沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

左右の目

 三木聡の『大怪獣のあとしまつ』がネットでめちゃくちゃ評判が悪い、と人から教えられた。監督をしている人が好きだから観に行く予定だ、という俺の言葉を覚えていたらしい。時事ネタの情報を仕入れるために毎週月曜日の一時間だけTwitterを見る、という生活に切り替えているため知らなかったが、Twitter上で酷評されているそうだ。

 ということで、月曜日のTwitterタイムを利用して酷評の嵐に身を投じてみたが、まさに俺の嫌いなTwitterの部分が詰まっていてゲンナリした。京極夏彦綾辻行人小林靖子らが公式サイトに寄稿した、婉曲法を用いてつまらなかったと表明するコメントを面白がるのは大いに結構だ。「『大怪獣のあとしまつ』観に行ったけどクソつまんねーゴミ映画だった、金と時間返せよ」と呟くのも大いに結構だ。

 だが、綾辻行人京極夏彦小林靖子のコメントを読んだり、『大怪獣のあとしまつ』はクソ映画だという批判ツイートを読んだり、Twitter上で同作は駄作だ、貶して構わないという空気が醸成されたりしたからといって、実際に自分は鑑賞していないにもかかわらず、何の躊躇いもなく駄作・クソ映画のハンコを押し、それを嬉々としてツイートした人々については、一人で喧嘩ができない奴として、心底軽蔑する。

 みんなが批判したり揶揄したりしているものは、実際に作品やソースを確認せずとも貶して構わない、というのは人間としてあまりにも美しくない姿勢だと俺は思うが、テレビやラジオの悪意ある切り抜きやネットニュースを鵜呑みにして誰かを非難したり、観てもいない映画を何の躊躇いもなく揶揄したりするTwitterユーザーは、決して少なくはない。Twitterは世間の縮図ではないが、「一部の変な奴しかやってないから気にするに値しない」と斬り捨てられるほど偏った空間でもないのが、悲しいところだ。

 とある小説に出てくる「他人が作った傑作を観るよりも、自分達で駄作を撮る方が楽しいに決まっている。」という一文をあらゆる意味で座右の銘としているので、自分の目で観てもいないのに『大怪獣のあとしまつ』を批判・揶揄した人々よりもよっぽど、三木聡の方が尊敬に値すると俺は思う。そういえば、座右の銘はなんですかと問われた具志堅用高は、左右の目の視力を答えたらしい。最高だ。

 俺は福田雄一の作品が嫌いだが、ガキの頃に観た勇者ヨシヒコはオモロかったなと思っている。今改めて観るともしかしたらつまらないと感じるのかもしれないが、それでもかつてヨシヒコシリーズで楽しんでいた過去を偽るつもりはない。また、彼が手掛けた未見の作品については、クソだのなんだの批判することはしない。俺はもう能動的に彼の作品を観ることはしないと決めているので、『新解釈・三國志』もルドヴィコ療法で強制的に観させられない限り観ない。あらゆる映画好きがあの作品を批判していると知っているが、それに乗っかって批判することはしない。繰り返すが、観ていないし観るつもりもないからだ。語りえぬものについては沈黙しなければならない、とヴィトゲンシュタインも述べている。多分、そういう意味ではないが。

 『ごっつええ感じ』に含まれていた怪獣遺伝子は後年『大日本人』という異形の傑作に変異したが、果たして『大怪獣のあとしまつ』はどうか(『大日本人』も、叩いて構わないというノリによって酷評されている面があると俺は思っています。松本人志監督の五作目を待ち望んでいますが、まあ撮る気はもうないんでしょうなあ)。

 実は、『大怪獣のあとしまつ』についてTwitterで検索するよりも前に、既に鑑賞を済ませておいた。三木聡の過去の監督映画のうち半分以上を面白くないと思っているが、三木聡が携わっていた時代のシティボーイズのライブが黄金期だと考えている者として、劇場に足を運ぶのが責務だ。面白かったか否かについては各々の目で確かめて欲しいので詳細は述べないが、かつて「小ネタをやりたいだけで、無理矢理テーマをくっつけている」という主旨の発言をしていた三木聡らしい映画だった。同じく現在公開中のデンマーク映画『ライダーズ・オブ・ジャスティス』がストーリーとブラックな笑いが結び付き、ギャグも物語を駆動させるエンジンとなっていたのと対照的だ。

 という訳で皆さん、強烈で歪なブラック・コメディ映画『ライダーズ・オブ・ジャスティス』オススメです!(RHYMESTER宇多丸風に)。以上。終わり。