沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

結論はない

 結婚指輪を見に、婚約者とカルティエに行った。『キングスマン』を日本でリメイクするならコリン・ファースが演じたハリー役はこの人にすべきだな、と思うくらい紳士なおじ様が超丁寧に接客してくれた。バカ高えな、おい。と思いながらも、その接客と嬉しそうな婚約者の顔を見て、まあここで買うかーと思った。今度、買いに行くつもりだ。

 ダイヤモンドは、アフリカの紛争の資金源になっていたり、現地民が労働力として搾取されていたりするという問題があるという情報を、何かで得た記憶がある。現在もそうなのかは知らないし、カルティエが使っているダイヤがそうなのかも知らない。だが、仮にカルティエの指輪の文字通り爪の垢みたいなサイズのダイヤがアフリカの負の実情を背負っていたとしても、俺は買う。搾取されているアフリカのどこかの国の誰かさんと会うことは一生ないが、婚約者は俺の目の前にいるからだ。

 久々に、Twitterを覗いてみた。批判も批評も誹謗中傷も揶揄も脅迫も一緒くたにした「炎上」という言葉の汎用がもたらす弊害について、いい加減真面目に検討すべきだとは思うが、それでもあえてこの言葉を使えば、西原理恵子が娘の告発によって炎上している。西原理恵子を舌鋒鋭く批判しているパンピーのアカウントを遡って見てみると、園子温の『冷たい熱帯魚』を絶賛していた。嫌がる娘を無視して脚色を施した子育て漫画を発表する西原理恵子は巨悪だが、実際に起きた殺人事件を基に作られた映画は手放しで賞賛できるようだ。別に、実在の事件をベースに映画を作る園子温の方がよっぽど外道だ!と批判したい訳ではない。俺だって、『八つ墓村』は読むために学校を休んだクチだ。

 話は逸れるが、園子温の性加害疑惑に対して「そもそもあいつの映画を持ち上げてきた連中の見る目が」云々言っている人々の事後諸葛亮っぷりは、噴飯物だろう。「こんなクソ映画を撮るような奴は、監督の立場を利用して女を手篭めにしているに違いない」と数年前からちゃんと言っていなければ、意味がない。自分にとって価値のない作品を作る者の不祥事が明るみに出た際に考えるべきは、もし自分にとって価値のある作品を作る者の不祥事が発覚した場合、自分はどういうスタンスを取るか、ということだ。

 話を戻す。西原理恵子の娘は、そりゃ辛かっただろう。告発して西原理恵子を糾弾する権利があるし、西原理恵子は批判されても仕方あるまい。ただ、西原理恵子に限らず数多くの創作物が、本人や関係者の許諾を取らずに、彼らの人生や悲劇を消費し、搾取している。園子温小林勇貴横溝正史のように実在の殺人事件をエンターテイメント作品のベースにしたケースはもちろん、実際の事件の加害者を糾弾するメッセージを込めて作られたり被害者の悲劇性を描いたりした創作物であったとしても、被害者やその関係者が「人を飯の種にしやがって」と思う可能性は十分ある。

 どれほど高尚な動機を語ったところで、創作者は創作に楽しさや生き甲斐を感じ、また完成の暁には金や名声が手に入るかもしれないと期待しているからモノを創るのだ。消費者もまた、考えさせられましただのなんだの言ったところで、「面白い」から創作物に触れるのだ。

 創作物は、表現は、あらゆる他者の人生や悲劇を身勝手に消費し、搾取している。最低限そう自覚した上で、人はエンターテイメントを作ったり、作られたものを享受したりしているものと思っていたが、西原理恵子だけが相当イレギュラーな悪だと言わんばかりに怒っている人を見ると、そうでもないらしい。 

 飼い猫への虐待のニュースには憤るが購入している製品の動物実験の有無には一切無関心だし、親戚のおじさんが狩猟を趣味にしているとか聞くとちょっと引いちゃったけど、加工・調理済みのお肉は美味しくいただくし、何ならヴィーガンなんて頭おかしい奴だらけだと思っている。そういう人は多いだろう。それと同じだ。俺だってそうだ。疫病や災害や戦争で見知らぬ誰かが何人死のうが、知ったことではない。可哀想だな、大変だなあとぼんやり思うが、そんなことより明日の仕事や家族や恋人や友人との関係の方がよっぽど悩ましい。両手を広げて届く範囲にしか、世界は存在しない。結論はない、というタイトルなのに、結論めいたことを書いてしまった。それっぽいことを書かないと文章を締められない。悪癖である。終わり。

虚無僧

 「虚無い」と書いて、「シャバい」と読む。『忍者と極道』という漫画に出てくる読み方だ。独創的なルビが満載の超絶オモローな作品だ。ひ弱、根性なし、冴えないという対人侮蔑型ヤンキー死語である「シャバい」も、「虚無い」と記すことで、自分の目には世界が色褪せて見えるし、そんな境遇に身を置いたりそんな風に見えてしまう自分自身こそが何よりもひ弱で根性なしで冴えないのだという諦念を含んだ、趣深い言葉へと変貌を遂げる。

 さて、数ヶ月後に入籍予定の恋人が寝ている隣で、眠れないのでこれを書き始めている。寝付けないので、プレミアム・モルツを飲み、ロン・サカパ23年を飲み、エゾシカのサラミを食べ、ヨセミテ・ロードなるセブンイレブンオリジナルのフルボディの赤ワインを飲んだが、醒めている。酔わない。いずれも旨かったが、酔えない。

 飲みながら、花村萬月の『二進法の犬』をKindleで読み進めた。手に汗握り、めちゃくちゃ面白い。相当面白い。でも、どこか醒めている。

 いつの頃からか明確ではないが、ずっとそうだ。喜怒哀楽の感情はある。豊かにある。ふんだんにある。でも、いつもほんの一部は醒めている。

 これまでブログで書いてきたことをやや否定する話だが、どれほど楽しい経験をしても、どれほど素晴らしい音楽や映画やドラマや小説や漫画やお笑いに触れても、猛烈に感情を揺さぶられている最中に、虚無いなあと思っている自分がいる。今超絶心を震わされているコレに、ホンマは俺、何の興味もないわ。そう思っている自分がいる。自覚してしまう。

 体質のせいか、酒を飲んでもハイにはならないが、世界に膜が掛かったような気分になって、心地好い眠気に誘われることもある。でも、やはりどこか醒めている。眠気という生理現象と共に、心までとろんと溶けたフリをしているが、マツコが酒を飲んではしゃいでいたら、事務所の社長に「あんた、酔ってるフリしてるでしょ」と言われてドキッとしたと随分前にテレビで語っていたように、指摘してくれる人がいないだけで、俺もその類だ。

 旨い飯を食べて頬が綻んでいるときも、煙草を吸って心が安らいでいるときも、パチンコを打って脳汁が出ているときも、心の片隅の片隅の片隅、合わせ鏡の超絶奥の方で、どうでもええわ、虚無いなあと思っている。

 稀に、極々稀にそう思わない瞬間もある。しかし、本当に刹那だ。

 虚無とか刹那とか、厨二病かよ、伊集院光が「もうボクとは関係ないです」と明言した意味での厨二病かよ、などと自分でも思うが、しかし殊更にそういう単語を使うことで「厨二病かよ」と自嘲してみせ、暗に「こういう自虐ができるということは自分を客観視しているということであり、すなわち本当は厨二病ではないのですよ!」とアピールしているのだなあ、つまらん手口だ、などと思う訳ですが、今こうしてつらつらと書いている文章もまた、虚無いなあと片隅で思っているのです。

 生き辛さを感じるとか、そういう話ともやや違う。根本的に、生きるのに向いていない。漠然と、そんな感覚がずっとある。しかし、表面上は余裕で生活を営める程度の社会性は備えている。落ち着いている、メンタルが強いという評価を職場でされることが多いし、親しい人からは鈍感とさえ言われる。本当は全く落ち着いていないし、メンタルは弱いし、自意識過剰で繊細だ。が、なんかもう全部どうでもええわ、虚無いわあ、という諦念が根底にあるからか、何事にも動じないように見えてしまう。精神的に不安定過ぎて、めちゃくちゃ安定しているように見える。速過ぎて逆に止まって見える、みたいな感じだ。

 まともな道を踏み外してしまう、あるいは自ら外れるようなアウトロー性や異常性はない。死にたい、消えたい、破滅したい、あるいは全てを捨てて、あてどもなく旅をしたい。しょっちゅうそう思うが、しかし、いずれもしない。そんな覚悟も意思もない。そもそも、そこまで本気でしたいとも思っていない。腹減ったから王将の餃子食べたいなあ、くらいのテンションだ。

 何もしたくない。眠い。動きたくない。でも、働かなければ食っていけないから働く。そしてプライドはあるから、結構真面目に頑張って働く。そこそこ評価もされる。嬉しい。だが、虚無い。

 意識高い系、という蔑称は嫌いだが、しかしそう呼びたくなってしまうような界隈の人々が口にする仕事論や人生哲学には心底辟易する。かと言って、インターネットの海で浮かんでいる文化や芸術を愛する高尚な趣味の人々が口にする「欧米では労働は罰なんですよ、仕事なんて頑張る必要ありませんよ」的な考えにも虫唾が走る。自分はダメダメサボリーマンですっつー堕落を自覚し表明しているのならば潔いなと好感を持てるが、仕事を頑張っている者の文化的・知的レベルを下に見ているような口ぶりの、仕事なんて頑張らなくていいじゃん族に対しては、てめえの職場での無能さを棚に上げて日本社会だの資本主義だのを攻撃してんちゃうぞ、どうせ狩猟民族でも社会主義国でもお前はぶーたら言うとるわ、おどれが享受している芸術や文化やレストランでの食事かて、それをお前が手にするまでに無数の「仕事」が介在しとんちゃうんか。と、怒りが湧く。が、この「虫唾が走る」や「怒りが湧く」も何処か虚無いなあと思っている。多分、理不尽にボコボコに殴られない限り、俺の中に純然たる怒りは芽生えない。

 仕事クソダリい、遠い親戚が急逝して遺産転がり込んでけえへんかな、今日も連絡来んかったな、じゃあしゃあないから働きに行くか、行く以上は給料分きっちり働こか、やりがいも成長も時々感じる部分はあるわ、しかしダルいのはダルい……このくらいの温度の人がいい。自分は代替可能な歯車であり単なる頭数であると自覚している、が、しかし、ホンマの歯車ではなく人間である以上、多少は自分でよう回るよう工夫しまっせー、という態度だ。

 中学生のときには、この虚無い感覚が既にあった。先述の通り、「厨二病かな。多感で繊細な思春期やからか?」と思い、高校受験で憂鬱になっているからだと自分を納得させた。高校に入ってもこの感覚は消えず、大学受験で憂鬱になっているからだと自分を納得させた。しかし、恋人ができようが就職しようが夢を叶えようが貯金が増えようが、虚無いなあと思い続けている自分がいる。

 そんな奴が何で結婚するんだよ。成り行きだ。双極性障碍でADHD、就職はせずにフリーターとして夢を追う。実家は特別太くない。人生で初めての恋人が俺で、交際早四年。

 OK、余裕。未来は俺らの手の中。結婚しよう。別れるという選択肢はない。心底、愛している。恋はしていない。

 数週間前、退勤後に夜中の王将で同僚と飯を食べたあと、店の外で煙草を吸っていたら、明るく酔っ払いながら喫煙する年上のお姉さんと話が弾み、王将で酒を飲むことにした。北海道から一人旅でやってきたという彼女はよく喋り、とても恋人に似ていた。男に裏切られ、傷付いている話を何度もされた。健忘症を疑った。

 バイクで来店していた俺は飲酒運転をしないために何処かで時間を潰さねばならず、彼女もまた空港が開くまで時間を潰さねばならなかった。チケットすら用意していない、行き当たりばったりの旅だそうだ。

 近くのラブホテルに入った。彼女が浴室へと向かった。入らない?と問われ、ニュース観るからと断ってテレビを付けた。ウクライナとロシアのニュースだった。憂鬱になった。いや、本当はどうでもよかった。眠たかった。10時間働いたあとで飯を食い、酒を飲み、一睡もしていない。現実感が乏しかった。VODでバカリズム案を発見したので、再生した。

 バスローブを纏った彼女が出てきて、何観てんの?と尋ねてきた。彼女は、バカリズムを知らなかった。眠いから寝ようよと言われ、二人してベッドに入った。空港が開いた頃に起こすから、どうぞおやすみ。俺はバカリズムを観ときます。彼女は素直に頷き、俺に抱きついてきた。性的昂奮を抱いた。バカリズムが淡々と面白いことを言い、薄笑いを浮かべてそれを観ていると、彼女は「何これ、超ウケんだけど」とゲラゲラ笑い始めた。そうでしょ、オモロいでしょ、と言うと、「寝られねえんだけど!止めて!」と嬉しそうに言われた。しばらく二人でベッドに横になりながら、バカリズム案を観続けた。俺も、眠たくなってきた。寝れねえ、と笑いながらまた言われた。

「止めて、寝ますか」

 俺が言うと、賛同された。再生を止め、電気を消した。途端に、馬乗りになられた。暗闇の中で、顔が眼前に迫ってきた。

「やっぱ、こうなっちゃうよね」と言われ、こうなっちゃうんかあと、何故か妙に寂しく思った。顔を背けると、ダメ?と訊かれた。据え膳食わぬは男の恥。これを口にする奴は、全員死んだ方がいい。キスを返しながら、バレたら殺されるなあと思った。別にええやと思った。男と女、裏切りと殺害。『気狂いピエロ』を思い出した。大好きな映画だ。それこそ、初めて観たときは虚無いと全く思わなかった。何がいいって、歴史的価値とかショットの斬新さとか色々と言われているが、一番の魅力は「あー、恋して愛した素敵なガールに裏切られて傷付きたい、ぶっ殺したい、そして自殺したい」という人類普遍の欲望を描いていることに尽きる。誰も言わないが。

 汗臭い服を脱ぎながら、互いに名前さえ知らないと、今更ながらに思った。あとは大して覚えていない。昂奮した。だけど、醒めていた。そのくせ無様に緊張して萎えそうになる自らを奮い立たせたり、堪え切れずに先に爆ぜたりもした。彼女が先に到達した際には、馬鹿な男に相応しく、満足感を覚えたりもした。しかしやっぱり、眠いなあ、長えなあと醒めている自分もいた。

 浴室で汗を流し、服を着てから、ソファに並んで煙草を吸った。旨かった。低予算・個性派俳優出演の、ミニシアターで流れているタイプの、良くも悪くも脚本の妙ではなく雰囲気が売りの、そんな日本映画みたいな情況だと思った。しかし、そんな日本映画は存在しない。「漫画みてぇなボケしてんじゃねえよ!って言うけど、その漫画ってなんですか?もう、適当なツッコミを言うのは止めにしよう!」と松陰寺太勇も言っている。

 虚無かった。セックスで人は成長しない。浮気や不倫でも、人は成長しない。単に、経験するだけだ。

 二人して、眠りに就いた。セットしておいた目覚ましの音で起き、部屋を出ることにした。LINE、教えてよ。そう言われ、LINEやってないんですよ、と答えた。彼女が苦笑した。すぐに微笑に変わり、おっけー、と言われた。また大阪に来ることがあったら、会えたらいいですね。テキトーな俺の言葉に、彼女は笑い混じりに、しかし鋭く、もう来ねえし、と言った。

 空港へ向かう彼女とあっさり手を振って別れ、バイクに跨って家に向かった。頭の中に浮かんでいたのは、名前も知らない彼女のことではなく、恋人のことでもなく、とある女友達のことだった。好きなのだ。惚れている。初めて見たときからすっげえ好みだと思いつつも、恋人がいるし、仲良くなる理由もキッカケもないからと話し掛けなかった。その後恋人と別れたが、すぐに別の恋人、すなわち現在の婚約者と交際を始め、たまに会う好みの顔したあの子、くらいの認識になった。

 数年後、共通の友人がいたり、所属コミュニティが重なったりした結果、仲良くなった。めちゃくちゃ仲が良い訳ではない。両手では収まらないが、それでも数えられるほどしか会っていない。だが、惚れてしまっている。見た目に、声に、考え方に、笑い方に、喋り方に。

 その子のことを考えるとき、「とは言えまあ、そこそこ可愛いだけの女の子やで」的な冷笑が浮かばない。「ああいうところ、どないやねん」などと思わない。全てが、素敵に見える。盲目だ。幻想だ。俺はあの子を愛していない。だが切実に、恋をしている。

 この前二人で酒を飲み、共通の男友達の話題が出た際、実は告白されて断ってしまったため、それ以来気まずくて会っていないと打ち明けられた。めちゃくちゃ良い友達で好きだが、キスをすることが想像できなかった、キスはできひんと思っちゃった、とのことだ。

 勇気を出して告白したのは凄いし偉いなあ、今後も友達として会うたらええやん。などと言い、まあ、二人きりで飲みに行ったりしてたら、好きになっちゃうかもなあ。などと言い、男女の友情は成立する論者としない論者がおるからなあ……え、俺?俺はケース・バイ・ケースやと思うよ、そもそも、その男と女が異性愛者かどうかも分からへん訳やし。などと言いながら、まあ俺はすっげえあなたのことが素敵に見えてますよ、好きですよ、恋してますよ、今あなたが彼に告白された話をしたのは、俺に対して「友達でいたいから、あなたまで告白してこないでね」つー牽制のためですか、それとも「あなたとのキスは想像できますよ」つー匂わせのためですか、ま、答えはそのどちらでもなく、単なる話の流れ、なんでしょうけどね、ガハハ。などと思っていた。

 彼女は仕事の都合で、東京に行ってしまった。行く前から既にホームシックになりそう、たまに帰ってくるから飲みに行こう。そう言われ、是非是非、ホンマに行こうと応じた。本当に、行きたいものだ。一生、ほんの時折会うだけの友達でいい。あなたが東京でシュッとした高身長ハンサムボーイと恋に落ちたとしても、それによってもたらされる喜びや悲しみを、相談を、複雑な思いに駆られながら、友達として聞いていたい。あなたと数時間酒を飲めるなら、それがどれほど苦しくとも、大歓迎だ。

 結局、叶わぬ恋云々かよ。捻りがない。お前は単にマリッジブルーに陥ってるだけだよ、虚無僧(シャバゾウ)が。

 あ、将来のガキの名前、今決めました。虚無蔵(シャバゾウ)にします。格好良いので。終わり。

平凡な一日、伝説の一日

 二〇二二年、四月三日。休みだったので、午前10時の映画祭で『ゴッドファーザー』を鑑賞した。劇場で観るのは初めてだったが、案の定家で観る数倍の没入感で、猛烈に面白かった。この前『ザ・バットマン』を観た際は「オモロいけど長いなあ」と感じたが、というか3時間も座りっぱなしなのだからケツが痛みを訴え始めるのは当然で、「長いなあ」と感じるのはしゃあないのだが、『ゴッドファーザー』にはそれがなかった。エンドロールが流れ始めた瞬間、「完璧!」と言いたくなった。

 このあと恋人と合流して、あべのハルカス印象派展に行く予定だったが、体調不良とのことで中止になったため、一人で昼飯を済ませたあと喫茶店に入った。アイスコーヒーを頼んでから煙草を家に忘れた事に気付き、店員に断りを入れて買いに出た。しかしまあ、両切りのピースっちゅうのはホンマにどこのコンビニにも売ってませんなあ、この前売ってない煙草屋に遭遇したときはブチギレそうになりましたよ。ということでやむなくロングピースを買い、フィルターを千切って吸うことにした。

 不味くない。というか、全然普通に旨い。けど、当然ショッピには劣る。できればショッピを吸いたいなあと思いながらフィルターを千切ったロンピーを吸うという、ジュディ・オング状態を続けるうち、灰皿が一杯になった。退店し、そそくさと帰宅した。予定が空いたので、後日観る予定だった吉本興業『伝説の一日』千穐楽参回目のアーカイブ配信を観ようと思ったのだ。お目当てはもちろん、ダウンタウンだ。出演情報だけで、何をするかは発表されていない。本来なら劇場に足を運ばなければならないものを気軽に観られるというのは、有難い限りだ。医療を発展させてきた戦争は必要悪だ、とかドヤ顔で口にするガキにはウィル・スミスビンタを浴びせればいいと思っているが、どれほど悲劇とされているもの、あるいは幸福とされているものでも立場によっては違った捉え方をする人がいるのは当然で、世界的にクソとされている、そして俺もクソだと思っているコロナ禍も、お笑いファンからすれば「ライブのオンライン配信の普及」というプラスの側面を生み出したことは否定できない。尤も、お笑いライブの配信が普及することもまた、立場や価値観によっては必ずしも歓迎できないだろうが。

 ウィル・スミスの名前を出したんで、余談ながら軽くあの件について触れよう。誰かを笑い者にして傷付ける日本の笑いは欧米に較べて遅れている論者がどいつもこいつもダンマリ決め込んでいるのはまあ、連中が知ったかぶりの欧米出羽守だということは分かりきっていたことなので今更どうでもいいとして、アメリカ世論やアカデミー賞アメリカのおセレブの価値観っつーのはマジで訳分からんなあと些か驚いた。が、人間の価値観なんてのは生きていく中で育まれているものな訳で、アメ公にはアメ公の、露助には露助の、ジャップにはジャップの価値観がある。もちろん、その中でもグラデーションはある。俺はウィル・スミスの方がかなり痛烈にdisられるアメリカ世論の価値観を全然理解できないが、それでもそういう文化と価値観なのだと尊重する。キリスト教なんざ年季が入ってるだけのカルト宗教じゃねえかと思うが、俺だって神社の境内に唾を吐けと言われれば多少躊躇する。「俺はウィル・スミスの方が批判されるの理解できないなあ、日本の世論もそういう意見の方が多いなあ、でもアメリカだと逆なんだあ、文化の違いやねえ」はい、これで終わりである。原爆投下は正当化できると未だに国民の過半数が思っているようなファッキン宗主国の価値観が絶対的に正しいとは限らない。唯々諾々と受け入れる必要はない。中華を祭り上げて日本はNo.2の座に就き、シン・大東亜共栄圏を作るべし。

 さて、伝説の一日に話を戻す。お笑いライブを配信で観るのは、永野が酒を飲んで他の芸人を論破していくやつ以来だった。ドキドキしながら、伝説の一日のアーカイブを再生した。以下、ネタバレありの感想だ。

 前説はみんな大好きレギュラー。松本くんがお馴染みの「ドゥドゥビィ♪ ドゥバァ♪ ドゥビィ♪ ハイッ! ハイッ! ハイ、ハイ、ハイッ!」と元気よくリズミカルに口にする際、西川くんが「ハッ!ハッ!ハッ!」と裏拍を取っているのが妙に面白かった。昔は無言でニコニコしているだけだったのに。

 前説の後の口上は、海原やすよ・ともこ&中田カウス。司会はあべこうじ。緊張気味のやすとも、あべこうじに対し、終始笑顔のまま、心底楽しそうやけどホンマは冷え切ってんちゃうやろか、と勘繰ってしまう胡散臭い喋り方で滔々と話す中田カウスが最高だった。マジで、一秒も真顔の瞬間がない。ずっとタレ目で口角上がりっぱなし。皮肉や厭味ではなく、中田カウスのこういう怪人っぽいところが好きだ。つくづく、『アウトレイジ』シリーズに出演して欲しかった。

 口上が終わり、トップバッターはさや香。人体の不思議というネタだ。

石井「人体の70%は水なんやって」

新山「へえ!(ちょっとしたボケを挟んだあと)歴代彼女、何人いる?」

石井「10人くらいかなあ」

新山「え、ていうことはホンマは3人ってこと?」

 という件は面白かったが、歴代彼女の人数を尋ねる質問に若干の唐突さというか御都合主義感というか作為性というか、を感じた。歴代彼女の数を尋ねた時点で新山は既に「人体の7割が水なら、人数×0.3がホンマの人の数や」と思っている訳で、だったら「人体の7割が水」と石井に言われてすぐ「じゃあ、10人おってもホンマは3人ってことやん」と返すのが会話としては自然だ。それなのにあえて歴代彼女の質問を挟んだのは、「10人は実質3人」という抽象的な表現よりも「歴代彼女」という具体性を持った人数が雑に減らされてしまう方が明らかに面白い、というのを新山が理解しているからだ。そこがちょっとだけ醒めてしまった。「人体の70%は水やねんて」「じゃあ、イナバ物置に乗ってるのはホンマは30人ってこと?」とかの方が会話の流れとしては綺麗だ。けど、相方の歴代彼女が減る方がオモロいよなあ、歴史とか思い出が詰まってるから。難しいところや。

 などと、コンマ数秒で思考した。漫才を観てこういうことを瞬時に考えるようになったら、人として終わりです。何故なら、視聴者の中でお前しか気にしていないから。ベロ嚙んで死になさい。

 二組目はスーパーマラドーナ。俺は上沼のえみちゃんのフアンなので、ニューヨークの活躍に歯軋りするパンツマンのファンと同じ気持ちで観るつもりだったが、武智の覇気がなさ過ぎて心配になった。ネタに合わせてあえてそういうトーンだったら、すんません。

 三組目はビスケットブラザーズ。シュッとしてはらへんので人気爆発とまではいっていないが、やっぱり面白いコント師です。

 四組目は2丁拳銃。むちゃオモロかったです。

 五組目は横澤夏子阿藤快が言うところの「好きな人には堪りませんねえ」というやつでしたが、「〜に多いです」という一言で一度笑った。

 六組目はあべこうじ。妻・高橋愛がめちゃくちゃタイプなんで嫉妬しまくりながら観ましたが、舞台慣れしまくった職人っつー感じがして面白かったです。

 七組目はまるむし商店。何をしていたのか全く覚えていない。

 八組目は「中田カウス 漫才のDENDO ゲスト:すゑひろがりず」。すゑひろがりずがネタを披露したあと、中田カウスと軽くトークをするという流れ。すゑひろがりずの漫才とトークは面白く、中田カウスは俺の大好きな中田カウス節を炸裂させていました。『ゴッドファーザー』を日本でリメイクするなら、バルジーニ役は中田カウスで決まりです。もちろん、劇中では真顔で。

 換気のための休憩を挟んで、九組目はコロコロチキチキペッパーズ。平場のナダルの奇人ぶりが好き過ぎるので、漫才を見ても西野のボケがパンチ弱く感じてしまいました。

 十組目は月亭方正。ガキ使にまつわる鉄板トークでした。いずれは方正の落語を見に行こうと思う。

 十一組目はジャングルポケット。コントなのに、明転して客席に軽くお辞儀してしまったおたけが可愛かったです。ネタはコントコントした濃い味付けでしたが、バズレシピと違って自覚と品のある濃さでした。名前を覚えてないけどバズレシピのあの料理研究家、料理に罪はないとか言ってロシアのウクライナ侵攻後にロシア料理を紹介するあの感じ、きちんと全部に言い訳を用意しているあの感じ、海砂利水魚の比じゃないくらい邪悪なお兄さんですよ。

 十二組目はライセンス。藤原が過去一、藤井隆に似ていました。

 十三組目は木村祐一の写術。クスッと笑えるタイプのネタ。餃子をめちゃくちゃ推している中華屋のメニューの写真を見せたあと、「一番人気チャーハン!」という写真を出した際、キム兄の芸風的に「どっちやねん!」とか強めにツッコミそうなもんだが、「まあ、中華屋ですからねえ。みんなでシェアして、ってことですかねえ」などと穏やかな口調で言っていたのが少し意外で、面白いなあと思いました。好きなネタでした。案外、キム兄のことが好きな俺です。ダウンタウン組はみんな好きです、ほんこんでさえ。あの、ほんこんでさえ。

 十四組目はCOWCOW。楽しそうで何よりでした。

 十五組目はテンダラー。浜本の不倫騒動のネタへの組み込み方がクール。ベテランの余裕と風格という感じ。ただ、他の組の持ち時間が3〜4分のところ、何故か8分くらい使っていたのが不思議でした。

 十六組目は海原やすよともこ。ぶっちゃけステレオタイプ感さえある大阪・東京の違い話も、切り口に斬新さはないがきっちり面白い。巧い監督が撮ったお約束だらけのアクション映画みたいだ。

 幕間は四組の芸人による1分ショートネタ。MCはおいでやす小田。囲碁将棋がこの枠かあ、漫才オモロいのに……という思いと、小田が幕間を「まくま」と言っていたのが気になった。ガリットチュウの暴力的な笑いが好きだった。

 そして、真打・ダウンタウンが登場する。出囃子はEPOシュガーベイブの名曲をカバーした「DOWN TOWN」で、舞台の中央にはサンパチマイクが現れる。お、と思わず小さく声が出た。内容は、チンピラの立ち話でした。良い一日でしたよ。終わり。

ケース・バイ・ケースであります。

 ピカレスク漫画の傑作『クロコーチ』にて、1974年に警察学校を優秀な成績で卒業した十名が、公安部配属のための筆記試験を受けるシーンがある。「あなたは連合赤軍の潜入捜査官として組織内で順調に出世しています。あなたを幹部に登用しようと考えた上層部が、あなたに最後の試練を与えます。幹部になりたければ警察官を一人殺害せよ。さて、あなたならどうしますか?簡潔に記しなさい。」という問いに対して、登場人物の一人が答える。「ケース・バイ・ケースであります。」と。「実に簡潔、そして実に冷酷」と公安のお偉いさんに気に入られて見事採用されるのだが、このエピソードがやたらと好きだ。

 ケース・バイ・ケース。実にいい言葉だ。世の中のありとあらゆることは、ほぼ全てケース・バイ・ケースである。それを「同じ警察官を職務のために殺せるか」という問いに対してまで適用してしまう冷徹さが凄えよなあ、というエピソードだが、今の世の中、そもそもケース・バイ・ケースで物事を片付けない人が多い。白黒はっきりつけたい性格、と言えば聞こえはいいが、ケース・バイ・ケースで終わる話にいつまでも拘る人は、アホや狂人と紙一重だ。もちろん、ケース・バイ・ケースで終わらせてはならない話もあり、ケース・バイ・ケースで終わらせていい話かケース・バイ・ケースで終わらせてはいけない話かは、それこそケース・バイ・ケースだ。お気付きの通り、ケース・バイ・ケースと言いたいだけだ。

 なぜこの話をしようかと思ったかというと、数日前、恋人から「デートでサイゼリヤはありかなしか」という問いをされたからだ。「なんで急に?」と吉良吉影に爆殺されるであろう質問返しをすると、「Twitterで話題になってたから」と言われた。その論争何回目やねん、と笑ってしまった。彼女の誕生日祝いのディナーにサイゼリヤはなしだと俺は思うが、彼女自身が「お金はないけど夢を追ってる彼氏くんが好き。サイゼリヤで全然いいよ。てか、サイゼリヤがいい。何時間でも夢の話を聞かせて」っつーならそれはそれで、皮肉や厭味ではなく、幸せそうだから結構な話だ。サイゼリヤ論争とか4℃論争とか、幾度となく繰り返される不毛な論争の火種が燻った時点で、全員で声を揃えて「ケース・バイ・ケースであります」と言って鎮火させましょう。

 ついでに言うと、ネット上で繰り広げられるこの種の論争に、あたかも初めて接したかの如く振る舞っている人に対しては、欺瞞を感じる。サイゼリヤデートはあり派、なし派の意見があらかた出尽くしている以上、それを踏まえた上で「逆にあり」「とはいえ、やっぱなし」といった意見を出せばいいものを、「サイゼリヤデートを嫌がるような女は嫌だ」という一歩目の主張を今更されても……と感じる。ゾンビ映画の登場人物が誰もゾンビという架空概念を知らない、みたいな違和感だ。「うわ、フィクションで観るゾンビそっくりやんけ、こいつら!」というリアクションを登場人物がしない作品は、あまりにも嘘臭い。「サイゼリヤのデートはなしっていう女の人もいるみたいだけど、私は全然ありだよ!と笑顔で言ってくれる女の子がいいなあ、でへへ」とか「そんな男は嫌だ。デートくらい、いいとこ連れて行けよ。てめえに会うために費やした化粧代考えろ、タコ」とか、まずはサイゼリヤ論争によって過去数多の血が流れてきたことを踏まえた上で、ありかなしか論ずるべきではあるまいか。

 といったことをコンマ数秒で考えたあと、恋人に対して「まあ、ケース・バイ・ケースやろ。てか、ちょこちょこTwitterでその論争生まれてるけど、何回目やねんな」と笑って答えると、「え、そうなん。知らんかったー」とあっけらかんと言われた。皆さん、サイゼリヤ論争の最適解が誕生しました。「サイゼリヤ論争の存在を知らない、あるいは2022年以降ようやく知った、というレベルのネットに毒されていない恋人を作り、サイゼリヤだろうが鳥貴族だろうが高級フレンチだろうが、きちんと話し合って、あるいは相手が喜ぶかどうかをケース・バイ・ケースで考えて、店を選ぶ」です。戦争終結。終わり。

左右の目

 三木聡の『大怪獣のあとしまつ』がネットでめちゃくちゃ評判が悪い、と人から教えられた。監督をしている人が好きだから観に行く予定だ、という俺の言葉を覚えていたらしい。時事ネタの情報を仕入れるために毎週月曜日の一時間だけTwitterを見る、という生活に切り替えているため知らなかったが、Twitter上で酷評されているそうだ。

 ということで、月曜日のTwitterタイムを利用して酷評の嵐に身を投じてみたが、まさに俺の嫌いなTwitterの部分が詰まっていてゲンナリした。京極夏彦綾辻行人小林靖子らが公式サイトに寄稿した、婉曲法を用いてつまらなかったと表明するコメントを面白がるのは大いに結構だ。「『大怪獣のあとしまつ』観に行ったけどクソつまんねーゴミ映画だった、金と時間返せよ」と呟くのも大いに結構だ。

 だが、綾辻行人京極夏彦小林靖子のコメントを読んだり、『大怪獣のあとしまつ』はクソ映画だという批判ツイートを読んだり、Twitter上で同作は駄作だ、貶して構わないという空気が醸成されたりしたからといって、実際に自分は鑑賞していないにもかかわらず、何の躊躇いもなく駄作・クソ映画のハンコを押し、それを嬉々としてツイートした人々については、一人で喧嘩ができない奴として、心底軽蔑する。

 みんなが批判したり揶揄したりしているものは、実際に作品やソースを確認せずとも貶して構わない、というのは人間としてあまりにも美しくない姿勢だと俺は思うが、テレビやラジオの悪意ある切り抜きやネットニュースを鵜呑みにして誰かを非難したり、観てもいない映画を何の躊躇いもなく揶揄したりするTwitterユーザーは、決して少なくはない。Twitterは世間の縮図ではないが、「一部の変な奴しかやってないから気にするに値しない」と斬り捨てられるほど偏った空間でもないのが、悲しいところだ。

 とある小説に出てくる「他人が作った傑作を観るよりも、自分達で駄作を撮る方が楽しいに決まっている。」という一文をあらゆる意味で座右の銘としているので、自分の目で観てもいないのに『大怪獣のあとしまつ』を批判・揶揄した人々よりもよっぽど、三木聡の方が尊敬に値すると俺は思う。そういえば、座右の銘はなんですかと問われた具志堅用高は、左右の目の視力を答えたらしい。最高だ。

 俺は福田雄一も彼の作品も嫌いだが、ガキの頃に観た勇者ヨシヒコはオモロかったなと思っている。今改めて観るともしかしたらつまらないと感じるのかもしれないが、それでもかつてヨシヒコシリーズで楽しんでいた過去を偽るつもりはない。また、彼が手掛けた未見の作品については、クソだのなんだの批判することはしない。俺はもう能動的に彼の作品を観ることはしないと決めているので、『新解釈・三國志』もルドヴィコ療法で強制的に観させられない限り観ない。あらゆる映画好きがあの作品を批判していると知っているが、それに乗っかって批判することはしない。繰り返すが、観ていないし観るつもりもないからだ。語りえぬものについては沈黙しなければならない、とヴィトゲンシュタインも述べている。多分、そういう意味ではないが。

 『ごっつええ感じ』に含まれていた怪獣遺伝子は後年『大日本人』という異形の傑作に変異したが、果たして『大怪獣のあとしまつ』はどうか(『大日本人』も、叩いて構わないというノリによって酷評されている面があると俺は思っています。松本人志監督の五作目を待ち望んでいますが、まあ撮る気はもうないんでしょうなあ)。

 実は、『大怪獣のあとしまつ』についてTwitterで検索するよりも前に、既に鑑賞を済ませておいた。三木聡の過去の監督映画のうち半分以上を面白くないと思っているが、三木聡が携わっていた時代のシティボーイズのライブが黄金期だと考えている者として、劇場に足を運ぶのが責務だ。面白かったか否かについては各々の目で確かめて欲しいので詳細は述べないが、かつて「小ネタをやりたいだけで、無理矢理テーマをくっつけている」という主旨の発言をしていた三木聡らしい映画だった。同じく現在公開中のデンマーク映画『ライダーズ・オブ・ジャスティス』がストーリーとブラックな笑いが結び付き、ギャグも物語を駆動させるエンジンとなっていたのと対照的だ。

 という訳で皆さん、強烈で歪なブラック・コメディ映画『ライダーズ・オブ・ジャスティス』オススメです!(RHYMESTER宇多丸風に)。以上。終わり。

World War

確定申告をせよとの葉書が届いた。葉書だけで人をこんなにも憂鬱にさせられるのだから、大したものだ。日本中の個人事業主の寿命を一日ずつ捧げるから、何かしらの悪魔と契約して確定申告を考案した奴を甦らせたい。そして、その上でぶち殺したい。『チェンソーマン』を再読しながら、そんなことを思った。一番好きなキャラは岸辺。ボムが襲来したときの「はあ…今日合コンだったのになあ」「俺も連れてってくださいよ」あそこで泣いた。二部、楽しみ。『ドロヘドロ』も、もっともっと評価されて欲しい。あと、前澤友作庵野秀明真利子哲也樋口真嗣あたりに500億円くらい渡して『ザ・ワールド・イズ・マイン』をNetflixで連ドラ化して欲しい。そしたら大好きになる。まあ、ホンマに月に行った時点で好きになりましたけどね。トリリオンゲームと同じくらいオモロいので。GYAO!で太田上田を観てたら裏口裁判の話題になって、太田「まだ判決は……ハンケツっつたって、この半ケツじゃ……(ケツを突き出す)」上田「分かっとるわ!俺、そこに向かって『Hey、Siri!』って言わんわ」太田「上手いなあ!今日一発目」上田「数えるな!」というやり取りがあって、「上手いか?何の繋がりもない無理やりなブッコミでは?」と一瞬思ってから、「判決、と聞いて半ケツだと思っちゃうような奴は、Siriと尻を混同するくらい馬鹿だろ。俺はそんな奴じゃねえわ」という意味か、コンマ数秒でこの返しできるのやっぱすげえ……と思ってから、俺は何をダラダラ考えているのだろうと苦笑しました。早いもので、もう2月です。息が白い。指先が痛い。寒過ぎちゃん。終わり。

Ba De Ya

 つい一週間ほど前に、よっぽど書きたいと思ったとき以外はしばらくブログを更新しないと決めたばかりだが、早速よっぽどが来てしまったので更新する。

 大学生の頃、京都の河原町駅周辺で「友達募集中!」という看板を持った若い男を見かけたことがある。Twitterのアカウントと「ガチで募集してます! 友達いないんです!」という内容の文言が記されていた。「公衆の面前で指差されるの覚悟でこんな真似できる奴が、友達おらんもんかね? いやでも、1:100では楽しいキャラクターを演じられても、1:1やとオドオドするっちゅうのはあり得る話か。俺も大学のスピーチコンテストで場を沸かせたけど、結局大学で一生の友達はできんかったし。ガハハ」などと思っていると、当時の恋人にして現婚約者から「大人気カップルYouTuberが破局した」という、それはそれはたいへん興味をそそられる話をされたので、そのまま素通りしてしまった。デートが終わって帰宅したら調べてみようと、Twitterアカウントを暗記した。ただ当時の俺はTwitterをやっておらず、アカウント名さえ覚えていれば調べられると思って、ユーザー名(@〜)の部分を覚えなかった。結果、俺の拙いサーチ能力では「たかし〜友達募集中〜」みたいなアカウント名の彼を発見することは叶わなかった。

 たったこれだけの話だが、今でも年に一度ほど思い出しては、あのときちゃんと覚えて連絡していれば、一生のマブダチになったかもしれないな、俺も友達ホンマ少ないし、などと考えては、あり得たかもしれない現在と未来に想いを馳せる。どうも、ロマンチストです。

 なんの話かというと、俺は以上の経験から「思い立ったが吉日」や「一期一会」、「伝えたいと思ったことは照れずに、あるいはビビらずに、可及的速やかに伝える」っつー価値観を結構大切にしている、ということです。街を歩いていて小腹が空いたとき、餃子の王将と個人経営の中華屋があったら、迷わず後者を選ぶ。まあ、大概の場合王将の方が旨いが、時折やたらと旨いザーサイに出会ったり、店を営んでいるご夫婦と軽く話が盛り上がったりするからやめられない。

 で、昨日の話だ。愛しの塚口サンサン劇場に『未来世紀ブラジル』を観に行ったところ、どういう訳か上映開始時間をすっかり勘違いしていた俺は、映画が終わる頃に塚口駅に到着した。ミスに気付いて嘆息し、慰めに駅前の旨いラーメン屋で生ビールとつけ麵と餃子を喰った。塚口サンサン劇場の上映スケジュールを観たがあまり食指が動く作品はなく、18:10から難波で『ラストナイト・イン・ソーホー』を観るつもりだったので、もう今から難波まで行ってわなかのたこ焼きでも喰うか、今からなら玉製家のおはぎも買えるかな、あーでも確かあそこ祝日休みか、難波なら本物のハンバーガー(©︎銀杏峯田)も食えるし、ジビエ専門店もあるなあ、どこに行こうかしら……などと考えていた。が、そう言えば塚口にはしょっちゅう映画を観に来ているし、そのついでに先述の旨いラーメン屋や、旨いカレー屋、うどん屋、パスタ屋、ピザ屋、10分ほど歩いたところにある中華料理屋には時々行くが、それ以外は全く塚口という土地を知らないと気付いた。新規開拓せねば。フレッシュな出会いこそ、人生の醍醐味だ。ぶらぶらと駅から離れて散歩をしよう。ええ感じのケーキ屋とか喫茶店があったら入ったろ。そう思って、散策を開始した。

 俺は住宅街を散歩するのが好きだ。キモい趣味だと自覚しているが、好きなんだから仕方がない。「どうして自分は自分なんだろう。いま目の前にいる人全員がそれぞれの人生を何年、何十年も俺の知らないところで積み重ねてきたって、めちゃくちゃ神秘的だし面白いし、怖いなあ。この世界は現実か? 仮想空間じゃないのか? 高次元の存在のシュミレーションじゃないのか?」という、夜更かしして『マトリックス』を観た直後の中坊が考えそうなことを、俺は未だにしょっちゅう考える。そんなとき住宅街を歩くと、「いやー、この生活感はやっぱリアルっしょ」と感じられるのだ。

 HIPHOPを聴きながら住宅街を歩いたり大通りに出たりという、一部始終を警察官が目撃していたら職質されても文句の言えない行動を繰り返しているうち、とある民家の前に小さな白い看板が立てられているのが見えた。婚約者がアートギャラリー通いや作品購入を趣味としており、ちょくちょく同行するため、ひと目見てアートギャラリーだと思った。ギャラリー会場は、商店街や住宅街の中にひっそりと佇んでいることが多い。

 近付いて看板を見ると、「まっさらな家 1.8〜1.10 九月単独公演 72時間軟禁ライブ」という、何度読んでも飲み込めない文言が記されていた。1月なのに何故、九月単独公演なのか。72時間軟禁ライブとは何なのか。ここで、「よう分からんけど、会場って書いてるし飛び込みで入ったれ」というのが俺が目指すべき一期一会スピリッツの実践だが、流石に怖い。どう見たって民家やもん、黒沢清的展開に巻き込まれたないで、との思いが募り、ひとまずその場を離れて、「まっさらな家 塚口」でググった。すると、いやはや全く便利な世の中でございますなあ、割と上の方に「1.8〜10 72時間軟禁ライブ「まっさらな家」(兵庫県尼崎市というタイトルのnoteの記事が出てきたではありませんか。

開催概要
- 「まだ誰も住んでいないシェアハウス」で72時間コントをやり続けるライブ
- 随所を移動しながら500〜600本ほどのコントをする
- 飲食物は差し入れのみ
- 入浴時のみライブを中断する
- お客様は入退場自由

日時:2022.1.8 0:00 - 1.10 24:00
場所:兵庫県尼崎市 各線塚口駅徒歩10分
「まだ誰も住んでいないシェアハウス」
料金:入場 1000円
   応援入場 2000円
   お年玉入場 5000円
出演:九月

参加方法:QRコードより開ける参加フォームより項目を入力して頂くと、会場の住所が配布されます。

 なるほど、九月というのは芸名か。知ってしまえばなーんやというミステリやマジックのトリックのようだ……と思い掛けて、72時間軟禁ライブというのが何の比喩でもなく、72時間建物にこもってライブをすることを意味するという事実に笑った。

 変なことしとんなあ、オモロそうやな、入ってみよ……と思うと同時に、テレビっ子で権威主義者な俺は、若干の嫌な予感も覚えていた。「参加方法:QRコードより開ける参加フォームより項目を入力して頂くと、会場の住所が配布されます。」という文言や

⑤差し入れについて
軟禁ライブ中、九月は差し入れで頂いたもののみを飲食します。これまで最もよく頂いたのは水、お茶、ジュース、コーヒー、栄養ドリンク、のど飴、おにぎり、パン、サンドウィッチ、弁当、ゼリー飲料などです。DMで質問して頂いたらお答えします。

というnoteの記事を読む限り、完全に通りすがりの「当日券」を想定としていない、既存のファンを対象にしたライブである。テレビ番組にもお笑い芸人のライブにもラジオにも、その番組内や芸人界隈、延いては芸能界の文脈に沿った内輪ノリが数多く存在する。それ自体は何の問題もない。ただ、ジャルジャルが元日にYouTubeに投稿した『また今年も元旦に出会った涙腺コルクとチャラ男番長って奴』をジャルジャルYouTubeをこれまで観てこなかった人が楽しめるはずもないのと同様、五分前に存在を知ったお笑い芸人がもしも内輪ノリ全開のネタやトークを披露した場合、到底楽しめるはずはない。「僕のライブの常連客のよねやんがこの前、酒の席でさ〜」とか言われても「芸人仲間のかささぎモンキーズのテツのモノマネしまーす」とか言われても知らないし、しかし「誰やねん、知るか!」というツッコミも意味をなさない。ダウンタウンの浜ちゃんがしばしばテレビ番組で披露する「誰やねん!知らんわ!」芸は、圧倒的な名声と実力を誇るダウンタウンが、テレビというマスメディアの枠組みの中に現れた無名の人物に対して放つから、浜ちゃんのキャラクターと相まって芸として成立しているのだ。会員制の文学バーに乗り込んだ浜ちゃんが「トマス・ピンチョンって誰やねん!」と声を荒らげたところで、総スカンを喰らっておしまいだ。民家で開催されるトリッキーなライブを観に行って、内輪ノリだらけだったとしても、「いや、ファンのためのライブなんで。沢田研二も、往年のヒット曲とかあんまりコンサートで歌わないらしいですよ。それと似たようなもんです」と言われれば何も言えないし、それに入場料1,000円を払うのは御免だ。

 かと言って、今から九月というお笑い芸人について調べまくり、評判を漁ったりYouTubeでネタをチェックしたりするのも違う(noteの自己紹介欄に「YouTubeに毎日コントを投稿しています」と書いていた。ジャルジャルが好きなので特に何も思わなかったが、今思えばこれもなかなかストロング・スタイルだ)。俺は、「たまたま出会った謎のライブで、知らない芸人のコントをよく分からないまま観る」という体験がしたいのだ。内輪ノリだったら、すぐに出ればいい。お笑いライブに擬したカルト教団の儀式だったりマルチ商法講座だったりしたら、全力で逃げればいい。俺は全然博識ではないが、唯一自分の性格についてだけは、チコちゃんよりも詳しく知っている。ここで踵を返して駅に戻れば、後々絶対に後悔する。

 QRコードを読み込むと、Googleの送信フォームが表示された。簡単な質問に二つ答え、送信すると、住所が表示された。入場のための合言葉でも表示されるのかと思ったが、住所だけなら別に送らんでよかったな、まあええか。ということで、再び民家に近付き、玄関へと足を踏み入れる。扉は開いており、女性に挨拶をされた。消毒を促され、「そういえば性別を知らん。この人が九月って人か?」と思っていると、「そちらの部屋に入っていただいて」と案内された。

 扉を開けると、薄暗い和室の中に上下黒の人物が立っていた。畳の上には、布団が敷かれていた。「あー、これは今から信者の娘(可愛い、かつ教団のことを内心毛嫌いしている)が教祖様相手に聖なる儀式と称したグロテスクな行いを強要されるパターンやな」という、手垢の付いた妄想が一瞬頭を過ぎったが、どこにでも座ってくださいというジェスチャーと共に「あ、どうぞ、お構いなく」と上下黒の男性が言い、その穏やかな声色に「あ、大丈夫そやな」と安堵して、軽く会釈をしながら扉のすぐそばの畳に胡座をかいて座った。声の主が、九月氏らしかった。客は俺以外に三人いた。

 九月氏は、二言三言何か言ってから、コントを始めた。それから、延々とコントを披露し続けた。ちょいちょい合間に喋ったりトイレに行ったりはしていたが、これを72時間やっているとすると相当な気力だ。しかも、この手のライブをよくやっているらしい。

 そして肝腎のネタだが、面白かった。俺は日常会話やバラエティ番組ではフツーに声を出して笑うが、シラフの状態で漫才やコント、喜劇映画や落語、小説や漫画といった創作物に触れても、声を出して笑うということがあまりない。頭の中では「オモロいなあ」と思っていても、声を出したり手を叩いたりして笑うことはさほど多くない。作品/虚構というものをある種、特別視しているからかもしれないが、明確な理由は自分でも分からない。

 だから当然、九月氏のコントでも声を出して笑うことはなかったが、ただ、ずっとニヤニヤさせられた。ニヤニヤさせる笑いより爆笑を生む笑いの方が上とは限らない、とケラリーノ・サンドロヴィッチいとうせいこうとの対談で語っていたが、完全に同意だ。設定の面白さやオチの上手さが魅力に感じるコントもあったが、九月氏のどのコントにも通底していたのは、なんか気ィ付いたらニヤニヤしてもうてるわ、という不思議な魅力だった。

 正味な話、そこまでピンとこなかったネタもあるが、延々と見てられる豊かさがあった。あかん、ぼちぼち切り上げな、難波行って映画も観たいのに……と思っていると、喫煙所のコントが始まった。恐らく喫煙者なのだろう、マイムが上手く、無性に煙草が吸いたくなったので、ちょうどええきっかけやと思い、退室を申し出た。貴重でユニークな体験だったし、テリー・ギリアムにベットする予定だった金が余っているので、応援入場代2,000円を支払って家を出た。結局、塚口駅周辺のお店の新規開拓は果たせなかったが、この世界が仮想空間ではないという実感を得られることはできた。高次元の存在だの人類を支配するAIだのに、あのニヤニヤした笑いの機微は分かるまい。

 駅前に着くと、灰皿があったので、煙草を取り出して吸い付けた。イヤホンをして、音楽を聴く。曲は、Earth, Wind&Fire『September』だ。煙が肺に沈むのを感じながら、悪くない休日だと思った。Ba De Ya。終わり。