沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

特派員RECの部屋のポスター

 MIU404、オモロかったですなあ。菅田将暉が大好きなんで、テンション爆上がりでしたわ。んでまあ、ボサッとTwitter観てたら、宇野維正はんが特派員RECの部屋に貼られた映画『ナイトクローラー』のポスターについて、『あの部屋に住むYouTuberのチャンネル名で、それをポスターで念押ししてるところがクソ寒い』っつーツイートをしてはったので、それについて思ったことを記しておく。

ナイトクローラー』(傑作!)を観たら分かるけど、あの映画の主人公は刺激的な映像のためなら何でもやる激ヤバな屑なので、あの映画をちゃんと理解した上で主人公に憧れてYouTubeで似たような活動を始める奴は、本来もっと悪い奴なはずなんですよ。ネットで嘘かまことか分からない情報を拡散することの危うさに自覚的でありながら、「再生数が伸びるなら、それの何が悪い」と嘯くようなタイプ。「It's Media」という風刺画がありますけど、あの絵でカメラを構えているのが、『ナイトクローラー』の主人公です。

 でもRECは最初から、アホではあっても根っからの悪党ではなかった。作中で根拠不明な陰謀論を拡散していた多数のネット民と大差ない訳です。何人か、「あの映画に憧れてYouTube活動を始めたRECは、意外と自覚的な悪党だったのか」的なツイートをしている人がいましたが、個人的には違うと思っていて、RECはやっぱり久住のような自覚的な悪ではなく、無自覚に悪い結果をもたらすアホですよ。『ナイトクローラー』の主人公は、映画観りゃ分かりますが、屑やけどまあ格好良いんですよ。フリーのジャーナリストとしてのし上がっていく様も、観ててテンション上がっちゃうし。日本史の教科書読んでて、日本がロシア倒した辺りでやっぱちょっとテンション上がっちゃう感じっすわ。でも普通の人は「とはいえ、戦争はいかん」と思うように、あの映画を観て、「とはいえ、こいつヤベえな」と薄ら寒さを覚える訳ですが、RECはついヤラれちゃった訳ですよ、ナイトクローラーの表層的な格好良さに。

 てな訳で、『ナイトクローラー』を観て痺れ、そのタイトルを冠したYouTubeチャンネルを開設して似たような活動を始めちゃう、でもその割に映画の主人公のように平然と一線を超えるヤバさやある種の覚悟は持ち合わせていない……というRECのどうしようもないほど人間臭い底の浅さを、広い家の壁にどーんと飾った『ナイトクローラー』のポスターは象徴している訳です。『仁義なき戦い』や『アウトレイジ』を観て、ヤクザ社会の容赦なさや残酷さ、悲哀を感じた上で登場人物達の色気を感じるのではなく、シンプルかつ無邪気に「ヤクザかっけえ!」とはしゃぐ人は案外少なくありませんが、RECはまあ、要するにそれと同じです。

 俺は、あのポスターが映り込んだ画をちょいとダサいと感じましたが、その画のダサさはREC本人のダサさと直結してる訳です。宇野はんの言うように、あのポスターを映り込ませることそのものがダサいとは、思いませんでした。

 てかそんなことより、やたらと持て囃されている「It's Media」の風刺画の方がダサくないですか。わざわざ書くなよ、「It's Media」って文字で。絵ェ見りゃ分かる。開始5秒で設定を独り言で説明するコント師か。まあアンジャッシュの場合は、最短ですれ違いの世界に突入するための技やからええけど。アンジャッシュのコントは新本格ミステリですわ。コント仕掛けのスペシャリスト改め、コント界の麻耶雄嵩を名乗っていきませう。復帰、待ってまーす。終わり。

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中山秀征への好感

 Twitterで相互フォローだった人のアカウントが消えていた。時折いいねをしたりされたりする程度で喋ったことはなかったが、ほんのり寂しい。一度、「前澤友作をRTしないプライドに百万円の価値はあるのだろうかと自問自答している」といったツイートを見たときに、「あると思いますよ。あれをRTするのは、美しくないですから」と話し掛けようかと思ったが、結局辞めてしまった。

 美しく生きるというのが、俺にとっての課題だ。善悪とか正しさとか面白さよりも、美しさを判断の基準に据えて生きている。日本に限らず、この世界は理不尽で出鱈目で最低だし、人生は地獄だ。死にたくなるようなことばかり起こるし、殺したくなるような奴ばかり歩いている。でもそんな感情はおくびにも出さず、余裕ぶって、格好付けて、気取って、平然とした顔をして生きていきたい。「ここは天国じゃないんだ かと言って地獄でもない いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない」というブルーハーツの言葉は100%現実に即していると信じて疑わないフリをして、生きていく。そうやって美しく生きようとすることが、クソだらけの世界に対する唯一の抵抗だと信じている。恋人から「俺くんくらい鈍感でいられるの、本当羨ましい。良い意味でね。悩みなさそうだもんね。メンタル強いよねえ」と言われるくらいで丁度いいのだ。そこで「俺かて色々我慢しとんねん!」なんて激昂するのは美しくない。「せやろー?」と呑気な声で返せばいいのだ、内心軽くイラつきながら、笑顔で。そうやって生きていれば、時折いいこともある。「勇者ああああ」がプライムタイムに昇格したり、『ドキュメンタル』のお蔵入りシーズンが公開決定したり。

 前置きが長くなったので、一気にタイトルに話を移行させる。俺は、中山秀征が結構好きだ。太田上田と日曜サンデーに立ち続けに出演した秀ちゃんを観て(聴いて)、そう再認識した。秀ちゃんは、お笑いファンからすこぶる評価が低い。今は「YouTuber」に取って代わられたが、それまで秀ちゃんは、お笑いファンにとって「つまらなさの権化」だった。この原因の九割以上は、ダウンタウン伊集院光ナンシー関にある。先陣切って、秀ちゃんのつまらなさを攻撃していたカリスマ達だ。

 だが、俺は秀ちゃんをつまらないっつーか「普通のことをさもオモロいやろってテンションで喋るなあ」と思ったこともあるが、一方でフツーに笑わせてもらったこともある。どんなギャグやコメントだったかという具体例が一つも浮かばないので、松っちゃんの天才的なボケや伊集院光のラジオのキレとは較べられないフツーのボケだったのだろうが、でも、ちゃんとフツーに面白くて笑ったはずだ。

 お笑いファンは、卒なく面白いときもあれば、明るく楽しいだけでそんなに面白くないときもあれば、めちゃくちゃつまらないときもある秀ちゃんを、常時めちゃくちゃつまらない人として扱う。松本人志(伊集院光/ナンシー関)が言っているから秀ちゃんはつまらない奴だという先入観、もっと嫌味な言い方をすれば、「秀ちゃんをつまらないと言っておけばお笑い通っぽいんじゃね?」感によって、秀ちゃんはポテンシャル以上のつまらないイメージを付与されてしまっている。あなたが抱く「秀ちゃん=つまらない」というイメージは、あなたがテレビを実際に観て培ったものですか?それとも、誰かの意見を見聞きして育まれたものですか?胸に手を当てて、よくお考えください。

「そりゃたまには面白いかもしれないけど、人気や露出度と釣り合ってないからつまらないって言ってんだよ」という反論もあるかもしれない。だが、だったらEXITの方がよっぽどつまんねえよ、と言いたい。さらに「どっちもつまんねえよ」と反論されれば、何も言い返せない。

 俺がなぜ秀ちゃんが好きかと言えば、明るく楽しいからだ。アホみたいな理由だが、ぼけっとテレビを観ているときに秀ちゃんを見ると心が安らぐ。ゴリッゴリのお笑い番組がもっと増えて欲しいし、ゴリッゴリのお笑い番組に秀ちゃんは出なくてもいいが、疲れているときに晩飯食いながら漫然とテレビを眺めているときに秀ちゃんが出てきたら、少しだけ元気が出る。秀ちゃんが持つ陽気さは、明石家さんまに匹敵する。「チーズ牛丼食ってそうな顔の奴」って意味の「チー牛」という蔑称がネットで流行ったが、明石家さんまや秀ちゃんは、「なんや、それ? チーズ牛丼、美味しいがな」「なんで? チーズ牛丼、美味しいでしょ?」とあっさり言ってくれそうだ。ネットのじめっとしたしょうもないノリを寄せ付けない、カラッとした陽気さがある。

 ここまで書いて、ふと、某Tubeで違法視聴した映像を思い出した。昔放送されていたアンタッチャブル司会の競馬番組に明石家さんまがゲスト出演し、たまたま局内にいた紳助と遭遇してトークが繰り広げられるという映像だった。そこで、紳助とさんまが次のような会話をする。

紳助『お前、馬買え』さんま「馬に名前付けたら、運気が落ちるって言うやろ」『じゃあ金だけ出せ。名義は俺にしたらええ』「お前は運気下がってええの?笑」『全然かまへん…笑』

(中略)

さんま「馬買うたら、お前病気になるぞ」『そんなん、もう負けへん』「地獄見てきたから笑顔やねんな。俺と一緒や。俺、二回見たもん。閻魔さん、二回ここ来たもん(掌を顔の前にかざす)。でも笑顔で地獄見たら勝ち、人生」

 しょーゆこと!とか、ホンマや!と言うときのような口調ではなく、ものすごくさり気ない、思わず聞き逃してしまいそうなほどさらっとした口調で放たれた「笑顔で地獄見たら勝ち、人生」の重みたるや、凄まじかった。

 そういえば、さんまは2010年にしゃべくり007に出演した際、ポストさんまの筆頭に秀ちゃんを挙げていた。しゃべくりメンバーは意外そうな表情を浮かべていたが(そして今なら意外に思う気持ちも分かるが)、当時小5だった俺にはしっくりきた。さんまも秀ちゃんも明るいし、司会をしているときの立ち姿もシュッとしてるし……とあっさり納得した。

 ニコニコしながら立っているシュッとした秀ちゃんを見ていると、まるでこの世界に理不尽な出来事など一つもないような気がしてくる。秀ちゃんは一言で言えば、いつだって余裕があるのだ。だから、何でもないことでも秀ちゃんが言うと面白いっぽい空気が漂う。それが時に「生ぬるい」と評される所以だろう。あらゆる規制に反抗し、面白くて攻めた笑いを追求する芸人や、そうした笑いを求めるお笑いファンにとって、生ぬるい番組の潮流に迎合しているように映る秀ちゃんは、嘲笑や憎悪の対象なのかもしれない。だが、神に問う。無抵抗は罪なりや?

 筆が滑って思わず『人間失格』の一節を引いてしまったが、よく考えれば違う。秀ちゃんは、攻めた笑いから逃れた末にああしたスタンスを取っているのではない。元々は尖った芸人だったが数多の困難に立ち向かうことができずに流され、タレント化してしまったその辺の芸人についてならば、「無抵抗は罪なりや?」の問いにも意味があろう。だがしかし、秀ちゃんは違う。秀ちゃんは最初からずっと余裕があり、面白いときもあれば面白くないときもあればつまらないときもあるという、物凄く自然体の人間らしいスタンスを何十年も維持し続けているのだ。抵抗とか無抵抗とか、そんなみみっちい場所に秀ちゃんはいない。太宰治みたいに死ぬことさえ一人でできない腰抜けと一緒にされては困る。秀ちゃんは超然としているのだ。

 2020年6月放送の深夜の馬鹿力で、伊集院光が「三密と壇蜜を掛けたギャグは流石にみんな言わないだろうけど、太田光は我慢できずに言いそう。あと、秀ちゃんは言ってるかも…笑。それと、一周回ってさんまさん」と言っていた。口ぶり的に、秀ちゃんへの攻撃ってほどではなかった。揶揄、と言うのも大袈裟な、まあ軽ーい「秀ちゃん、つまらないギャグも平気で言うよね」イジリだったが、「太田光/中山秀征/明石家さんま」という並びは、強烈に印象に残っている。

 知的で思慮深く、センスも抜群で、高校時代は友達がゼロで、当初は芸風もクールだったが、徐々に掲示板やSNSで視聴者から煙たがられるほど特番などではしゃぐようになる太田光。とても暗い過去を持つが、そんな素振りすら見せず、「笑顔で地獄見たら勝ち、人生」と笑顔で言ってのける明石家さんま。そして、中山秀征。秀ちゃんだけが浮いている。秀ちゃんだけが陽気さの根源を見出せない。太田光の陽気さは、知性や繊細さ、優しさに裏打ちされている。明石家さんまの陽気さの裏には、人生が詰まっている。だが秀ちゃんだけが、全く分からない。秀ちゃんの真顔や怒り顔を脳裏に描くことができない。頭の中の秀ちゃんは、いつでも笑顔だ。余裕たっぷりの自然体だ。秀ちゃんの過去も未来も、家族もプライベートも全く想像できない。秀ちゃんはある日突然、何処からか「秀ちゃん」として完成された姿で現れたような気がする。そしていずれ、音もなく立ち去るのだ。フォローしていた人がアカウントを削除し、タイムラインから姿を消すように。

 秀ちゃんが醸し出す空虚なまでの余裕は、俺の判断基準で言えば、とても美しい。終わり。

祖母宅にて

 2020年6月20日。朝からパチンコを打ち、8,500円を失った。霜降り明星版ダンシング・ヴァニティ、もといオールナイトニッポン0をリアタイして寝不足だったせいで、調子が出なかったのだ、ということにしておく。

 それから、79歳の祖母と待ち合わせをし、焼肉を奢ってあげた。祖母の誕生日祝いだ。祖母は日頃人と喋る機会がさほど多くないせいで、焼肉を食いながら古舘伊知郎ばりに喋り続けていた。8年前に他界した夫の命日が2日後(6月22日)に迫っているためか、延々と祖父の話をしてくれた。安い日本酒を飲み倒して朝も夜も酔っ払い、今や廃盤になってしまったエコーという煙草をこよなく愛していた祖父。禿げていて、いつも腹巻とステテコ姿で、何処となく品川徹に似ていて、俺と兄貴の区別が最後まで付かなくて、小泉純一郎を筆頭に政治家のことが大嫌いで、中卒で、声といびきがデカくてやかましい人だった。そんな祖父のことが、俺は大好きだった。必ずしも正しい人ではなかったが、一本筋の通った人だった。RHYMESTERが名盤『Bitter, Sweet & Beautiful』で「正しさだけじゃ生きていけない/美しく生きよう 美しくあろうと願い続けよう」と告げるよりも前に、俺は祖父の姿を見て、美しく生きることを胸に刻んでいた。

 飲んだくれの夫だったが仕事をずる休みしたことは一度もなかった、職人として周囲から尊敬されていたと、祖母は誇らしげに語ってくれた。酔っ払ってよう偉そうにわーわー言うてたけど、家の中でしか騒がん内弁慶やったと慈しむような顔で言っていた。退職して一日中家にいる酒と煙草塗れの祖父しか知らなかった俺は、「孫としてはオモロくて好きなじいさんやけど配偶者としては最悪やろ、よう何十年も一緒におれたなあ」と思っていたが、「シャキッとしてる部分もあったんやで」と懐かしそうに笑う祖母の顔を見て、疑問は氷解した。

 焼肉を食べたあと祖母の家に泊まり、翌日、つまり本稿を記している今日の昼間、俺は祖母と一緒にバカリズムライブ「image」を観た。流石は天才バカリズムだけあってめちゃくちゃオモロく、祖母もよく笑っていた。幕間映像の「それはね」が特に俺の好みで、オチは格好良さすら感じました。祖母の家に俺はしょっちゅう行っていて、そしてしょっちゅう一緒にお笑いやドラマ、映画を観ている。バカリズムラバーガールやナイツ、アンガールズ東京03爆笑問題ツーショット、勇者ヨシヒコやSPECも一緒に観た記憶がある。

 夜は祖母に誘われて、『志村友達〜大集合SP〜』を観た。晩飯は養殖鰻と米と高菜の漬物と祖母お手製の茄子と胡瓜の漬物。デザートに佐藤錦まで付いてきた。『志村友達』を観ている間、祖母はずっと笑顔だった。ワイプに映る大悟や研ナオコ達と同じ屈託のない笑顔を浮かべ、時折声を上げて笑っていた。祖母は俺がテレビを観たり本を読んだりしているときも79歳の図太さを炸裂させて平然とガンガン話し掛けてくるので、「やかましいなあ!」と思うことも多々あり、現に昼間バカリズムライブを観たときも色々と話し掛けてきてそのたびに一時停止を余儀なくされたのだが、『志村友達』を観ている間は、CM中を除いてずっと画面に釘付けになっていた。まるで少女のような笑顔なので、ドリフを観ていた幼い頃を懐かしんでいるのかなと思ったが、よく考えると(というか、よく考えるまでもなく)祖母は79歳で、ドリフが放送されていたとき、既に大人だ。CM中に、「ドリフの全盛期のとき、何歳やった?」と尋ねると、30代で娘を二人育てていた(当然、うち一人は俺の母親だ)と答えが返ってきた。「ドリフを観せたらあかん家もあったらしいけど?」と訊くと、「ウチは観せてたよ。あの人(夫)は、こんなテレビ観たらあかんとかは言わん人やった」と答えてから、おかしそうに口元を手で押さえ、「そういえば、唯一観せたらあかんって怒ったんが、『ウルトラマン』や。怪獣が出てくるシーンで、こんな気色の悪いものを観るな!って物凄い怒ってた」と言った。俺が「それって娘達に観せたくなかったんじゃなくて、本人が怪獣にビビったから観たくなかったんやろ」と笑うと、祖母も「そうやわ。気ィ小さい人やったから」と笑った。

 その後、居酒屋で飲んだくれた志村けんが隣の客(大悟)のビールを勝手に飲み、煙草を勝手に吸ってクダを巻くコントを観て、祖母はそれまでよりも深く、幸せそうに目を細めて笑っていた。

 祖母が風呂に入っている間にこれを書いていたのだが、出てきたので筆を措く。多分また、色々と話し掛けられるだろうから。半分以上は以前も聞いたことのある話だろうし、構成などがしっちゃかめっちゃかで何を言っているのかよう分からんことも多々あるが、それでも聞こうと思う。おばあちゃん子なので。終わり。

タイトルは思い付かんかった

 ここ数日で、ツボにハマったことが二つある。一つ目は、飯を食いながら動画を配信していたホリエモンが、寄せられた「ちゃんと野菜取って偉い」というコメントに対して、「野菜は美味しいから食ってんだ、馬鹿。ほんと死ね」とブチ切れている映像を観たことだ。キャシィ塚本を見ているときのような感覚に陥って爆笑したし、俺は怒りの沸点がおかしい人や譲れない些細なこだわりを持っていてそれに関わることについてはめちゃくちゃキレる人などが結構好きなので、ツボだった。

 さてそのホリエモン、なんか都知事に立候補するとかしないとか、N国党から出るとかそれはデマだとか、色々と呟かれているのを見かけたが、情報をシャットアウトしているのでよう知らん。大阪府民なんで都知事が誰になろうとどうでもええし、石原慎太郎が13年間、小池百合子が4年間その座に居座ってきた時点で、ホリエモンがなろうがそう変わるまい。尤も、大阪府知事も碌でもない奴が選ばれたりしてんだろ、と言われれば返す言葉はない。

 てか、改めて言及するのも何だが、N国党に票を投じた人は一体なぜ票を投じたのだろうか。N国党は「NHKをぶっ潰す」とは言いつつ、最終的に掲げている目標は単なるNHKスクランブル放送化(WOWOWのように、受信料を払った者だけが観られるようにするということ)である。やるなら解体を目指せよ、つまらん。大体、確固たる信念や理由のもと「NHKは国営放送たる責務を果たしていないから受信料を支払うに値しない」と思うのであれば契約しなければ良いし、何も考えずに契約しちゃったなら解約すれば良い。手間暇や金、工作は多少必要やが、契約しちゃったんだからそれくらいの労力は我慢しなはれ。

 N国党に投票するなんてのは一人で戦う度胸のない腰抜けのすることだと思ってしまうのだが、もしかしてN国党に投票したのは「俺はちゃんと受信料払っているのに、何で払っていない奴まで観れるんだよ!スクランブル放送化すべきだ!」って考えの人達だったりするのだろうか。それならば合点する。

 さて、ツボにハマったこと二つ目は、とある人(ゲイ)から聞いた、「ネットで調教してくれる相手を募集して、60過ぎの男性とメールのやり取りを重ねるようになったが、五回に一回くらいのハイペースで文章の最後に『人生変えちゃう夏かもね!』と記されているのがキツくて関係を絶った」という話だ。送られた側の視点に立つと、ノリがズレたおっさんに対して悪意ある笑いを向けてしまうが、つい浮かれて送ってしまったおっさんの側に立つと、何ともペーソスに満ちていて味わい深い。コミュニケーションの難しさを痛感する話だ。そういえば、コミュニケーションの齟齬から生じる笑いをコントで扱ってきたアンジャッシュの渡部が、複数の女性との不倫を認めましたね。これを機に渡部がキャラを変えて、「ビッグマックとポテトとバニラシェイク、結局これが一番旨いです」とか言い出したら笑う。もしくは、コントに再び熱量を注いでくれたら嬉しい。それ以外の感想は特にないです。浜ちゃんや03豊本の不倫を笑っちゃった時点で渡部を糾弾する資格は俺にはないし、俺自身、いついかなる場合や相手であっても絶対に浮気や不倫はしないとは断言できない。ブラマヨ吉田の言葉を借りれば、おちんちんに敗北する程度の脳味噌なので。

 余談ながら、これを書いている今、「直撃LIVE グッディ!」で佐々木希のことを「世界で最も美しい顔100人に選ばれた」と報じてましたが、アレはアメリカのよう分からん個人ブロガー(まさに俺のような)が独断と偏見で決めているだけのランキングなので、そしてその事実は既に2018年には日本にも伝わってきてましたので、未だに在京キー局のワイドショーが輝かしい経歴と言わんばかりに報じちゃうのは、流石にメディアとしてのレベルが低過ぎないかと苦笑してしまう。そんな些細なことで?と言われるやもしれぬが。

 ホンマは全く別の話をしようと思ってたんですが、だらだら書くうちに2000字が迫ってきたので、アメリカの個人ブロガーよろしく、当ブログが選ぶ「日本の芸能界で最も交際したい人トップ10(存命の人物が対象)」を発表して筆を於きます。誰が興味あんねん!(©︎ヤナギブソン)

 

10位.小田朋美

 CRCK/LCKSのボーカル・キーボード。可愛く、才能が豊かで、声が美しい。オッシャレー、以外の言葉を失うので、是非ご一聴を。

 

9位.神納花

 AV女優。読みは、かのはな。旧芸名は、管野しずか。舌が長くてエロい。

 近年、芸能人は政治的発言をするな、と叫ぶ人々が指す「政治的発言」は大抵「政権批判」と同義なので首肯できませんが、時折そう言いたくなる気持ちが分かることもある。本業で優れた功績を残している人が、頭の悪さや教養のなさが露呈するような政治的発言をしているのを見ると、ファンとしては結構悲しいのだ。右翼でも左翼でもラジカルでもリベラルでもアナーキストでも共産主義者でも結構だが、馬鹿ではあってくれるなというのが、優れた表現者のファンが言いたいことだ。AV女優の中には、浅い見識で社会を斬るツイートをしている人もおり、そうしたツイートを見ると、「この女優は絶対サンプルでだけ抜いてやる」と崇高な誓いを立てるようにしているのだが、その点、神納花はプロフィールに「セックスや性や生について日々色々考えてるAV女優。 みなさまへのお願い:わたしの出演作でなくてもいいのでAVを一本でも多く購入して観覧してください」と記している通り、そうしたツイートを日々真面目にしている。その姿勢を目にすると、よろしゅうおまんがな、と感じて、ついついFANZAの購入ボタンを押してしまうのである。

 

8位.磯貝初奈

 中京テレビのアナウンサー。『オードリーさん、ぜひ会ってほしい人がいるんです。』というオモロい番組の2代目アシスタント。初代アシスタントが強烈な個性を放っていたため、当初は物足りなさを感じたり、オードリーのあからさまなフリを見逃すのを見て「大丈夫か?」と思ったりしたが、次第に番組にも慣れていき、気付けばその可愛さにやられていた。生脚が魅力的だ。東大卒で、テッド・チャンの『息吹』を読むなど読書家の一面もある。真っ直ぐな童貞に向ける優しい笑顔と屈折した変態に向けるドン引きした顔が魅力的。

 

7位.杉咲花

 演技が上手い。容姿が綺麗。ラジオでの喋り方や笑い方が可愛い。私服が全身真っ黒というのも良い。『十二人の死にたい子どもたち』はあんまオモロなかったが、ブチ切れる杉咲花を大音量、大画面で観られただけで少なくとも1,000円分は取り戻せた。

 

6位.みちょぱ

 ギャルが好きで、生意気なくらい気の強い女性が好きなので、そりゃみちょぱは好きです。特に黒ギャルが好きなので、まだまだ白過ぎますけど。最低でもRUMIKAくらいの黒さは欲しい。というか、AV女優が飽和している現代において、黒ギャル女優の逸材はRUMIKA以降出てきていないことについてはどう思いますか。ある種、医師偏在や貧富の格差拡大にも通じる問題やと思うんですが。とかみちょぱの目の前で力説して、知らねえわって半笑いで蹴られたいっすね。あと、アメトーークの「みちょぱスゴイぞ芸人」はつまらなかったです。

 

5位.菅田将暉

 ジェンダーフリーのご時世なのでランクイン。演技も歌も良いし、可愛くて格好良くてエロいので、普通に抱かれたいです。リリース予定のCreepy Nutsとのコラボ曲は、果たして俺達世代の「今夜はブギー・バック」になるか。

 

4位.佐藤栞里

 伊集院光が「素の状態で加工した梨花と同じくらい綺麗」と評していた佐藤栞里だが、確かに笑顔が素敵過ぎまさあね。デートしたい。今このブログを書きながら有吉の壁を観ており、水中から現れたパンサー尾形が「大ドクターフィッシュ」つって相方らの足を舐めた流れで佐藤栞里の足も口に含んでいたが、普通に殺意が芽生えました。

 

3位.満島ひかり

 高校生の頃、園子温監督の『愛のむきだし』を観て惚れた。『ファニーゲーム』とか園子温作品とかはこれ見よがしの過激さに鼻白んでしまい、全然好きにはなれないのだが、満島ひかりに出会わせてくれたことは今でも深く感謝している。『カルテット』も『それでも、生きてゆく』も『監獄のお姫さま』も最高。俺は満島ひかりが、現役の日本人女優の中で一番だと思っています。全く同じ意見を、稀代の名優・坂上忍も言っていたので、間違いないです。

 

2位.鳥居みゆき

 オモロくて美しい。煙草を吸っている写真をいつまでも見ていられる。両手を広げて灰皿として差し出したい。エドワード・ゴーリーって残酷で怖くて美しい作品を描く絵本作家がいて、キンコン西野ゴーリーを好きと語っていたときには「うわあ、いかにもな自己プロデュース!うっぜえー」と思いましたが、鳥居みゆきゴーリーを好きだと語っていたときには「やっぱゴーリーええよね。流石は鳥居みゆき、センスええわ」と思いました。これを世間では差別と言います。

 

1位.小池栄子

 小池栄子です。説明不要ですね。小池栄子です。

 

 以上でーす。気が付きゃ梅雨ですね。それが明けりゃ、もう夏ですよ。各自、人生変えちゃう夏にしませう! 終わり。

リクルートスーツの無個性さとやらについて

 僥倖に恵まれたお陰で無事に内定をゲトったので、映画観てメキシコ料理食ってパチンコ打ってバーで酒飲んで煙草吸って電車の中で本を読みながら帰宅するという、健康で文化的な最大限の生活を送っている。

 俺は就活に際して、黒のリクルートスーツを購入しなかった。買おう、という気すらなかった。理由は単純で、紺のスーツを既に持っていたからだ。だから、これ着て就活したらええわとしか考えていなかったのだが、先日某スーツ屋の前で黒のスーツが「就活生応援」として売り出されているのを目にし、ふと「リクルートスーツってそもそも何なんやろ」と疑問に思ったため、調べてみた。

 リクルートスーツとは、1970年代からデパートが主導して広めたものだそうだ。就活向けのスーツの特売、と大々的にキャンペーンを売って大儲けという戦略だ(それ以前は何と、学生服で就活を行なっていたのだとか!オモロい)。

 さて、その後1980年代に入るとリクルートスーツが学生服を駆逐していく訳だが、この当時のリクルートスーツの色は紺が主流だったという。それが、2000年以降に入ると、黒が主流に取って変わったそうだ。理由はよう分からん。

 ともあれ、俺はあたかも「リクルートスーツ」という、そういうスーツの形態があるのだとばっかり思っていたが、実は単に、スーツ屋やデパート等が、黒(かつては紺)の安価なスーツを「就活にはこれ!リクルートスーツです!」と銘打って売っているだけの話なのだ。

 最近Twitterを始めたので、「リクルートスーツ」で検索を掛けてサーチしたところ、リクルートスーツの無個性さを揶揄/批判している人は少なくなかった。だが、あんなものは別に単なる「就職活動における制服」以上の意味はない(元々は学校の制服で就活をしていたのだから、それがメーカーの営業努力によってスーツに変わっただけだ)。まあ、既にスーツを所有している状態で新たに就活のためだけに安いスーツを買うのは俺もアホらしいと思うが、にしたってやたらとリクルートスーツを揶揄/批判する理由が分からない。大勢の人々が、画一的、無個性、管理教育がどうのこうのと言い、Why so serious,inc.のCEOを務めている「さいとーだいち氏」(寡聞にして存じ上げないが、多分凄い人だ)なんかに至っては、「就活、かっこ悪い!就活は茶番でコスプレだ!就活というシステムに繋がれた奴隷たちよ!そんなものは現実じゃないんだぜ!ESには言いたいことだけ書きましょう!リクルートスーツとか(笑)そんな就活してたらドワンゴに拾ってもらったので僕は就活かっこ悪いと思ったままです」と、奴隷という言葉まで使って笑っている。また、黒のスーツや紺のスーツそのものまでを無個性だなんだと言う人も少なからずいたが、黒や紺のクラシックなスーツそれ自体には別に何の罪もない。安い黒(かつては紺)のスーツをメーカーが「リクルートスーツ! 就活生はこれを着るべし!」と売り出しているだけで、黒や紺のスーツを着たお洒落な人や個性的な人は大勢いる。

 さて、リクルートスーツを揶揄するツイートを大量に目にし、俺は思った。この人ら、そんなに個性的なんかな?と。これほどリクルートスーツを揶揄するからには、さぞ個性的でハイセンスで仕立ての良いスーツをお召しになっているのだろう。当然、日本人男性のほぼ全員が守っていない「着席時にはジャケットのボタンを外す」というマナーもさり気なく守っていることだろう。有名人で座るときにボタンを外していたのは、俺の知る限り、蓮實重彦バカリズムだけだが。いや、スーツは着ませんねんという人なら、その代わり、さぞアヴァンギャルドな私服で日々を過ごしているのだろう。とある人が、やたらと高級時計に執着する売れっ子芸人や成金は、それほど高価ではない衣服や時計をお洒落に合わせて着こなすセンスがないからブランドに縋るしかないのだと述べていたのだが、リクルートスーツの無個性さを揶揄する貴方は、きっとそうしたセンスも持ち合わせており、さぞ目を見張るようなファッションを披露してくれるのだろう。是非とも見せていただきたいものだ。

 なんて嫌味をうだうだ言うのはこのくらいにして、ホンマに言いたいことを言うが、若者は無個性だ、画一的だ、管理教育がどうのこうの、なんて言ってるそこの個性豊かな貴方、貴方の言っているそれは、「最近の若い奴は……」という言説と何ら変わらない。そしてその言説は、時間も場所も超えて数多の大人達が口にしてきた、極めて無個性で画一的な発言だ。

 リクルートスーツの無個性さとやらを揶揄/非難する人の果たして何割が、学校の制服や校則にまでその矛先を向けただろうか。「世の中に蔓延る同調圧力や不可思議でくだらない習慣のうち、リクルートスーツはその違和感や気味悪さが特に露骨で分かりやすいから、そしてそれを揶揄/非難したところで反論する者がいないから的にしただけ、所詮は就活生の無個性さをあげつらうことで己の個性を誇示したいだけ」というのは、ねじくれ曲がった俺の邪推でしょうか。

 就活生は「無難やし着とくかー、まあ、デメリットはないしなあ。そんな高いもんでもないし」程度の気持ちでリクルートスーツを着ている。先述したが、制服感覚だ。あんなものを着たところで、彼らの個性や魅力は掻き消されない。と、まあこう言うと、「だから、そうやって唯々諾々と着ちゃう時点で無個性なんだよ!私服で就活しろよ!」と反論する人もいるだろうが、あらゆる人間は絶対に何らかの規範に縛られて生きている。リクルートスーツ嘲笑組の皆さんも別の何らかの規範には従っているだろうし、それもその規範に従っていない人からすれば嘲笑の的だ。

リクルートスーツなんて無個性なもんはあかん、人間は好きな服を着るべきや、冠婚葬祭に適した服装とかフォーマルな服装とかドレスコードとか、そもそもそういう概念自体を崩しに掛からなあかんねん!」とまで言ってくれれば面白いのだが、そこまで気骨のある意見を持つ人は生憎殆ど見当たらない。みんな、リクルートスーツばっか、それだけ批判している。忌野清志郎の葬儀に革ジャンで参加した甲本ヒロトに「リクルートスーツなんて個性がないから、俺は好きじゃないな」とあの優しい口調と笑顔で言われれば俺も頷くが、就活に縁がなかったからリクルートスーツを着なかっただけで、他のあらゆる場面では別の何らかの規範に従っているような人々が、これ見よがしに自由人ぶってリクルートスーツを揶揄するのは、むしろ滑稽だ。俺は高校生のときに茂木健一郎の「近代科学の到達点と限界点を明らかにしつつ、気鋭の論客が辿りついた現実と仮想、脳と心の見取り図とは。画期的論考。」と銘打たれた著書『脳と仮想』を読んで「論理の飛躍と薄弱な根拠に基づく主張をロマンチックな文体とエピソードで誤魔化しただけの、要するにエッセイやんけ!」と思って以来、氏のことをあまり好きではないのだが、しかし少なくとも彼のリクルートスーツ批判は就活生のそうした気持ちなども斟酌した上で、新卒一括採用そのものへの疑問なども含めて展開されていた。

 リクルートスーツを安易に揶揄/批判している人のことを、俺は「型に嵌まりたくない!っていう型に嵌まっている人やなあ」と、まるで「レールの敷かれた人生なんざ真っ平御免だぜ!と叫んで非行に走るというレールに乗った反抗期の少年」を見るような目で見ている。視覚的にあからさまな無個性さを揶揄することで自身の個性の豊かさを嚙み締めている人々と、盗んだバイクで走り出し、自由になれたような「気がした」と歌った尾崎豊との違いに思いを馳せながら、本稿を終える。終わり。

一年に一度、思い出す人

 とても曖昧な記憶なのだが、確か「伊集院光とらじおと」にゲスト出演したくりぃむしちゅー有田哲平に対して、同番組のアシスタントの女性が、「有田さんとは同じ番組で少し共演していた期間があるのだが、その番組が終わってから初めて有田さんと会った際に、笑顔で『久しぶり。俺、一年に一度は、○○(当該女性アシスタント)のこと思い出してたんだよね、元気かなって』と言われてとても嬉しかった。ずっと気に掛けていたんだよ、ではあまりにも嘘臭いけど、一年に一度っていうのがちょうど良くて嬉しい」といった趣旨のことを言っていた。そのエピソードをふと思い出したので、ついでに、俺にとってそんな存在の人はいるかな、と斜め上を見てみた。椎名林檎が好きだった元カノ……なんてのは却下だ。過去の恋愛なんてものは、箱に入れて鎖でぐるぐる巻きにして、記憶の海の底に沈めるのみだ。いつまでもグチグチと元カノにこだわるのは、新海誠にだけ許された特権だ。贅沢は味方、ノスタルジーは敵。

 そこで思い出したのが、高校二年生のとき同じクラスだった女子生徒Tさんだ。恋愛関係ではなかった。あまり話したこともなかった。それがある日、調理実習の際に同じ班になり、不意に話し掛けられた。「この前、修学旅行の飛行機の中で○○君とスティーヴン・キングの話をしてたよね? チラッと聞こえて、めちゃくちゃ話に混ざりたかった」と。スティーヴン・キングのファンなのかと問うと、そうではないが、小説や音楽、漫画などが大好きで、でもあまりその話をできる友達がいないのだという。「あ、もしかして、YouTubeのコメント欄にしばしば出没する、『中学生/高校生でこんな音楽聴いてるの、俺だけなんだろな』的なマインドの持ち主か」と警戒したが、彼女は違った。

「マジで! Tさん、古本屋でガロ買うてんの?!」

「あ、やっぱガロ知ってるんだ!」

「うん。つげ義春、好きやもん。Tさんはどんな漫画が好きなん?」

古屋兎丸かなあ」

「読んだことないな。『帝一の國』とかの人やんな」

「そうそう。でも一番凄いのは、『Palepoli』って本。四コマ漫画を芸術の域まで高めてる。良かったら、今度貸そか?」

「うわ、ありがとう。じゃあ、俺の好きな、せやな、伊藤潤二貸すわ」

「わあ、是非! 読んでみたかった。他に好きな漫画ある?」

「『鉄コン筋クリート』かなあ」

「『ピンポン』の作者や! 貸して欲しい」

 といった感じで、ただ単純に好きなものの話をできることが嬉しいらしかった。そしてそれは、俺も同じだった。好きなものが必ずしも一致する訳ではないけれど、とりあえず互いが発する固有名詞はおおよそ説明なしに伝わり、会話が滞りなく進み、弾む。その心地好さは、なかなか得られるものではない。

 Tさんはピンク・フロイド毛皮のマリーズが好きだった。ドレスコーズは今ひとつしっくりこないと語っていた。貸してくれた『Palepoli』は確かに傑作だった。その数日後、「古屋兎丸の『ライチ☆光クラブ』も買って読んでみたけど、むっちゃオモロいね!」とLINEを送った記憶もある。伊藤潤二の『うずまき』を貸すと、Tさんは「めちゃくちゃ面白かった。また何か貸して欲しい」といったメモを挟んで返してくれた。だが受験で忙しくなったのかクラスが離れたのか、記憶が曖昧だが、とにかく、Tさんとその後それほど仲良くなることはなかった。そしてそのまま、高校を卒業した。

 たった今LINEの友だち欄をチェックしたところ、Tさんのアカウントを発見した。100を越す「友だち」がラインに入っているが、誰やっけという人もたくさんおり、真に「友だち」と呼べるのは、多分10人もいない。Tさんは無論、その10人未満の中には含まれない。でも今一番LINEを送ってトークをしてみたいのは、Tさんだ。でも多分、連絡することはない。向こうもないだろう。まだガロ集めてんのかな、ドレスコーズは好きになったかな、俺は結構ドレスコーズもええと思うねんけどな、古屋兎丸の『帝一の國』の映画は観たかな、菅田将暉が好きやからか知らんけど俺は映画もオモロかったわ、Tさんはどないやったやろ、もしかしたら漫画とか小説とかへの興味は失って、カップルYouTuberとか観て楽しんだりして、それはそれで個人の自由やから全然ええねんけど、でも勝手なことを言えば、ピンク・フロイドを聴きながら丸尾末広とか読んでいて欲しいな……なんてことを、今日みたいに眠れない夜に思うだけだろう。俺は同窓会にも出ないので、恐らく二度と会うことはない。でももし仮に、何かの拍子に会ったときは、「久しぶり。俺、一年に一度くらい、Tさん元気かなって思い出しててん」と言うつもりだ。それでもし、「え、誰やっけ?」と反応された場合は、我が家にある古屋兎丸の本を全て売り捌いてやる。

 さて、あなたにも一年に一度、思い出す人はいますか? なんて最後に読者に問い掛けりゃ、エモい感じで締まるかな。エモいって言葉、嫌いやけど。主人公が「感傷は敵だ」と語る某漫画のファンなので。以上、終わり。

細部に神を宿す前に、腐った骨組みをなんとかせえ

 今このブログを読んでいる、そこのあなた。あなた、お父さんは亡くなっていませんね? ……と、まあこう文字にして問うと、「亡くなっていませんね? ってことは、まだ死んでないよね?って意味やんな」と解釈をする人が大半だろう。ところが、これが会話だったらどうだろう。

「えっと、そうですねぇ……。あなた、お父さんが……、亡くなって、いませんよね?」

 ポイントはゆっくりと喋ること、「亡くなって」と「いませんよね?」のあいだに、完全に文章が途切れた訳ではない絶妙な間を作ることだ。すると、「まだ亡くなっていませんよね?」と「亡くなって、もうこの世にはいませんよね?」という二通りの真逆の解釈ができる問いに早変わりする。だから、問われた側は父親が死んでいようがいまいが、「はい」と答えてしまう(父親とは生まれた頃から音信不通なので分かりません、などの場合を除き)。

 と、まあこれは今さっき思い付いた雑な例だが、占いってのは要するにこの程度のペテンの延長だ。言葉遊びを駆使したり、多くの人に当てはまる曖昧で大きな特徴をさもその相手にだけ当てはまるかのように言ったりして、相手の反応を引き出しながら少しずつ話の焦点を絞っていく。大半の占い師がしているのは占いではなく、客を相手にした詰将棋だ。

 さて、ここで「大半の占い師」としたのは、俺が「ホンマやったら面白いから」を理由にあらゆる超常現象の存在を肯定しているからだ。本物の占い師も、この世にはきっといるはずだと信じている。であるが故に、インチキな超常現象を扱って飯を食う輩やそれらを検証もせず無責任に扱う番組に対しては、並の超常現象否定派よりも激しい嫌悪感を抱いている。だから最近、母親が『突然ですが占ってもいいですか?』というバラエティ番組にハマり出したときも、「こんなもん観なよ。昔も細木数子とか観てたけどさあ……」と苦言を呈した。だが返ってきた答えは、「信じてへんよ。信じてへんけど、暇潰しに見る分にはオモロいねん」だった。もし仮に我が家に視聴率調査のための機械が設置されていれば意地でも観るなと説得するが、幸か不幸か設置されていないので、それ以上は何も言わなかった。

 俺がこの番組にムカつくのは、出演者が到底本物の能力を持っているとは思えないからという理由だけではない。一番の理由は、BGMの選曲がやたらと良いからだ。日本のHIP HOPを中心に、ええ曲をたくさん流している。プロデューサーだか演出だか知らんが、まさか藤井健太郎に憧れているのか? バラエティ番組なのにこんなハイセンスな音楽をBGMとして掛けちゃいます、ってのはまず最初にバラエティ番組としての確固たる骨太な面白さがあった上で細部にまでセンスをぶち込んでいるからクールなのであって、占い師連中が街角で突然ゲリラ的に占いを持ち掛ける「占い突撃番組」なんかのBGMにクラムボンNASTWIGYくるりやKICKや鎮座DOPENESSやゆるふわギャングや眉村ちあきラッパ我リヤmabanuaスチャダラパーとEGO-WRAPPIN'の曲を流されたところで、むしろダサい。当店は食器にまでこだわってましてねえ、つって洒落たバカラのグラスを差し出されたけど、中身ションベンやんけ、みたいな。いや、美女のションベンなら飲みたいけどさ。そういや中学のとき、「食うとしたらうんこ味のカレーかカレー味のうんこか、ってヤツをマジで議論してみようぜ」って休み時間に男子で盛り上がり、「おっさんのうんこか美女のうんこかでも変わってくるよなあ」と誰かが言ったのに対して、「え? 美女のうんこなら、カレー味にするのは勿体無いやろ」と素朴な顔をして言った彼は、元気にしているだろうか。元気にしているといいな。修学旅行の夜に学年の人気者2人が漫才を披露し、その場が爆笑の渦に包まれる中、俺と君だけが笑っていなかったのを覚えている。俺は「このネタ、あのコンビのネタのパクリやん。YouTubeに挙がってるやつや。それに較べて間もテンポも悪いし」とクソウザい独白をしながら斜に構えて笑わなかったし、俺の斜め前で同じく笑っていなかった君は、あとでさり気なく理由を問い質すと、「俺、いつも笑い飯の漫才とかで笑ってるから、あんくらいじゃ笑われへんねん」と澄ました顔で答えてくれた。でも今なら分かるけど、あのとき他のみんなは面白いからという理由以上に、楽しいから笑っていたんだよ、きっと。プロに較べて……とか言いながら小首を傾げていた俺達は、サブい奴らだった。たとえ仮に内心それほど面白いと思わなくとも、その場の暖かな雰囲気に浸って微笑の一つでも浮かべられる方が、人としてよっぽど素敵だ。

 どうしてこんなことを思い出したかというと、昨日放送された水曜日のダウンタウンの「先生のモノマネ プロがやったら死ぬほど子供にウケる説」の中で1人、下唇を噛み締めてピクリとも笑っていない男子生徒を発見したからだ。番組内で無表情といじられていた先生の比ではない、マジの無表情だった。あの死ぬほど盛り上がった空気に何らかの抵抗を感じたのか、はたまた感情が驚くほど表に出ないタイプなのかは分からないが、とにかく、彼を見て、修学旅行の夜を思い出した次第だ。もちろん、たまたまカメラに映ったときだけ笑っていなかったのかもしれないし、何か理由があったのかもしれないから、あの場で笑わずに無表情なんておかしいやろ、何やねん、あいつ…‥などとは思わないが。

 あれ、もしかしたら、「突然ですが占ってもいいですか?」のような番組に対しても、ウチの母親みたいに腹を立てることなく面白がるような人の方が素敵なのかもな、と思い直して、昨日放送の「突然ですが占ってもいいですか?」の録画を観てみたが、沢村一樹が格好良くてみちょぱが可愛いこと以外はやっぱ観る価値なしやわ……と思わず舌打ちしてしまった。だが、目元をピンクの仮面で覆い、その上から眼鏡を掛けた色っぽいお姉さんが「ゲッターズ飯田の一番弟子 ぷりあでぃす玲奈」として登場した瞬間、腹を抱えて笑った。ゲッターズ飯田の一番弟子 ぷりあでぃす玲奈。声に出して読みたい日本語だ。最高過ぎる。「一丁前に弟子とってんのかよ」とか「一番弟子ってことは、他にも弟子おるんかい」とか「師弟揃ってなんちゅう名前や」とか「師弟揃って仮面の上から眼鏡やな」とか、とにかく色々と面白くて楽しい。あの番組を丸々微笑んで見る度量はまだ持てそうにないが、本物とは思い難い占い師に対して「このペテンが!」と眦を決するのではなく、「ゲッターズ飯田の一番弟子 ぷりあでぃす玲奈! 最高やんか!」と親指を立てられるくらいには、俺も大人になった。

 芸人の永野とももクロ高城れにがライブで、オレンジ色の目元を覆う仮面を付けて「浜辺で九州を自主的に守る人たち」というネタを披露したことがあるのだが、ゲッターズ飯田とぷりあでぃす玲奈の二人でリメイクして欲しい。「酒場で客を自主的に占う人たち」とかなら、「突然ですが占ってもいいですか?」のコンセプトそのままだし、ちょうどいい。東京から九州に来た人には優しく応対したのに、千葉から九州に来た人に対しては銃をぶっ放す……という元ネタの如く、相手が会社員や学生なら優しく占うけれど公務員だった場合は途端にゲッターズ飯田とぷりあでぃす玲奈が口を揃えて罵倒の限りを尽くす、みたいな展開はどうだろうか。多分日本で俺しか笑わないが、是非とも観たいものだ。終わり。