沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

ブログ閉鎖

ブログを閉鎖する。四月が来てしまう前に。理由はシンプルに、飽きてしまったからだ。最近、無気力感がえぐい。就活からの逃避願望が原因だ。現在細々と自営業みてえなことをしているのだが、まあそれだけで食ってはいけない。爪に火を灯す生活をすれば何とか……とも思ったが、恋人が手マン好きなため生憎常に深爪だ。灯す余地がない。そういや、深爪って名前の人、Twitterにいるよね。よう知らんけど。んでまあ、やってけねえので、大人しく就活をせねばならない。四月から、大学四回生なんで。しかし、この就活というのが非常に鬱陶しい。面白くない。だからここ数日、就活を放り出して自室にこもり、OMSBの『Think Good』を一日中聴いている。俺にとって、日本語ラップの中で一番の名盤だ。んで、このアルバムを聴きながら本とか漫画を読んでいる。自由とは義務を履行した者だけに与えられるべきものだと思っているが、であるが故に逆説的に、義務を放棄して咀嚼する娯楽には、瑞々しい自由の味が感じられる。ただその背徳的な自由の味、換言すれば堕落の味は、味わい過ぎると、あるとき唐突に、耐え難い苦味へと変わる。あまりにも夏休みを無為に過ごし、中盤辺りではたと「何してんねや。これからどないしよ」と醒めてしまうような感覚とでも言おうか。ここら辺の複雑な感情のさらに先にある感情を、OMSBは最新曲『波の歌』にて、「度を越えた自由は不自由と知る」と言い表した。かっけえ。

ホンマはまだブログを続けて、色々書きたいこともなくはない。ただいかんせん、気力がない。ので、タイトルだけ列挙していく。「俺はホアキンJOKER』より『ダークナイト』を圧倒的に支持する」「北野タケシと黒沢キヨシ〜日本映画を更新するツービート〜」「安倍政権大嫌いやけど、日本アカデミー賞最優秀作品賞が『新聞記者』ってのは……」「キングオブコント2020の審査員は、大竹まこと松本人志小林幸太郎設楽統、飯塚悟志の五人にしてくれ(と書くと、大概の人がチョップリンではなくラーメンズに空目するだろうか)」ゾフィーから目が離せない」ジャルジャルのコント(及びYou Tube上のネタのタネ)における暴力性と井筒監督の『ヒーローショー』について」「僕がアルピー平子の瀬良社長ネタやシソンヌじろうの『一見、悪徳に見えて〜』シリーズを苦手なのは、園子温映画のこれ見よがしさと過剰さに対する拒絶感と通底している」「華麗なるシソンヌ」「令和を迎えた今、職業に貴賎はないことを改めて主張したいし、僕は芸能レポーターを職業とは認めていない」「NON STYLEの漫才にノレない焦りと諦念」「かが屋のコントでSuicaが頻出することに関する、考察めいた雑感」「それでも僕は島田紳助が大好きやった」「君はあいみょんの『君はロックを聴かない』ばかり聴いているね」「伊藤潤二の漫画における恐怖と笑い」「漫画『ザ・ファブル』のオフビートな笑いとヒリつくような暴力の素晴らしさについて」「チャップリンの映画とアンジャッシュのコントにおけるすれ違いの美しさについて、及びアンジャッシュのコントと新本格ミステリが孕む逆説的な人間らしさについて」「売れてるものが一番良いってなら、この世で一番旨いラーメンはカップラーメンだよ……という名言は比喩として破綻している」「漫画村利用者の『お前らもどうせAVを無料で観てんだろww』という開き直りは案外、多くの成人男性の痛いところを突いているという事実から、我々は目を背けてはならない」「我が永遠のアイドル バスター・キートンの格好良さと不気味さ」「映画『奥田民生になりたいボーイ〜』を観て、ふと思った。多分僕は、倉本美津留になりたいボーイだ」

タイトル書いたらやっぱちょっとだけ補足的に書きたいことが生まれたので書くが、2019年のキングオブコント2018年に引き続き、ネタは面白くて番組は面白くないという、凄まじく変な大会でしたね(という話を今更する)。個人的にはゾフィーが、一時期のIPPONグランプリにおけるバカリズムくらい圧倒的に優勝でした。アイデア、視覚的な面白さ、ワードセンス、風刺性、演技、全てが抜群です。2017年の決勝でゾフィーが披露した「メシ」ネタは、アレを男尊女卑、女性蔑視と批判するほど馬鹿ではないですが、単純にあんまりハマることができなかったので、不倫会見ネタを観て、ゾフィーってこんなオモロかったんや、いつぞやのGW明けの「らじおと」での伊集院光大絶賛をもっと真に受けとくべきやった、と後悔&感動しました。それ以来、ゾフィー好きなんですよ。しれっと第7世代ですみたいな顔をしているとことか、チェだぜ!を推す居酒屋の社長とシティボーイズフォロワーの熱血コント村村長のコンビってとことか。YouTubeの公式で「許されざる悪」ってコントが上がってるんで、是非それ観てください。

あとはまあ、みんな大好き、かが屋について。なんかの番組で、バカリズムアンジャッシュのコンビ名の由来を小馬鹿にした流れで、「普通、家で一人でいるときに、『ああ、昨日の旅行楽しかったなあ。あ、そうだ、写真撮ったんだった。あいつにも送ってやろっと』とか大きな声で言わないじゃないですか。リアリティがない。そこをアンジャッシュは、あえてね、分かりやすく言ってしまうという、その親切心」と半笑いでイジっていたことがあったが、キングオブコント決勝のかが屋のネタが少なくはない人々に理解されなかったのを見ると、「テレビで披露する」という点においてはアンジャッシュの説明台詞は正しい選択なのかもしれないと思い知ったし、かが屋にはその正しい選択をこれからも拒み続けて欲しいとも思った。アンジャッシュのコントも面白くて好きですが。

それからもう一つだけ、上では「大竹まこと松本人志小林幸太郎、設楽統、飯塚悟志キングオブコント審査員になってくれ」と書いたが、それが無理なら、もう一層のこと、浜ちゃんが一人で審査すりゃいいよね。司会進行も当然浜ちゃんで。点数を付ける審査が嫌なら「ごっつオモロい」「オモロい」「まあまあ」「オモンない」「全然オモンない」の五段階のボタンのうちのどれかを押すだけでもいい。現行の審査員五人体制よりも割とマジでいい気がする。浜ちゃんが審査員なら、荒削りなド下ネタに爆笑して「ごっつオモロい」を押し、シュールなネタ、技巧派なネタをよく飲み込めずに「オモンない」を押しても、俺は許せる。逆に、ビジュアルバムやごっつなどで数々のキャラを演じたコント師としての矜持から、照れ笑いを浮かべつつめちゃくちゃ的確な審査、コメントをしたら、それはそれで超絶格好いいし。

なんて絵空事を書きながらも、無気力感は一向に治まらない。まあなんていうか、猛烈に死にたいですな。嫌なこと、投げ出したいこと、逃げ出したいことは山ほどあるが、死にたいと思うほどヘヴィな理由はない。死んじゃったワニに関して色々騒ぎになっているのを目にして人間社会にうんざりしたこととか、そのワニが死んだ日に自宅の400km東で大好きなピン芸人のライブが開催されて「ああ、観たかったなあ、チケット取れりゃあなあ」と整理を付けていたはずの気持ちが再び荒ぶったこととかは、まあ辛いが、死ぬほどの理由じゃない。でも、生まれつき人よりほんの少しだけデカい希死念慮の上にそれらの細々とした理由が積み重なった結果、俺は今、猛烈に死にたい。『タイタンの妖女』は、どんなに些細でくだらない理由でも生きる理由になり得ると我々読者に教えてくれる。でもそれは同時に、どんなに些細でくだらない理由でも死ぬ理由になり得るということを意味しているのかもしれない。

これまで、死にたいと思ったとき、どうやって乗り切ってきただろうかと自問自答する。まあ厳密に言えば、肌寒い日に一枚カーディガン羽織るような感じで、毎日薄っすらと死にたいのだが、それはひとまず置いておいて、マジで死にたさがマックスになったとき、俺はどうやって乗り切ってきたのだろうか。残念ながら、その答えは「家族や恋人や友人の存在」ではない。死にたいときに恋人とデートをすると、こんな可愛くて素敵な子がいながら死にたいと思うなんて俺はなんてクソ野郎やと益々自己嫌悪に陥るのだ。まあ、実際クソ野郎やが。

これまで、そして恐らくこれからも、死にたいと強く願う俺を支えてくれたのは、娯楽だ。お笑い、漫画、映画、小説、音楽、飯、酒、煙草。娯楽は所詮、社会や人生の余剰、無駄でしかない。でも、無駄にこそ人生の本質は宿ると俺は信じているし、かの坂本慎太郎だってこう言っている。「音楽は役に立たない。役に立たないから素晴らしい。役に立たないものが存在できない世界は恐ろしい。」

今ここまで文章を書いていて、唐突に、二つの記憶が脳裏を過った。一つは話の流れにピタリと当てはまる記憶、もう一つは微妙に脱線する記憶。着地の仕方は分からないが、何も考えずに書き始めたブログだ。脳味噌の赴くまま、その記憶を書き記すこととしよう。

一つ目は今から二年前、大学一年生の終わりのことだ。そのときも、今みたいに死にたいと思っていた。無気力にだらだらとしていた俺は、はたとテレビを点けた。Mステに小沢健二が出るとラテ欄で見たのを思い出したのだ。もちろん年齢的に後追いではあるが、俺は小沢健二のファンだ。画面にオザケンが映し出された。間一髪、歌を披露する直前だった。そこで初めて俺は、オザケンが「ラブリー」を披露すること、そして誰かSPゲストがいることを知った。オザケンは「ラブリー」について語っていた。この歌は曲調も明るく歌詞も明るい感じだが、実は自分がどん底にいるときに作った曲だと。夜が深く長い時を超える前に、朝が来る光など分かっていなかったときに、いつかどん底が終わると信じて「ラブリー」を作ったのだと。オザケンは俺に向けて語りかけているのか? そんな妄想に駆られるほど、そのときの俺に響く言葉だった。そこで不意に、俺はSPゲストの正体が判った。満島ひかりだ。根拠はなかった。オザケンと親交があることとか、そのときのMステに三浦大地も出演していたことなどが頭の中でぐるぐると渦を巻き、満島ひかりという名が弾き出されただけだ。「お前が満島ひかりファンやから、出て欲しいと思ってるだけやろ」と俺の中の冷笑くんが口にしたが、俺は心の奥底でどういう訳だか確信していた。SPゲストは間違いなく、満島ひかりだと。

そして、ピンクのシャツを着たオザケンが軽くギターを鳴らし、「LOVELY LOVELYで〜」と歌い始めた。オザケンの声に、女性の美しい声が重なっていた。オザケンだけをズームで写していたカメラがゆっくりと引いていき、「完璧な絵に似た」という歌詞とともに、鮮やかな緑のドレスを身に纏った満島ひかりの姿が画面に現れた。並んで歌うオザケン満島ひかりのその画こそがまさに、「LOVELY LOVELYで完璧な絵」だった。歌を聴いて涙を流したのは、人生で今のところあの瞬間だけだ。「ラブリー」を歌い、「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」を歌い終えると、二人は笑顔で握手を交わした。もうちょっとだけ生きよう。何の躊躇いもなく、俺はそう思った。

もう一つの記憶は、それよりさらに遡る。小学校低学年のときの記憶だ。場所は幼馴染の家だった。当時流行っていた爆笑レッドカーペットを録画し、二人で一緒に観たのだ。今となってはこうしたショートネタブームの功罪、みたいな面倒臭いことも考えるが、当時の俺達はただひたすらキャッキャ言いながらレッドカーペットを観ていたし、あのあらゆる人間を小馬鹿にした編集のエンタの神様だって楽しんでいたし、学校で友達とズクダンズンブングンゲームをしたりしていた。はんにゃのYahoo!ニュースに対して、「こいつらが流行ってた過去なんかないから」というコメントを見たので、一応記しておく。ズクダンズンブングンゲームは確かに流行っていた。そして、やってみると結構楽しかったよ。

話を戻そう。幼馴染と二人でレッドカーペットを観ていた俺達は、あるコンビの漫才を観て死ぬほど笑った。文字通り、死ぬほどだ。彼らの名は、ザ・パンチ。のちにM-1グランプリで最下位になったり、くずの歌を歌ってクズから金を貰った宮迫と一緒に謹慎したりすることになるとは露知らず、俺達はザ・パンチのネタで死ぬほど笑った。裏笑いとかスベリ笑いじゃない。そんな概念を小学校低学年は知らない。ただ純粋に面白かったのだ。

俺が人生で一番笑った瞬間は、あくまでも瞬間的な爆発力という観点から言えば、間違いなくあのときのザ・パンチだ。

俺らはとにかく、何かに取り憑かれたように笑った。平山夢明作品に出てくる「ヤクザにすらドン引きされる殺し屋」みたいな見た目のパンチパーマが、登場するや否や、半笑いで「ちゃーっす、ちゃっちゃちゃーっす!」と言った瞬間から、俺達は手を叩いて笑っていた(平山夢明原作の映画『ダイナー』、蜷川実花が監督だからダメだろうとは思っていましたが、やっぱりダメでしたね)

陽気さと華やかさを失ったロンブーの淳、みたいな見た目の方が、出たがりのAV監督みたいにねっとりとした粘着質の声で「もう死んでえ 水のないプールに飛び込んでえ なあ! 肘ガンッてなれよ、お前ェ!」とツッコミ()を入れると、俺達は床に伏せ、身を仰け反らして笑った。死ぬほど笑った。比喩ではなく、本気で呼吸困難になって死ぬかと思った。二人して、腹が千切れるほど笑った。1分半ほどのネタを見終わるや否や、俺は「もう一遍見よ! 巻き戻して! もう一遍!」と息も絶え絶えになりながら懇願し、もう一度見た。そして、死ぬほど笑った。今度は俺が「もう一遍見よ」と言うよりも先に、幼馴染がゲラゲラと笑いながら巻き戻しボタンを押していた。何度も何度も繰り返し見ては死ぬほど笑い、もう俺達はこのまま笑い過ぎて気が狂うのではないか、笑い死ぬのではないか、と半ば本気で思い、そして、こんなに笑いながらならば死んでもいいや、とすら、酸素不足でぼーっとなった頭の片隅で考えていた。端的に言って、幸せだった。だが何故か、「あかん、笑い死ぬ!ヤバい、ほんまに死ぬ!」と言いながら見た14回目のザ・パンチは、全く面白くなかった。13回目までは死ぬほど面白かったのに、突如として、何の前触れもなく、急激に面白くなくなってしまった。俺達は顔を見合わせ、小さく乾いた笑いを洩らした。不意に終わりを告げる思春期の恋のようだった。

最近になり、あの日に観たザ・パンチの映像を某Tubeで見たが、何故14回目に突然面白さを感じなくなってしまったのかという謎は解けなかった。それどころか、そもそも何故あのネタであそこまで笑ったのか、という新たな謎が生まれてしまった。

ここまで書いてふと、そういやあのザ・パンチで死ぬほど笑っていた頃は、死にたいなど全く思っていなかったなあ、とちょっと切なくなってしまいましたとさ。

ちなみに、このとき一緒に腹を抱えて笑った彼は、来月からお笑い養成所に通う。芸人を、漫才師を目指すのだ。数ヶ月前に飲んだとき彼は「学校に通ってお笑いを学ぶとか訳分からんけど、相方おらんからしゃあない。手っ取り早く見つけるために、通ったるわ」というハイパー上から目線で語っていた。既に尖っている。鞘に入れ、鞘に。『椿三十郎』を観た方がええぞ……と俺は苦笑しつつも、でもそんな尖った友達の姿を見て嬉しくなった。彼はそれから、屈託のない笑顔を浮かべ、芸人を目指すことについて「人生で一番ワクワクしてる」と述べた。酔った勢いで熱い応援なんかするのはサブいから、「頑張りやー。売れたら奢ってな」と軽く応じたが、俺は心の中で、「絶対売れてくれ!」と叫んでいた。100%このブログは読んでへんやろうけど、というか読んでへんやろうから書けるが、マジで頑張ってくれ。RHYMESTERは、「夢、別名、呪い」と言った(正確には、仮面ライダーかなんかの台詞らしいが)。呪いで、大いに結構だ。芸人という華やかな夢に呪われたり、ウザい講師を呪ったりしながら、突き進んでくれ。アホみたいに売れてくれ。俺も頑張る。まずは手始めに就活を、でもいずれは、今やってる自営業(就職後は「副業」か)一本で食えるよう目指して、恐らく出会うであろうウザい上司に積年の恨みを込めた頭突きをお見舞いして退社するよ。ほんで、今吸ってるショート・ピースから、ぶっとい葉巻に切り替えるわ。成金丸出しのスーツ着て、葉巻ふかして地元で待ってるから、売れっ子芸人として地元に凱旋してくれ。そしたら、この前みたいな居酒屋じゃなく、気取り腐った高級レストランでガハハと哄笑しながら飯を食おう。もしお互い夢破れてダメになったら、安い居酒屋で「え、これ手ェ消毒する用のアルコールちゃうよね? 飲めるアルコールよね?」みたいな味の酒を飲みながら、「人生の選択、ミスってもうたな!」つってゲラゲラと強がって笑い、アルコールの涙を一緒に流そう。仮にそっちが夢破れて俺だけ成功したとしても、友情は変わらないから安心してくれ。もしそっちだけ売れっ子芸人になって俺がしっちゃかめっちゃかになった場合は、このブログを再開して、長文で粘着質に攻撃するから悪しからず。ブログ閉鎖と銘打ったが、そのときに備えて、過去記事やアカウントを削除したりはしない。更新をストップするだけだ。

さてと、構成もクソもない文章はこの辺でお終いにしよう。これにて、ブログ閉鎖だ。本稿を含めて、投稿記事10、読者4、総アクセス数1万程度という弱小ぶりだが、かつてのズクダンズンブングンゲームと同じくらい楽しかった。短きに亘るご愛顧、誠に感謝。

世界中の幸福な人々が、ほんの少しだけ不幸な目に遭いますように。そして、世界中の不幸な人々の許に、ほんの少しだけ幸福が訪れますように。そんな祈りを捧げてから、筆を措く。ほいじゃね、バイバーイ(©︎神保マオ)。終わり。

 

『304号室 青木』を安易に怖いと言うのはやめませんか

どうも、おはこんばんちは。元々僕はめちゃイケを観て育ったためネット民みたいに宮迫に対して嫌悪感がなく、「田村亮の復帰は歓迎するくせに、宮迫は嫌いやからって理由だけでバッシングしまくるの、キショいなあ」と思っていたのですが、岡本社長の会見みたいにテンポの悪い謝罪動画とそれをYouTubeにアップするタイミング、そしてその後のコラボの人選と動画内容を見るにつれ、普通に嫌いになってきましたね。
まあそれはさておき、先日デート中に、前澤社長の100万円ツイートをRTしないという一線は自分の心の中に引いておきたいよね、という話をしたところ、「私、RTしたけど」と彼女に言われて空気が凍り付きました。口は災いの元である。さて、そんな彼女と以前デートをしていた際の話だ。僕らは駅でとあるポスターを見掛けた。障碍者への理解を呼び掛ける啓発ポスターだった。「障碍者のポスターあるなあ」「そうだねえ」という会話を交わしただけで別の話に切り替わり、デートを続けた。その晩、彼女の家でただれたセックスをし、一緒に風呂に入り、電気を消してベッドに潜り込んだ。彼女は今日のデートの感想や中学時代の嫌いな男子の愚痴などを色々と話し始めた。電気を消してから、色々と喋るのが好きな子なのだ。でも僕は眠るために生きているクチなので、内心「寝かせてくれえ……」と思いながら、ふんふんと相槌を打っていた。だが、しばらくして途端に目が覚めた。いきなり、「将来、もし結婚して子供が生まれたときに、その子が障碍を持ってたらどうする?」と問われたからだ。答えに窮していると、彼女は些か躊躇いがちに続けた。昼間ポスターを見てからずっと、そのことを頭の片隅で考えていたという。「障碍は個性」「障碍を持って生まれてきたこの子を誇りに思う」といった趣旨のポスターに対して彼女は、「自分の産んだ子が重度の障碍を持っていたときに、それを受け入れられるか分からない。愛せるか分からない」と述べた。それから、こんなことを言うと僕に嫌われるかもしれないと心配した上で、「お腹の子に障碍があると判明したら、私は堕胎手術を受けたいと思ってしまう気がする」と言った。殆ど泣きながら。その正直で誠実な吐露に思わず鼻の奥が熱くなり、僕は彼女を抱き締めた。障碍者を当然の如く自分と同じ現実世界に存在する人だと考え、自分の子が障碍を持って産まれる可能性もあると考え、その上で綺麗事ではなく自分はそれを受け入れられるだろうかと不安を口にする彼女の真摯さに、強く胸を打たれたからだ。性欲の捌け口がなさ過ぎて「セルフフェラって気持ちええんかなあ」と実践を試みようとしていた中学生のときの僕は到底信じないだろうが、この世には勃起を誘発しない抱擁も存在するのだということを思い知らされた瞬間である。
話は変わらないようで変わりますが(©︎竹原ピストル)、以前とある小説を読んだあとネットで感想を漁っていたら、「あのキャラの足が不自由って設定に最後までなんの意味もなかったのが気になった」というのを見つけたことがある。僕はこれに強烈な違和感を覚えた。確かにその作品が数十枚の短編で、どんでん返し的なトリックを売りにしたタイプの作家による作品だったならば、つまりトリックを際立たせるため以外の要素を極力削ぎ落としたソリッドなミステリだったならば、その主張も肯ける。だが当該作品は、現代を舞台にしたエンタメ長編だった。ならば、その作品内に障碍者を登場させる意味とは、「障碍者が現実に存在するから」に決まっている。半日でも街を歩いてみれば、何らかの知的障碍を患っていると思しき人も見掛けるし、車椅子の人も見掛ける。彼らは、この世界に存在する。だったら、フィクションに障碍を持ったキャラを登場させ、その障碍がストーリー上取り立てて意味を持たなかったとしても、何か問題があるのだろうか。「このキャラが禿げていることが最後までストーリー上有効なギミックとして活かされなかったのはおかしい!」と言う人はまずいないのに、「ハゲ」が「障碍」に切り替わった途端、そうした主張が現れる。彼らは障碍というものに、何か特別な意味を付与しなくては気が済まないのだ。
さて、本題に入ろう。ネットで「怖いコント」としてしばしば名前が挙がるのが、ラーメンズ『採集』(中学生のときにYouTubeで違法試聴し、ラストで心臓が跳ね上がった。二人のことを全く知らない状態だったため、一層怖かった)、千原兄弟『ダンボ君』(このコントを収録したライブDVDは名作で、中でも最後のコント『お母さん』はコントという表現技法の一つの到達点と言える)、バナナマン『ルスデン』(現役最高のコント師だ。ハリウッドにおけるクリント・イーストウッドみたいなもんである)、そして、タイトルにも記した劇団ひとり『304号室 青木』だ。完売劇場というバラエティ番組のDVDに収録された撮り下ろしコントらしい。この番組が始まる一年前に生まれたのでこの番組のことは殆どよく知らないが、水道橋博士が司会、若手芸人がパネラーになって朝生のパロディ企画をし、「笑いの本質はテレビか舞台が」という議論を戦わせていたのだけはネットで違法試聴して、とても面白かった。小林賢太郎の気取ったカマシっぷりがまあ格好良いのだ。ちなみにこのとき、「ストレスで十円ハゲができた」という小林賢太郎の告白に対して「見して、見してー」と茶化したような合いの手を入れてコバケンから冷たい目を向けられた馬鹿なアナウンサーが、のちに安倍内閣で大臣を務める丸川珠代先生である。
話が逸れた、元に戻そう。この『304号室 青木』というコントの舞台は、ビルの屋上だ。画面の右側から、緑の服を着た男(劇団ひとり)がとぼとぼと登場する。「しゅー、しゅー」という独特の音を響かせて呼吸をしているが、鼻の下にチューブを取り付けていることから、何らかの重い病気が原因だと察しがつく。男は紙を取り出し、用意した文章を読み上げる。それによって我々は、男が304号室に入院している青木であるということ、青木が小さい頃からマジシャンに憧れていたということ、院長の計らいで医師、看護師、患者達が青木のマジックショーを見るために屋上に集まったのだということを認識する。そして我々はそうした情報と同時に、青木の喋り方や拍手の仕方などから、重篤な病気を患っている他に、青木は何らかの知的障碍を持っているだろうと悟る。
青木は用意したラジカセから「ふんわか、ふんわ〜、ふんわか、ふんわ〜、ふんわか、ふんわ〜、ふぇっふぇ〜」という笑っちゃうような、でもちょっと不気味な音楽を流し始める。それから、黄色と緑の二色に分かれたハンカチを取り出して、何度かひらつかせる。だが何も起こらず、青木はマジックグッズの説明書を堂々と読んでから、もう一度たどたどしい手つきでハンカチをまさぐる。するとハンカチの黄色い部分が赤色に変わる。
続いて青木は、服をまくって腹を出す。手術後のガーゼの下から、定番の連なった国旗を取り出すマジックを披露し、お辞儀する。
それから、封筒を手に取り、中から一枚の紙を取り出す。大きく一文字「死」も記された紙だ。青木は右手でブーイングし、紙を半分に破ってから封筒に戻す。何やら呪文を唱えるような仕草をしてから、封筒に手を入れて取り出した紙には、大きく一文字「生」と記されている。青木は嬉しそうに笑い、両手を上げてガッツポーズし、カメラの後ろにいるのであろう医師らに向けて親指を突き立てる。
最後に、綿棒を鼻の穴に入れるマジックをしている途中で咳き込み、椅子に座って薬を飲む。苦しそうに喘いでから、多少おさまったという風に胸に手を当てて、コントは終わる。
このコントに対する感想をネットで探すと、「怖い」「不気味だ」「狂ってる」「トラウマになる」「気持ち悪い」といった言葉ばかりが目に入る。確かに、ラジカセから流れる音楽は繰り返し聴く内にどんどん生理的な不気味さを感じさせるし、青木が登場する前のざらついた画面も何処となく不気味だ。都庁を含む無機質なビル群が立ち並ぶ中、中央の建物だけ赤いという色彩配置も何だか怖い。分かる。あのコントを観て怖いと感じる気持ちは分かる。でも僕は、『採集』『ダンボ君』『ルスデン』といったコントと並んで『304号室 青木』が「怖い」といった風に言われることが、どうしても我慢ならない。『304号室 青木』は、そんな風に言われるコントではないと思うのだ。もう一度、「検索してはいけない」みたいな前評判を排して、フラットな目であのコントを観て欲しい。
小さい頃からマジシャンが夢だった青木が、集まってくれた医師や看護師、患者達に感謝を述べる冒頭の1分半は、本当に怖いだろうか。ハンカチマジックをしようとするも上手くできなくて観客の前で説明書を読んじゃうシーンは、「がっつり読んでるやん!」と笑っちゃわないだろうか。手術後のガーゼの下から連なる国旗を取り出すシーンも、「何処から出してんねん!」と笑えはしまいか。「死」と書かれた紙にブーイングし、破り、かわりに「生」と書かれま紙を取り出してその日一番の笑顔でガッツポーズをするシーンに、胸を打たれはしないだろうか。『304号室 青木』は、本当に怖いコントなのだろうか。
僕は、『304号室 青木』が異常で異様で不気味で気持ち悪くて狂った怖いコントだと扱われているのを見ると、堪らなく不愉快になる。青木のような言動をする人を、街で何度も見たことがあるからだ。青木は確実に、この世界に存在する。僕は『304号室 青木』というコントが「重篤な病気を患う知的障碍者が病院の屋上で披露したマジックショー」にしか見えない。確かに、ラジカセから流れる音楽とざらついた画面は不気味だ。4の付く病室は本来存在しないのに304号室であるという点や、終盤の青木の苦しむ様も怖いかもしれない。でもそれは、青木には近い将来死が待ち受けているという悲しい暗示と表裏一体な訳で、怖い、不気味、気持ち悪い、狂ってるなどと安易に切り捨てられるのは納得できない。『304号室 青木』は知的障碍者を笑いのネタにするというタブーに挑戦した云々という感想を読んだことがあるが、果たしてそうだろうか。あのコントは、知的障碍者の行動の中で生じる笑いを描いたものだと僕は思っている。マジックの説明書を客の目の前で読んじゃう、手術後のガーゼの下から国旗を取り出すという多少グロテスクな発想を頓着なくしちゃう、楽しいマジックショーやのに不気味な音楽をBGMにしちゃう……そうしたおかしさを絶妙なバランス感覚で描いたものなのだ。変な顔、変な声、変な喋り方、ワッハッハ、面白え……なんて短絡的なものでは断じてない。
あのコントを観て、「怖い」「気持ち悪い」「不気味だ」と躊躇いなく口にしたあなたは間違いなく、青木のような言動をする知的障碍者に対して、同様の感情を抱いている。否定はさせない。あのコントにおける青木の細やかな機微を読み取らずに単純な言葉で感想を表明した者が、街で青木のような人を見て「怖い」「気持ち悪い」「不気味だ」と思わないはずがない。そして、あの夜僕に嫌われるのを恐れながらも本心を語った彼女を見習えば、僕はそんなあなたに対して「最低の差別主義者だ!屑め」などと言うことはできない。そうした気持ちを抱いてしまうのも理解できるからだ。僕はそこまで露骨な感情を抱いたことはないが、それは僕の人間性が素晴らしいからではなく、差別的な感情の萌芽をすぐさま理性で摘むという作業を繰り返してきたからに過ぎない。だから、その芽を摘み損なって成長させてしまい、街で青木を見て嫌悪感を抱くようになってしまったあなたを否定はしない。電車内などで知的障碍者を目にして「怖い」と感じる気持ちを「駄目だ!そんなことを思うのは差別主義者だ!」と糾弾はしない(これはたとえば、同性愛者へ内心嫌悪感を抱く人についても同様だ)。心の中でそう思ってしまうのは、容易には変えることができない。しかし、そうした感情を表に出さない理性は持っているべきだ。差別的な感情を抱いてしまうこととそれを表明することには、大きな差がある。
もう『304号室 青木』を安易に怖がるのはやめませんか。調べればいくらでもネットで違法試聴できるから、もう一度フラットな目であのコントを見てみませんか。それでもやっぱり気持ち悪いわ、このコント……そう思うならば、それは仕方ない。あなたの感情だ。ただ、あのコントに対して「怖い」「不気味だ」「狂ってる」「気持ち悪い」と表明することの重みは、『採集』や『ダンボ君』や『ルスデン』に対するそれとは明らかに質が違うということを考えて欲しい。言うのであれば、その自覚を持った上で言うべきだ。たかが個人のツイートやんか、たかがYouTubeのコメント欄やんか、じゃない。言葉には責任が伴う。その自覚がない者は、口を閉ざすべきだ。イ・チャンドンの『オアシス』のヒロインの女、気持ち悪いよな」と「三池崇史の『オーディション』の麻美、気持ち悪いよな」では、まるで意味が違う。喩えが分からないという文句は受け付けません。
それと、多少本筋とはズレるのだが、最近日本で増えつつある、障碍者やホームレスといったいわゆる社会的弱者とされる人々への不寛容さ、反吐が出ますね。どいつもこいつも、自分が社会の「役に立つ」人間として生まれ育ったことは全て自分の努力の賜物であり、社会の「役に立たない」人間は自己責任だと思い腐ってやがる。自分が先天性の病気や障碍を持って生まれてきていたかもしれないという想像や、今後自分が不慮の事故や病気に遭って社会の「役に立たなく」なるかもしれないという想像ができない。自分が今の立場にあるのは恵まれた環境のお陰だという自覚や感謝もない。最悪だ。植松聖の犯行動機に賛同を示して、「社会の役に立たない者に存在価値はない」と述べているシニカルぶったクソ馬鹿を結構見掛けたが、役に立たないものを共同体から排除するのは獣のすることだ。お前ら、それでも人間か。「役に立たない」者を排除しない社会が形成されているからこそ、今現在「役に立っている」者は安心して生産活動を行えるんでしょうが。役に立たないもの(者/物)の存在できない社会は、社会として不完全だ。娯楽なんて軒並み役に立たへんっちゅうねん。これ以上社会を息苦しくさせんといてくれ。「それが何の役に立つの?」とか「コスパ悪いなあ」とか言う奴は、空気階段の名作コントに登場する浮気男が罰を与えられる空間をもっと酷くした場所に、あのコントを平山夢明がリメイクした場合に描かれるであろう地獄の空間に送られてしまえばいい。
そういや、ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』って韓国映画パルムドールとかアカデミー賞とかバンバン獲りましたが(めちゃくちゃ面白い映画です)、僕は先述のイ・チャンドン『オアシス』が韓国映画史上一番の傑作やと思ってるので、まあお時間あるときにでも観てくださいな。あれを観たあとで、『304号室 青木』を観れば、怖い、不気味、気持ち悪いと簡単に口にすることはなくなるんじゃないかな、と思います。
なんか説教臭い記事になってしまいましたが、まあそんな感じです。次はもうちょい明るく、5月にさらば青春の光のライブに行くつもりなんで、そのタイミングでさらばのコントと漫才を称揚する記事を書きます。忙しかったら書きません。以上、終わり。

今更やが、ノルディック親父の話

僕にとって、水曜日のダウンタウンと並んで毎週の楽しみ、生きる希望となっているのが、相席食堂だ。一時間番組になったことで多少の不安はあったが、今のところはきちんとパワーダウンせずに面白いままだ。ダウンタウンが天下を取る過程を観ていた視聴者の気持ちが、千鳥を見ていると分かるような気がして、とても嬉しい。

ここから少し余談だが、以前、AbemaTVで千鳥がMCを務める「チャンスの時間」のニセ番組のオープニングをどれほど長く続けられるかというドッキリ企画に、金属バットが出演したことがある。他のコンビが数十分の記録を打ち立てる中、金属バットの二人は喫煙所で煙草を吸うシーンからオープニングを始め、一分そこらでさらっとオープニングを終えてしまう。ドッキリのネタバラシ後、「ラッキー、帰っていいんすか」「アツいな、めちゃめちゃええ仕事」と言って二人は煙草を吸う。スタジオではVTRを観た大悟が二人にクビを言い渡して盛り上がるが、僕はオープニングが始まってすぐに大悟が口にした「やめえよ、こういうの。昔のわしを思い出す」という言葉を聞いて大悟のM-1敗退コメント「これでテレビ出れるの最後かな~」を思い出し、また、黒澤明監督の『椿三十郎』でばっさばっさと敵を叩っ斬る椿三十郎に対して入江たか子演じる家老の奥方が言った「あなたはギラギラとして、まるで抜身の刀のようね。でも本当に良い刀は、きちんと鞘に入っているものですよ」という台詞を思い出してしまったので、どうしても「未だに抜身の金属バットと今や鞘に入った千鳥」と感じてしまい、あまり楽しめなかった。漫才は面白いネタが多いし、好きですけどね、金属バット。

閑話休題。相席食堂で一番笑ったのは何か。長州力回の「こんちはー、皆さん!」「食ってみな、飛ぶぞ」「凄いね、お前たちー」や、研ナオコ回の「すべての字を吸い取ってんねん」「もう絵なんよ」、ダイアン津田回の「サックスと空手とバカ」、高橋ジョージ回の「田村のターキー」、テッシー回の「変化する帽子の数字」、チャーリー浜回の「チャーリー浜と末成由美の会話」、中尾彬&池波志乃回の「SO〜」などと迷ったが、やはり一番はノルディック親父である。しかしここで一つ言っておきたいのは、僕が死ぬほど笑ったのはあくまでも、「再登場したノルディック親父」だということだ。要するに、それまでのフリ込み、という訳である。

この回は千鳥の故郷にゲストが訪れるという一時間スペシャルだった。大悟の故郷を訪れるゲストは、「大喜利がマジで結構面白い」でお馴染みのDJ KOO、ノブの故郷を訪れるゲストは、「たまにダウンタウンDXとかで見かける、くらいの認識の他府県民にとっては面白いかもしれないが、大阪人からしたらマジでもううんざり」でお馴染みの西川きよしだった。

ノブの実家で両親と西川きよしが話をするところからスタートし、その後、西川きよしは外に出る。そこで、しっかりとジャケットを羽織り矍鑠としているように見えるノブの父親が、杖を両手に持って画面に現れる。「ちょっと待てぃボタン」が押され、両手に杖をつかなければならないほど老けたのかとノブは嘆き、「ノルディック複合みたいなんで来た」と口にする。咄嗟に「ノルディック複合みたいなんで来た」が出るノブのセンスはやっぱり凄い。「スキーみたいなんで来た」では、そこまでの笑いの威力はない。笑いの構造を分析して理論的に解明することはある程度できるし面白いと思うが、こういう「ノルディック複合」というワードの持つ面白さみたいなものは、どうしても感覚的な話になってしまう(もちろん、「ノルディック複合」という、知ってはいるがパッとは出てきにくい単語で喩えることにより、盲点を突かれると同時にすとんと腑に落ち云々かんぬん……と、ある程度合理的な説明は付けられるだろうが、やはりそれだけに留まらない何かが厳然と存在している、と僕は思う。令和一発目のアルピーラジオで、うしろシティの金子が狙ってる女の子は誰似かと訊かれて即座に答えた「本上まなみ」とか)。

で、まあ話を戻すと、ここからノブのお父さんは画面から姿を消し、西川きよしはノブの実家を離れてノブの故郷散策へ繰り出そうとする。ところが、ノブのお母さんがやたらとしつこく西川きよしの後を付いて回り、ついに西川きよしはお母さんの呼び掛けを無視する。千鳥の二人は、「ロケしとんのにしつこいおかんやなあ、きよし師匠が無視したで、そんなんせん人やのに」と盛り上がる。

ノブのお母さんを無視して歩き出した西川きよしは、曲がり角ではたと足を止める。曲がり角を曲がったところに、杖をついたノブのお父さんが立ち尽くしていたのだ。突如として再登場し、何一つとして言葉を発さないノブのお父さん。「ちょっと待てぃ」ボタンが押され、腹を抱えて笑う千鳥の二人。大悟が「今年一番オモロい」と口にした通り、僕もこの瞬間、息が詰まるほど笑った。

この場面が死ぬほど面白いのは、大悟が指摘したように、「不意打ちで登場したノブのお父さんすなわちノルディック親父が何も喋らないから」と、「一度登場して存在を印象付けたあとで画面から消え、しつこいお母さんが新しいオモシロ対象になったところで、ノルディック親父が不意に再登場するから」である。もちろん、曲がり角を曲がったところで杖を両手についたノルディック親父が立っている、という絵面自体も強烈に面白い(後ろに黒の軽自動車が停まっているのも効いている)から某Tubeなんかでその一分ほどだけ切り取った映像がアップされるのも分かるが、「ノルディック親父は再登場である」「西川きよしに無視されるお母さん、という奇跡的に面白いミスディレクションがある」という文脈を踏まえないのは、やはり片手落ちだ。シリーズ作品ですがこの巻からでも楽しめます、という小説の惹句は大抵の場合嘘ではないが、1巻から読み進めないと真に面白さを理解したとは言えない。それと同じだ。

それにしても昨今、こうした「フリ」や「文脈」の軽視が甚だしいと僕は危惧している。たとえばネットでよく使われる、「めっちゃ早口で言ってそう」という言葉。あれは、2chポケモンに関するスレッドで、「鹿みたいなやつなに? 強いの?」というポケモンにあまり興味のない人の書き込みに対して、親切なポケモンファンが句読点なしでつらつらと解説をしてあげたら、「めっちゃ早口で言ってそう」と質問した奴に返された……というのがそもそもの出典だ。つまり、「質問に答えてもらっといて、なんやその理不尽な返事は」という笑いや、「でもこの教えてくれた人の文章、確かにオタクが自分の好きなジャンルについてめっちゃ早口で捲したてる感じあるわ」という笑いを含有した面白いフレーズが、「めっちゃ早口で言ってそう」なのだ。それがいつの頃からか、相手を貶め、嘲笑うためのしょうもない道具として使われるようになってしまった。まあ、これを本気で煽り文句だと思って使ってる奴は漏れなく馬鹿なので、そうした馬鹿をいち早く見つけて離れられるという利点はあるが、それを理由にこの言葉を許容するのは、戦争映画に傑作が多いからという理由で戦争を肯定するのと同じであるため、今後も僕は、煽り目的で使用されるこの言葉を否定していこうと思う。

余談ですが、2chのなんかのスレッドで「めっちゃ早口で言ってそう」と煽られた人が「早口に決まってんだろ。お前みたいな馬鹿にだらだら時間割くほど暇じゃねえから」と返していたのは、なかなかにクリティカルでした。あとサンド富澤の「ちょっと何言ってるか分からない」も、アレは「なんで分かんねえんだよ」というツッコミありきの言葉ですから、本当に何を言っているのか分からない発言に対して使うのは違いますし、況してや議論の場とかで、煽りのつもりでこれを言ったりこれを言ってる富澤の写真を送り付けたりする人もいますけど、完全にオウンゴールですからね。「ちょっと何言ってるか分からない」ってフレーズを言ってる奴の方が頭おかしいんですから。

余談の余談ですが、サンドウィッチマンを「人を傷付けない笑い」と称揚する人は、サンド伊達がカミナリのまなぶくんのブランド物のジャケットのタグに「ぐっち」と油性ペンで落書きしたりリュックに落書きしたりして楽しんでいる、というエピソードをどう思うのか、是非とも聞かせていただきたいですね。ギャランティが発生する番組内での「それでしか笑いを取れないダウンタウンによる後輩いじめ」を唾棄するならば、プライベートでのサンド伊達のまなぶくんへの仕打ちは当然、前者よりよっぽど悪質な後輩いじめとして断罪すべきですからね。

さて、「めっちゃ早口で言ってそう」然り、「ちょっと何言ってるか分からない」然り、文脈の上で成立していた面白い言葉が、そこだけ切り取られて、各人の意思に沿ったしょうもない使われ方をされるというのが、僕は好きではない(論文の引用のように正確な切り取りならば構わないが)。たとえそれが良い使われ方だったとしても、どちらかと言えばあまり好きではない。一定のパーソナリティが見えるアカウントが小説や映画の特定の台詞だけをツイートする場合はまだ、「ああ、この人はあの作品のあの台詞に魅力を感じんねんなあ」という感想を抱けるが、所謂「名言bot」みたいなアカウントが、小説の台詞を、作品背景もキャラの性格もそのシーンの状況も一切説明せず、そこだけ切り取ってツイッターに貼り付けて名言として賞賛する行為は、好きではない。この行為の延長線上には、美女の生首を刎ねて皿の上に載せ、「美しい」つって陶然とするホラー映画の殺人鬼がいると思うんですよ。相当な距離延長した先、とは言え。文脈を剥ぎ取った安易な名言の抽出は、美しくないどころか、おぞましさすら感じさせかねない。僕もやってしまいがちだからこそ、自戒を込めて、そう記しておきます。

もう一度言うが、マジでみんな、「文脈」を軽視し過ぎである。YouTubeTwitterでドキュメンタルの一部分だけ切り取った動画ばっかり見過ぎだ。ザコシショウと猿の人形とハーモニカの場面はあそこだけ見ても確かに面白いけれど、それまでの時間を費やして醸成された空気感を理解して観た方が面白いに決まっている。

「文脈」を踏まえずに物事の一部だけをつまみ食いして不味いだのなんだのと怒る貧乏性の人々が氾濫しているのは、半分くらいツイッターのせいだと思う。僕が、「ワロタ」「エモい」といったネットスラングも、淫夢ネタやら金曜ロードショーバルス祭りといったネットのノリも受け付けられないし、何なら語尾に「w」を付けるのすら好きではない……というジジイのように凝り固まった価値観を持っているからかもしれないが、ツイッターってホントに危険だと思いますよ。ウルトラの瀧の逮捕を受けてツイッター上で石野卓球にまで怒りの矛先を向けていた奴は全員、ツイッターという合法ドラッグにどっぷりと依存している。 瀧はコカインをやめられるかもしれないが、彼らはツイートを絶対やめられないと断言できる。

かく言う僕も、ツイッター嫌いなくせに、何か大きなニュースがあるたび、関連ワードでツイッター検索を掛けて色んな人の意見をついつい見てしまう。で、その度に「アホしかおらんのか」と苛立ち、しかもツイッターをやっていないからそのアホさを指摘できず、かと言ってアホを指摘するために距離感バグった文盲だらけの世界であるツイッターに飛び込むのも癪なので、ただひたすら家で一人苛々し続けるのだ。僕が一番のアホである。

さて、文脈に関しての愚痴をもう一つ。日本一の書評家(皮肉じゃなくガチで)である豊崎由美さんが、2017年のキングオブコント放送後に、「にゃんこスターなんかを凄いと絶賛している人は、◯◯(数日後に開催される演劇)を観に行きましょう! より爆笑できます」といったことを書いておられたのだが、これはおかしい。にゃんこスターがあのとき爆笑を取ったのは、「数多くの芸人が人生をかけて練りに練ったコントを披露する年に一度の場・キングオブコント」にて、「ダウンタウンさまぁ〜ずバナナマンが審査員」の中、「わらふぢなるお、ジャンポケがややウケ、かまいたちがドカンとウケ、アンガールズもまあまあウケて、パーパーでアレッ?となり、さらばが居酒屋ネタでドンッと盛り返した後に」、「伊集院光が推薦VTRで『この二人が優勝したら、長いお笑いブームが次の局面に入るかも』と述べてから」、満を持して登場した「審査員や観客、視聴者の大半が知らない謎の二人組」が、「普通のコントのイメージからはかけ離れたお遊戯会のようなネタをやり通してしまった」という文脈がある。だから、大ウケした。ある意味、当日の放送開始から一時間以上ずっと、もっと言えばキングオブコントという大会が創設されてからにゃんこスターが登場するまでの数年間がずっと、あの日のにゃんこスターのネタの前フリの役目を果たしていた訳である。それを、後になってYouTubeで4分間のネタの部分だけを見て(しかも、どんなネタをするかも知った状態で)、「クソつまんない。これで準優勝? 審査員、見る目ねえ……。やらせ?」とか言ってニヒルに笑う上から目線のバカ、ごねさらせ、とは言わないが、ドヤ顔でお笑いに口を挟むな、とは言いたい。豊崎由美さんがにゃんこスターをリアルタイムで観たのかYouTubeで観たのかは知らないが、「あの日あのときあの場所でのにゃんこスターのネタ」は、「演劇集団のとある日の公演」と単純に比較できる類のものではないと思うのです、どちらが上とか下とかではなく。「にゃんこスターなんかを凄いと絶賛している人は、◯◯(数日後に開催される演劇)を観に行きましょう!」ってのは、「伊坂幸太郎の小説なんかを会話が面白いと絶賛している人は、学天即の漫才を見ましょう!」って言うようなものです。小説内における会話の面白さと会話形式の漫才の面白さ、単純比較できますか? って話だ。多分小説を読まないお笑いファンが上記の発言をしたら、豊崎由美さん、怒りはるでしょう。

豊崎さんは2018年にも、「クソみたいな歌手と女優(指原莉乃松岡茉優)がずっとクソみたいな話(モー娘。の話)をしているせいで、ゲストの安藤サクラの話が全然聞けない。ほんとクソ番組」みたいなツイートをしておられたが、松岡茉優をマジでクソみたいな女優だと思っているのかお伺いしたい。もし本気でイエスと言うならばそれはもうしゃあないが、ついイラっとして言うてもうた、という場合には、ありゃりゃ、である。

瞬間湯沸かし器的にキレちゃう人(そしてそのキレ方が見てられない人)にはツイッターやらないでほしいな、というのが個人的な願望だ。匿名一般ピーポーならいいが、著名人にそれをやられると、本業ファンとしてはキツいものがある。あんな素敵な書評を書く人やのに、と思ってしまう。かつて「中二病」という言葉を巡って伊集院光に的外れな苦言を呈した日本語ラップのレジェンドとかも、音源はカッコいいんですよ。

あとさらにもう一個、にゃんこスターアンゴラ村長ダウンタウン司会のネタ番組で尼神インターの誠子に「あんたもブスやで!」と言われた際、「ジャンヌダルクはそんなこと言わない!」と返してスタジオが冷え冷えになり、ネットでも「意味不明」と盛大に叩かれたことがあったが、あれは多分、その少し前に放送された27時間テレビ内の「さんまのお笑い向上委員会」(出演者全員が世界の偉人に扮装するというオモシロ企画だった)で、尼神・誠子がジャンヌダルクに扮していたから、それを踏まえての発言だろう。まあ、だからって別にあの場でそれを言うのは的確でもないし面白くもないから擁護はしないが、一応全くのデタラメを口にした訳ではないと思うよ、とは述べておく。アンゴラ村長は少なくとも、アンゴラ村長のあの失態を猛烈にdisる人々の大半よりも、文脈というものを意識していたのだ。アウトプットの仕方には盛大に失敗したが。あと、アンゴラ村長は誰が何と言おうと、顔が可愛い。

キングオブコントと言えば今年2019年の大会についてやが、という話をし出すと文字数が一万を超えてしまうので、この辺で筆を措きます。皆さん、相席食堂、超面白いので観ましょう! あらゆる物事に関して、文脈を考慮しましょう! 以上!

こんな時代やから、永野が好き

水色のシャツに真っ赤なズボンを履き、髪を搔き上げながらカメラを指差す奇人、永野。僕は永野が大好きだ。番組で落とし穴に落とされてとんねるず相手にブチ切れ、番組途中で帰った(実際にはグダグダのリアクションをしたあと、「永野、あのリアクションひどいよ。もうカメラに映っちゃ駄目。端っこ行って」と石橋貴明に言われたのだが、そのノリがバッサリカットされたため、突如画面から消えた形となった)」という件と、「PON! で、若手イケメン俳優の松本大志を二発もビンタし、スタジオを変な空気にした(視聴者から、「テレビで暴力をふるっている男がいる」と最寄りの警察署に通報が入った、という最高のエピソード付き)」件によってネットで叩かれがちな永野だが、僕は永野が大好きだ。永野が出る回は必ずネタパレを観ているし、好き過ぎて、私服を水色のシャツと赤ズボンにしようかと数秒間悩んだこともあるほどだ。そういえば以前、『月曜から夜ふかし』の街頭インタビューに登場した黒髪ロン毛でサングラスを掛けた若い男が、「みうらじゅんさんが大好きで、みうらじゅんさんみたいな大人になりたくてこの格好を」と言っていたが、みうらじゅんみたいな大人になりたくてまず手始めにみうらじゅんみたいな格好をしちゃう奴は、永遠にみうらじゅんみたいな大人にはなれないだろう。

で、まあ永野に話を戻すと、そんな水色と赤の奇人がブレイクする前、黒のジャケットなんか羽織ってちょっと格好良かった頃、所謂孤高のカルト芸人時代に『目立ちたがり屋が東京でライブ』というDVDがリリースされた。ロフトプラスワンで行われた単独ライブの模様と企画映像を収録した本作は、『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM Vol.ぶどう』並にILLなDVDだと思っている(ILLと言えば我らがBUDDHA BRANDのセカンド・アルバムですが、期待を裏切らないカッコよさでした)。2015年、ブレイク後のインタビューで「生まれたところや皮膚や目の色で人を差別してる」「ドブネズミとか超汚いし」「人を貶めて笑いを取る芸人は多いですけど、僕は自分がバカになって笑いを取る方が好き」「お笑いの天才がやってるライブなんかより、フツーのサラリーマンが週末の居酒屋で発狂してるところを見たほうが面白いんだ! っていうことを証明しようと思います」と語っていた永野のパッションが、『目立ちたがり屋が東京でライブ』では炸裂している。その中でも一際僕が好きなネタであり、死ぬほど笑ったのが、「浜辺で九州を一人で守る人」だ。「で」のリフレインが心地良いタイトルである。坂口安吾の『桜の森の満開の下』のようだ。

「浜辺で九州を一人で守る人」とコントのタイトルを述べたあと、永野は眉の垂れ下がった激落ちくんみたいな表情の間抜けなマスクで目元を隠し、ショットガンを手に持って、舞台(九州の浜辺)をうろつく。口をすぼめながら周囲を警戒するように動く挙措が、既にちょっと面白い。そして永野は、九州の外からやってきた人物を見つけ、銃を構えて問い質す。

「あんた誰ね? あんた誰ね? 九州の人ね? 九州の人〜? ……東京から帰ってきた?」

その後東京について田舎者丸出しのやりとりをしてから、永野は相手の「入国」を許す。再び口をすぼめてオモロい動きで舞台をうろつき、誰かを見つけた永野。ショットガンを向け、先程同様問い質すと、

「……何? 千葉から来た?」

その瞬間、永野は口をすぼめてショットガンをぶっ放した。多分銃の構造的におかしいのだが、何十発と連射する。間抜けなオレンジ色のマスクで目元を隠し、口元からは何の感情も感じられない。どうせそのうち銃をぶっ放すのだろうとは予想していたが、いざその時が来ると、僕はアホほど笑ってしまった。相手が千葉から来たと分かってから撃つまでのスピードの速さと永野の表情がたまらなく面白くてツボに入り、千葉の何があかんねんと、死ぬほど笑ってしまった。

このあと相手が倒れると、永野は銃口を下に向け、銃を撃ち続ける。ようやく撃ち終えると、相手の髪の毛を鷲掴みにし、「な〜に、ま~だ生きちょんねえ?」と呆れたように言って、再び銃をぶっ放す。アントン・シガーに匹敵するサイコな殺し屋っぷりに、僕は腹を抱えて死ぬほど笑った。

「愛」と「狂気」という言葉は口にした途端に薄っぺらくなるものだが、それでも言いたい。このコントには、このDVDの永野には、狂気を感じる。それは例えば、かもめんたるのコントを観て感じる剥き出しの狂気とは違う。運動をしたあとにシャツがじっとりと汗で濡れていることに気付いたときのような感覚というか、言語化が難しいが、あえて言うならば、永野の狂気は、切実さに似ている。

ブレイク前夜、永野はオールナイトニッポン0の三分間のオーディション映像にて、黒いジャージ姿で、次のように語っていた。下手な書き起こしだが、僕は扇動的なタイトルを付けてアクセス数を稼ごうと思ったり世界が数字で出来ていると思ったりはしていないので、読んでいただきたい。

「はい、こんにちは。え~、トゥインクル所属のお笑い芸人……、あ、間違えました、間違えました、すぐ間違える……、グレープカンパニー所属のお笑い芸人……、ホントはもう、お笑い芸人なんて名乗りたくないんですが、永野と申します。まあ、生まれ変わったらですね、ヒップホップやりたいなと思ってますけども。お笑い芸人なんてね、食えない職業で、ええ、ねえ、食えない割に、熱心なライブの通いの客に叩かれたりとかね、面白いことなんて一切ございません、はい。そういう中ですね、私、最近横断歩道で、おばあさんが……、もう、おばあが、こう渡れなさそうにいたんですね、ゆっくり。ちょっと、もう青信号が……、早いじゃないですか、都会は青信号終わるのが。そこでですね、僕も最近むしゃくしゃしてたんですが、おばあさんの手を引いて、カチカチカチって青信号がなる中、行った訳ですね。まあそれまではもう、日々の疲れ、ストレス、怒りでイライラしてた僕ですが、おばあさんの手を引きましたところ、横断歩道を渡り切った時おばあさんが、「ありがとう」って言ったんですねえ。そんとき僕、ぱあって嬉しくなりましてね、イライラが消えて。人間って面白いなあって思いますね。ありがとう、って言葉で、こうもね、気分が変わるんだなって、まあ、人間って面白いなって思いますねえ。そういう、人間のその機微を、心の機微を、静かな声で、三時台から話していきたいなって僕は思ってますね。今、非常にやかましくて、クソ面白くないんでね、ラジオが。はい、面白くない。ただただ威勢のいい芸人がぺちゃくちゃぺちゃくちゃやかましい中、私はおばあさんの話……、そうですね、大体年寄りに向けたラジオをこれからは……。三時に起きますからね、年寄りは。年寄りに向けたラジオをやっていきたいな、なんて思ってますけど。多分、恐らくですけど、まあ、政治的なことがなければ私は通るんじゃないかと思ってますね。こんな新鮮なインパクト……この、はい、そういう中でですね、永野です〜。私、温かい、もう一度日本人って何なんだって考えるラジオ、作っていきたいと思います。あ、失礼しました、今こうやって(腕を組んで)ましたけど、すいません、すいません。じゃ、ありがとござっしたー」 

結局、永野がパーソナリティに選ばれることはなかった。多分、政治的なことがあったんだろう。たまたまYouTubeで本人だか所属事務所だかが公式にアップしていたこの動画を見たのが、僕が最初に永野を知った瞬間だ(ちなみに、今は削除されている)。「オモロいのになあ、これ通らへんねや」と些か悲しくなったのを覚えている。それから少しして、正月深夜の特番で小籔と中川家サンドウィッチマンの前でネタを披露しているのを見て腹を抱えて笑い(「富士山の頂上から2000匹の猫を放つ人」や「◯◯に捧げる曲」シリーズ、「天使の声」などの強力ラインナップだった)、その翌日に「さんまのまんま」で明石家さんま今田耕司井上真央の前で「お猿の呼吸」を披露している姿を見てもう一度爆笑した。これは売れるな、と感じ、実際にその年の末にアメトーーク! のパクりたい-1グランプリで「ゴッホより〜♪」を披露し、売れた。俺は早めに目を付けてたんやで、というアピールではなく(そのアピールをする資格があるのは、カルト芸人時代の永野の「熱心なライブの通いの客」くらいだろう)、売れる寸前の永野を、大空高く飛び立つために滑走路を駆ける永野の姿を、僅かでも見られたのは幸福だったなあ、という単なる感想である。

永野には是非とも、ドキュメンタルに出て欲しい。ザコシショウの牙城を崩せるのは、永野だけだ。或いは、もしかしたら死ぬほどスベり、レビューで酷評されるかもしれないが、少なくとも「大して目立ちもせずにしれっと敗退」なんてことにはなるまい。

この文章を書いている今、27時間テレビ内が絶賛放送中だ。その中のワンコーナー「さんまのお笑い向上委員会」に残念ながら永野は出演していないが、先週の放送には、謹慎明けのザブングル加藤への対抗馬として出演していた。同番組で「魔王」と綽名されている加藤に対し、永野は自分が「新魔王」だと登場する。

なんやかんやと二人は対決したり何故か理不尽にかまいたちの濱家が巻き込まれたりしながら、番組は終盤へと突入する。「ウケることをする」と言い、一度袖に引っ込む永野。ひな壇の芸人らは拍手し、さんまが「次、永野やで、永野」と言うと、「永野じゃないよ~、しあわせボーイだよ~」という声が返ってくる。そして永野は、笑顔でダブルピースをしながら軽快なステップを踏み、「し~あわせ、し~あわせ、しあわせボーイ~♪ し~あわせを~、運びにき~たじょ~♪」という歌と共に登場する。苦笑するスタジオの空気を意に介さず、加藤の元にやってくると、永野は「新魔王だよ~」と言って微笑む。加藤は般若のような顔になり、「ブチ切れるのかな」と視聴者が思った一瞬の隙にダブルピースを作り、永野と二人で仲良く「し~あわせ、し~あわせ、しあわせボーイ~♪」と歌い、踊り出す。膝を付き呆れて笑うさんまと、苦笑気味のスタジオ。そこで永野は不意に歌と踊りを止め、すたすたとさんまの元に歩み寄る。急に梯子を外されて困惑する加藤。永野はさんまに向かって、「(この流れを)全部使ってください」と頼む。「(ウケてへんのに)なんでや?」とさんまが真顔で訊くと、スタジオはややウケ、「そりゃ『なんでや?』やわ」と礼二は同意し、千原ジュニアは手を叩いて笑う。カメラに抜かれた加藤が、「おーいっ! お前、今のなんやねん? なんやねん、しあわせボーイって」とキレると、スタジオはさらにウケる。いよいよ最終決戦だ、という空気になり、永野は加藤の元に歩み寄る。「なんやねん、しあわせボーイっちゅうのは。説明しろ、ちゃんと」とキレる加藤。荒い息遣いの永野は、凛々しい表情で加藤を見上げて答える。

「こんな時代やから……」

「こんな時代やから⁉」とキレ口調で繰り返す加藤と、ドッと湧くスタジオ。加藤は堪え切れずに笑い、「どういうことやねん」と口にする。

僕はこのシーンを見て爆笑するとともに、少し感動してしまった。「名言っぽいけど」とFUJIWARAの原西は突っ込んでいたが、割とマジで名言やと感じた。こんな時代やから、しあわせボーイ。こんな時代やから、永野だ。

今後永野がテレビの生放送でとんでもないメチャクチャをしでかしてテレビから姿を消してもそれほど驚かないし、十年後くらいに、「コント『おみそ汁の達人』」のときみたいな顔をして、NHKのビットワールドにおけるいとうせいこう的ポジションにしれっと就任していたとしても、それはそれで案外違和感がない。そういう不思議な魅力が、永野にはある。もし永野がこの文章を読んだら、「何こいつ? ダラダラと知った風な口利いて。うぜ〜」と言いそうだが、そういうところも含めて、僕は永野が好きだ。

以上、オチはないが、お時間ございましたら、永野のDVD『目立ちたがり屋が東京でライブ』と『Ω』を買うてみてください。超旨い毒キノコみたいなDVDです。終わり。

「教養のある笑い」を称揚する諸君は、『大日本人』を評価してんねやろな?

 「教養のある笑い」という言葉がよく使われますが、「戦争は続くよ どこまでも」という記事でも書いた通り、僕は松本人志監督の『大日本人』を傑作だと考えているため、お笑いファンやダウンタウンファンも含めた大勢の人々が『大日本人』を駄作やと断じている時点で、そんな人々が語る「教養のある笑い」など価値がない、と思っています。

 ただ、『大日本人』に対する批判は、「こいつはオモチャにしてもいい」と決めた瞬間に寄ってたかって袋叩きにするようなカスばかりのインターネットが生み出した、「松本人志、才能枯れたww」というノリに依るものかもしれません。ノリに迎合した無思想な連中が叩いていただけで、そいつらは多分、今頃水曜日のダウンタウンを観て腹を抱えて笑っているはずなので、もしかしたら将来、死後に評価されたゴッホの如く『大日本人』も評価されるかもしれません。そう信じて、辛抱強く待ちましょう。

 しかし、とはいえ腹が立ちましたね、あの松本人志disブーム。特に「ナンシー関が生きていたら、今の松本人志の醜態を何と斬っただろう」とかほざいてた奴。ナンシー関を神格化してその著作を聖書みたいに崇め奉るのは勝手だが、その聖書で今を生きる人間をぶっ叩くな。確かに僕もナンシー関は好きで、彼女の着眼点と舌鋒鋭い文体の凄さは半端無いと思っているし、「水曜日のダウンタウン超面白い! ナンシー関が生きてたら、なんて言ったかな?」っちゅうパターンなら全然ええけども、「ナンシー関が生きていたら、このくだらない芸人をどのように斬ってくれただろうか」とか言うことで自分の格も一段上がったような気になっている奴には、拘束椅子に縛り付けて勇者ヨシヒコ以外の福田雄一作品を全部観させる、というルドヴィコ療法を強いたい。「ナンシー関が生きてたら……」っちゅうツイートに「ナンシー関はもう死んでいる」ってリプを飛ばすためだけのアカウントを作りたいくらいムカついてます。自分の気に食わないものを叩っ斬るための道具に、ナンシー関を使うなや。ナンシー関の名前、そんな軽ないで(cv.アウトレイジビヨンドの西田敏行)。「ナンシー関が生きてたら」「ナンシー関が生きてたら」っちゅうけど、ナンシー関が生きてたら多分、「ツイッターって、自分一人で喧嘩できずに虎の威を借る輩が多いな」って言うと思う。もしくは本人もツイッターアカウントを開設して、偏見に塗れた芸能人disをして、炎上してると思う。

 とまあ、この「ナンシー関が生きてたらって言う奴は鬱陶しい」という事実は既に、高橋維新のお父さんもメディアゴンの連載でその著作を絶賛していた、でお馴染みの武田砂鉄氏によって指摘されている訳で、怒りに任せて今更新鮮味のないことを長々と書いてしまった、と反省。

 反省ついでにもう一つ、ファンの神格化が鬱陶しい人物を挙げておくと、上岡龍太郎である。ぜんじろうの師匠だ、と言うとアレだが、上岡龍太郎は超面白い。でも、上岡龍太郎のオカルト否定論はあくまでも即興エンターテインメントだから振り返って見れば当然穴があるし、余裕で反論の余地はある。「ホンマに幽霊がおるなら、広島球場でバースがホームラン打つはずないやないか!」っちゅうのは最高に面白いし、「検証もせずに心霊動画を垂れ流すテレビは無責任」っちゅうスタンスにも首肯できるが、上岡龍太郎のオカルト否定論に何の留保も補足もしないまま「上岡龍太郎の言う通り! オカルト肯定派、バーカ、バーカ」って嗤ってる人達は、オブラートに包んで言うが、あまり頭がよろしくない。多分、ネットで上岡龍太郎を盲目的に持て囃している人達の六割以上は、キンコン西野が近大卒業式で披露した時計の針漫談をもし上岡龍太郎がしていた場合、深イイ! レバーを前に倒してると思う。

 幽霊だ超能力だ宇宙人だってのは現状完全には肯定も否定も出来ない訳で、「そんなものは非科学的だ。あり得ない」って科学のことなんか碌に知らないくせにドヤ顔かます人々は、「この写真の影! これは幽霊ですよ! 怨念ですよ!」って目を血走らせる連中と同レベルです、ベクトルが真逆なだけで。

 それと、ネットでやたらと人気の「EXテレビにて、上岡龍太郎がスタジオで一人きりになり、丸々一時間過激テレビ論を語る」という回、あれは確かに僕も某Tubeで違法視聴して、爆笑問題の漫才のように題材は古びても視座は古びないな、面白いなと感じたが、ちと持ち上げ過ぎな気もする。僕が天邪鬼でひねくれ者だから、というのもあるのだが、何より、コメント欄に溢れる「流石は上岡龍太郎上岡龍太郎が引退してからテレビはつまらなくなった、見なくなった、今のテレビはつまらない、教養や知性がない、騒がしいだけ」というコメントの数々にイラついたから、というのが主たる理由だ。昔だってつまらない番組は数多あり、今だって面白い番組は数多ある。こうした盲目的な上岡龍太郎ファンは、物事に対する上岡龍太郎の視点の鋭さは褒めそやすが、相席食堂の西川のりお回で千鳥の二人が土佐かつお太鼓持ち感に瞬時に目を付け、笑いどころとなるように視聴者を誘導した視点の鋭さや、水曜日のダウンタウンで矢作が勝俣を「芸能界三大愛妻家、落合博満、ペタジーニ、勝俣州和」とイジった際に、すかさず「嫁の趣味特殊な人ばっか」と口を挟んだフット岩尾の頭の回転の速さなどは、決して褒めない。というかそもそも、それらの番組を見てやしないだろう。

 僕は、知性や教養のないお笑いも最高に面白いと思っている。それに、一見そう見えるお笑いの中に、緻密な計算や巧みに形成された流れといった知性を感じることもある。あと、上岡龍太郎なきテレビは知性も教養もない騒がしいだけの笑いだ、と語る人は、バスター・キートンやドリフの笑いも「騒がしいだけ、体を張ってるだけ」と切り捨てるのだろうか、というのも疑問だ。

 また、上岡龍太郎が「横山ノック立川談志と並んで自身の心の支柱となる三人のうちの一人だ」と語る桂枝雀の落語なんかは、結構顔芸や誇張した口調で笑わせることも多い。最近のお笑いを否定する上岡龍太郎の厄介なファンの中には、桂枝雀の落語を面白いと言う人が結構いると思うが、では何故ハリウッドザコシショウの誇張し過ぎたモノマネはダメなのかを教えてください。どっちもオモロいですよ、ヘアースタイル一緒やし。

 大体、上岡龍太郎の一時間一人喋りを「面白い、凄い、こんな芸人今はいない」と言う人は絶対、深夜の馬鹿力を聴いていない。「日本の笑いのレベルは低い」と言う奴は何故か、そう言う割にテレビにだけこだわり、ラジオにも舞台にも手を伸ばそうとしないからだ。それにもし仮に馬鹿力を聴いたとしても、「おちんちん」といったワードにだけ過敏に反応し、「知性がないトーク」と判断するだろう。「教養のある笑い」が好き、と語る人の「教養がある」判断基準は、薄っぺらいことが多いからだ。以前、文部科学省が道徳の教科書の「パン屋」という表記を「国や郷土を愛する態度を養うため」というトチ狂った理由で「和菓子屋」に変更させたことがあったが、まさに同レベルと言える。

 余談だが、上岡龍太郎ファン以外だと、Aマッソファンの言う「教養がある」の基準もなかなかキビしいものがある。【加納演じる娘が延々と芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の本文を読み上げていき、村上演じる母親が「もういい加減にしなさい! 黙りなさいって言ってるでしょ! なんで蜘蛛の糸ばっかり諳んじるの!」と怒る】というコントに対して、「諳んじる、なんて言葉を使うのは凄い、教養を感じさせる」と褒めているファンの人達が結構いたのだが、「諳んじる」という語を選択しただけで褒められるって、そんなにコントっちゅうのはレベルの低い創作ジャンルなんかね? 小学生の作文やないねんから。たとえば、「幼い子供のくせに大人びた口調や物の考え方をする」というコントで、子供の格好をした芸人が「諳んじる」という言葉を使えば、「子供のくせに子供らしくないというキャラクター性を印象付けるために『諳んじる』を持ってくるのはセンスがある」と褒められるのも分かる。だが、どうもあのAマッソのコントにおける「諳んじる」を絶賛していた人らは、「諳んじる」という語が使われたという、ただそれだけの事実でもって褒めていたような気がするのだ。というか現に、「コントで諳んじるなんて使われてるの、聞いたことないぞww」や「諳んじるなんて言葉、初めて知った。凄い、やっぱ教養あるなあ」ってコメントがいくつもありましたし。あ、長々と愚痴を言いましたが、僕はAマッソ好きですよ。村上派です。

 あとラーメンズの「不思議の国のニポン」とかも、あのコントの構成の妙や発想のキレなんかは確かに小林賢太郎の教養を感じさせるかもしれないが、「このネタはある程度の教養がないと楽しめないからなww。つまんないって言ってる奴はそういうことだろww」みたいなコメントをしている大半の人が意味する「ある程度の教養」って、どうも「四十七都道府県に対するざっくりとした知識」くらいの意味合いな気がする。根拠はない。文面から推測した偏見である。

 しかし、ラーメンズは最近減ってきた印象があるけど、Aマッソって厄介なファンが多いですよね。まあ、厄介なファンが多い、ってのは、カリスマに必須の条件ではありますが、Aマッソが無料イベントで大坂なおみに関する人種差別的なボケをした件に関して、「差別って言う方が差別です」みたいな小学校でしか通用しないはずのロジックを振りかざすことでAマッソを擁護していたファンの厄介さは、いずれAマッソの未来を滅ぼしかねないと思いました。

 あの発言に関してはあとで触れるとして、個人的には、2018年の紅白に出場したSuchmosを「NHKで尖る〜♪」とイジっていた方が気になりましたね。「臭くて汚えライブハウスから来ました。Suchmosです。よろしく」ってのは、「紅白がなんぼのもんじゃい」という尖りではなく、そんな場所から始めた自分達が紅白の舞台に立つまでになったという感慨、それでもそういう場での経験が自分達のキャリアを作ったのであり、あくまでもホームは臭くて汚いライブハウスだ、という矜持を込めた言葉でしょう。確かにそれは言わない方がクールだし、あの場で言うのはなんとも青臭い。他の紅白出演者だって同様の感慨はあるだろうし、しかも彼らはそれを口にしていないのだから、「それ、言うてまうんや」という格好悪さもちょっぴりある。東京03の「美談」におけるラブピエロ角田みたいだ。でも、それを視聴者が面白半分にイジるのはまだしも、Aマッソがイジるのは、個人的には堪らなく悲しかった。だって、臭くて汚えライブハウスから紅白に行ったSuchmosの楽曲はやっぱり格好いいし、Aマッソの普段の尖り方も正直、臭くて汚えライブハウスから紅白にまで上り詰めたと紅白の舞台で口にしちゃうSuchmosみたいに、めちゃくちゃ青臭いからだ。Suchmosのアレをそのままストレートに「 NHKで尖る〜♪」とイジった安易さは、「女芸人の扱いに物申す、意識高い系尖りww」という揶揄の安易さに等しいと、僕は思う。

 さてさて、では問題の発言に話を戻そう。先に結論を言うと、あの発言は駄目だと僕は思います。ただ、アレは「全ての質問に薬局にあるもので答える」という設定の漫才で、「大坂なおみに必要なものは?」っちゅう問いに対する答えとしての「漂白剤。あの人、日焼けしすぎやろ」だった訳で、彼女らにとってはある種の大喜利的感覚に基づいたボケというか、KKKのような白人至上主義者が抱いている「意識的な」差別心の発露ではないと、僕は思っている。

 これから言うことは、二人のネタや多少パーソナリティが窺える動画などを観てきた一ファンとしての意見なので、「根拠がない」と言われればそれまでですが、「女芸人」という安易な属性に押し込まれるのを頑なに拒んでいるAマッソの二人が、黒人差別なんちゅう安易なレッテル張りの頂点みたいなもんに、「嬉々として」加担するとはどうしても思えないんですよ。結果的に加担はしたが、意識の問題として、です。あの発言は、「攻めたことを言ってウケを取りたい」という意識や「攻めてる芸人だと思われたい」という意識の発露ではあったかもしれないが、人種差別を目的/意図したものでは絶対になかったはずです。そんな意図はなかった、なんちゅうのは失言をした政治家のゴミみたいな言い訳であり、Aマッソの二人のあの発言に関しては、意図はどうであれ、立派な人種差別として受け取られ、批判されて然るべきだとは思う。誤解を招く表現だった、なんちゅう政治家のゴミみたいな言い訳ver.2を言うつもりもない。誤解ではなく、ストレートに解釈して、人種差別的やな、と判断されて仕方がない発言だ。

 つまりあの発言は、「意識的な差別心の発露」ではなく、「無知による問題意識の低さ」「人種差別問題の軽視」が招いたものである。すなわち、「無意識的な差別心の発露」だ。某おわライターは、件の発言を「内なる差別心の発露ではないと考えるのが自然」であり、「差別心から発した本物の差別発言ではなく、無知や誤解からたまたま生じた差別発言」と書いていたが、意識的ではなく無意識的だとは言え、あの発言は間違いなく内なる差別心の発露であり、無知や誤解から「必然的に」生じた差別発言だ(てかね、自戒を込めて言いますが、差別心っちゅうのは往々にして無意識的なんですよ。そして、だからこそ厄介な訳です。「黒人は劣等種族だ、ぶち殺せ!」みたいなのだけが差別心やと思うたら、大間違いです)。

 あと、「漂白剤、ってところだけ切り取られてるけど、そのあとにちゃんと『日焼けしすぎやろ』って言ってるから。人種差別じゃない」というトンデモ理論で擁護している人も割といたが、「日焼けし過ぎ」って言葉なんざ、アホなファンがそうやって擁護してくれるだろう、自分達も「日焼けっちゅう意味ですがな。黒人いう意味やおませんで」と言い逃れできるだろう、っちゅうチキン丸出しの保険に過ぎない。もしくは「いや、日焼けちゃうやろ!」という観客のツッコミを想定したボケであって、Aマッソが本気で大坂なおみを日焼けして肌が黒い人として扱っていた訳がない。もし本気でそう思っていたのなら、それはそれで今度はお笑い芸人として致命的だ。多くの人が知っている事柄を知らない、かつそんな全然知らない人物をネタに組み込んじゃうってのは、漫才師としていかんでしょ。

 「松崎しげるなら許されるだろうに、大坂なおみは許されないなんて。むしろそっちの方が差別では?」という、「他のみんなも騒いでたのに、なんで僕だけ叱るんですか、先生。僕を差別してる!」みたいなレベルの愚痴もようけ見掛けましたが、完全に日焼けによって創り上げられた肌の黒さを持つ松崎しげるを取り上げて「漂白剤。日焼けし過ぎやろ」と言うのと、生まれつき黒い肌を持つ大坂なおみを取り上げて「漂白剤。日焼けし過ぎやろ」と言うのでは意味が全然違うということを、本気で分からないのでしょうか。あんな取って付けたような「日焼けし過ぎやろ」でAマッソを擁護するのは、いくらなんでも無理筋過ぎる。

 まあ、Aマッソファンとしては擁護意見を言いたくなる気持ちも分からないではないが、でもやっぱり、「あの発言は無問題だ、芸人というのは非常識なことを言って云々」「肌の色差別は駄目でハゲ差別、ブス差別はいいのか。人種差別って過敏に騒ぐくせに、容姿イジりはスルーすんのかよ」という風に擁護している大半のお笑いファンの方々は、黒人に対する差別の歴史についてあまりにも無知過ぎます。笑いの本質の一端はいじめであり(僕の知る限り、爆笑問題を除く全ての芸人がいじめといじりは別物と言っていますが、僕は同じだと思っています。笑いは、というか映画も小説も漫画も、差別に大きく依っています)、僕もよくそうしたいじめが核にある笑いを見て笑っていますが、「人種」や「肌の色」というのは、そう簡単に笑いのネタにできるものではないでしょう。

 「傷付く人がいるからという理由で人種差別をネタにするのが駄目なら、ハゲもブスもデブもネタにしたら駄目やし、ウザい奴やムカつく奴の言動も駄目やし、何もかも笑いの対象にできなくなる」というのは、「人を傷付けてはいけないという理由で殺人が駄目なら、殴るのも駄目やし、暴言も駄目やし、大声で怒るのも愚痴を言うのも駄目になる」に近い極論でしょう。人種も民族も宗教もハゲもブスもデブもウザい奴も田舎者もおバカも童貞も、ネタにすれば誰かしら傷付く人はいるんですよ。「誰も傷付けない笑い」という、ダウンタウンが嫌いでサンドウィッチマンが好きな、そして、佐久間一行のことは存在すら知らない人がよく言うセリフは、大いなる欺瞞を孕んでいます。

 笑いの本質の一端にはいじめや差別がありますが、それでも、歴史的な出来事を鑑みて、工夫なく扱っても笑いのネタになる差別とならない差別の線引きはすべきです。少なくとも、「地下のアングラだけでひっそりやっているならまだしも、表に出た場合には批判されても文句は言えない」という線は、どうにかして引かなければならない。「 Aが駄目ならBもCも駄目で、全部駄目になる、だから Aもオッケーにすべきだ」というのは、思考停止に過ぎません。「芸能レポーターなんて賤業やろ」と「畜産業なんて賤業やろ」では、意味が全く違う。京都人差別とユダヤ人差別では、意味が全く違う。AはいいのにBはダメなんてダブスタだ、じゃないんですよ。差別を(お笑いを含むあらゆる)創作のネタにするなら、対象に関する歴史的文脈の考慮は必須でしょう。

 1.肌の色に関する安直なボケを、2.個人名を出して(しかも大坂なおみというチョイス)、3.カメラの入っていない自分達の単独ライブではなく、Aマッソ主催ではない無料音楽イベントで披露した(この三つ目のミスが何気に超デカい)……ということで、 Aマッソはスリーアウトです。ネテロ会長が言うところの、「そりゃ悪手じゃろ」ってヤツだ。

 でも、Aマッソの二人は蟻んこじゃないし、況してや人種差別主義者なんかでは絶対にない。無意識的な差別心は抱えていたが、人種差別「主義」者ではない。一度最低な発言をしたからって、必ずしも最低の人間だということにはならない。口を滑らせる、筆が滑る、なんちゅうのは、どんな人間にだってあることだ。バイキングの坂上忍くらい口を滑らせ続け、百田尚樹氏のツイートくらい筆を滑らせ続けていれば、最低の人間だと断じてもいいかもしれないが、たった一度の発言で、最低な人間性、最低なコンビだと断じないで欲しい。

 況してや、漫才のネタ中の台詞なのである。芸人が提示する価値観と観客の持つ常識の差異の中に、笑いは生じる。その差異を狙った結果、笑えない差別になってしまったのだ(どうでもいいが、あのボケで笑っていた会場の人々と、僕は多分一生相容れない)。繰り返すが、Aマッソのあの発言は漫才中の台詞だ、ということを認識して欲しい。ネタだから構わない、という意味ではない。ネタだから、本人達の思想には必ずしも直結しない、という意味だ。無論、直結する場合もある。でも、少なくともあの発言は、直結はしない。無意識的な差別心と、攻めた笑いをせねばというAマッソのSuchmos風尖りが、トムブラウン的悪魔合体をしたことによって生み出されたのが、「漂白剤。日焼けし過ぎやろ」だ。Aマッソの二人が常々、大坂なおみに対して漂白剤で肌を白くすべきだと思っている訳では決してない。根拠? ゲラニチョビを全部観りゃ分かる。かの高橋源一郎は、誰かを批判するコラムを書くときは、当該人物が上梓した書籍を極力全て読むらしい。そこまでしろ、とは言わないが、ネットニュースの概略だけで、Aマッソを人種差別主義者と断じないで欲しい。芸人差別だ、なんてエセナンシー遠田みたいな戯言を言うつもりはないが、一度のアウトを許さずに徹底的に糾弾する過剰な正義心は相当に危うい、とは述べておく。

 超長くなったので僕の意見をまとめると、「Aマッソのあの発言は彼女達の意識的な差別心の発露ではなく、無意識的な差別心が『攻めたネタをしたい』という思いによって増幅され、発露したもの。結果としては笑いにならない差別であり、批判されても仕方がない。でも、Aマッソは差別主義者じゃないと僕は信じているし、今回の件が差別になるのだということを認識した(無意識的な差別心を意識した)はずなので、もう許して欲しい。早々に謝ったことやし」だ。典型的なほどダメな謝罪構文やったけど、それはまあ、ナベプロの責任である。

 いつの日か、「臭くて汚いライブハウスから来ました、Aマッソです。よろしゅう」ってM-1の決勝で言うて欲しいですね。と思ったら、今年出てないんかい。

 あ、書き忘れがあったので追記。「漫才という舞台で、ボケという異常な役割を演じるキャラクターが異常な発言として人種差別的発言をすること」と「映画という舞台で差別意識に染まったキャラクターが人種差別的な発言をすること」は、似て異なるものです。前者が「差別的な表現」ではなく「差別を扱った表現/差別を内包した表現」と見做されるのは、後者の場合よりよっぽど難しい。漫才は映画などよりも虚構性が低く、演者と本人がどうしても地続きに感じられてしまいますから。

 もしも、加納が完全に無邪気で天然で頭のおかしいヤバい奴にしか見えないキャラを見事に演じた上で「漂白剤。だって、お肌は白いほうがええもん」などと『十三人の刺客』のゴロちゃんばりにサイコ感漂う絶妙なトーンと間で言い、村上がキレ気味にツッコむ(orドン引きする)……という漫才だったならば、あるいは、村上も加納の発言に「せやんなあ」と当たり前の如く賛同して「ヤバい奴二人の会話」という異常な虚構世界を提示していたのであれば、僕は完全にAマッソの漫才を擁護していたと思います。

 目的にはしていなかったはずですが、結果として、Aマッソは笑いを差別に使ってしまいました。駄目です。差別を笑いに使うのです。

  Aマッソはとりあえず、『有吉弘行のドッ喜利王』におけるアントニーと有吉の絡みとか、『テベ・コンヒーロ』におけるボビーの米俵の件を観て、「差別に対する自覚の有無とそれを取り扱う際のバランス感覚」について思いを馳せてみましょう。

  ただ、Aマッソを痛烈に批判していた人々に言いたいのは、世の中から差別をなくそうとするなら、無意識的な差別心を抱えた人に対しては、そのアウトな言動を注意し、無意識的な差別心を認識してもらうことが大切だということです。無意識的な差別心を抱えた人がやらかしたときに、その人を意識的な差別主義者として徹底的に糾弾するのは、却って「やっぱ差別、差別うるせえ奴はウザい」と反発を招き、彼/彼女らを本物の、意識的な差別主義者にしてしまいかねません。尤も、今回の件でAマッソの二人がそうなるとは思いませんが。だって、あの二人は教養がありますから。諳んじるって言葉を知ってるしね。

 しかし、爆発的には売れていない芸人が臭くて汚えライブハウスで披露する安易な黒人差別ネタを大勢のお笑いファンは絶賛するのに、芸人として天下を取っていた松本人志が監督した『大日本人』を酷評するのは、どうしてでしょうね。穢多を扱った映画ですよ、尖り過ぎでしょ(穢多=穢れが多い、という表記は好ましくないので、以降はエタと表記します)。

 『シン・ゴジラ』を観て、「ゴジラ東日本大震災のメタファーで~、最後の作戦は原発作業員のメタファーで~」なんちゅうて得意げな顔をしてるそこのあなた、あれはメタファー(隠喩)ではなく、直喩です。古畑任三郎を観て、刑事コロンボの影響を感じるね、って言うてるようなもんです。そんなにメタファーという言葉を使いたいのなら、松本人志監督の『大日本人』はエタのメタファーである、と言いなはれ。

 『大日本人』が表象するエタのイメージを、マジで誰も感じ取っていないのか? 指摘しているのが菊地成孔氏だけってのは、結構ヤバいでしょ。興行収入11.6億円やのに。キューブリックの『シャイニング』にネイティブ・アメリカンのイメージを感じ取る人も、黒沢清の『カリスマ』に天皇のイメージを感じ取る人も少なくないのに、『大日本人』にエタのイメージを感じ取る人がこんなにもいないのは何故だ。

 『大日本人』は、ラストで没入感ある映画っぽいCG映像からテレビコントそのままな映像に切り替えることで、日本の観客にとって戦争は所詮テレビの向こうの出来事だということを表現したのも面白いと思いますし、大日本人の四代目、五代目、六代目がそれぞれ、戦後日本、高度経済成長期の日本、現代日本と対応しているのもユニークだし、何より、繰り返すが、お笑いで天下を取ったあとで堂々とエタを表象した映画を撮っちゃう松本人志の感性は、ガッチガチに尖っている(大日本人がエタのメタファーっちゅう根拠はなんやねん? と問われれば、作品を観て感じ取ってください、としか言えないが、『大日本人』に二時間も時間を割いてられないというコスパ依存症の皆様のために軽く根拠を記しますと、「大日本人もエタも、その身分が親から子へと世襲される」「エタの担っていた皮細工や屠殺の職業は祖先の時代にはそれほど賤しいものではなかったが、中世以来、世間から嫌忌されるようになった。同様に、大日本人も四代目は正義の味方として人気を誇っていたが、松本人志演じる六代目は世間から嫌われている」「ってか、ストーリーもあからさまにそうやし」などです)。

 エタのイメージを放つ『大日本人』を観て、殆どの(もはや全てと言っていいかもしれない)観客がそのイメージを感じ取らなかったという事実は、被差別部落という負の歴史を日本人が抑圧し、忘却し、葬り去ろうとしていることを意味している。『大日本人』は日本社会に内在する排他性をスクリーン上に描いているが、『大日本人』を観る殆どの観客がエタのイメージを受容しないという事実もまた、日本社会に内在する排他性を描き出している。スクリーン上にではなく、現実に、だ。映画の内と外で同時に日本社会の排他性を浮き彫りにする、この二重構造のハンパなさは、金属バットの黒人差別漫才の反転構造とは、尖りの鋭さが違う。流石は僕らの松っちゃんだ(金属バットの「黒人の触ったもの座れるかい」ネタは、Aマッソとは違い、差別を描いた表現として成立はしていると思いますが。宇野維正氏はキレてましたけど、だったら宇野氏が好きなタランティーノ映画もギリアウトちゃうか?)。

 しかし、ビシュアルバムを傑作と持ち上げて、「こんな感じで映画も撮ればよかったのに……」と嘆息している自称お笑いファン、自称ダウンタウンファンの人は、他のお笑いファンが絶賛しているからビシュアルバムを褒めているだけで多分面白さを理解していないし、他のお笑いファンが貶しているから『大日本人』を貶しているだけだと、僕は邪推している。どっちもつまらん、なら分かるが、「ビシュアルバムは傑作」と感じる人がこぞって、「『大日本人』は駄作」と酷評するのがどうも解せないのだ、たとえ絶賛はしないにしても。

 ちなみに僕が今年一番教養のある笑いやと思うたのは、爆笑問題カーボーイ太田光が言った「(神田松之丞は)人間として不良品だと思った。……これ言うと炎上するんだっけ?」です。松之丞が太田光ピカソの件をイジった放送を聴いて僕は大笑いしてもうたが、アレはまあアンダーグラウンド感があるというか、アカンやろ、と感じる人も多いはずだ(というか僕含め、大笑いした人の中にも、アカンやろ、と思った人は多いと思う。むしろ、アカンやろ、という意識があるからこそ、カーボーイでこの話題が出たとき、田中は「やっぱすげえな、松之丞」と大笑いしていたのだろう)。そのアンダーグラウンドな笑いをきちんと多くのリスナーが笑えるところまで押し上げた太田光は、めちゃくちゃ格好良い。まあ、発端の発端が凄惨な事件ですから、一ミリの屈託も無く笑える、という性質のものではないが、それでも太田光のあの発言は、テレビ、ラジオ、舞台、活字というグラデーションの異なるメディアを横断して活躍する爆笑問題の底力を感じさせた。しかも、ダウンタウンの松っちゃんの発言を踏まえてのボケやし。アディダス事件とやらが何処まで本当なのかは不明だが、少なくとも「とんねるずダウンタウンのライバル関係」なんてレベルではない、何らかのはっきりとした確執がダウンタウン(の松っちゃん)と爆笑問題の間にあったのは事実だろう。 いいともの最終回で半分ほど溶けたその雪を、太田光は堂々と踏み付け、爆笑問題という足跡を残した。ダウンタウン派の僕が思わず耳を塞ぎたくなるほど鮮やかに、あの瞬間の太田光は、松本人志に「打ち勝って」いた。

 ただ、僕は松っちゃんの「不良品」発言があそこまで批判されていることに、「誰だって川崎殺傷事件の犯人になり得るのだ」ということを殊更に言う人が大勢いることに、一抹の違和感を覚える。いや、分かる、ダメやで、松っちゃんのあの発言は。人間は大量生産される工業製品ちゃうし。でも、幼い娘を持つ松っちゃんが、「無差別」という名を借りて己の人生に対するむしゃくしゃを弱者にぶつけた奴がいる、という取り返しのつかない理不尽に対して、「あんなことをする奴は不良品」と言ってしまう気持ちを少しは汲めないものだろうか? 松っちゃんは、引きこもり全般を指して「不良品」と言った訳ではない。無関係の弱者を殺害した人間に対して、「不良品」と言ったのだ。「犯人に対して、『自分は無関係だ、あんな奴は自分達とは違う』と切り捨てる姿勢は危険。誰もがそうなる可能性を孕んでいるのだから」という言説は全くもって正しいと僕は思うが、じゃあ何故、凄惨な殺人を犯した者を「不良品」という言葉で糾弾してしまった松っちゃんの気持ちに寄り添うことはできないのだろう。松っちゃんの「人を殺す奴=先天的に決まっている、そういう奴らだけで殺し合ってほしい」という考え方は、極めて危うい。優生思想に繋がりかねないし、この価値観が蔓延すれば、「変な奴」を迫害する世界を形成しかねない。だが何故、毅然とした態度で「そんなことを言うのはダメ、危険な思想です」と指摘できないのだろう。松っちゃん本人をヒトラーになぞらえたりして、感情的に、松っちゃんの方が犯人よりもよっぽど極悪かのようなトーンで批判するのだろう。どうして、「誰の心の中にも、犯人と同じ闇が潜んでいるかもしれない」とは思えるのに、「誰の心の中にも、松っちゃんと同じ無自覚な差別意識が潜んでいるかもしれない」とは思えないのだろう。安倍政権みたいなゴミを支持しているからって、松っちゃんが川崎殺傷事件の犯人より鬼畜であるはずがないではないか。

 犯人を「不良品」と呼ぶことで、現在犯人に近い境遇にいる人を追い込んでしまうかもしれない……という視点は、確かに大切だ。でも、被害者やその遺族の視点だって大切に決まっている。誰だってあの事件の犯人になり得るが、それよりも高い確率で、あの事件の被害者やその遺族になり得るのだ。そのことを分かっているのか。

 「誰だってあの事件の犯人になり得る」というのはその通りだが、だからこそ、僕達は絶対にあの事件の犯人になってはいけない。引きこもりでもニートでも、断じて「不良品」なんかじゃない。でも、路上で何の恨みもない他人を刺し殺した瞬間、そいつはもう人間ではない。僕はそう思う。人権派諸氏は僕の考えも否定するかもしれないが、何の恨みもない人間を己が人生の憂さ晴らしのために殺す奴など、人間であるはずがない。あの事件を犯す前の犯人と僕達は同じ人間だし、あの事件を犯した後の犯人と僕らは紙一重だ。でもその紙だけは、人間と非人間を分かつ、絶対に踏み越えてはならない一線である。僕は人権派ではないので、その一線を越えた者を、もはや人間だとは思わない。松っちゃんの「そういう奴らだけで殺し合ってほしい」という発言は、「そういう奴ら=先天的に決定された、人を殺すタイプの奴」というニュアンスだったからダメだが、実際に通り魔殺人を実行しようと決意し、誰かを刺そうと刃物を振りかざした瞬間の奴らについてなら、そいつらだけで勝手に殺し合ってくれ、と僕も思う。この考えも、人命軽視、人権無視つってダメなのだろうか。

 志らくはんなどが口にした「死にたい奴は勝手に一人で死ね」はあまりにも雑なくくり方をした、想像力と配慮の欠如した乱暴な発言であり、ダメだと思います。でも、何の恨みもない他者を殺害しようとして実際に刃物を振り上げるような奴は、その刃物を振り下ろす前に、頼むから死んでくれ。僕は本気でそう思うし、そして今、死にたいと考えている人は、誰かにその絶望の矛先を向ける前に、何かささやかな人生の希望を見つけてほしいと、切に願っています。

『リミット-刑事の現場2-』というドラマが、かつてNHKで放送されていた。僕の嫌いな武田鉄矢が主人公のベテラン刑事を演じているし、最終回の結末は若干合わなかったが、それでもいいドラマなので、是非見てほしい(余談だが、アニメやゲームと現実の区別が付いていないオタクより、武田鉄矢金八先生の区別が付いていない非オタクの方が深刻だ)。

 このドラマの第一話で、若い女性を刺し殺し、反省の色を見せない通り魔犯に対して、ベテラン刑事は激昂する。お前に人権なんかねえ、とまで言い放つ。川崎殺傷事件について被害者側の視点が欠落している人に、見て欲しいドラマである(ただ、その「犯人に対する説教のシーン」だけが切り取られてネットにアップされ、どういう理屈か知らないが、「在日コリアンの犯罪を批判している素晴らしいドラマだ」と拍手喝采する馬鹿が現れ始めた、という負の側面もある)。ちなみにこのドラマの2話目は、公園を不法占拠し、住民に煙たがられていたホームレスが放火によって殺害される、というものだ。この事件の犯人に対して、主人公の刑事は、「こいつ(被害者のホームレス)はゴミか? 違う! 人間だ!」と告げる。互いに微妙に呼応し合う1話目と2話目の完成度は、とても高い。甚だ遺憾ではあるが、武田鉄矢の演技もいい。

 川崎殺傷事件について、「誰もがあの事件の犯人になり得る」ってことだけをやたらと強調して何かを言った気になっているコメンテーター気取りの大半は多分、根拠はないが、「学校に侵入し、女子高生の運動靴を大量に盗んだ男、逮捕」みたいなニュースの犯人に対しては、めちゃくちゃ侮蔑の眼差しを向けていると思う。自分も一歩間違えばJKの饐えた靴の匂いで絶頂するために法を犯していたかもしれない、ってちゃんと思えよ、あほんだら、っちゅう話である。

 話が脱線し過ぎて別の駅に到着してしまいましたが、まあ要するに本稿の結論を一言でまとめると、「僕は女の子の饐えた足の匂いが好き」です。はい、じゃあまたのご乗車、お待ちしております。終わり。

映画『シャイニング』がアメリカの観客に与えた恐怖の根源とは何か

『JOKER』を観に行ったら『ドクター・スリープ』の予告が流れてきたので、かつて大学の講義の課題として提出したキューブリック版『シャイニング』について、再掲します。ちなみに成績は、百点くれるかな、と意気揚々としていたら、八十五点というボチボチな点数でしたが、まあそれなりに読める文章ではあるかと。いま読み返して、言及が甘いな、と感じた部分もありましたが、今更追記するのもイヤなので、そのまま載せます。

 

1. 映画『シャイニング』がアメリカの観客に与えた恐怖の根源とは何か

 1977年の発売以来、未だに20世紀ホラー小説の金字塔として燦然と輝き続けているスティーヴン・キングの『シャイニング』。冬の時期だけ閉鎖されるオーバールックホテルの管理人として雇われた、小説家志望で元アルコール依存症のジャック・トランスは、妻のウェンディと超能力(シャイニング)を持つ五歳の息子ダニーの三人でホテルを訪れ、様々な怪異に見舞われる……という、「幽霊屋敷もの」である。1980年には、スタンリー・キューブリックの手によって映画化もされた作品であり、本稿ではこの映画について取り上げる。

 さて、2013年に発表されたキングの小説『ドクター・スリープ』は、『シャイニング』の36年ぶりの続編である。同作の作者あとがきの中でキングは、前作『シャイニング』について、「わたしのどの作品がいちばん怖かったかということが世間で話題になると、『シャイニング』はいちばんよく題名のあがる長編だ。くわえて、いうまでもないことながら、スタンリー・キューブリックの映画化作品もあり――わたしには理由がさっぱり分からないが――これをもっとも怖かった映画のひとつとして記憶されている向きも多いようだ」と述べた上で、「原作こそ‘’トランス一家の正史‘’だ」と強調する。

 キングはこれまでにも、キューブリック版『シャイニング』を度々批判している。1997年には、自身の脚本で改めてテレビドラマとして実写化したほどだ。キングが映画『シャイニング』に対して否定的なのは、小説の特徴であった「上巻からじっくりとページを割いて読者の期待を煽っていき、グツグツと高まった物語の圧が最高潮に達した瞬間、恐怖が爆発する」という構成が変更されていたり(映画『シャイニング』では、ジャック・ニコルソン演じるジャック・トランスの狂気は早々に芽吹く。なんてったって、ジャック・ニコルソンである)、ダニーが持つ「シャイニング」のストーリー上の意味が希薄になっている……といった、「自身の小説との違い」が主たる理由だろう。

 だが、本当にそれだけなのだろうか。本稿では、キングが映画『シャイニング』に拒否感を抱くのには、他にも何か理由があるのではないか、ということについて考察する。そして恐らくそれは、アメリカ国内で映画『シャイニング』を「もっとも怖かった映画のひとつとして記憶されている向きも多い」理由と表裏一体である。

 

2.ストーリー概説と考察に必要なシーン/台詞/ショットの抜粋

 映画は、山道を往く黄色いモービルの空撮から始まる。車を追っていたカメラが切り替わり、「コロラド」の字幕が浮かび上がるとともに、オーバールックホテルの外観が映し出される。続いて「THE INTERVEW」と画面一杯に表示されたあと、ジャック・ニコルソンが建物へと入っていき、冬の間ホテルの管理人として雇われる面接を受ける。かつて、このホテルで同じく冬季管理人をしていたグレーディーという男が同居していた妻と娘を「斧」で殺害した、という話をジャックは聞かされるが、自分は大丈夫だと一笑に付し、無事採用が決まる(図1)。

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(図1 ホテルのオーナー)

 母親のウェンディと一緒に家で留守番をしていたダニーは、超能力(シャイニング)で父親の採用を感じ取り、同時に、不吉なホテルのイメージを幻視する(図2)。

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(図2 ウェンディとダニー)

 シーンが変わり、ジャック、ウェンディ、ダニーの三人はモービルでホテルへと向かう。車内では、次のような会話が交わされる。「ドナー隊が遭難した所ね(ウェンディ)」「もっと西だ。シエラ山脈だ(ジャック)」「ドナー隊?(ダニー)」「幌馬車隊だ。雪に閉じ込められて、ひと冬を過ごしたんだ。そして、生きるために人肉を食べた(ジャック)」

 「ドナー隊の遭難」とは、西部開拓時代の悲劇として語られている出来事だ。1846年、ドナー隊はカリフォルニア入植のため出発し、悪路に道を阻まれ、当初の計画を変更して山で冬を過ごすことを余儀なくされた。食料が尽きた一行は、病気や怪我で命を落とした者らの肉を食べ、生き延びたのである。

 さて、ホテルに到着し、関係者から内部を案内されたジャックとウェンディは、ホテルがかつてはインディアンの墓地であり、建設中にも襲撃を受けたと語る(本稿におけるアメリカ先住民の呼称は、作品に合わせて「インディアン」とする)(図3)。またダニーは、ホテルの黒人料理人ハロランとテレパシーで会話し、彼もまた自分と同様「シャイニング」を持つ者だと知る。

 

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(図3 ホテルを案内されるジャックとウェンディ)

 その後、ホテルは冬季休業に入り、三人はホテルに住み始める。ダニーは双子の少女の幽霊やかつて斧で惨殺された管理人家族の姿などを度々幻視する。そして、小説の執筆が捗らないジャックは次第に精神に異常をきたし始め、建物内のバーへと足を運ぶ。そこで突如、「ロイド。客が遅いな」と言って病的な笑い声を上げると、「さようで トランス様。ご注文は?」とバーテンダーの幽霊が出現する。ジャックは「white man’s burden」と呟き、ジャック・ダニエルをロックで飲む。

 かつての管理人グレーディーの幽霊とも会ったジャックは、「あなたこそ、ここの管理人です。ずっと昔から。存じております。私もずっとここにいます」と告げられる。また、ダニーが「外部の者」=「ニガーの料理人」を「私たちの世界」へ連れ込もうとしている、と教えられたジャックは、ウェンディとダニーを「しつける」よう焚き付けられる。

 ジャックの狂気に気付いたウェンディは反対にバットでジャックを昏倒させ、食糧庫に閉じ込める。だが、ジャックは何処からともなく聞こえてきたグレーディーの声と会話し、鍵を開けて貰う(図4)。

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(図4 グレーディーと会話し、妻子へのしつけを誓うジャック)

 斧を携えたジャックはウェンディとダニーを襲撃するが、二人は辛うじて逃げる(図5)。「シャイニング」によってウェンディとダニーの危機を察知し、ホテルへと舞い戻ってきたハロランは、ジャックに殺害される。ホテル内に残ったウェンディは、冒頭でダニーが幻視した血の海を目の当たりにする(図6)。一方ダニーはホテルの庭に出ると、迷路型の巨大な生垣に逃げ込む。生垣で遊んだことのあるダニーは機転を利かせ、雪に偽の足跡を残すことでジャックの追跡を躱し、ウェンディとともに逃げ延びる。ジャックは生垣から抜け出せず、凍死する。

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(図5 斧でドアを破壊するジャック)

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(図6 オーバールックホテルを満たす血の海)


 映画は、ホテル内部に飾られた写真のクローズアップで幕を閉じる。1921年7月4日にホテルで開催された、舞踏会の写真である(図7)。

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(図7 オーバールックホテルの舞踏会 1921年7月4日) 



3.2で暗示されている一つの方向性

 白人はかつて、西部開拓の名の下にインディアンを虐殺し、その土地を奪ってアメリカを建国した。インディアンの墓地を破壊して建設されたオーバールックホテルは、アメリカそのものを表象していると言える。そのことは台詞で示されている他、図1のホテルのオーナーが白いシャツを着、赤いネクタイを締め、青いジャケットを羽織っていることからも察せられる。机の上には、駄目押しのように小さなアメリカ国旗も飾られており、図3のホテル内部にもアメリカ国旗が飾られている。

 ウェンディとダニーもまた、アメリカを表象している。初めて画面に姿を現したとき(図2)、二人は赤、青、白の服を着ており、これ以降も(特にダニーは)この三色を基調とした服をよく着ているのだ。またジャックは、ハロランを「ニガー」と呼ぶなど、旧来の白人的価値観が根底に流れている人物だということがその言動の端々から分かる。

 白人の三人家族が、インディアン虐殺という負の歴史を持つアメリカを表象したホテルを訪れ、怪異に見舞われる。原因が「インディアンの呪い」であるというのは、明白だろう。作中で描写される幽霊の見た目は全員白人だが、それについては後述する。

 さて、中盤、バーでジャックに禁酒を破らせ、狂気の道へと後戻りできないほど駆り立てる切っ掛けとなった酒は、ジャック・ダニエルだ。バーテンダーの幽霊がこのウイスキーを差し出したのには、ジャックがジャックを演じてジャックを飲む、というジョーク以上の意味がある。かつて、ヨーロッパからアメリカへとやってきた白人たちは、インディアンに酒を飲ませた。酒を知らず、アルコールに対する抵抗力のなかった彼らは、瞬く間に酒に飲まれた。酒は、白人がインディアンから土地を奪うのに大きく貢献した要素の一つなのだ。そしてその酒の代表格が、ウイスキーである。加えて、ジャックがジャック・ダニエルを飲む前に呟く「white man’s burden(白人の責務)」にも意味がある。イギリスの作家キップリングが1899年に発表した詩の一節を起源とした言葉であり、やがて「白人は文明化していない他の人種を文明化する責務を果たすべきだ」という西洋人の植民地政策を正当化する言葉へと拡大していく。ジャックはこの言葉を引用し、酒を飲むことこそ白人の責務だと笑ったのだ。

 「インディアンの呪い」は、インディアンの虐殺、迫害に寄与したウイスキーを使い、白人のジャックが白人の妻子を殺害するという「白人の虐殺」を実現させようとしたのである。

 その後、グレーディーから「ダニーが外部の者を私たちの世界へ連れ込もうとしている」と言われたジャックは、ダニーへのしつけを決意する。場所は、左右が反転する「鏡」が数多く設置されたトイレの中だ。ここでジャックは、インディアンの土地を奪って住み着いた「白人=外部の者」から、「『黒人=外部の者』の流入を防ごうとする内部の者」へと立場を転じる。このときのジャックの心情は、かつて「白人=外部の者」の侵略に抵抗した「インディアン=内部の者」と相似形だ。

 そして、終盤で食糧庫に閉じ込められたジャックは幽霊と会話し、妻子をしつけると約束する。不敵に笑うジャックの背後に置かれた缶詰には、インディアンのイラストが描かれている(図4)。ウェンディとダニーを襲うジャックが使う武器は、斧だ(図5)。かつての管理人グレーディーもまた、妻と娘を殺すのに斧を使っている。斧と言えば、インディアンの武器である。妻子を殺害せんとして斧を振り上げたとき、ジャックの心は完全に、白人を自分たちの土地から追い出そうとするインディアンと一体化してしまう。

 ダニーとウェンディが視たホテルを流れる血の海は、ホテル建設の際に取り壊した墓で眠っていたインディアンたちの血であり、同時にそれは、アメリカが建国される際に流れた大勢のインディアンたちの血を意味している。

 さて、では図7のラストショットは何を意味しているのか。1921年の舞踏会の写真にもかかわらず、そこに映っているのは、ジャックだ。日付は7月4日、アメリカ独立記念日である。アメリカという国がインディアンの屍の上に建国された以上、アメリカ独立記念日とは同時に、インディアンの土地がインディアンの土地ではなくなったということが決定付けられ、インディアンから土地を奪った事実が多くの人々に肯定された日でもある。

 この写真について考える上で思い出すべきが、ジャックがバーで酒を飲むシーンである。ここでジャックは、唐突に「ロイド」とバーテンダーの幽霊に呼び掛ける。ロイドもまた、「トランス様」と返す。また、グレーディーはジャックに対して、「あなたこそ、ここの管理人です。ずっと昔から。存じております。私もずっとここにいます」と告げる。これら二つの描写と最後の写真から導き出せる考察は、「ジャックは生まれ変わっている」というものだ。だからこそジャックはバーテンダーの名前を知っており、グレーディーは「あなたこそ、ここの管理人です。ずっと昔から」と告げるのである。

 つまり、独立記念日を祝う1921年の舞踏会に参加した白人たちは、オーバールックホテルのインディアンの呪いによって、幽霊として永遠にホテルに留まることを余儀なくされたのである。そして当時のホテルの管理人だったジャックは、生まれ変わり、再びホテルを訪れて、妻子を惨殺しようとしたのだ。

 これは、単なるホラー映画としての味付けではない。インディアンの多くには輪廻の価値観があり、「死とは魂だけの状態になったこと」と考えられている。その魂が、人だけでなく、植物や動物や鉱物といった様々なものに再び宿る、というのだ。

 オーバールックホテルに宿った数多くのインディアンの魂は、白人の魂を幽霊としてホテルに縛り付けたり、白人の魂を再び白人の肉体に宿らせて妻子を殺害するという惨劇を引き起こさせたりして、白人に対して復讐しているのである。

 

4.アメリカの国民が抱く、インディアン虐殺に対する罪悪感と怯え

 アメリカはインディアンを虐殺し、その土地を奪い、国を創立した。それは動かしようもない事実であり、取り返しのつかない惨劇である。アメリカの国民、とりわけ白人は、そのことに関する罪悪感を根底に抱えている。

 歴史は繰り返すものだ。アメリカはインディアンを人間扱いせずに虐殺したあと、今度は黒人を奴隷として連れてきた。映画『シャイニング』の最後の写真は、オーバールックホテルの惨劇が繰り返されていることを示し、同時に、アメリカが建国、発展に際して繰り返し行ってきた負の歴史を暗示している。そして、それだけではなく、「今度はアメリカが被害者となって、残虐な歴史が繰り返されるかもしれない」という可能性をも示唆している。

 普段アメリカの国民が胸の底に沈めているインディアンに対する罪悪感と、それに付随した「いずれその罰が下るのではないか」という恐怖を、映画『シャイニング』は大きく揺さぶる。斧を振るうジャックに追われるウェンディとダニーの怯えた姿は、アメリカの観客が決して訪れて欲しくないと願うアメリカ国民の最悪の未来だ。だからこそ、アメリカの観客の多くは映画『シャイニング』を「もっとも怖かった映画のひとつとして記憶」しているのである。また、キリスト教的価値観に立脚して小説『シャイニング』を執筆したスティーヴン・キングも、だからこそ事程左様に、映画『シャイニング』に対して否定的なのだろう。

 映画『シャイニング』がアメリカの観客に与えた恐怖の根源は、かつてアメリカを創った白人たちがインディアンに対して与えた恐怖そのものなのである。

                                       

【引用映画/参考文献/参考URL】

・『シャイニング 特別版 コンチネンタル・バージョン』

スタンリー・キューブリック監督、1980年、DVD(ワーナー・ホーム・ビデオ、2005年)

 

https://camarinlife.blogspot.com/2011/06/blog-post_05.html

 

http://www.prideandhistory.jp/topics/000718.html「インディアン殲滅作戦と酒」

 

・山川世界史小辞典(改定新版)、山川出版社、2011年

 

・『死ぬことが人生の終わりではない インディアンの生きかた』

加藤諦三ゴマブックス株式会社、2015年

 

・『ドクター・スリープ』スティーヴン・キング(著)、白石朗(訳)、文藝春秋、2018年

 

 以上でーす。終わり。

『時効警察はじめました』に福田雄一を呼んだ奴の鼻梁を殴らせてくれ、マジで三十万円払うから。

こやけ!

色々とバタバタしていて半ば存在も忘れていたブログを、十か月ぶりに更新しやす。理由は、本稿のタイトルを見ていただければ分かるかと思いますが、ブチギレているからです。あまりにも腹が立ったものの周りに『時効警察はじめました』を観ている人がいないから共有できひんし、かと言って心の中に留めておくのは精神衛生上悪過ぎる、Twitterでも始めてブチギレるか、でもTwitterは嫌いや、アレがあるから人々は怒りや鬱屈をスライスして小出しにしよる、怒りは蓄えて蓄えてぶちまけてナンボやろ、Twitterの普及によって為政者に浅い傷をちょこちょこ付けることは可能になったが、デモは廃れ、革命の可能性は死んだ。プスプスプスプス屁ェみたいに怒りを小出しにすなよ、我慢して我慢して、巨大なクソを捻り出せ、あほんだら! と自室で一人声を荒らげたときに、ふと、「あ、ブログ始めたんやった」と思い出したのです。

さて、では始めます。え? お前も怒りを蓄えろって? 違う、こちとら今まで散々、福田雄一作品に対する怒りを溜め込み続けてきたのだ。それでも、「ああ、福田雄一は多分、映画とかドラマを軽んじてんねやろなあ、テキトーに仕事してんねんなあ、オモロい作品を撮ることよりも撮影後の打ち上げの方が楽しみなんやろなあ。でもまあ、もうええわ。勝手に自分の庭で遊んでてくれれば、こっちももう立ち入らへんし。世界中の全員がその庭で遊ぼうとも、俺が絶対に立ち入らんかったら済む話や」という悟りの境地に頑張って到達していたのだ。それが今日、「時効警察」という美しい枯山水の日本庭園を覗いてみたら、福田雄一が「ガハハハッ!」言うて笑いながらバケツで水をバシャバシャと撒き腐ってたんやから、そりゃブチギレまっしゃろ。

あ、文章がガタガタかもしれませんが、眠い目をこすりながら深夜に書いている、ジョニーウォーカー18年をストレートでやりながら書いている、っちゅうことで、まあ許してください。第一、福田雄一作品を批判するのに、流麗な文章で、巧みな構成で、なんてあほらしい話や。ゴキブリを叩くのにフェラガモの靴を手に取る奴がいるか? 薄汚いボロッボロの、捨てる寸前のスリッパでええやろ。

それから、もしこのブログを読んでいる人の中に「時効警察好きやけど、二話は福田雄一脚本かあ……観んのどうしよかなあ」と悩んでいる方がいらっしゃいましたら、即座に録画を消してください。福田雄一かあ、と一秒でも悩むタイプの人は、見終わった後、確実に目から光彩が失われています。

かつて、「伊集院光 深夜の馬鹿力」のオリジナルカルタを送るというコーナーの「大人のなんでだろう」回にて、「笑いの最高峰が岡崎体育という共通認識の男女のグループの中で免許合宿がスタートしたのだけれど、一日目の昼休みに既に限界を迎えていたのはなんでだろう」という最高に意地の悪いネタが読まれたことがあるのだが、いつぞやのMステはなかなかになかなかだったとはいえ、岡崎体育は基本オモロいし、そもそも岡崎体育を笑いの最高峰だと思っている人間は多分いない。ファンは彼のことを当然好きだろうが、それは楽曲のクオリティや岡崎体育という愛すべき人そのものを支持しているだけで、別に笑いの最高峰と思っている訳ではないだろう。それよりも令和を迎えた我々が真に受け止めなければならないのは、福田雄一作品における佐藤二朗ムロツヨシのやりとりが笑いの最高峰だと思っている人々の存在である。「佐藤二朗が台詞を噛んでグダグダになり、新井浩文の友達が懸命に笑いを堪える」という姿を見て「下手な芸人より面白い」と笑う人々の数は、僕のように舌打ちをする連中の数を遥かに上回る。この文章を読んでいる方がもしいたとして、あなたは恐らく社会人だと思うのでご存知ないだろうが、現役大学生として体感を申し上げておくと、大学生の福田雄一支持率、マジで半端ないですよ。福田雄一ディレクトした『銀魂』は稀に見る実写化作品の成功例という認識、なんなら、腐りきった日本映画界の数少ない希望、みたいな感すらあります。

人の好みは自由だ、というのはもちろんですが、やっぱりどうにも、福田雄一作品が人気を博すというのは僕には耐え難いものがある。ぬるいだけの笑いが「ゆるい」と評価されることが、心底嫌である(この世で「ゆるい笑い」というワードを使っていいのは、漫画『しろくまカフェ』だけだ。あの漫画はゆるい。ただ、動物と人間が共存している世界なのに動物園が存在し、主要キャラのパンダはそこで見世物パンダとしてバイトをしている、という設定はなかなかトリッキーで攻めている)。福田雄一作品にちょこちょこ出演して親交がある菅田将暉を役者として大好きだし、僕はバイセクシュアルなんでその視点から言ってもすごくタイプなのだが、『銀魂』の新八姿を見ているときの僕は完全に死んだ目をしていました。辛い。自分の好きな人が自分の嫌いな人と自分よりも仲良くしている姿を見るのは、とても嫌なものである。しかし、生きるということはそういうことだ。

僕は福田雄一作品を支持する人達の感性を否定はしないし、小馬鹿にもしない……と書こうと思ったが、嘘は吐けないので正直に白状すると、僕は心の底から愛する自分の彼女が、福田雄一監督のドラマ『今日から俺は!!』や実写映画『銀魂』に対して面白かったという感想を口にしたとき、心が薄い皮膜で覆われていくのを感じたし、多分、全く面識のないアホそうな男が「福田雄一、マジ神」と口にしていたら、口の端を痙攣させて陰湿な笑いを洩らすと思う。「作品を批判するのは構わないが、作品のファンを批判するのはダメだ」という言説がいつの頃からかネット上を席巻しているが、この言葉は紛れもなく正しく、そして正し過ぎるが故に、正しくない(余談だが、「何かを褒めるときに他の何かを貶めるのはダメだ」という言説もあるが、これに関しちゃあまりにも綺麗事だ。何かを「定義する」とは、その定義から外れるものを除外することと等しいように、何かを「評価する」際に、他のいかなるものも比較参照しないことなど、原理的に不可能だ。役者が格好良かった、演技が真に迫っていた、とかならいくらでも言えるが)。

僕はまあ、とにかく福田雄一作品のお仲間感、内輪ノリ感が嫌いで(同じく批判されがちなとんねるずの内輪ノリ感は全然好きなんやが)、傑作『シャザム!』の吹き替え監修に福田雄一(名前が長い。以下、fと記す。fuckのfやなしに、fukudaのfね)が就任したのはまあ、日本の配給会社がクソバカの集まりであることは今に始まった話じゃないのでもうどうでもよかったし、これまた傑作『50回目のファースト・キス』をfがリメイクすると聞いたときも、「俺は見いひん!」と目を背けたのでまあどうでもいいし、彼女が面白いと語っていたから観てしまった『今日から俺は‼』も大概酷かったが、面白いと言ったのが可愛い可愛い彼女なんでまあしゃあないと苦い微笑を浮かべるくらいで済んだし、実写版『銀魂』もまあ、何やかんや言うて菅田君が可愛いのでギリトントンって感じだったが(原作ファンからも評判良いみたいやけど、実写版『銀魂』って、漫画『銀魂』を面白いと感じるタイプの人が一番嫌いそうなノリですけどね。不思議ですわ)、『時効警察』だけはホンマに勘弁してほしかった。なんで呼んだんや? 誰が呼んだんや? 弱味でも握られたんか? と訝りたくなるクオリティでしたよ、f脚本の二話。

最大にして最悪な点が、三日月くんの心の声垂れ流しだ。副音声に頼るな、『バケモノの子』か。余談やけど、『バケモノの子』、なんで闘技場での熊徹と猪王山の戦いで、九太に開口一番「負けるな!」って叫ばせへんかったんやろ。指摘してる人を見たことないけど、あそこは絶対、「負けるな」ちゃうの? 

まあ、それは置いといて、あの三日月くんの心の声の演出だけで、fが絶対に『時効警察』を観てへんことが分かる。歴史あるシリーズ作品の中の一話を任されたのに碌に準備せず挑んじゃう辺り、ホンマに視聴者や創作物を舐め腐ってるので、とっとと引退して欲しい。もし全作観た上で、自分の色を出すための「あえて」やったんやとしたら、センスがなさ過ぎるのでやっぱり引退して欲しい。

表情やちょっとした仕草なんかで三日月くんの気持ちを言葉を使わずに語らせるのがドラマの醍醐味ちゃうんかい、大体過去作で、「心の声を実際に口に出しちゃう三日月くん」っちゅう描写があるのに、あんな大量にぼろぼろと心の声を喋らすな、ダボ。

全体的にギャグも薄いし、噓を吐いたサインが脇汗いうのも鼻くそみたいな発想やし、『今日から俺は!!』のパロディ、小ネタなんかに至っては、おのれのお庭でお仲間と一緒にやっとけやっちゅう話である。

あと、ミステリ小説のトリックを劇中で何個か挙げてたけど、楠田匡介の名前出そうが、仮に梶龍雄の名前出そうが草野唯雄の名前出そうが中町信の名前出そうが、fの脚本の質が上がる訳ではないからな、と釘は差しておきたい。fのどや顔が目に浮かぶので。

ほんで最後の最後、三日月くんは心の声で「霧山君、やっぱり今回もあなたの心に辿り着けなかったわ。あなたはいつでもミステリー」言うて終わるけど、そんなサブいことを言わせんとってくれ、三日月くんに。

こんだけ過剰なほど繰り出される心の声は、もしかしてあとあと何かしら意味を持つのか? 効いてくるのか? と期待した俺がアホやった。fやもん。意味なんかあるはずない。 ほんでシリーズお馴染みの「このドラマはフィクションです。」表記は、「何も思いつかないので僕の妹にフィクションに似た言葉は?と聞いたところ ローリングストーンズはサティスファクション インポッシブルはミッション サブスクリプションはビジネスモデルの一つ 間仕切りはパーテーション ベルリン国際映画祭金熊賞などと返事はきましたが、このドラマはフィクションです。」やったけど、ホンマにうざいし、長いし、しつこいし、くどいし、センス無い。過去の回を見いよ。もしくは、そんくらい長くするなら、矢作俊彦先生の最高な小説『あ・じゃ・ぱん!』の冒頭、「アテンション・プリーズ。このフィクションは小説です。あらゆる物語はロマンスなので、登場する団体名、会社名、及び個人名と現実のそれらとは一切関係がないなどと誰に断ずる権利があるでしょう」くらいの切れ味とクールさを兼ね備えんかいっちゅうねん。

ホンマにクソつまらん、どころか、腹立たしいことこの上ない回でした。僕は、ちん毛の如くいつまで経っても何処かからひょっこり出てくる淫夢厨を死ぬほどサブいと軽蔑しているし、「まーん」「まんさん」という単語を使う奴は脳味噌に蛆が沸いていると思っている。フィクションに登場する殺人鬼の肉付けが「サイコパスやから」で済まされるのを見るたびに、「なんちゅう安易さ。サイコパスやからシリアルキラーです、って、サイコパスも人間やろ、その言葉はそんな軽々に扱ってええもんと違う」と思ってきた。同様に、「原作レイプ」という言葉も、それを言っている奴らの性犯罪に対する軽過ぎる認識がしばしば垣間見えていたので好きではないが、『時効警察はじめました』の第二話を見た僕の脳裏には、この言葉が過ぎりましたよ。

フィクション作品を生身の人間のように尊く美しいものだと考えている僕からすれば、「時効警察」へのリスペクトの無さ(もしくは、シンプルにクリエイターとしての絶望的なセンスの無さ)がむき出しになったfの脚本回が紛れもなく「時効警察」の一話として刻まれてしまったという事実は、レイプという最悪の連想をするほどショックでした。

さて、文句は以上だ。fさんは、さっきも記したが、自分の庭でこれからもあんじょうやってくれたらかまへん。KKPの『Sweet7』のナッペの件とかと違って、fさんの作品における「演者が笑いを堪え切れずに思わず吹き出してしまうサマ」はクソ面白くないが、まあ自分の庭でわいわいしてくれたらよろしい。「頼むから時効警察の過去シリーズを観たり、シティボーイズの公演を三木聡演出回だけでもええから見てくれ」なんてことは言わない。ただただ、近寄らないでさえいてくれれば。

ムカつくのは、そんなご陽気fさんを起用し続けている連中やが、まあそれもしゃあない。fを起用したら作品が売れんねやろうから、映画会社やテレビ局がfを使うという選択は正しい。当然の選択だ。彼らは創作物に関する仕事に携わっているというだけで、作品に助言する出版社の編集者なんかとは違い、徹頭徹尾ビジネスマンなんやろう。

ただ、「時効警察」がそれをするんや、という悲しさはあった。マジで、fに脚本を書かせたんは、誰の意向なんやろか。三木聡なんやとしたら、どういう意図やったんかをホンマに訊きたい。

もし仮に、テレビ局の上層部やら何やらが、つまりは、高級スーツに身を包んではいるが、スーツのボタンを閉じたまま着席して平然とジャケットの形を崩すような連中が、「時効警察? ふーん、いいんじゃない、放送して。fとか人気だからさ、彼は呼んでね。それが企画書にゴーサインを出す条件だ」なんつって安易に依頼をさせたのだとしたら、僕はマジでそいつを許せない(まあ、こんな戯画的なことはないにしても、割と同レベルの話はあるんちゃうやろか)。でもそのおかげで「時効警察」の続編が観れたんやんか、一話くらい我慢しいな、なんちゅう小賢しい正論如きでは、僕の煮え滾った怒りは鎮火できない。

最後にタイトルに記したことをもう一度再掲するが、『時効警察はじめました』に福田雄一を呼んだ奴の鼻梁を殴らせてくれ、マジで三十万円払うから。以上、終わり。