沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

「親ガチャ」を討て

 どうも、日本語警察 不正造語取締課の者です。今回は、昨今急速に蔓延し始めている「親ガチャ」を取り締まりたいと思います。製造拠点は不明ですが、Twitterや匿名掲示板を流通経路としてここ数年で急激に猛威を奮っており、芸能界や政財界にまでその被害は広がっている模様です。また、「上司ガチャ」などの亜種の流通も確認されていることから、早急な対処が求められるでしょう。

 さて、しょうもない前口上はこの辺にして平生のトーンに戻るが、「親ガチャ」という造語・比喩表現が俺は嫌いだ。「親に対してそんな表現は失礼だ!産んでくれただけで感謝をせんか、このバカチンが!」といった理由ではなく、単に比喩としてキマっていないからだ。

「子は親を選べないこと」と「ガチャを回す者は出てくる中身を選べないこと」は全然違う。子にはそもそも「産んで欲しい/産んで欲しくない」の選択権はない。つまり、「ガチャを回す権利」自体がそもそもない。産まれた時点で(もっと言えば体内に宿った時点で)親は決定している。過去の事象だし、ニュアンスとしては受動的だ。一方、ガチャを回す者には「回す/回さない」の権利があり、ニュアンスとしては能動的かつ未来の事象だ。どう考えても、子供はガチャガチャの中身の方だろう。だが、じゃあ「子ガチャ」という比喩がキマっているかというと、それも微妙だ。子は親の遺伝子や育て方、環境等で大きく変化・成長するが、ガチャの中身が回す者の努力で事後的に変化・成長することはないからだ。

 ともあれ、「既に決定されてしまったことに対する、選びたかったなあ、でも選べないんよなあという気持ち」と「これから決定されることに対する、選びたいなあ、でも選べないんよなあという気持ち」は全く違うのに、「選べなさ」だけを抽出してニアリイコールで結ぶのは、あまりにも乱暴だ。こんな不恰好な比喩がこれほど広まったのはやはりそのキャッチーさが理由だろうが、不正造語取締課としてはその流れには断固として立ち向かう所存である。我々は、「穿った見方の悲劇」を繰り返してはならない。そして、伊集院光が提唱する「泥目線」をもっと広める努力もしなければならない。

 あともう一点、この「親ガチャ」という表現が好きになれない理由は、この言葉を使う人々がガチャの面白さを理解していないからだ。ガチャは必ずしも、欲しい中身を手に入れることだけが目的ではない。どう考えてもあの中身で一回この値段は高いよなあと分かっているのについつい回してしまうのは、ガチャを回すのが楽しいからだ。古き良きガチャポンにせよ、スマホゲームの「ガチャ」にせよ、あれを回して「うわ〜、何が出るかなあ」とドキドキワクワク、ウキウキバクバクするのが醍醐味の一つなのだ。ガチャは、ゲートウェイドラッグならぬゲートウェイパチンコである。

 一番欲しい商品じゃなくても、「ああ〜、外れた! でもまあ、これならえっか」というのも楽しいし、「よりによって一番欲しくないやつ出るんかい!」というのも、それはそれで楽しい。ガチャで一番辛いのはハズレを引くことよりも、同じ商品が何回も出ることだ。この点からも、基本的に一度しか決まらない親を「ガチャ」と喩えることのズレっぷりが分かる。尤も、家族や恋人や友人とガチャを回していれば、「何回こいつ出んねん!」と言って笑い転げられるし、昨今ではダブった商品をメルカリで売る戦法も一般化しているから、同じ商品が何回出ても楽しめる場合もある。

 さて、現場からは以上だ。我々は今後「親ガチャ」を服用している者を発見した場合、直ちに身柄を確保、抵抗される場合は射殺も辞さない構えである。ゆめゆめ、お忘れなきように。終わり。