「理解してとか頼んでねえし、その上から目線の態度がキモくて気に食わない、この世界の大半の物事が対人性愛を前提に成り立っている以上、生きづらいもんは生きづらいんだ」というのはその通りだろうが、少なくとも主人公達の懸念は杞憂ではないかとの感想は拭えない。この小説を安易に「多様性とか言ってるリベラルは所詮上辺だけの薄っぺらい連中だよ」てな感じでリベラル諸氏への批判の道具に使う人もいるだろうが、『正欲』の作中の端々からも読み取れるように、主人公達少数派にがっつり心の傷を負わせたり緩やかに首を絞めたりしてくるのは、やはり「リベラルとかアップデートとか多様性とか全然知らないし興味ない。そんな話、居酒屋ですんなよ。それよりお前さ、彼女いんの? ええ? いい年こいて、童貞かよ!お前、それでも男か。ガハハ」的な普通の人々の方だろう。『正欲』を全篇通して面白く読みつつも、心の何処かで「主人公達、アップデーターを毛嫌いするのは全然ええねんけど、多分その彼らアップデーターの活動のお陰で、いずれ対物性愛は結構市民権を獲得していくと思うよ。何故なら、対物性愛は理解不能でキモいと思われようとも、人に危害を加える類の性欲ではないので」と思い続けていた。対物性愛が現在の同性愛程度には一定の社会的認知を獲得した場合、水を愛する人々は、現在の同性愛者程度にはその性欲を発散できるコミュニティ、需要と供給を作れるだろう。

 対物性愛は現在、多くの人々の想像の埒外に置かれているから多様性に組み込まれず、主人公達も自分達のような存在が想定さえされていない世界に絶望している。だが、いくら多様性が進もうとも認められないであろう性欲もある。多くの人々がその存在を認識した上で、存在してはならないと既に断罪し終えた性欲だ。すなわち、小児性愛である。

 俺は『正欲』における小児性愛の描き方、というか描かれなさが引っ掛かった。主人公達は純粋に水だけを撮影するつもりで集まるが、同志と思っていた矢田部が実は小児性愛者の一面もあり、児童買春を犯して逮捕され、そこから芋蔓式に主人公達も逮捕される。公園で水を撮影中に子供達も水遊びに参加する状況が生まれ、半裸の子供達の動画や写真を矢田部が撮影して、それを主人公達と共有したからだ。主人公達に関しては、児童ポルノ所持での逮捕は、所持したという事実はあれど、誤認逮捕と言える。

 主人公達は、犯していない罪で逮捕された。主人公達は水を愛していただけなのに、そんなものの存在を現在の多様性が掬えていないから、小児性愛者と誤認され、理不尽に逮捕された。とても胸の痛む悲劇だ。だがその悲劇を引き起こしたのは、主人公達の「性欲」ではなく、矢田部という小児性愛者の存在である。

 誠也は八重子との対話の中で、多様性を重んじるようなことを言っているお前らの主張は所詮「どんな人間だって自由に生きられる世界を! ただしマジでヤバイ奴は除く」「差別はダメ! でも小児性愛者や凶悪犯は隔離されてほしいし倫理的にアウトな言動をした人も社会的に消えるべき」というものだと糾弾する。他にも小児性愛者に言及し、彼らの心の安寧を願うような場面こそあれ、作品全体トーンとして、小児性愛者についてはあるライン以上は踏み込まない。

 どうしても子供にしか欲情できない小児性愛者の苦悩は、どれほどのものだろうか。子供を強姦する訳ではなく、金を払って行為に及ぶ児童買春は本当にいけないことなのか。判断能力の有無を問題にするならば、酒に酔った大人の女性と行為に及ぶ男達はどうなのか。性風俗産業に従事する女性は、まともな判断ができない状況に追い詰められていたのではないか。社会全体で「送り狼」や「風俗に行った体験」は軽い下ネタや猥談として通用するのに、児童買春が一度でも露見すれば法的/社会的制裁は免れない。厳し過ぎないか。1億粒の砂から構成されるものを砂山と呼ぶなら、そこから一粒取り除いた9999万9999粒の砂粒も、砂山と呼べるだろう。X粒の砂の集合もX-1粒の砂の集合も砂山と呼べるなら、理論上は砂粒一つだって砂山と呼べるはずだ。じゃあ、20歳とセックスしていいなら、13歳とセックスしたっていいはずだ。屁理屈?じゃあ、まともな理屈で子供とセックスしてはいけない理由を教えてくれよ。本人の判断を尊重すればいいじゃないか。ダメなもんはダメ?じゃあ、セックスは諦めるよ。その代わり、動画や写真くらいいいだろう。子供と無邪気に水遊びして、子供達は楽しんではしゃいで半裸になって、それをこっそり撮影するだけだ。何が悪い? 誰を傷付けた? 子供達が将来、自分達の裸体が慰みものになったと知ったら傷付く? それはお前らが俺の罪を暴くからだろ。俺はこっそり撮って、自分や仲間と一緒に楽しむだけだ。お前らが暴かないなら、何の問題もない。勝手に人を撮影してはいけない? じゃあ、街で芸能人を盗撮している連中やパパラッチも全員豚箱にぶち込めや!

 てなことは、描かれない。小児性愛者•矢田部の内面は深掘りされない。主人公達は自身が「異常」であるが故に、小児性愛者にも一定の寄り添った眼差しを向けているようだが、作品全体として、小児性愛者は許されないという暗黙の了解が破られることはない。水に昂奮する、という多くの人々にとって理解不能で想像だにしない、しかしある種清らかな、何なら「聖的」な印象さえ覚えさせる性欲を持つ主人公達は、小児性愛者という許されざる存在の巻き添えを喰らい、理不尽な悲劇に見舞われる。読者はそれに胸を痛め、感情移入し、無理解な世界や自分自身の価値観を揺さぶられる。だがその背景にある、小児性愛者=許されない、という図式が崩れることはない。そこにまでは、疑いの余地を見出さない。魔女狩りにかけられて火炙りにされた女性の悲劇には胸を痛めても、そもそも魔女ってそんなに悪い奴なのか、という問いは投げ掛けられない。

 小説は面白ければいいと俺は思っている。テーマとかどうでもいい。『正欲』はめちゃくちゃ面白い小説だったから、大満足だ。ただ、対物性愛のような理解不能で想定していない性欲を無自覚に排除している多様性の傲慢さ、暴力性を描くよりも、小児性愛のように既に「正しくない欲」と審判が下ってしまったものについて多角的に描かれた内容の方が、多様性を問い直すという意味では、踏み込んでいるように感じる。『正欲』の帯文や絶賛コメントを見て、読後に価値観が一変して世界が揺らぐような衝撃を予想していたが、物事の見方という意味では、斬新さは感じなかった。しかし繰り返すが、とても面白い小説です。未読の方がいれば、是非ご一読をば。併せて、木原音瀬『ラブセメタリー』とJ ・G・バラード『クラッシュ』も是非。前者は男児しか愛せない男達を描いた連作短編、後者は自動車事故に性的昂奮を抱く者を描いた長編で、どちらも傑作です。終わり。