沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

桂文珍 独演会と北野武『首』(ネタバレあり)

 俺は落語に疎い。ちょこちょこ色んな人のを浅く広く観たり聞いたりするが、寝る前などによく聴いている「好きな落語家」と言えるのは、桂枝雀桂米朝笑福亭松鶴桂三木助(3代目)、古今亭志ん朝くらいだ。志ん生はあんまよう分からなんだ。立川談志は昭和50年代くらいまでのはむちゃオモロいが、それ以降から晩年にかけては、これまたよう分からんなあと思うことが多かった。「イリュージョン」という言葉が落語ファンのみならずお笑いファンの間でもフリー素材化して久しいが、某Tubeで違法視聴した際にコメント欄で談志ファンからフルボッコにされていた「どうしてこんな風に崩してしかできないのかねえ。普通にやればいいのに」というコメントに共感してしまった身としては、ランジャタイはイリュージョンだねえ、などと褒めそやすことはできない。

 ランジャタイと言えば、『ランジャタイのがんばれ地上波!』の「社会見学をしよう!」回は良かった。天竺鼠・川原とランジャタイの二人が社会見学先のゴミ処理場に入りもせず、玄関前でオンエア尺で10分ほどふざけ倒し、モグライダー芝がひたすらツッコミ続けたあと、やっと入ったと思ったら、一切ボケずにオンエア尺で5分ほど真面目に見学を行なってしっとり番組が終わるという構成だった。このラスト5分をきちんとやってくれたのが嬉しかった。具体例が何一つ思い浮かばないので偏見かもしれないが、昨今のお笑いは割とこの番組の前半10分だけで完結しているような気がしてならない。好きな芸人のわちゃわちゃを観て楽しく笑って終わり、というのは俺の求めているお笑いからは外れるので、ベタでもきちんと「一切ボケずに真面目に工場見学して終わる」というボケをしてツイストを効かせてくれたのは、嬉しかった。

 さて、落語の話に戻ります。俺が生まれて初めて落語家を生で見たのは、小学生の頃に家族で行ったなんばグランド花月だった。落語なんて年寄りの道楽やろ、と舐め腐っていたが、これが意外と笑えて面白かった。出番尺の問題からか、本ネタではなくマクラだけの披露だったが、顔も名前も知らなかった老齢の落語家が、その日一番印象に残った。桂文珍である。

 内容は流石に殆ど覚えていないが、考えオチの小噺を披露して笑いが徐々に広まりつつも、まだ3〜4割が理解していないくらいの段階で、「分からへん人はもう結構。置いていきます。分かったふりして、笑ろててください」とボソッと言ったのが、強烈に印象に残っている。あの言葉で、オチを理解できなかった人も「参ったなあ」てな感じで笑って会場が爆笑に包まれたし、結局その考えオチを解説せずに次の話に移行したのも、小坊の俺には新鮮で、妙に格好良く洒落ているように映った。粋、という感情を抱いたのは、人生であれが最初だったと思う。

 そんな桂文珍の独演会がこの度、兵庫県西宮市で開催されるということで、行って参りました。題して、「桂文珍 兵庫大独演会 ~ネタのオートクチュール~」。オートクチュールとは、オーダーメイドの高級仕立服のことだ。61の持ちネタの中から観客が聴きたい演目を3つ選び、その結果に応じて落語を披露する、リクエスト寄席だ。事前にwebで投票できたので、『地獄八景亡者戯』『らくだ』『高津の富』にしようとしたが、大作を二つ入れるのもなんやし文珍の新作はオモロいから新作も入れとこかということで、『らくだ』を外して、文珍の新作の中でも人気の高い『憧れの養老院』をイン。こうした寄席の形式がポピュラーなのかどうかは知らないが、楽しくていいですな。

 さて、当日。平気で12時間とか寝られるタイプですがどうにか早起きをして、独演会の前に東宝西宮にて北野武監督最新作『首』を鑑賞しました。戦国時代版『アウトレイジ』かと思いきや、まさかの戦国時代版『みんな〜やってるか!』でした。この喩えが分からん人はもう結構。置いていきます。たけし映画らしく、冷たく乾いた死の匂いと虚無感が終始画面に漂っており、群像劇としてむちゃオモロかったです。なんと言っても岸辺一徳が絶品で、そりゃいずれ秀吉に切腹を命じられるわな、っちゅう胡散臭さ満載で素晴らしかった。あと、キム兄演じる曽呂利新左衛門の扱いがかなり良かったのが嬉しい驚きでした(奇しくも、落語家の始祖とも言われているとか)。役者陣に比べてたけしとキム兄は、ヘタやなあと感じる場面が多々ある反面、唸るような巧い芝居も時折見せてくれました。個人的に全編通してそこまで「笑い」の意味で面白いと思うシーンはなかったですが、まあ大竹まことが真面目な顔をして茶室で正座しているシーンで一番笑いそうになった人間なので、俺の笑いのセンスは当てにしないでください。

 さて、劇場を後にし、ラーメンを食べ、喫茶店で珈琲と煙草とワッフルを堪能してから、いよいよ兵庫県立芸術文化センターへ赴いた。チケットを買うのが遅かったため、二階席だ。観客は30〜40代がちょろっと、大半は50代以上だ。14時に幕が上がり、すぐに桂文珍が登場した。小指ほどの大きさだが、表情はハッキリと判別できて一安心。明るく広い高座の真ん中で、屏風を背に羽織姿で腰を丸める姿が妙に格好良い。年配層を狙い撃ちしたトークで一通り客席を温めてから弟子の桂楽珍を呼び込み、披露する3演目を決め始める。事前投票の結果を紙で渡され、「票が集まったのは、『老婆の休日』『憧れの養老院』『地獄八景』……(客席をちらと見回して)見たまんまやな」という一言で客席は大爆笑。その場で観客からリクエストを訊いたりしつつ、結局『落語記念日』『星野屋』『はてなの茶碗』に決定した。リクエスト関係なくハナからその三つに決めてたんと違うの、などと思ったが、仮にそうだとしても桂文珍の飄々としたキャラのお陰で全然構わないと思わされる。ちなみにこの演目決めの最中、話の流れで桂文珍がとある著名人の顔を「QRコードみたいな顔やね」と言ったのがめちゃくちゃ面白かった。もし松っちゃんがテレビで言っていたら、テレビ画面のキャプチャを載せてバズりがちな人達がこぞってスクショしたと思う。

 さて、演目も決まり、まずは四番弟子の桂文五郎が『牛ほめ』を披露。声が艶っぽく、演じ分けも上手くてオモロかった。続いて桂文珍が新作『落語記念日』を披露。ラジオ番組で掛けたくらいで全然寄席には掛けていないらしく、まだプロトタイプだとか。落語が絶滅した近未来を舞台に、落語を知らない男に民族資料館(だったかな?)を定年退職した男が落語のあれこれを解説してあげる噺だ。随所に笑いどころがある軽やかな噺だが、桂枝雀立川談志への愛ある言及や、「無駄こそ人生の豊かさ」といった刺さるフレーズも飛び出す。文明の発展で映像作品の娯楽が増え過ぎ、扇子と手拭いであれこれ見立てることで観客の想像力に訴求する落語は絶滅してしまった、という設定は、ともすれば言い訳や愚痴に映りかねないが、扇子を釣竿に見立てたりうどんや蕎麦を啜る芝居がめちゃくちゃ上手いお陰で、むしろ「落語は絶滅しない」と声高に宣言しているようだった。芝居一つでグッと作品全体の格を底上げする様は、三池崇史版『十三人の刺客』で一人だけズバ抜けて見事な殺陣を披露する松方弘樹を彷彿とさせた。

 でっしゃろ、まっしゃろ、という絶滅危惧語尾を自然に使いこなす心地好い大阪弁にうっとりしつつ、『落語記念日』は終了。続いて、19歳から41年間弟子を務める桂楽珍がネタを披露。見た目は剽軽なカルロス・ゴーン。てか、それはもはやMr.ビーンか。旨そうに酒を呑むので、無性に酒を欲してしまった。

 続いて、桂文珍『星野屋』。上方落語らしくネタ中にハメモノ(BGM)も流れ、誇張たっぷりにキャラを演じ分ける。じわじわ呪い殺したる、心中も五、六回やったら慣れる、などの物騒な台詞で、場内は爆笑。出てくる奴らみんな、酷くて愛おしい。オチで、お花の母親が全てではなく三両だけくすねていた、という点がなんとも人間らしくて好きなのだが、ウケ過ぎてオチの台詞はほぼ聞き取れず、そこだけが残念だった。

 ここで、15分の休憩。早起きのせいもあってか、若干の眠気に襲われてきた。ジャン=リュック・ゴダールの映画を劇場で観ると割とよく眠たくなるのだが、あの感覚に似ている。つまらないからではなく、妙に心地好いのだ。開幕して早々に桂文珍が「眠たなったら寝てもろて。イビキだけはご勘弁を」てなことを、過去に実際に寝てイビキをかいた客にまつわるオモシロエピソードを交えつつ言っていたが、流石に勿体無いので我慢する。

 幕間も終わり、桂米朝から教わったという『はてなの茶碗』を披露。『高津の富』や『火焔太鼓』など、庶民が大金を手にする景気の良い話はやっぱり好きだ。2023年の正月特番で浜ちゃんが珍しくツッコミ論を軽く語っており、その内容がざっくり言えば「間」が大事ということだった。明石家さんまも何かで、突き詰めれば結局「間」だと述べていたはずだ。笑いを構造的に分析することは可能だろうが、その中でもこの「間」というのは論じるのが難しそうだ。が、『はてなの茶碗』を聴くと、やっぱり「間」のオモロさを実感させられた。来ると分かっていても、笑ってしまう。

 拍手喝采の中、桂文珍の独演会は幕を閉じた。北野武の監督作を初期から高く評価している映画評論家の蓮實重彦は、著作の中で「私はアニメは原則として映画の範疇に加えていません。あれは映画によく似た何ものかではあると思いますが、よく似ているという点で映画とは本質的に異なる何ものかなのです。今、生きた被写体を撮っていることの緊張感というものが、アニメの画面に欠けているからです」と述べており、ジジイうるせー、ジジイのくせに背ェデカくて怖いし、と笑ったのだが、蓮實重彦の気持ちも分からないではない。尤も俺の場合、生で聴く落語の「今、ここで演じられていることの緊張感」は、映画の「今、生きた被写体を撮っていることの緊張感」を凌駕している、と感じた訳ですが。

 桂文珍は「落語はお客さんと作り上げていく」といったことを述べていたが、確かに「徹頭徹尾、完成された作品を披露」というよりも、「あくまでもその日その場にいる観客を笑わせよう、楽しませよう」という芸人精神が横溢していた。「落語は少ない情報量をいかに上質に伝えるか、という芸能」とは立川吉笑の言葉ですが、まさにそれを体感させてくれる、ミニマルが故に演者の技量と観客の想像力が掛け合わさって、無限の広がりを見せてくれる独演会でした。『落語記念日』が現実に訪れることは、永遠にないでしょう。終わり。