沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

リクルートスーツの無個性さとやらについて

 僥倖に恵まれたお陰で無事に内定をゲトったので、映画観てメキシコ料理食ってパチンコ打ってバーで酒飲んで煙草吸って電車の中で本を読みながら帰宅するという、健康で文化的な最大限の生活を送っている。

 俺は就活に際して、黒のリクルートスーツを購入しなかった。買おう、という気すらなかった。理由は単純で、紺のスーツを既に持っていたからだ。だから、これ着て就活したらええわとしか考えていなかったのだが、先日某スーツ屋の前で黒のスーツが「就活生応援」として売り出されているのを目にし、ふと「リクルートスーツってそもそも何なんやろ」と疑問に思ったため、調べてみた。

 リクルートスーツとは、1970年代からデパートが主導して広めたものだそうだ。就活向けのスーツの特売、と大々的にキャンペーンを売って大儲けという戦略だ(それ以前は何と、学生服で就活を行なっていたのだとか!オモロい)。

 さて、その後1980年代に入るとリクルートスーツが学生服を駆逐していく訳だが、この当時のリクルートスーツの色は紺が主流だったという。それが、2000年以降に入ると、黒が主流に取って変わったそうだ。理由はよう分からん。

 ともあれ、俺はあたかも「リクルートスーツ」という、そういうスーツの形態があるのだとばっかり思っていたが、実は単に、スーツ屋やデパート等が、黒(かつては紺)の安価なスーツを「就活にはこれ!リクルートスーツです!」と銘打って売っているだけの話なのだ。

 最近Twitterを始めたので、「リクルートスーツ」で検索を掛けてサーチしたところ、リクルートスーツの無個性さを揶揄/批判している人は少なくなかった。だが、あんなものは別に単なる「就職活動における制服」以上の意味はない(元々は学校の制服で就活をしていたのだから、それがメーカーの営業努力によってスーツに変わっただけだ)。まあ、既にスーツを所有している状態で新たに就活のためだけに安いスーツを買うのは俺もアホらしいと思うが、にしたってやたらとリクルートスーツを揶揄/批判する理由が分からない。大勢の人々が、画一的、無個性、管理教育がどうのこうのと言い、Why so serious,inc.のCEOを務めている「さいとーだいち氏」(寡聞にして存じ上げないが、多分凄い人だ)なんかに至っては、「就活、かっこ悪い!就活は茶番でコスプレだ!就活というシステムに繋がれた奴隷たちよ!そんなものは現実じゃないんだぜ!ESには言いたいことだけ書きましょう!リクルートスーツとか(笑)そんな就活してたらドワンゴに拾ってもらったので僕は就活かっこ悪いと思ったままです」と、奴隷という言葉まで使って笑っている。また、黒のスーツや紺のスーツそのものまでを無個性だなんだと言う人も少なからずいたが、黒や紺のクラシックなスーツそれ自体には別に何の罪もない。安い黒(かつては紺)のスーツをメーカーが「リクルートスーツ! 就活生はこれを着るべし!」と売り出しているだけで、黒や紺のスーツを着たお洒落な人や個性的な人は大勢いる。

 さて、リクルートスーツを揶揄するツイートを大量に目にし、俺は思った。この人ら、そんなに個性的なんかな?と。これほどリクルートスーツを揶揄するからには、さぞ個性的でハイセンスで仕立ての良いスーツをお召しになっているのだろう。当然、日本人男性のほぼ全員が守っていない「着席時にはジャケットのボタンを外す」というマナーもさり気なく守っていることだろう。有名人で座るときにボタンを外していたのは、俺の知る限り、蓮實重彦バカリズムだけだが。いや、スーツは着ませんねんという人なら、その代わり、さぞアヴァンギャルドな私服で日々を過ごしているのだろう。とある人が、やたらと高級時計に執着する売れっ子芸人や成金は、それほど高価ではない衣服や時計をお洒落に合わせて着こなすセンスがないからブランドに縋るしかないのだと述べていたのだが、リクルートスーツの無個性さを揶揄する貴方は、きっとそうしたセンスも持ち合わせており、さぞ目を見張るようなファッションを披露してくれるのだろう。是非とも見せていただきたいものだ。

 なんて嫌味をうだうだ言うのはこのくらいにして、ホンマに言いたいことを言うが、若者は無個性だ、画一的だ、管理教育がどうのこうの、なんて言ってるそこの個性豊かな貴方、貴方の言っているそれは、「最近の若い奴は……」という言説と何ら変わらない。そしてその言説は、時間も場所も超えて数多の大人達が口にしてきた、極めて無個性で画一的な発言だ。

 リクルートスーツの無個性さとやらを揶揄/非難する人の果たして何割が、学校の制服や校則にまでその矛先を向けただろうか。「世の中に蔓延る同調圧力や不可思議でくだらない習慣のうち、リクルートスーツはその違和感や気味悪さが特に露骨で分かりやすいから、そしてそれを揶揄/非難したところで反論する者がいないから的にしただけ、所詮は就活生の無個性さをあげつらうことで己の個性を誇示したいだけ」というのは、ねじくれ曲がった俺の邪推でしょうか。

 就活生は「無難やし着とくかー、まあ、デメリットはないしなあ。そんな高いもんでもないし」程度の気持ちでリクルートスーツを着ている。先述したが、制服感覚だ。あんなものを着たところで、彼らの個性や魅力は掻き消されない。と、まあこう言うと、「だから、そうやって唯々諾々と着ちゃう時点で無個性なんだよ!私服で就活しろよ!」と反論する人もいるだろうが、あらゆる人間は絶対に何らかの規範に縛られて生きている。リクルートスーツ嘲笑組の皆さんも別の何らかの規範には従っているだろうし、それもその規範に従っていない人からすれば嘲笑の的だ。

リクルートスーツなんて無個性なもんはあかん、人間は好きな服を着るべきや、冠婚葬祭に適した服装とかフォーマルな服装とかドレスコードとか、そもそもそういう概念自体を崩しに掛からなあかんねん!」とまで言ってくれれば面白いのだが、そこまで気骨のある意見を持つ人は生憎殆ど見当たらない。みんな、リクルートスーツばっか、それだけ批判している。忌野清志郎の葬儀に革ジャンで参加した甲本ヒロトに「リクルートスーツなんて個性がないから、俺は好きじゃないな」とあの優しい口調と笑顔で言われれば俺も頷くが、就活に縁がなかったからリクルートスーツを着なかっただけで、他のあらゆる場面では別の何らかの規範に従っているような人々が、これ見よがしに自由人ぶってリクルートスーツを揶揄するのは、むしろ滑稽だ。俺は高校生のときに茂木健一郎の「近代科学の到達点と限界点を明らかにしつつ、気鋭の論客が辿りついた現実と仮想、脳と心の見取り図とは。画期的論考。」と銘打たれた著書『脳と仮想』を読んで「論理の飛躍と薄弱な根拠に基づく主張をロマンチックな文体とエピソードで誤魔化しただけの、要するにエッセイやんけ!」と思って以来、氏のことをあまり好きではないのだが、しかし少なくとも彼のリクルートスーツ批判は就活生のそうした気持ちなども斟酌した上で、新卒一括採用そのものへの疑問なども含めて展開されていた。

 リクルートスーツを安易に揶揄/批判している人のことを、俺は「型に嵌まりたくない!っていう型に嵌まっている人やなあ」と、まるで「レールの敷かれた人生なんざ真っ平御免だぜ!と叫んで非行に走るというレールに乗った反抗期の少年」を見るような目で見ている。視覚的にあからさまな無個性さを揶揄することで自身の個性の豊かさを嚙み締めている人々と、盗んだバイクで走り出し、自由になれたような「気がした」と歌った尾崎豊との違いに思いを馳せながら、本稿を終える。終わり。

一年に一度、思い出す人

 とても曖昧な記憶なのだが、確か「伊集院光とらじおと」にゲスト出演したくりぃむしちゅー有田哲平に対して、同番組のアシスタントの女性が、「有田さんとは同じ番組で少し共演していた期間があるのだが、その番組が終わってから初めて有田さんと会った際に、笑顔で『久しぶり。俺、一年に一度は、○○(当該女性アシスタント)のこと思い出してたんだよね、元気かなって』と言われてとても嬉しかった。ずっと気に掛けていたんだよ、ではあまりにも嘘臭いけど、一年に一度っていうのがちょうど良くて嬉しい」といった趣旨のことを言っていた。そのエピソードをふと思い出したので、ついでに、俺にとってそんな存在の人はいるかな、と斜め上を見てみた。椎名林檎が好きだった元カノ……なんてのは却下だ。過去の恋愛なんてものは、箱に入れて鎖でぐるぐる巻きにして、記憶の海の底に沈めるのみだ。いつまでもグチグチと元カノにこだわるのは、新海誠にだけ許された特権だ。贅沢は味方、ノスタルジーは敵。

 そこで思い出したのが、高校二年生のとき同じクラスだった女子生徒Tさんだ。恋愛関係ではなかった。あまり話したこともなかった。それがある日、調理実習の際に同じ班になり、不意に話し掛けられた。「この前、修学旅行の飛行機の中で○○君とスティーヴン・キングの話をしてたよね? チラッと聞こえて、めちゃくちゃ話に混ざりたかった」と。スティーヴン・キングのファンなのかと問うと、そうではないが、小説や音楽、漫画などが大好きで、でもあまりその話をできる友達がいないのだという。「あ、もしかして、YouTubeのコメント欄にしばしば出没する、『中学生/高校生でこんな音楽聴いてるの、俺だけなんだろな』的なマインドの持ち主か」と警戒したが、彼女は違った。

「マジで! Tさん、古本屋でガロ買うてんの?!」

「あ、やっぱガロ知ってるんだ!」

「うん。つげ義春、好きやもん。Tさんはどんな漫画が好きなん?」

古屋兎丸かなあ」

「読んだことないな。『帝一の國』とかの人やんな」

「そうそう。でも一番凄いのは、『Palepoli』って本。四コマ漫画を芸術の域まで高めてる。良かったら、今度貸そか?」

「うわ、ありがとう。じゃあ、俺の好きな、せやな、伊藤潤二貸すわ」

「わあ、是非! 読んでみたかった。他に好きな漫画ある?」

「『鉄コン筋クリート』かなあ」

「『ピンポン』の作者や! 貸して欲しい」

 といった感じで、ただ単純に好きなものの話をできることが嬉しいらしかった。そしてそれは、俺も同じだった。好きなものが必ずしも一致する訳ではないけれど、とりあえず互いが発する固有名詞はおおよそ説明なしに伝わり、会話が滞りなく進み、弾む。その心地好さは、なかなか得られるものではない。

 Tさんはピンク・フロイド毛皮のマリーズが好きだった。ドレスコーズは今ひとつしっくりこないと語っていた。貸してくれた『Palepoli』は確かに傑作だった。その数日後、「古屋兎丸の『ライチ☆光クラブ』も買って読んでみたけど、むっちゃオモロいね!」とLINEを送った記憶もある。伊藤潤二の『うずまき』を貸すと、Tさんは「めちゃくちゃ面白かった。また何か貸して欲しい」といったメモを挟んで返してくれた。だが受験で忙しくなったのかクラスが離れたのか、記憶が曖昧だが、とにかく、Tさんとその後それほど仲良くなることはなかった。そしてそのまま、高校を卒業した。

 たった今LINEの友だち欄をチェックしたところ、Tさんのアカウントを発見した。100を越す「友だち」がラインに入っているが、誰やっけという人もたくさんおり、真に「友だち」と呼べるのは、多分10人もいない。Tさんは無論、その10人未満の中には含まれない。でも今一番LINEを送ってトークをしてみたいのは、Tさんだ。でも多分、連絡することはない。向こうもないだろう。まだガロ集めてんのかな、ドレスコーズは好きになったかな、俺は結構ドレスコーズもええと思うねんけどな、古屋兎丸の『帝一の國』の映画は観たかな、菅田将暉が好きやからか知らんけど俺は映画もオモロかったわ、Tさんはどないやったやろ、もしかしたら漫画とか小説とかへの興味は失って、カップルYouTuberとか観て楽しんだりして、それはそれで個人の自由やから全然ええねんけど、でも勝手なことを言えば、ピンク・フロイドを聴きながら丸尾末広とか読んでいて欲しいな……なんてことを、今日みたいに眠れない夜に思うだけだろう。俺は同窓会にも出ないので、恐らく二度と会うことはない。でももし仮に、何かの拍子に会ったときは、「久しぶり。俺、一年に一度くらい、Tさん元気かなって思い出しててん」と言うつもりだ。それでもし、「え、誰やっけ?」と反応された場合は、我が家にある古屋兎丸の本を全て売り捌いてやる。

 さて、あなたにも一年に一度、思い出す人はいますか? なんて最後に読者に問い掛けりゃ、エモい感じで締まるかな。エモいって言葉、嫌いやけど。主人公が「感傷は敵だ」と語る某漫画のファンなので。以上、終わり。

細部に神を宿す前に、腐った骨組みをなんとかせえ

 今このブログを読んでいる、そこのあなた。あなた、お父さんは亡くなっていませんね? ……と、まあこう文字にして問うと、「亡くなっていませんね? ってことは、まだ死んでないよね?って意味やんな」と解釈をする人が大半だろう。ところが、これが会話だったらどうだろう。

「えっと、そうですねぇ……。あなた、お父さんが……、亡くなって、いませんよね?」

 ポイントはゆっくりと喋ること、「亡くなって」と「いませんよね?」のあいだに、完全に文章が途切れた訳ではない絶妙な間を作ることだ。すると、「まだ亡くなっていませんよね?」と「亡くなって、もうこの世にはいませんよね?」という二通りの真逆の解釈ができる問いに早変わりする。だから、問われた側は父親が死んでいようがいまいが、「はい」と答えてしまう(父親とは生まれた頃から音信不通なので分かりません、などの場合を除き)。

 と、まあこれは今さっき思い付いた雑な例だが、占いってのは要するにこの程度のペテンの延長だ。言葉遊びを駆使したり、多くの人に当てはまる曖昧で大きな特徴をさもその相手にだけ当てはまるかのように言ったりして、相手の反応を引き出しながら少しずつ話の焦点を絞っていく。大半の占い師がしているのは占いではなく、客を相手にした詰将棋だ。

 さて、ここで「大半の占い師」としたのは、俺が「ホンマやったら面白いから」を理由にあらゆる超常現象の存在を肯定しているからだ。本物の占い師も、この世にはきっといるはずだと信じている。であるが故に、インチキな超常現象を扱って飯を食う輩やそれらを検証もせず無責任に扱う番組に対しては、並の超常現象否定派よりも激しい嫌悪感を抱いている。だから最近、母親が『突然ですが占ってもいいですか?』というバラエティ番組にハマり出したときも、「こんなもん観なよ。昔も細木数子とか観てたけどさあ……」と苦言を呈した。だが返ってきた答えは、「信じてへんよ。信じてへんけど、暇潰しに見る分にはオモロいねん」だった。もし仮に我が家に視聴率調査のための機械が設置されていれば意地でも観るなと説得するが、幸か不幸か設置されていないので、それ以上は何も言わなかった。

 俺がこの番組にムカつくのは、出演者が到底本物の能力を持っているとは思えないからという理由だけではない。一番の理由は、BGMの選曲がやたらと良いからだ。日本のHIP HOPを中心に、ええ曲をたくさん流している。プロデューサーだか演出だか知らんが、まさか藤井健太郎に憧れているのか? バラエティ番組なのにこんなハイセンスな音楽をBGMとして掛けちゃいます、ってのはまず最初にバラエティ番組としての確固たる骨太な面白さがあった上で細部にまでセンスをぶち込んでいるからクールなのであって、占い師連中が街角で突然ゲリラ的に占いを持ち掛ける「占い突撃番組」なんかのBGMにクラムボンNASTWIGYくるりやKICKや鎮座DOPENESSやゆるふわギャングや眉村ちあきラッパ我リヤmabanuaスチャダラパーとEGO-WRAPPIN'の曲を流されたところで、むしろダサい。当店は食器にまでこだわってましてねえ、つって洒落たバカラのグラスを差し出されたけど、中身ションベンやんけ、みたいな。いや、美女のションベンなら飲みたいけどさ。そういや中学のとき、「食うとしたらうんこ味のカレーかカレー味のうんこか、ってヤツをマジで議論してみようぜ」って休み時間に男子で盛り上がり、「おっさんのうんこか美女のうんこかでも変わってくるよなあ」と誰かが言ったのに対して、「え? 美女のうんこなら、カレー味にするのは勿体無いやろ」と素朴な顔をして言った彼は、元気にしているだろうか。元気にしているといいな。修学旅行の夜に学年の人気者2人が漫才を披露し、その場が爆笑の渦に包まれる中、俺と君だけが笑っていなかったのを覚えている。俺は「このネタ、あのコンビのネタのパクリやん。YouTubeに挙がってるやつや。それに較べて間もテンポも悪いし」とクソウザい独白をしながら斜に構えて笑わなかったし、俺の斜め前で同じく笑っていなかった君は、あとでさり気なく理由を問い質すと、「俺、いつも笑い飯の漫才とかで笑ってるから、あんくらいじゃ笑われへんねん」と澄ました顔で答えてくれた。でも今なら分かるけど、あのとき他のみんなは面白いからという理由以上に、楽しいから笑っていたんだよ、きっと。プロに較べて……とか言いながら小首を傾げていた俺達は、サブい奴らだった。たとえ仮に内心それほど面白いと思わなくとも、その場の暖かな雰囲気に浸って微笑の一つでも浮かべられる方が、人としてよっぽど素敵だ。

 どうしてこんなことを思い出したかというと、昨日放送された水曜日のダウンタウンの「先生のモノマネ プロがやったら死ぬほど子供にウケる説」の中で1人、下唇を噛み締めてピクリとも笑っていない男子生徒を発見したからだ。番組内で無表情といじられていた先生の比ではない、マジの無表情だった。あの死ぬほど盛り上がった空気に何らかの抵抗を感じたのか、はたまた感情が驚くほど表に出ないタイプなのかは分からないが、とにかく、彼を見て、修学旅行の夜を思い出した次第だ。もちろん、たまたまカメラに映ったときだけ笑っていなかったのかもしれないし、何か理由があったのかもしれないから、あの場で笑わずに無表情なんておかしいやろ、何やねん、あいつ…‥などとは思わないが。

 あれ、もしかしたら、「突然ですが占ってもいいですか?」のような番組に対しても、ウチの母親みたいに腹を立てることなく面白がるような人の方が素敵なのかもな、と思い直して、昨日放送の「突然ですが占ってもいいですか?」の録画を観てみたが、沢村一樹が格好良くてみちょぱが可愛いこと以外はやっぱ観る価値なしやわ……と思わず舌打ちしてしまった。だが、目元をピンクの仮面で覆い、その上から眼鏡を掛けた色っぽいお姉さんが「ゲッターズ飯田の一番弟子 ぷりあでぃす玲奈」として登場した瞬間、腹を抱えて笑った。ゲッターズ飯田の一番弟子 ぷりあでぃす玲奈。声に出して読みたい日本語だ。最高過ぎる。「一丁前に弟子とってんのかよ」とか「一番弟子ってことは、他にも弟子おるんかい」とか「師弟揃ってなんちゅう名前や」とか「師弟揃って仮面の上から眼鏡やな」とか、とにかく色々と面白くて楽しい。あの番組を丸々微笑んで見る度量はまだ持てそうにないが、本物とは思い難い占い師に対して「このペテンが!」と眦を決するのではなく、「ゲッターズ飯田の一番弟子 ぷりあでぃす玲奈! 最高やんか!」と親指を立てられるくらいには、俺も大人になった。

 芸人の永野とももクロ高城れにがライブで、オレンジ色の目元を覆う仮面を付けて「浜辺で九州を自主的に守る人たち」というネタを披露したことがあるのだが、ゲッターズ飯田とぷりあでぃす玲奈の二人でリメイクして欲しい。「酒場で客を自主的に占う人たち」とかなら、「突然ですが占ってもいいですか?」のコンセプトそのままだし、ちょうどいい。東京から九州に来た人には優しく応対したのに、千葉から九州に来た人に対しては銃をぶっ放す……という元ネタの如く、相手が会社員や学生なら優しく占うけれど公務員だった場合は途端にゲッターズ飯田とぷりあでぃす玲奈が口を揃えて罵倒の限りを尽くす、みたいな展開はどうだろうか。多分日本で俺しか笑わないが、是非とも観たいものだ。終わり。

江戸の風を嗅いでみたい

 2020年5月5日の爆笑問題カーボーイの冒頭数十分のトークは、爆笑問題をやっぱ好っきゃねんと感じさせる放送でした。放送全体で一番印象に残っているのは、その後のネタメール「もし小池都知事が漫才師になったら、ツカミで『別嬪さん、別嬪さん、2メートル飛ばしてソーシャル・ディスタンス』」だったりしますが。

 さて、同日放送の「伊集院光とらじおと」も、爆笑問題トークに負けず劣らずグッときた瞬間があった。伊集院の師匠・三遊亭円楽をゲストに迎えた事前録音を聞き終えた伊集院光が竹内アナに、「やっぱり、竹内早苗の仕業だったか(笑)でも、何かありがとうというか、恐らく望んでいたんだろうって気がします」と告げた瞬間だ。コーナー本編のやり取りの数々も良かったけれど、個人的に一番グッと来たのはあそこでした。

 本編で円楽は、千原ジュニア風間杜夫などが落語に取り組んでいることについて、演じ手にせよ聴き手にせよ、落語に興味を抱く人が増えることは喜ばしいといった趣旨のことを述べていた。その言葉を聞いて、オリラジの中田敦彦が落語について語るYouTubeを観てみようと思った。あっちゃんと記載していないことから察せられるかもしれないが、俺は中田敦彦が好きではない。理由は、まあ色々と書けるっちゃあ書けるのだが、一番は、何か好きになられへん、という元も子もない理由だ。津原泰水の『赤い竪琴』という、平野啓一郎の『マチネの終わりに』と同じくらい好きな恋愛小説の一説に、「人はしばしば理由なく他人を嫌う。これは動物的な習性だから、自分にも他人にも制御のしようがない。分析できても対処はできない」というのがあるのだが、要するにそれだ。だから、ある日YouTubを漁る中で、落語を紹介する「中田敦彦のYouTub大学」を見つけたときも、ふんと鼻を鳴らして終いだった。のちに、立川談慶の著書に依拠した動画内容だという情報を目をしても、観る気にはなれなかった。でも、あの動画を観て落語を聞いてみた、観てみたというコメントを目にしたことがあるので、「落語に興味のある人を増やしている以上、ええ動画なんかもしれん」と考えを改めたのだ、円楽の言葉を聞いて。

 そこで早速、【落語の歴史】の1と2を観てみた。落語の歴史や面白さ、他の伝統芸能との違いなどを中田敦彦が語るのを、「河合塾にこんな口調の講師おったなあ」とか「時間の関係か知らんけど説明はしょってんなあ」とか思いながら観たが、コメント欄で現役の落語家達が感謝を伝えているのを見たり、多くの人が落語に興味を持ったとコメントしているのを見ると、やっぱそれだけで文句言う気にはなれんよなあと思った。落語に関する動画は他に四つあったが、それらはサムネイルやタイトルから判断するに、名作落語のあらすじ解説だったので、観ずにブラウザを閉じた。

 で、この動画を観たせいで落語が聴きたくなり、CDで笑福亭松鶴の『らくだ』を聴いた。1973年スタジオ収録、松鶴が55歳のときの音源だ。脂が乗り切り、絶品だ。何故か異様に艶っぽいだみ声と、荒っぽいのに品がある大阪弁。歯切れよく勢いたっぷりの口調。そして何と言っても、登場人物の演技が抜群である。『初天神』の父子の軽快な応酬、『高津の富』のおっさんの調子ええ法螺吹きっぷりと憎めない人間味、『貧乏花見』の貧しいながらも精一杯楽しんでやろうというバイタリティ溢れる長屋の二人など、松鶴の落語の登場人物はスマートで立派な人間ではないが、思わず好きになってしまう人間ばかりだ。それはもちろん台本の特性であるが、同時にやはり、松鶴の演技が見事だからこそそう感じられるのだろう。ちなみに、東出昌大笑福亭松鶴が好きらしい。味わい深い話っすね。どうでもいいが一応言っておくと、東出昌大唐田えりかの不倫は最低だ。でも、小籔千豊は数年前テレビで、「俺がこんな顔やなかったらもっと説得力があるんやけど」と自嘲気味に前置きした上で、こう言っていた……「不倫はアカン、最低や。でも、恋ってそうやん?」全く持ってその通りだと思う。匂わせ云々も最低やが、こちらに関しては俺の恋人がこう言っていた……「私があの立場でも絶対匂わせはする。というか今なんて言ってようが、いざその立場になったら、女子の九十パーは匂わせする」そうらしいです、知らんけど。あと、東出昌大唐田えりかは杏を大いに傷付けたが、それでも二人が主演した『寝ても覚めても』が傑作であることに変わりはなく、黒沢清映画での東出昌大の不穏な佇まいの素晴らしさにも変わりはなく、『凪のお暇』やKIRINJIの『killer tune kills me feat.Yon Yon』のMVでの唐田えりかの素晴らしさにも変わりはない。『killer tune kills me feat.Yon Yon』を収録したアルバム「cherish」はその年ベスト級どころか、キリンジ〈KIRINJ〉の歴代アルバムの中でも屈指の出来栄えでした。

 さて、俺は落語にあまり明るくないが、『らくだ』を聴いていて改めて思った。笑福亭松鶴ほど酔っ払いの演技がうまい落語家はいないはずだ。ホンマに飲んで酔うてんちゃうんか、と疑いたくなるような酔いどれ口調を聴いている内に、日本酒の味やそれを飲んだときの陶酔感を思い出し、ついつい酒を取りに冷蔵庫に向かってしまう。大して高くない日本酒も、松鶴の『らくだ』を聴きながらだと滅法旨い。ホンマは音源を聴くだけじゃなく動画で観たいんやが、今も残っているのは脳梗塞の後遺症が残った最晩年の映像が殆どで、最初から最後までずっと活舌が悪く、ホンマに悲しいが、あまり観てはいられない(桂米朝曰く、酔っ払いの演技をすれば活舌を誤魔化せるからと晩年は酔っ払いが登場する演目ばかりやったらしいが、正直、誤魔化せていない)。

 俺が松鶴の落語を聞き始めたのは中学生のとき、『人志松本のゾッとする話』を某Tubeで違法視聴したのがきっかけだ。そこで笑福亭鶴光が、師匠の松鶴にまつわるゾッとする話をしていた。

 松鶴の弟子として運転手を務めていた鶴光はある日、寄席の出番に間に合わないから近道のために一方通行の道に入れと松鶴に命じられる。逆走ですからと断ると、「誰が決めたんや。法律? 一般の法律はそうでも、噺家の法はわしや」と滅茶苦茶な返事が返ってくる。それ以上逆らえずに一方通行の道を逆走すると、向こうからトラックがやってくる。「クラクション鳴らせ」と松鶴に命じられ、逆らえずにクラクションを鳴らす鶴光。すると、屈強な運転手がトラックから降り立ち、スパナ片手に近付いてくる。「行け。行け、行け。芸人は修羅場をくぐって一人前や」と松鶴に言われた鶴光は、任侠の世界やないんやからと思いながらも車を降り、トラックの運転手に土下座する。必死で事情を説明し、何とか道を譲る約束を取り付けた鶴光は、車内に戻る。「でやった?」「何とか許してもらいました」「ほうか」松鶴は頷き、トラック運転手を指差して続ける。「あいつ、スパナ持ってたやろ? あいつがスパナをお前の頭にパーンっと振り下ろした瞬間、俺は出ていってあいつをボコボコにするつもりやった」「そのとき、私死んでます」

 俺はこのエピソードで爆笑し、落語など一度も見たことなかったくせに、落語みたいやな、と感じた。この強烈なエピソードと、鶴光が「ウチの師匠、笑福亭松鶴いうんですが」と語り出したときに松っちゃんが言った「大師匠ですよ」という合いの手、そしてネットで調べて出てきた松鶴の顔の得も言われぬ色気に心を打たれ、俺は松鶴の落語を聞き始めた。落語なんて小学生のときNGK桂文珍の噺を聴いた以外まともに触れたことがなく、饅頭怖い以外の落語の演目を一つも知らなかったため、最初から全て面白く聞けた訳ではなかったが、分からないなりに聞き続け、気付けば好きになっていた。松鶴以外の名人もちらほらと観る/聞くようになった(古今亭志ん朝の芝浜を何の前情報も知識もなく観たというのは、今思えば贅沢だ。サゲで普通に感嘆の声が出ました)。

 初めて落語を聞いてからしばらく経った。でもずっと熱心に聞いてきた訳ではなく、ファンと呼べるほど好きな人は少ない。特に江戸落語に至っては、殆ど無知だ。大阪の人間やから大阪弁の方が肌に合うというのもあるが、何より、志ん朝の芝浜にいたく感動したあとで聞いた志ん生が当時の俺にはピンとこなかったというのが大きい。以来、上方落語ばかり聞くようになってしまった。清水義範が好きなので、彼が原作の立川志の輔みどりの窓口」「バールのようなもの」だけは違法視聴してごっつオモロかったが、結局、江戸落語にがっつり手を伸ばすには至っていない(と書いてから思い出したが、サークルの先輩に「ラーメンズが好きなら観てみるといいよ」と勧められて観た柳家喬太郎はオモロかった)。

 でも、そろそろ江戸落語を聞いてみようと思う。名人と呼ばれる人は一通り聞きたいし、何と言っても立川談志を聴きたい。松っちゃんのVISUALBUMを「見事ですよ」と褒めていたし、上岡龍太郎立川談志フリークだし、伊集院光爆笑問題、神田伯山らの話を聞いていると、立川談志を知らないのは損なんかもと感じてしまう。そして何より、中田敦彦の動画でも紹介されていた「業の肯定」という立川談志の言葉を俺も使いたいのだ。「業の肯定」という言葉はあらゆる文脈に乗せられて用いられているが、言うてる人の大半は多分、談志の落語を聴いたことないと思う。でも俺は何となく、談志の落語を聴いて自分の中で面白い/面白くないの判断を下したこともないのに、「業の肯定」というワードを借用するのが嫌だ。そうしている他の人を否定も批判もしないが、あくまでも自分の中で。

 ということで思い立ったが吉日、Amazonで「立川談志全集 よみがえる若き日の名人芸」とやらを見たら、41,800円也。どっひゃーだ。高校生のときには数年分のお年玉をはたいてチャップリンのDVDコレクション7万円超を購入し、大学一年生のときには笑福亭松鶴のCDを二万円以上分購入したが、そのときよりも財布に余裕のある今、とても立川談志に四万円は出せない。これは、好みに合うかどうか分からない落語家に四万円は出せないという話ではなく、落語のDVDに四万円出すならその金で旨い酒を、飯を、恋人と色々……といったことを考えてしまうようになったからである。僅か数年の間に。芸術文化より肉欲。知的な興奮よりも肉体的快楽。これが畜生の浅ましさ。終わり。

漫画原作者・狩撫麻礼

 最近、あまりテレビを観ていない。コロナのせいで再放送や総集編が多くなってしまったからだ。そんな中楽しみにしていた5月3日の「ボクらの時代」は、山田ルイ53世、スギちゃん、コウメ太夫というゲスト、しかも番組始まって以来初のリモート鼎談だったが、主に53世の達者ぶりのお陰で思いの外ちゃんとした出来になっており、放送事故すれすれのしっちゃかめっちゃかさを期待していた俺としては、些か肩透かしだった。いや、53世は何も悪くはないのだが。

 という訳で、最近は読書するか漫画を読むかGyao!で映画を観るか(平成ガメラシリーズ、初めて観たけどオモロいっす)YouTubeを漁るかしている。YouTubeのアカウントも作った。更新されたらすぐに動画をチェックしたいチャンネルが増えてきたからだ。登録しているのは、「矢作とアイクの英会話」「ランジャタイぽんぽこちゃんねる」「ジャルジャル公式チャンネル」「くっきー!」「ジュニア小藪フットのYouTube」「ジェラードンチャンネル」「さらば青春の光Official YouTube Channel」「しもふりチューブ」「かまいたちチャンネル」「チョップリン凸劇場」「ゾフィーOfficial YouTube Channel」「空気階段チャンネル」そして、某AV女優のチャンネルだ(エグめの性的嗜好を知られたくないので、誰かは秘密である)。この中で今一番更新が楽しみなのは、空気階段チャンネルだ。単独ライブの『baby』からコントが少しずつアップされていて、それが滅法面白い。俺は生でお笑いや演劇を観た経験が、両手で収まるほどしかない。だから、それらに触れる手段はもっぱらDVDや映像配信になるのだが、空気階段は残念ながらこれまで一度も円盤化されたことがない(はずだ)。ラジオは聴いているし、テレビやネットで合法/非合法問わず観れるコントは大抵観たが、単独ライブの一つも観ずにファンを名乗るのは憚られるので、是非とも『baby』は円盤化して欲しい。それを購入し、胸を張って空気階段のファンだと名乗りたいものだ(YouTubeで全部公開されたとしても買います、金を使うのが好きという悪癖を抱えているので)。

 空気階段をいつ知ったのか、記憶は定かでない。何となく色んな人の高評価を目にして存在だけは知っていたような気もするし、ふとしたきっかけでコントを違法視聴したような気もするし、読んでいるブログで紹介されているのを見て初めて知った気もする。ただ、二人に対して強烈な印象を抱いた瞬間は明確に覚えていて、それはこの動画の最初の25秒を観たときだ。
 めちゃくちゃ格好良いと思った。路地裏を歩き、喫茶店で揃って煙草を吸う二人の姿は、「まほろ駅前」シリーズの瑛太松田龍平に匹敵している。空気階段の二人ほど、狩撫麻礼の作品に登場していそうな雰囲気とビジュアルを持った人物を、俺は他に知らない。
 狩撫麻礼とは誰か? 俺が好きな漫画原作者だ。2018年に亡くなるまでの間、数多くの作品を世に残した。
 ところで、チャールズ・ブコウスキーの『パルプ』という小説の解説で、作家の東山彰良は次のように述べている。
ブコウスキーが好きだと吹聴するのは、あまりみっともいいものではない。誤解しないでほしい。彼は間違いなく二十世紀最高の作家のひとりだ。すくなくとも、俺やショーン・ペントム・ウェイツU2のボノにとってはそうだ。しかし、かつて俺自身がどこかで書いたことだが、ブコウスキーが好きだと公言するのは、おれは負け犬の味方さ、一筋縄ではいかない男だぜ、人生、酒と女以外になにがある、と嘯いているようで気が引ける。」
 狩撫麻礼が好きだと公言することにも、これとは少し違うが、まあ一種の特権意識や選民思想めいたものを感じさせる何かがある。が、それは自覚した上で、それでも今から狩撫麻礼の作品の中からおすすめをいくつか紹介したいと思う。このブログは一応お笑いを語るブログとして始めたが、狩撫麻礼はギャグ漫画家ではない。でも、間違いなく面白いし、笑いの要素も多く含まれているので、何卒ご勘弁を(今後は、お笑いが好きな人にお勧めしたい映画とか小説、漫画を紹介する記事も書きたいですね。ちなみに最近の収穫は、小説家だと木下古栗と佐川恭一です)。
 
1.『迷走王ボーダー』「原作」狩撫麻礼 「画」たなか亜希夫
 バブル全盛期。ボロアパートの便所部屋(家賃3000円)に暮らす蜂須賀、同アパートに住む久保田、東大志望の浪人生・木村の三人が主人公の物語だ。「ボーダー」というタイトルの通り、自分達〈こちら側〉と世間の多数派の連中〈あちら側〉という価値観がしばしば登場する作品だが、主人公たちの魅力あふれる人物造形のお陰で、貧乏な落ちこぼれが文句を垂れているだけ、という印象を読者に与えない。エキセントリック過ぎるストーリー展開と思わず抜粋したくなるような痺れる名言が醍醐味だが、作品の背景や文脈を排した名言の抽出を好まないので紹介はしない。ただ、多感な時期にこの作品を読んでしまえば人生が狂う可能性すらあるほどカリスマ性のある漫画だ。俺が人生をある意味で舐め腐り、どうも就活に精を出せないのは、この漫画を高校生の頃に読んだせいだ……なんて言い訳はしないが、まあエリート街道を歩めなくても安アパートでウイスキーがぶ飲みするだけで充分楽しいやろう、という心のセーフティネットにはなっている。かつてネットで見かけたこの作品の熱心なファンがめちゃくちゃイタい奴だったので、『迷走王ボーダー』は俺のバイブルだ、とは決して言いたくないのだけれど、とても大切な漫画であるのは確かだ。
 ちなみに、狩撫麻礼は様々な漫画家と組んでいるが、空気階段の二人が最も似合う絵柄は、本作のたなか亜希夫だ。
 
2.『湯けむりスナイパー』「原作」ひじかた憂峰 「画」松森正
 ひじかた憂峰というのは狩撫の変名だ。足を洗った殺し屋の源さんが、温泉旅館「椿屋」で働く中で様々な出来事に遭遇する……とあらすじを書くと、旅館に対して地上げを迫る暴力団を壊滅させる、みたいな話を想像しそうだが、源さんが殺し屋時代の暴力的な実力を発揮する話は殆どなく、基本的には個性豊かなキャラが織り成す人間ドラマである。ただ、その中で「元殺し屋」という造形がちりめん山椒のようにピリッとよく効いている(安い比喩や)。こんな奴おらんやろっちゅうような源さんの激渋ハードボイルドっぷりにも「元殺し屋なら……」と納得できるし、「足を洗った殺し屋が旅館で働く」という荒唐無稽な前提からスタートしている訳だから、多少非現実的だったりリアリティを欠きかねないストーリーであっても違和感を覚えることなく読むことができる。殺し屋万歳。殺し屋大好き。男女二元論には中指を立てているしジェンダーの多様性を重んじているが、それでもあえて言うと、男子はハタチを迎えるまでに一度は殺し屋に憧れるものだ。御多分に洩れず、俺もそうだった。
 ちなみに、本作に登場する裏社会の情報屋Qと瓜二つのキャラクターが、同コンビによる『ライブマシーン』にも登場する。同一人物かどうかは不明だが、同じ人だと思って読むと作品に一層深みが出る。『ライブマシーン』は殺し屋を主人公にしたアクションたっぷりのハードボイルド漫画で、次のサイトで登録不要・無料で読むことができる。広告がちょこちょこ出てくるが、広告料はきちんと著者に還元されます。https://www.mangaz.com/book/detail/193341
 
3.『タコポン』「原作」狩撫麻礼 「画」いましろたかし
 巨額の報酬と引き換えに、見知らぬ他人と疑似家族として暮らすことを受け容れた四人。一体、誰が何のためにそんな真似を?……というあらすじだけを頭に入れた状態で読み進めていくと、いつの間にか訳の分からない場所に連れて行かれている。ランジャタイの漫才を初めて観たとき、俺はこの作品や同コンビによる『ハードコア』を想起した。「なんやこれ、よう分からんけどオモロ!」てな感じだ(あ、でも一応言っておくと、『タコポン』や『ハードコア』よりランジャタイの方がよっぽど訳が分からないです)。
 正味の話、本作は序盤があまりにも期待に胸躍る魅力的な展開のため、中盤・終盤は些か凡庸な印象を抱いてしまう。同コンビなら、『ハードコア』の方が完成度は上だ。でも、ハードボイルド・無頼といったタイプの作品が多い狩撫麻礼が持つもう一つの強烈な側面を見ることのできる作品として、『タコポン』を推しておく。
 
4.『リバースエッジ 大川端探偵社』「原作」ひじかた憂峰 「画」たなか亜希夫
 東京浅草・隅田川沿いに事務所を構える大川端探偵社。スキンヘッドの渋い所長、天パでヒゲを生やした中年調査員・村木、セクシーでキュートなバイト・メグミ。以上三名が依頼人の依頼に応える、一話完結式の漫画だ。引き算の美学を体現したような短編集で、恐ろしく完成度が高い。シンプルな人情噺、ねっとりと絡み付くような性的な話、不穏な余韻を残す話、そして大人の寓話など、バリエーションが豊かだが、その全てが決して過度にウエットにならず、一定のクールさを保っていて心地好い。
「狂気や異常性は一部の人間にだけ宿るものだから、そうした異常性や異常者は社会から斬り捨てるべき」ではなく、「誰しもが狂気や異常性を抱えており、人は皆それを鎮めて生きていくのだ」という考えの人におすすめの作品です。
 
5.『ルーズ戦記 オールド・ボーイ』「原作」土屋ガロン 「画」嶺岸信明
 土屋ガロンはこれまた狩撫の変名です。
 謎の監禁施設に10年間幽閉されていた男が、ある日突然解放される。一体誰に何故監禁され、そして解放されたのか? 男は謎を追い始める。超わくわくするあらすじだ。最初から最後までずっと面白く、格好良く、熱い。浦沢直樹の『二十世紀少年』は間違いなくこの作品の影響をがっつり受けているはずだが、『ルーズ戦記 オールド・ボーイ』の方が濃い。ウイスキーをストレートで飲むかハイボールで飲むか、みたいな、要は好みの問題だから、『二十世紀少年』よりも優れているのだと断定はしないが。
 パク・チャヌク監督によって映画化もされたが、主人公が追う謎の答えは、映画と漫画では全く違う。そして、ともすれば漫画の方は、「は? なんや、その理由?」と納得できない人が続出する結果になりかねない。しかし、何百ページにも及ぶ物語の末に読者が知る、主人公が10年間監禁されていた理由の迫力は、納得できる人にとってはこの上ないほどの凄みを伴って胸に迫ってくる。
 刊行当時、この作品は全く評判にならなかったそうだ。だが狩撫麻礼は担当編集者と食事に行き、「俺達はいい仕事をした。それで充分だろう」とだけ言ったらしい。そのエピソード自体が上質な短編漫画みたいだ。しかも後に実写化された作品が韓国映画ブームの火付け役となり、漫画も再評価されるのだから、あまりにも格好良過ぎる。
 ハードボイルドが好きな人、ミステリが好きな人、サスペンスが好きな人、人生哲学云々が好きな人、そして何より、面白い漫画が好きな人におすすめの一作です。
 
 狩撫麻礼は他にも池上遼一谷口ジローとも組んだりしていて、それらも超面白いのだが、全部紹介する気力はないのでこの辺で。狩撫作品は紙の書籍だと絶版になっているものがいくつもあるが、Kindleなどの電子書籍では未だ大半が読めるみたいなので、お財布とお時間に余裕のある方は是非。終わり。

フェミニストが蔑称と化したこの国で

 志村けんの死はコロナの恐ろしさを我々に伝えてくれた最後の功績、という小池百合子の言葉が孕む無自覚なおぞましさに絶句したりしている内に、COVID-19(コロナ)の煽りを受けて俺の就職活動も半ばストップしてしまった。企業の多くが説明会の中止、ES締め切りや面接の延期を決めたのだ。さらに大学四年生でただでさえ少ない授業が全てオンライン授業になったため、もうとにかく暇である。小説や漫画を読んだりCD聴いたり映画観たりと、インドアの趣味に事欠かない俺でさえ鬱屈としているのだから、アウトドア派の人はさぞ辛いだろう。

 さてそんな中、4月28日に梅田の揚子江ラーメン総本店が閉店した。澄み切ったスープと白っぽい細麵が絶品の塩ラーメンを提供してくれる店で、梅田で映画を観る前や後に腹を満たしたり、梅田界隈で笑福亭松鶴が演じるような酔っ払いだらけの店で飲んだ帰りに〆として食うのにぴったりの店だった。店は最後まで閉店の告知をせず、口コミ的にTwitterで閉店の噂が広まったのだが(店主に直接確認したとの情報が相次ぎ、次第に本当らしいと判明していった)、あの店主さんはもしかしたら「張り紙で閉店を知らせたりしてお客さんが集まったら、感染拡大に繋がるかもしれない」と思って告知をしなかったのかしら、などと想像を巡らせては、自室で一人、「本券は無期限で使用できます。」と記された20円割引券を見ながら酒を飲んでいる。そしてアルコールが回るにつれて、舌が揚子江ラーメンを欲し始めるのだ。

 閉店の噂を知る数時間前、俺はリビングで「快傑えみちゃんねる」を観ていた。M-1の審査に関して批判されがちだが、俺は上沼恵美子のフアンだ(小4のときに市川崑の『犬神家の一族』を観て佐清マスクの美しさに惚れて以来、顔面の白塗りにフェティッシュの域で魅了され続けており、今もハードコアチョコレートの犬神佐清パーカーを着ているが、だからといって上沼恵美子のことが好きなのも、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のイモータン・ジョ―やウォーボーイズが好きなのも、顔の白さが理由ではない)。我らがえみちゃんは、ゲストのTKO木本に対して、「(相方は捨てて)一人でやったらええ」と言い放っていた。笑いを交えつつも、まあまあ本心っぽかった。「(先輩からしたら木下はええ奴というフジモンの発言を受けて)そんなん知らん。ええ人やとか奢ってもうたとか、そんなこと言われても知らない、私は。後輩にペットボトル水入ったまま投げたんやろ。絶対あかんやんか、何がええ人やねん」や「(木下が)14歳だったら変えてみせよう。でももうあの年では、人間性は変わらへんわ」といった言葉の数々は、やはり格好良かった(余談だが、とろサーモン久保田のYouTube企画「M-1審査員を批判せずに審査してみた。」、ベタやけど笑ったので、お暇があればぜひ観てください。あと、マヂカルラブリーのANN0、最高でしたね)。

 ただ、今日5月1日、岡村隆史オールナイトニッポンを聞き終えた俺は、えみちゃんの「あの年で人間性は変わらへん」という言葉に「いや、でも……」と口を挟みたい心境になっている。知り合いでもない著名人は呼び捨てでいいと思っている俺が唯一シンプルに「さん」を付けて呼んでいるのが、ナインティナイン岡村隆史だ。理由はもちろん、矢部っちの「岡村さぁん」が耳にこべり付いているからだ。バラエティ番組の原体験は確実にめちゃイケで、何度も腹を抱えて笑わせてもらった。中学に入って「勉強しながらラジオ聴くってなんか憧れんなあ」と思い立ち、ネットで面白いラジオを検索したときも、伊集院光爆笑問題ナインティナインの三組を薦めている人がぶっちぎりで多かった。白状すれば、伊集院と爆笑問題ほどは嵌まらなかったため毎週欠かさずとはいかないが、それでもやはりよく聴いてきた(オモロいと知っているナイナイがオモロい話をするANNは、「上品なタレントやと思ってたけど伊集院やっべえ!」や「太田総理でご当地ゆるキャラの頭部を外してケタケタ笑ってたクレイジー、こんな知的なボケすんねや!」といった衝撃に較べれば些か驚きが小さかった)。

 問題となった4月24日の放送を俺はリアルタイムで聴いておらず、ニュースを目にしてからラジコで聴いた。揚子江ラーメンの閉店で落ち込んでいる気分がさらに沈んだ。それから一週間、多くの人が岡村さんに怒りの声を上げた。中には、罰することそのものに意味や快楽を見出しているのではないかという人もいたが、基本的にはそりゃ批判を受けて然るべき発言だと思う。

 で、まあこの一週間、お笑いファンの意見も色々と見たが、岡村さんは悪くない派が多数を占めていた。Aマッソのときにも目にした「差別という方が差別です」論法は未だ界隈では通用していた。岡村さんは風俗嬢を蔑視していないことは長年の放送を聴いていれば分かる、彼女らを差別していないが故の発言だ、風俗嬢として働くことをお前らは下に見ているから岡村さんの発言を問題視するんだ、ってな具合だ。また、何なら岡村さんは風俗嬢をある種天使のように尊く見てすらいるんだぞ、と力説している方もいたが、過剰な美化の本質は蔑視と同じですから擁護になっていません。障碍者はみんな性格が良い、的な。

 彼らは何を目指しているんだろうか、とこの一週間ずっと考え続けてきた。彼らというのは、岡村さんを擁護する人々と岡村さんを批判する人々の双方を指す。前者の目指すものは明らかで、岡村さんのANNの継続、今後も楽しい放送を、だ。もっと言えば、深夜ラジオという聖域を守ることだろうか。もちろん、「岡村さんのあの発言は駄目、しっかり謝って反省した上で番組を続けて欲しい」というリスナーもいたが、あくまで俺の見た限りでは、「あの発言の何処が悪いんだよ。頑張れ岡村さん」一辺倒の人の方が断然多かった。一方後者の目指すものは、人によってグラデーションがあった。「もう自分は岡村隆史の番組は見ない」という人もいれば、「謝罪して考えを改めるべき」という人もいれば、「番組を降板せよ」という人もいた(どの番組かはこれまた人による。NHKだけの人もいれば、発端となったANNを指す人もいたし、芸能界を引退しろという人もいた)。罰を与えることが目的という人は圧倒的に多い訳ではないけれど、決して少なくもなかった(ニッポン放送吉本興業が謝罪し、次の放送で本人が説明しますと明言されたあとでも、待ちきれずに「本人が出てこい、謝罪会見を開け」と盛んに憤っていた人がいたのは、一刻も早く罰を受ける岡村さんを見たかったからではないだろうか)。

 差別心というのは往々にして無意識的であり、無意識的な差別心を発露させた人に対しては、「それは差別です。撤回し、考えを改めた方が良い」と説教することが大切だと思います。俺は軽口を叩いて生きているタイプなので、うっかりアウトな発言を自分がしてしまうかもしれないと危惧しているし、もしかしたら無意識的な差別心があるかもしれない、いやきっとあるだろうとも思っている(酒井順子の『男尊女子』という本を読んで以来、「かわいい」という言葉にさえ、一定の距離は抱いておこうと思っている。まあ、本人が喜ぶため恋人のことは相変わらず「かわいい」と褒めているが、しかしその言葉を口にするたび、「かわいい」という価値観の社会的意味を考えてしまう。そしてそれは、決して悪いことではない。そうやって考えを巡らせた上で、俺と恋人は「かわいい」という価値を尊び、選択しているのだという事実は、少なくとも俺にとっては大切だ)。

 俺は今回の一件、一リスナーとしてANNは続いて欲しいが、その代わり、岡村さんもリスナーも発言の問題点を認識して考えを改める、という着地をして欲しいと思っていた。でも心の底では、どうせ三十分ほど謝罪したあと徐々に通常の放送に移行し、リスナーは喜び、批判していた人は怒り、しかしやがて別の大きな話題にみんなの関心は移って、何となく忘れ去られていく、といういつものパターンになるだろうと諦めてもいた。実際、番組冒頭から岡村さんが謝り続けている間、Twitterで#99annの実況を観ていたが、「リスナーは岡村さんが悪くないと分かっています」系のコメントで溢れ返っていた。岡村さんの真摯な謝罪をリスナーが安易な擁護でぶち壊し続けていた。だが、矢部っちが来てから、風向きが変わった。

 今回の騒動を含む岡村さんの性格の駄目な部分を、厳しい言葉で矢部っちは公開説教していく。「リスナーは全員大好きよ、岡村隆史のことが。イエスマンで。だから気を付けなあかんと思うよ、注意してくれる人もおらんくなるよね」と言い、結婚したことで女性を尊ぶようになった自身の経験を語る。「ありがとう」と「ごめんなさい」の大切さを語る。男女二元論的な口ぶりだったし、結婚にフォーカスが当たり過ぎやったし、「結婚や交際相手は性格を変える道具じゃない」という批判を生み得る微妙な言葉選びでもあったが、まあ感情的になっている生放送のフリートークで矢部っち自身の体験をもとに「岡村隆史は視野を広げるべき、景色を変えるべき、対等な相手と接する機会を持つべき」ということを伝えようとしたのだから、許容範囲内だと俺は思う。それに、説教に入ってすぐ「結婚するのが偉い訳ちゃうけど」と断りも入れていたし。

 矢部っちの説教が続くにつれ、#99annの実況では、ぽつりぽつりと「自分に説教されてるみたい」「確かに、あの発言はよくなかったかも」「岡村さんを甘やかしてたし、岡村さんに甘えてた」といったツイートが散見されるようになった。全員ではない。過半数ですらなかったかもしれない。でも、「深夜ラジオの切り取った書き起こしで事実を歪曲されただけ」「批判している奴はどうせ放送を聴いちゃいない」という金科玉条、略して金玉をぶら下げていたリスナーが、少しずつパンツを履いていく様を目にして、そのツイートは一時的な感傷に過ぎないのかもしれないし、彼らの心の奥に根付いた意識がすぐさま急激な変革を遂げるとも思わないが、それでもやはり少し胸が熱くなった。M-1でのえみちゃんの立ち振る舞いをゲラゲラ笑って全肯定している俺だが、TKO木下に向けられた「あの年では人間性は変わらん」という発言にだけは、異を唱えようと思った。歳を重ねるほど難しくはなるが、それでも、何歳になっても人間性や性格・思想は変えられる。きっかけと意志さえあれば。綺麗事で大いに結構、俺はそう信じたい。矢部っちは説教を始める前、「ええ機会もらったよ。俺、思う。ええ機会貰ったと。公開説教しようと思う、今日は」と告げたが、我々リスナーにとっても、ええ機会になったはずだ。というか、ええ機会にすべきだ。

 笑いを含む多くの表現物が、差別性や暴力性、攻撃性を孕んでいる。それら全てを剥ぐべきだとは断じて思わない。不健全さを完全に漂白した健全さは、不健全だ。でも、表現物が内包する不健全さに無自覚であっていい訳ではない。不健全なものを表現に取り入れ、表現に奉仕させてこそナンボだ。表現というフィールドの上に、ただただ不健全なものを並べるだけなら、誰でもできる。「誰も傷付けない笑いばかりになるべき、という言説には反対する」という考えと「誰かを傷付けることが笑いなのだ」という考えは、全く違う。

 夫婦円満の秘訣は「ありがとう」と妻に伝えること、と述べた矢部っちに岡村さんが「白旗上げたんか」と言い放ったエピソードは、バラエティ番組で矢部っちがエピソードトークとして話していれば多分みんな爆笑しただろうが、その手の発言は「岡村さんはギャグで言ってるんやな」が「本音で言うてんのかな?」を上回っているから笑えていたのであって、今回の一件と矢部っちの説教で明かされたエピソードの数々によって岡村さんのキビシさが露呈してしまったからには、今後色々とむつかしいやろな、と思うが、まあこれまた矢部っちが公開説教前に言った「今後の岡村隆史ナインティナインを見てもらいたい」という発言に期待したい。というか、ラスト十五分ほどだけ行われたコーナーで、重い空気の中ネタメールを読む岡村さんと矢部っちの温かいテンションでの相槌、そして一枚メールを読むごとに「ごめん、ホンマにな」「かまへんよ」というやり取りが行われるという天丼によって、俺はくすくす笑い、やっぱりナインティナインが好きだし二人は面白いと再認識した(それまでの説教や今回の騒動によって作られた空気を長いフリにしつつ、でもそれらを茶化している訳ではないという絶妙なバランス感覚だった)。

 以上、そんな感じだ。朝、五時! 煙草が吸いたくなってきた。ショート・ピース。平和主義者なので。喫煙可のバーが梅田にあってちょこちょこ行ってるのだが、揚子江ラーメン総本店のように潰れていないか心配だ。行けるようになったらナンボでも金落としに行くので、生き延びていて欲しい。それだけが今の願いだ。ワーワー言うとります。お時間です。さようなら。ってので本稿を終えようとしたけど、「どうせコント師はみんな、最後のコントでそれまでのコントが全部繋がってました、みたいな公演がしたいんだろ」と文句を言っていた若かりし頃の永野に「ダセえな、普通に終われ!」と言われそうなので、普通に終わります。Blumioの『Hey Mr.Nazi』でも聴きながら寝ます。おやすみなさい。終わり。

『304号室 青木』を安易に怖いと言うのはやめませんか

 どうも、おはこんばんちは。元々俺はめちゃイケを観て育ったためネット民みたいに宮迫に対してそれほど嫌悪感がなく、「田村亮の復帰は歓迎するくせに、宮迫は嫌いやからって理由だけでバッシングしまくるの、キショいなあ」と思っていたのですが、岡本社長の会見みたいにテンポの悪い謝罪動画とそれをYouTubeにアップするタイミング、そしてその後のコラボの人選と動画内容を見るにつれ、普通に嫌いになってきましたね。

 まあそれはさておき、先日デート中に、前澤社長の100万円ツイートをRTしないという一線は自分の心の中に引いておきたいよね、という話をしたところ、「私、RTしたけど」と彼女に言われて空気が凍り付きました。口は災いの元である。さて、そんな彼女と以前デートをしていた際の話だ。俺らは駅でとあるポスターを見掛けた。障碍者への理解を呼び掛ける啓発ポスターだった。「障碍者のポスターあるなあ」「そうだねえ」という会話を交わしただけで別の話に切り替わり、デートを続けた。その晩、彼女の家でただれたセックスをし、一緒に風呂に入り、電気を消してベッドに潜り込んだ。彼女は今日のデートの感想や中学時代の嫌いな男子の愚痴などを色々と話し始めた。電気を消してから、色々と喋るのが好きな子なのだ。でも俺は眠るために生きているクチなので、内心「寝かせてくれえ……」と思いながら、ふんふんと相槌を打っていた。だが、しばらくして途端に目が覚めた。いきなり、「将来、もし結婚して子供が生まれたときに、その子が障碍を持ってたらどうする?」と問われたからだ。答えに窮していると、彼女は些か躊躇いがちに続けた。昼間ポスターを見てからずっと、そのことを頭の片隅で考えていたという。「障碍は個性」「障碍を持って生まれてきたこの子を誇りに思う」といった趣旨のポスターに対して彼女は、「自分の産んだ子が重度の障碍を持っていたときに、それを受け入れられるか分からない。愛せるか分からない」と述べた。それから、こんなことを言うと俺に嫌われるかもしれないと心配した上で、「お腹の子に障碍があると判明したら、私は堕胎手術を受けたいと思ってしまう気がする」と言った。殆ど泣きながら。その正直で誠実な吐露に思わず鼻の奥が熱くなり、俺は彼女を抱き締めた。障碍者を当然の如く自分と同じ現実世界に存在する人だと考え、自分の子が障碍を持って産まれる可能性もあると考え、その上で綺麗事ではなく自分はそれを受け入れられるだろうかと不安を口にする彼女の真摯さに、強く胸を打たれたからだ。性欲の捌け口がなさ過ぎて「セルフフェラって気持ちええんかなあ」と実践を試みようとしていた中学生のときの俺は到底信じないだろうが、この世には勃起を誘発しない抱擁も存在するのだということを思い知らされた瞬間である。
話は変わらないようで変わりますが(©︎竹原ピストル)、以前とある小説を読んだあとネットで感想を漁っていたら、「あのキャラの足が不自由って設定に最後までなんの意味もなかったのが気になった」というのを見つけたことがある。俺はこれに強烈な違和感を覚えた。確かにその作品が数十枚の短編で、どんでん返し的なトリックを売りにしたタイプの作家による作品だったならば、つまりトリックを際立たせるため以外の要素を極力削ぎ落としたソリッドなミステリだったならば、その主張も肯ける。だが当該作品は、現代を舞台にしたエンタメ長編だった。ならば、その作品内に障碍者を登場させる意味とは、「障碍者が現実に存在するから」に決まっている。半日でも街を歩いてみれば、何らかの知的障碍を患っていると思しき人も見掛けるし、車椅子の人も見掛ける。彼らは、この世界に存在する。だったら、フィクションに障碍を持ったキャラを登場させ、その障碍がストーリー上取り立てて意味を持たなかったとしても、何か問題があるのだろうか。「このキャラが禿げていることが最後までストーリー上有効なギミックとして活かされなかったのはおかしい!」と言う人はまずいないのに、「ハゲ」が「障碍」に切り替わった途端、そうした主張が現れる。彼らは障碍というものに、何か特別な意味を付与しなくては気が済まないのだ。
 さて、本題に入ろう。ネットで「怖いコント」としてしばしば名前が挙がるのが、ラーメンズ『採集』(中学生のときにYouTubeで違法試聴し、ラストで心臓が跳ね上がった。二人のことを全く知らない状態だったため、一層怖かった)、千原兄弟『ダンボ君』(このコントを収録したライブDVDは名作で、中でも最後のコント『お母さん』はコントという表現技法の一つの到達点と言える)、バナナマン『ルスデン』(現役最高のコント師だ。ハリウッドにおけるクリント・イーストウッドみたいなもんである)、そして、タイトルにも記した劇団ひとり『304号室 青木』だ。完売劇場というバラエティ番組のDVDに収録された撮り下ろしコントらしい。この番組が始まる一年前に生まれたのでこの番組のことは殆どよく知らないが、水道橋博士が司会、若手芸人がパネラーになって朝生のパロディ企画をし、「笑いの本質はテレビか舞台か」という議論を戦わせていたのだけはネットで違法試聴して、とても面白かった。小林賢太郎の気取ったカマシっぷりがまあ格好良いのだ。ちなみにこのとき、「ストレスで十円ハゲができた」という小林賢太郎の告白に対して「見して、見してー」と茶化したような合いの手を入れてコバケンから冷たい目を向けられた馬鹿なアナウンサーが、のちに安倍内閣で大臣を務める丸川珠代先生である。
 話が逸れた、元に戻そう。この『304号室 青木』というコントの舞台は、ビルの屋上だ。画面の右側から、緑の服を着た男(劇団ひとり)がとぼとぼと登場する。「しゅー、しゅー」という独特の音を響かせて呼吸をしているが、鼻の下にチューブを取り付けていることから、何らかの重い病気が原因だと察しがつく。男は紙を取り出し、用意した文章を読み上げる。それによって我々は、男が304号室に入院している青木であるということ、青木が小さい頃からマジシャンに憧れていたということ、院長の計らいで医師、看護師、患者達が青木のマジックショーを見るために屋上に集まったのだということを認識する。そして我々はそうした情報と同時に、青木の喋り方や拍手の仕方などから、重篤な病気を患っている他に、青木は何らかの知的障碍を持っているだろうと悟る。
 青木は用意したラジカセから「ふんわか、ふんわ〜、ふんわか、ふんわ〜、ふんわか、ふんわ〜、ふぇっふぇ〜」という笑っちゃうような、でもちょっと不気味な音楽を流し始める。それから、黄色と緑の二色に分かれたハンカチを取り出して、何度かひらつかせる。だが何も起こらず、青木はマジックグッズの説明書を堂々と読んでから、もう一度たどたどしい手つきでハンカチをまさぐる。するとハンカチの黄色い部分が赤色に変わる。
 続いて青木は、服をまくって腹を出す。手術後のガーゼの下から、定番の連なった国旗を取り出すマジックを披露し、お辞儀する。
 それから、封筒を手に取り、中から一枚の紙を取り出す。大きく一文字「死」も記された紙だ。青木は右手でブーイングし、紙を半分に破ってから封筒に戻す。何やら呪文を唱えるような仕草をしてから、封筒に手を入れて取り出した紙には、大きく一文字「生」と記されている。青木は嬉しそうに笑い、両手を上げてガッツポーズし、カメラの後ろにいるのであろう医師らに向けて親指を突き立てる。
 最後に、綿棒を鼻の穴に入れるマジックをしている途中で咳き込み、椅子に座って薬を飲む。苦しそうに喘いでから、多少おさまったという風に胸に手を当てて、コントは終わる。
 このコントに対する感想をネットで探すと、「怖い」「不気味だ」「狂ってる」「トラウマになる」「気持ち悪い」といった言葉ばかりが目に入る。確かに、ラジカセから流れる音楽は繰り返し聴く内にどんどん生理的な不気味さを感じさせるし、青木が登場する前のざらついた画面も何処となく不気味だ。都庁を含む無機質なビル群が立ち並ぶ中、中央の建物だけ赤いという色彩配置も何だか怖い。分かる。あのコントを観て怖いと感じる気持ちは分かる。でも僕は、『採集』『ダンボ君』『ルスデン』といったコントと並んで『304号室 青木』が「怖い」といった風に言われることが、どうしても我慢ならない。『304号室 青木』は、そんな風に言われるコントではないと思うのだ。もう一度、「検索してはいけない」みたいな前評判を排して、フラットな目であのコントを観て欲しい。
 小さい頃からマジシャンが夢だった青木が、集まってくれた医師や看護師、患者達に感謝を述べる冒頭の1分半は、本当に怖いだろうか。ハンカチマジックをしようとするも上手くできなくて観客の前で説明書を読んじゃうシーンは、「がっつり読んでるやん!」と笑っちゃわないだろうか。手術後のガーゼの下から連なる国旗を取り出すシーンも、「何処から出してんねん!」と笑えはしまいか。「死」と書かれた紙にブーイングし、破り、かわりに「生」と書かれま紙を取り出してその日一番の笑顔でガッツポーズをするシーンに、胸を打たれはしないだろうか。『304号室 青木』は、本当に怖いコントなのだろうか。
 俺は、『304号室 青木』が異常で異様で不気味で気持ち悪くて狂った怖いコントだと扱われているのを見ると、堪らなく不愉快になる。青木のような言動をする人を、街で何度も見たことがあるからだ。青木は確実に、この世界に存在する。俺は『304号室 青木』というコントが「重篤な病気を患う知的障碍者が病院の屋上で披露したマジックショー」にしか見えない。確かに、ラジカセから流れる音楽とざらついた画面は不気味だ。4の付く病室は本来存在しないのに304号室であるという点や、終盤の青木の苦しむ様も怖いかもしれない。でもそれは、青木には近い将来死が待ち受けているという悲しい暗示と表裏一体な訳で、怖い、不気味、気持ち悪い、狂ってるなどと安易に切り捨てられるのは納得できない。『304号室 青木』は知的障碍者を笑いのネタにするというタブーに挑戦した云々という感想を読んだことがあるが、果たしてそうだろうか。あのコントは、知的障碍者の行動の中で生じる笑いを描いたものだと俺は思っている。マジックの説明書を客の目の前で読んじゃう、手術後のガーゼの下から国旗を取り出すという多少グロテスクな発想を頓着なくしちゃう、楽しいマジックショーやのに不気味な音楽をBGMにしちゃう……そうしたおかしさを絶妙なバランス感覚で描いたものなのだ。変な顔、変な声、変な喋り方、ワッハッハ、面白え……なんて短絡的なものでは断じてない。
あのコントを観て、「怖い」「気持ち悪い」「不気味だ」と躊躇いなく口にしたあなたは間違いなく、青木のような言動をする知的障碍者に対して、同様の感情を抱いている。否定はさせない。あのコントにおける青木の細やかな機微を読み取らずに単純な言葉で感想を表明した者が、街で青木のような人を見て「怖い」「気持ち悪い」「不気味だ」と思わないはずがない。そして、あの夜俺に嫌われるのを恐れながらも本心を語った彼女を見習えば、俺はそんなあなたに対して「最低の差別主義者だ!屑め」などと言うことはできない。そうした気持ちを抱いてしまうのも理解できるからだ。俺はそこまで露骨にそれを表明することはしないが、それは俺の人間性が素晴らしいからではなく、差別的な感情の萌芽をすぐさま理性で摘むという作業を繰り返してきたからに過ぎない。だから、その芽を摘み損なって成長させてしまい、街で青木を見て嫌悪感を抱くようになってしまったあなたを否定はしない。電車内などで知的障碍者を目にして「怖い」と感じる気持ちを「駄目だ!そんなことを思うのは差別主義者だ!」と糾弾はしない(これはたとえば、同性愛者へ内心嫌悪感を抱く人についても同様だ)。心の中でそう思ってしまうのは、容易には変えることができない。俺だって、思ってしまうことは多々ある。しかし、そうした感情を表に出さない理性は持っているべきだ。差別的な感情を抱いてしまうこととそれを表明することには、大きな差がある。
 もう『304号室 青木』を安易に怖がるのはやめませんか。調べればいくらでもネットで違法試聴できるから、もう一度フラットな目であのコントを見てみませんか。それでもやっぱり気持ち悪いわ、このコント……そう思うならば、それは仕方ない。あなたの感情だ。ただ、あのコントに対して「怖い」「不気味だ」「狂ってる」「気持ち悪い」と表明することの重みは、『採集』や『ダンボ君』や『ルスデン』に対するそれとは明らかに質が違うということを考えて欲しい。言うのであれば、その自覚を持った上で言うべきだ。たかが個人のツイートやんか、たかがYouTubeのコメント欄やんか、じゃない。言葉には責任が伴う。その自覚がない者は、口を閉ざすべきだ。イ・チャンドンの『オアシス』のヒロインの女、気持ち悪いよな」と「三池崇史の『オーディション』の麻美、気持ち悪いよな」では、まるで意味が違う。喩えが分からないという文句は受け付けません。
 それと、多少本筋とはズレるのだが、最近日本で増えつつある、障碍者やホームレスといったいわゆる社会的弱者とされる人々への不寛容さ、反吐が出ますね。どいつもこいつも、自分が社会の「役に立つ」人間として生まれ育ったことは全て自分の努力の賜物であり、社会の「役に立たない」人間は自己責任だと思い腐ってやがる。自分が先天性の病気や障碍を持って生まれてきていたかもしれないという想像や、今後自分が不慮の事故や病気に遭って社会の「役に立たなく」なるかもしれないという想像ができない。自分が今の立場にあるのは恵まれた環境のお陰だという自覚や感謝もない。最悪だ。植松聖の犯行動機に賛同を示して、「社会の役に立たない者に存在価値はない」と述べているシニカルぶったクソ馬鹿を結構見掛けたが、役に立たないものを共同体から排除するのは獣のすることだ。お前ら、それでも人間か。「役に立たない」者を排除しない社会が形成されているからこそ、今現在「役に立っている」者は安心して生産活動を行えるんでしょうが。役に立たないもの(者/物)の存在できない社会は、社会として不完全だ。娯楽なんて軒並み役に立たへんっちゅうねん。これ以上社会を息苦しくさせんといてくれ。「それが何の役に立つの?」とか「コスパ悪いなあ」とか言う奴は、空気階段の名作コントに登場する浮気男が罰を与えられる空間をもっと酷くした場所に、あのコントを平山夢明がリメイクした場合に描かれるであろう地獄の空間に送られてしまえばいい。
 そういや、ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』って韓国映画パルムドールとかアカデミー賞とかバンバン獲りましたが(めちゃくちゃ面白い映画です)、俺は先述のイ・チャンドン『オアシス』が韓国映画史上一番の傑作やと思ってるので、まあお時間あるときにでも観てくださいな。あれを観たあとで、『304号室 青木』を観れば、怖い、不気味、気持ち悪いと簡単に口にすることはなくなるんじゃないかな、と思います。
 なんか説教臭い記事になってしまいましたが、まあそんな感じです。以上、終わり。