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お笑い 愚痴

格好良いコント10選

 俺の好きなコントベスト10を書こうと思いましたが、流石に絞り切れなかったので、かっけー!と思ったコント、俺の美的感覚で言えばお洒落なコントを10本選びました。順不同です。

 

1.天竺鼠「将棋」

 中2のとき、オールザッツ漫才2012で観て衝撃を受けた。頭に将棋の飛車の駒の被り物を着け、縦方向に進みながら出てくるタキシード姿の瀬下。頭に角行の駒の被り物を着け、斜めに進みながら出てくるウェディングドレス姿の川原。カタコト神父の「健ヤカナルトキモ、助ケ合イ、イツマデモ愛シ合ウコトヲ誓イマスカ」という問い掛けに、瀬下は「ひしゃ、ひしゃ」と答えるが、川原は「……はい」としおらしく答える。この辺のいかにも川原っぽいボケも、くすぐりとして効いている。

 そして、Bruno Mars「Runaway Baby」が流れ始めると、瀬下は縦方向に、川原は斜め方向に動き出す。世界観の意味不明さと駒の動きに準じて動く律儀さに爆笑していると、サビの部分で二人は後ろを向き、「龍王」と「龍馬」に成り、一緒にボックスステップを踏み出した。この瞬間俺は、猛烈にお洒落やなと感じた。

 このコントの一番楽しい見方は、「それまでお互いバラバラの動き方をしていた飛車と角行が、龍王と龍馬に成り、苗字が同じ夫婦と成ったことで、縦横無尽に動けるようになったんやな!二人一緒なら、一人ではできないこともできるし、大きな幸せを得られるっちゅうメッセージやな! ……はあ?」だが、当時の俺はそこまでは考えず、シンプルに将棋の駒を着けた二人が超絶お洒落な曲で踊っているという意味不明さに笑い、感動した。音楽の力は強い。もちろん、このコントに「Runaway Baby」を選曲した川原のセンスも素晴らしいです。

 

2.バナナマン「secondary man 」

 バナナマンは作家としても演者としても剛腕という意味で、コント界のクリント・イーストウッドだと思っている。そんな彼らの2019年単独ライブのオープニングを飾ったコントです。

 親分を亡くした同格のマフィア二人は、どちらが次のボスになるか、敵のアジトに突撃するための作戦をどうするかなどについて、侃侃諤諤の議論を繰り広げる。濃いオレンジ色のスーツを着た設楽と鮮やかなイエローのスーツを着た日村のビジュアルは、格好良いだけでなく、妙に収まりが良い。バナナマンが売れっ子芸人として活躍していないパラレルワールド日本で、このビジュアルの二人組がアニメや映画にキャラクターとして登場すれば、瞬く間に人気が出るやろなあと想像できる。

 設楽は会話の中で上手い具合に日村を誘導し、コントは粋な小噺のようなオチを迎える。キャラクターとしての二人の関係性とバナナマンの二人の関係性がよく似ている、でも微妙に違うという絶妙な塩梅で、まさに近松門左衛門が唱えた「芸は虚実皮膜の間に漂う」という価値観を体現しています。歌舞伎も浄瑠璃も全然知らんけど。

 ベテランの堂々たる風格を見せつけつつ、コント師としての軽やかさも備えた、クールな一本です。

 

3.チョコレートプラネット「業者」

 観ましょう。https://youtu.be/UydyLvybRlU

 キング・オブ・コント2014で披露され、シソンヌに惜敗するも、爆笑問題や萩本家の欽ちゃんにも絶賛されたネタです。

 まず、設定が抜群です。映画や小説や漫画では「奇を衒っとんなあ」と鼻白んでしまうであろう、まさにコントでこそ映える発想です。多分、星新一がこの題材でショートショートを書くより、チョコプラがコントで表現した方が面白い。長田のいかにも業者っぽい演技が巧過ぎて、この前携帯会社で機種変更した際に延々とよう分からんプランの説明をされたとき、このコントを思い出しました。余韻を残さないけれどずしりと響くようなオチのセリフの言い方も格好良い。

 現代風刺的な読み解き方をしようとすればいくらでもできそうですが、抜群の題材を思い付いた発想力と、その魅力を損なうことなくコントとして拵えてみせた、チョコプラの二人の力量の高さを絶賛するに留めたいです。「コントの鍋を煮込んで煮込んできたのに、突き出しで出したモノマネとかキャラで売れちゃった」と「あちこちオードリー」で語っていましたが、チョコプラコント師としての実力、どんだけ〜。

 

4.さらば青春の光「臓器売買」

 観ましょう。https://youtu.be/x8J_eTmIa5E

 これもチョコプラの「業者」同様、コントが一番表現媒体として適している内容だと思います。世にも奇妙な物語にありそうだし、筒井康隆が書いていそう。でも多分、世にも奇妙な物語で放送されるより筒井御大が書くより、さらば青春の光がコントとして表現する方が面白いと思います。コントの特性の一つとして、嘘臭い設定でも気持ちが離れてしまわない、というのがありますよね。作家の花村萬月が「とんでもない偶然や出鱈目は現実にある。でも小説は虚構だからこそ、整合性の取れた嘘で塗り固めなければならない。じゃないと、ご都合主義だと思われてしまう」といった趣旨のことを仰ってましたが、コントや漫才は完全な虚構ではなく虚実皮膜、ざっくばらんな言い方をしてしまえば「どうせ作り物のネタやし」という俯瞰の視点がどうしても完全には拭い切れないからこそ、あり得ない設定や嘘臭い設定にもむしろ能動的に乗っかっていけるのでしょう。

 さらば森田の持つあっけらかんとした乾いた狂気が格好良い一本です。

 

5.シティボーイズ「灰色の男」

 名作公演「愚者の代弁者、西へ」に収録された一本。ゴッドタンでゾフィー上田が紹介した際、東京03飯塚が「あれは名作だよね」と言っていたのが印象的。

 幼女誘拐殺人の容疑者として送検されるも無罪判決を勝ち取ったサカキバラ(斉木しげる)を団地から追い出すべく、ニシオカ(大竹まこと)とツジ(きたろう)は家を訪れる。サカキバラを追い出せという団地の連中に反発を覚えつつも、無罪のサカキバラが無実だとは信じ切れていないニシオカ。サカキバラに悪意と敵意と好奇心の混じった視線を向ける、小市民の嫌なところを凝縮したようなツジ。東京03飯塚はこのコントのきたろうを「クズ」と評していたし、それはその通りなのだが、でもツジ(きたろう)的な要素は絶対にどんな人間にもある。だからこそ、それを包み隠さず全身で嬉々として表現するツジのクズっぷりを観て、笑ってしまうのだ。

 このコントで最も爆発的な笑いが生まれるのは、物腰の柔らかいサカキバラがほんのごく僅かな癇癪を見せた瞬間だ。ニシオカとツジは恐怖に慄いた表情をするが、観客は反射的に笑ってしまう。殺人鬼の本性が垣間見える……ってほどじゃない、誰でも起こし得るちょっとした癇癪だが、物腰の柔らかかったサカキバラがそれを見せた瞬間、つい「あ、こいつホンマは殺してるわ」と思ってしまう。一度誰かを灰色の男と見做すと、怪しい素振りや怖い素振りが見られれば「ほら、やっぱクロや」と思ってしまうし、穏やかだったらそれはそれで「逆に怪しい」と思ってしまう。人間の嫌な部分であり、しょうがない部分だ。

 笑いとは緊張の緩和、緊張が和らいだときにその落差で人は笑う……とさんまや松っちゃんがよく言っていますが、コント内のキャラクター(大竹/きたろう)にとっては緊張が高まって笑えない状況なのに、外側で観ている観客は笑ってしまう……というこのコントのような笑いの取り方の方が、俺は好みです。当事者にとっては気まずい状況や嫌な状況だけど、外側から見ていると笑ってしまう、っつーやつですね。玉田企画という演劇ユニットがこれをコンセプトにしているらしく、去年配信で視聴した「今が、オールタイムベスト」という公演もオモロかったです。

 シティボーイズ、公式YouTubeチャンネルの開設を検討してくれ!

 

6.シソンヌ「インドカレー

 観ましょう。https://youtu.be/N6fgYfBF_ik

 インド映画の愛好家として、色んなインドカレー屋によく通う者として、東北訛りの抜けきっていないじろうのインド人にはリアリティを感じないのですが、でも何故か違和感なく観られてしまうのが凄い。俺が知らないだけで、日本の何処かにはこういうインドカレー屋もあるかもな、と思えてしまう。じろうの誇張し過ぎていないカタコト感とか、レジからお釣りを取るときに小銭の音が微かに聞こえるところとか、ちょうどいいインドカレー屋っぽいBGMやレジの布とか、積み重ねられたリアリティがコントに厚みを出してるんでしょうな。

 2分以上経ってから巻き起こる爆発的な笑いを皮切りに、小気味好いテンポでお洒落なオチへと突き進む訳ですが、日常のワンシーンを切り取ったようなミニマムな雰囲気、コントの前にもその先にも各々の人生があるのだと想像させてくれる豊かさ等、とても良いです。

 ワイドナショーに出演した優勝直後のライスに対して、松っちゃんが「大丈夫か?シソンヌ感、えぐいよね」と言っていた。松っちゃんは大好きだし、シソンヌにもライスにもエールを送る意味でのボケだというのは分かっているけど、反射的に「シソンヌ最高やろ!マスが全てやと思うなよ」とイラつく程度には、シソンヌが好きです。

 

7.チョップリンティッシュ

 観ましょう。https://youtu.be/mIAXRe11VHk

 あまりにも過小評価されているコンビ。現在は、ザ・プラン9に加入しています。

 出荷予定のティッシュ箱を一度開封して、中身を「大丈夫なやつ」と「大丈夫じゃないやつ」に仕分けするというコントで、あり得ない設定のあり得なさの度合いが気が利いていて格好良い。絶対にあり得ない、という設定も好きだが、この手の不合理や無駄は世の中に氾濫しているよなあという部分で共感できてしまう塩梅が絶妙だ。

 意図したものかは分からないが、コント中一度も「ティッシュ」という単語を使わない辺りも、ソリッドな感じがして美しい。「大丈夫」という言葉が何度も何度も用いられてコントを埋め尽くしていくのは、水玉や網目でキャンバスを埋め尽くすことで図と地を反転させ、異様な迫力を醸し出す草間彌生の諸作を彷彿とさせる。どうですか、コントを評するのに草間彌生の名前とか出しちゃう感じ、鼻につくでしょう?

 ともかく、今はなき京都・祇園のフォーエバー現代美術館で開催された草間彌生の南瓜展で、和室に飾られた作品を目にして鳥肌が立ち、何十分も棒立ちのまま飽きることなく見続けたときのように、チョップリンティッシュ」はどれだけ観ても飽きることはありません。コント史に残る名作です。

 

8.ラーメンズ「名は体を表す」

 観ましょう。https://youtu.be/vAEitV5SPn0

 彼らの単独公演の最高傑作は、最後となった『TOWER』だと思っている。中でも「名は体を表す」は、漫才にするには些か弱いけどキャラクターの乗っかったコントなら抜群に面白い上質な会話劇から始まり、「たかしとお父さん」的な片桐仁の馬鹿馬鹿しい一人芝居へと雪崩れ込んでいくシームレスな美しさが堪らない。

「こいつらの上品でお洒落ぶったニヤニヤ笑いなんかより、泥臭い大笑いの方がよっぽど価値があるわ!」的な切り口のラーメンズ批判を何度も目にしたことがあるが、ラーメンズのコントって腹抱えて笑えるシーンもめちゃくちゃありますよね。言葉遊び的な面白さから身体的な笑いの取り方まで、実に幅広いコンビです。つくづく、小林賢太郎の引退が惜しまれますな。

 

9.HITOSHI MATSUMOTO VISUALBUM「巨人殺人」

 松本人志が作ったオリジナルコントビデオHITOSHI MATSUMOTO VISUALBUMに収録された一本。関(松本)、稲葉(板尾)、アキ(木村)、太一(今田)の4人は、長い付き合いの坂東を憎み、アキの知り合いのシン(東野)も誘って殺害計画を立てる。だが坂東は、奈良の大仏に匹敵する巨人で……といった内容。坂東が巨人であることに、特に説明や留保がなく進むのがクールだ。シュールな発想、底辺の屑達を描いた土着感のある短編ノワールのような味わい、板東と関のベタな言葉のやりとりなど、松本人志が持つ魅力が凝縮されている。特にハマり役は稲葉(板尾)で、あまり坂東の殺害計画に乗り気でない発言をしているが、その実一番強い殺意を抱いているように見えるのが素晴らしい。

 このコント然り、『大日本人』然り、リンカーンの巨大化シリーズ然り、「過剰にデカい」のを松っちゃんは面白いと思ってる節がある。俺もそう思います。

 

10.永野「顔面を負傷して再起不能と言われた五木ひろしが東京ドーム公演で復活するところ」

 タイトルで内容を説明してしまうライトノベルや火曜サスペンスは好きではないが、永野のタイトルそのままのコントは大好きだ。

 ネタパレで永野は満面の笑みでタイトルを述べたあと、一度袖にはけ、青いタキシードに無表情の白い仮面という姿でオートバイに乗ったマイムをしながら登場した。BGMは五木ひろしの楽曲ではなく、ロックンロール。舞台上を縦横無尽に駆け回ったあと、バイクから降り、ドラムの乱打音に合わせて飛び跳ねる永野。仁王立ちで息を弾ませながら、左右の観客席に向かって五木ひろしお馴染みの拳を握るポーズをしてみせると、左手を高く突き上げて人差し指で天を指す。歓声が鳴り響き、新たにアップテンポなギターのフレーズが流れ出すと、永野は白い仮面を剥ぎ取ろうとする。顔が見えそうになったその瞬間、緞帳が降りてコントは終わる。

アウトレイジ・ビヨンド』を思い出させるほど唐突で鮮やかな終わり方に、猛烈な格好良さを感じた。永野が五木ひろしのポーズをしたとき、ネタパレ観覧ゲストの陣内が「これはアカン」というツッコミを入れていたが、別に永野はこのコントで五木ひろしを単純に揶揄している訳じゃない。もちろんオモシロの対象として消費しているから、五木ひろし本人が気分を害したり馬鹿にされていると思う可能性はあるけれど、同業者の芸人がネタ中に「これはアカン」なんて二元論的なツッコミを入れるなよ。アカンかアカンくないかの二択しかないんか。アカン警察はダウンタウン×ナインティナイン14年ぶりの共演を唯一の功績として、もうとっくに終わっとんじゃ。明石家さんま筆頭にお前ら関西芸人って、結構そういう二元論的なとこあるぞ!……と俺も二元論的なことを思いました。あと、陣内のネタってディアゴスティーニ以外にもたまにつまんないのあるよねってのと、ヒルナンデス!の街ロケで「丁字路」と言ったおじいさんに対して「てい字路?www Tじゃなくて? てい字路?www」と笑っていたのだけは、ニューヨークを憎み続けるパンツマンのファンと同じくらいの熱量で忘れません。永野のコント中、一言も喋らずに笑顔を浮かべていた千原ジュニアを一層好きになりましたよ、俺は。

 ところで皆さん、ちゃんと永野のYouTubeチャンネルは登録してますか? 月額980円で、「ウエノシンイチ」を筆頭に、VISUALBUMに匹敵する不愉快な面白さを描いたコントを観られます。オススメです。結局、どんな芸人よりも永野が一番面白いんじゃないかと思うことがよくあります。ラッセンよりピカソゴッホの方が俺は好きなんで、そこくらいです、永野と意見が合わんなあと思うのは。まあ、あのネタもホンマにラッセンの方が好きって言うてる訳ではないですが。

 以上、私的・格好良いコント10選でした。終わり。

菊地成孔を知らない恋人の隣でDC/PRGの演奏を聴きながら踊った夜

※2021年3月26日に開催されたDC/PRG大阪公演に行った感想を綴ったブログですが、ライブレポではないのでセットリストや具体的な内容への言及は皆無です。また、6,000字のうち余談が9割を占めています。全員、敬称略です。

 

 先日、敬愛する坂元裕二が脚本を務めた映画『花束みたいな恋をした』を鑑賞した。小説や映画や音楽やお笑いといったカルチャーを愛する若者二人の恋の始まりから終わりまでを描いた作品で、面白いか面白くないかで言えば面白かったものの、どうも好きにはなれなかった。意図したものだと分かってはいるが、菅田将暉演じる麦と有村架純演じる絹が、あまりにも鼻に付いたからだ。俺はジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』も「優れた小説だとは思うけど、やっぱり好きにはなれない」と感じるタイプで、『花束みたいな恋をした』もそれに近い印象を受けた。

『花束みたいな恋をした』には、菅田将暉演じる麦が「粋な夜電波、聴いてます?」と尋ね、有村架純演じる絹が「菊地成孔さんの?もちろん」と答えるシーンがある。このシーンを観て俺は「絶対こいつら、菊地成孔の音楽業とか文筆業はノータッチやろなあ」と思った。根拠はない。完全なる偏見だ。でも多分、この偏見は当たっている。かく言う俺も菊地成孔の著作は一冊しか読んでいないし、「粋な夜電波」は一度も聴いたことがない。ブログも購読していない。とてもじゃないが、熱狂的なファンとまでは呼べない。まだ22歳だから、古参ファンでもない。だから、「ラジオを聴いていた程度で、俺の成孔さんを理解したと思うなよ!」とキレる権利はない。別に、粋な夜電波だけを聴いている人と菊地成孔の音楽活動だけ追っ掛けている人では、後者の方が上だとも思っていない。菊地成孔は音楽家であり文筆家であり元ラジオパーソナリティだった訳で、そういう多岐に渡って活躍する才人のどの分野での功績に惚れようが、そこに優劣は存在しない。

 だがそれでも思わず、麦と絹に向かって「なんや、その『もちろん』っちゅうすっとぼけた顔は?おどれ、菊地成孔の音楽を聴いたことあんのか、コラ!」と言いたくなった。 RHYMESTER宇多丸TBSラジオリスナーから褒められたり貶されたりしているときも、「おどれはRHYMESTERのアルバムを一枚でも持っとんか!」と文句を垂れたくなってしまう。「お前が『花束みたいな恋をした』の麦と絹を気に食わなかったのは、ただの同族嫌悪じゃねえか」と思ったそこのあなた、正解です。

 、俺にとって菊地成孔のイメージは圧倒的に、音楽家だ。JAZZ DOMMUNISTERSの2ndアルバムは私的・ジャパニーズ(日本語の)ヒップホップ名盤ベスト100に確実に入る。母音をはっきり発音していてフロウがあまりない朗読的なラップは、本来好みから外れるのだが、谷王 a.k.a 大谷能生のそれはどういう訳だかクセになる。ちなみに、このアルバムにfeaturingで参加しているOMSBのアルバム『Think Good』が、私的・ジャパニーズヒップホップアルバムの暫定トップだ。クリーピーナッツがブレイクし、フリースタイルダンジョンが人気を博したお陰で、ヒップホップを聴くと言うと「最近流行ってるもんね、日本語ラップ」と言われるようになったが、OMSBが米津玄師やOfficial髭男dism並の知名度を獲得しない限り、俺は日本語ラップブームの到来とやらを断じて認めない。

 菊地成孔の音楽活動に話を戻します。SPANK HAPPYも当然後追いながら好きだし、菊地成孔がプロデュースを務めたFINAL SPANK HAPPYの1stアルバム『mint exorcist』は、日本のミュージシャンのアルバムの中ではその年、KIRINJI『cherish』やORIGINAL LOVE『bless You!』に匹敵する素晴らしさだった。2020年12月に大阪で開催されたライブにも行き、CDにサインも貰った。「めちゃくちゃキュートでした」と伝えると、小田朋美アバターであるODに「わあ、嬉しいじゃないっスか。ありがとうじゃないっスか」と言ってもらえた。半端ないほど可愛くて、危うく「結婚してください」とプロポーズしそうになった。

 菊地成孔がプロデュースを務めた大西順子の復帰アルバム『Tea Times』も大好きで、彼女のスタジオアルバムの中では『WOW』と同じくらいの高頻度で聴いているし(6〜9曲目が特に好きだ)、菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール(ラジカル・ガジベリビンバ・システムくらい覚えにくいですね)の『戦前と戦後』は、何度聴いても陶然としてしまう。『CHANSONS EXTRAITES DE DEGUSTATION A JAZZ』にはデューク・エリントンの「Isfahan」をカバーしたライブ音源が収録されているが、本家やジョー・ヘンダーソンのカバーに匹敵する素晴らしさだ。

そして1999年、大阪の田舎で俺が生まれ、北の本物THA BLUE HERBが1stアルバム『STILLING,STILL DREAMING』をリリースし、「カリスマ」という言葉が日本新語・流行語大賞トップ10に入選したこの年に、菊地成孔が結成したのがDATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDENである。

 DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDENの1stアルバムの帯には、「70年代エレクトリック・マイルスからの源流をジャズ〜ソウル〜ファンク〜アフロ、さらには現代音楽までクロスオーヴァーした唯一無二なスタイルでダンスミュージックへと昇華した」と記されている。俺はマイルスのアルバムの中では『Round About Midnight』が一番格好良いと思っていて、エレクトリック・マイルスは例外的に『Get Up With It』はかなり好きで、ちょうどCD2枚組だから俺の通夜と葬式にそれぞれ流して欲しいとさえ思っているが、それ以外は正直そこまでピンときていない。ただ、俺がそこまで好きではないエレクトリック・マイルスの影響を受けたDATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN(その後、dCprGDCPRGと改称という名のイメチェンを重ね、現在はDC/PRG)は、大好きだ。

 DC/PRGは、とにかく踊れる。というか、踊り出してしまう。構成もリズムも複雑なのに(だかろこそ、なのか)、体を動かしたくて堪らなくなる。先述のFINAL SPANK HAPPYのライブやORIGINAL LOVEのライブに行ったとき、菊地成孔アバターであるBOSS THE NKや田島貴男は、「最後の曲なんで、皆さん踊りましょう!」と呼び掛けていたが、それでも微動だにせず棒立ちを続ける人は少なからずいた。ついでに言えば、スマホで撮影し続ける人も。まあ別にええねんけど、ホンマに家で見返すんかいな、それ。

 これだけ爆音で音楽を浴びながら微動だにしないとは、感性が死んどんちゃうか。死後硬直で固まっとんか。などと偉そうに訝りながら、俺は踊った。やっぱり俺にとって、音楽を聴くことと体を揺らすことは密接に繋がっている。めちゃくちゃ激しくダンスはしなくとも、どうしたって音楽を聴けば頭や体は揺れるし、そうして体を揺らすことでより一層、音楽が全身に染み渡るような気がするのだ。終始理論的ではない感傷的な言葉が続きますが、何卒ご勘弁を。楽曲の構造を分析して論じられるほど、音楽に精通していないので。

 DC/PRGは俺が聴いているミュージシャンの中では、トップクラスに体が動く楽曲を奏でてくれる。電車の中だろうが自室だろうが、DC/PRGの楽曲が耳に流れ込んでくる限り、そこはダンスフロアだ。……などと、ベタなことを言ってしまいたくなる。

 で、そのDC/PRGが2月下旬に解散を表明した。菊地成孔の声明文を読み、寂しさや悲しみと共に、妙な清々しさを覚えた。ゆらゆら帝国が解散したときも、リアルタイムのファンはこんな気持ちだったのだろうかと想像した。解散前最後の凱旋地は、大阪と東京。大阪での開催場所は、バナナホール。俺が大好きな梅田の街にある老舗のライブハウスだ。そして、日付は3月26日。『CITY HUNTER』で、生年月日が不明な冴羽リョウのために、相棒の香が「毎年この日に祝ってあげる」と決めた仮の誕生日だ。そして奇遇にも、俺の誕生日でもある。

 解散が発表された数日後、恋人とデート中に「俺が好きなバンドのライブが来月の26日にあって……」と切り出すと、「はいはい、どーぞ。行ってらっしゃい」と食い気味に返された。口調は怒っていなかったが、イラッとしているのは明確だった。熟年カップルじゃあるまいし、互いの誕生日を一緒に祝うのは、ハタチそこそこのカップルとして当然だ。ミュージシャンのライブを優先するのかと不満に思われるのも無理はない。逆の立場だったら、俺も不愉快になるかもしれない。だから、「チケット代出すから、一緒に行こう」と誘った。「え、ホンマに? 一緒に行っていいなら、行きたい!」と彼女が乗り気になってくれたので、抽選発売にチケット2枚を申し込んだ。そして、2枚とも当選した。

 DC/PRGのファンに申し訳ないな、という心苦しさも無論ある。「俺はチケット取れなかったから行けなかったのに、お前はファンでもない恋人を誘ったのかよ!ふざけんな!お前らが申し込まなきゃ、俺は行けていたかもしれないのに!」と今この文章を読みながら、チケットを取れなかったファンの方が怒っているかもしれない。それに関しては、伏してお詫び申し上げます。俺は「誕生日に恋人と過ごしたい」「DC/PRGのライブに行きたい」という二つの欲望をどうしても満たしたくて、どちらも譲ることができなかったので、ファンではない、どころか菊地成孔の名前すら知らなかった恋人の分もチケットを入手しました、当選確率UP券を使ってまで。すみません。後悔も反省もしていませんが、すみませんとは本気で思っています。

 ただ、「況してや、解散ライブなのに!」という怒りに関しては、納得いたしかねます。コロナ禍によって「不要不急」という言葉が幅を利かせるようになりましたが、人間の寿命が有限である限り、人生におけるありとあらゆることは全て、不要不急かつ必要緊急です。あなたも俺もいつ死ぬか分からないし、好きな飯屋はいつ閉店するか分からないし、好きなバンドはいつ解散するか分からない。毎回のライブで「これがラストかもしれない」と思いながら踊り、その一瞬一瞬を全力で味わうことこそ人生です。「解散ライブとか関係なく、音楽ライブにファンではない恋人や友人を誘う奴は全員許せない。しかも俺はこれまで、DC/PRGのライブには全て行ってるんだぞ!なのに、今回に限ってチケットを取れなかったんだ!」という人以外からの「折角の解散ライブなのに!」っつー苦情は、申し訳ないが受け付けません。受け付けたところで、陳謝する以外できませんが。

 さて、「本稿を読んで怒っているDC/PRGファン」という仮想敵と戦い終えたので、昨日3月26日、DC/PRGの大阪公演当日に話を移したいと思います。お気に入りのMEN'S BIGIのシャツにこれまたお気に入りのエンポリオ・アルマーニのジャケットを羽織り(今より稼げるようになり、かつもっとツラが渋くなったら、ジョルジオの方を着てギャグみたいにぶっとい葉巻を銜え、ぶくぶく太って禿げてやります)、恋人と合流した俺は、『あんさんぶるスターズ!』というスマートフォンゲームとコラボした天王寺アニメイトカフェで昼飯を済ませた。その後恋人の希望で、日本橋オタロードでフィギュアをあれこれ見て楽しんだ。『ジョジョの奇妙な冒険』や『ONE PIECE』のフィギュアを見て格好ええなあと思ったり、『殺しの烙印』の宍戸錠のソフビ人形を見つけて「これだけえらいマニアックやな!」と喜んだり、美少女フィギュアのスカートを下から覗き込んで「どいつもこいつも白しか履いてへんな」と言って恋人にど突かれたりしたあと、梅田の阪急三番街で早めの晩飯にたこ焼きと天麩羅を食べ、開場時刻ギリギリにバナナホールへと到着した。入場し、コインロッカーに荷物を預け、バナナジュースとキウイの果実酒を注文して開演を待った。そして、開演予定時刻を2、3分過ぎたとき、ライブが始まった。すぐ目の前にいるDC/PRGの面々を見て高揚し、スピーカーから大音量が流れ出した瞬間、「うわあ、久々にライブに来てる!」という途轍もない感動に襲われた。巨大なスピーカーから流れる音は文字通り全身を震わせ、体の内部にまでズンズン響いてくる。よほどのマニアでない限り、家のスピーカーではどうしても真似できない、ライブハウスならではの体験だ。

 冒頭に記した通り、ライブレポではないので、ここから一切の詳細は割愛する。ただ一つだけ言えるのは、日本時間で2021年3月26日の19時からおよそ2時間弱、世界中で最も格好良い音楽を聴いていたのは、梅田のバナナホールに集った俺達だということだ。

 最後の一曲の演奏中、会場にいた殆ど全員が頭や全身を揺らし、フロア全体が激しく波打っていたとき、ふと、隣の恋人を横目で見やった。菊地成孔のことを全く知らず、菊地成孔の手掛けた音楽を一度も聴いたことのなかった恋人は、その夜初めて聴く彼らの演奏で、体を揺らしていた。

『花束みたいな恋をした』の麦くんと絹ちゃんよ。君らはどうせ、「粋な夜電波を聴いている自分」像を作り上げるために「粋な夜電波」を聴き始めたのだろう。その気持ちは充分理解できる。俺もジャズを聴き始めた動機は、「ジャズを聴くって、なんかお洒落で格好良くね?」という勘違いからだった。だから、俺は「ジャズを聴いている格好良い俺」像のためにジャズを聴き始めた俺自身を肯定するし、他人の趣味を小馬鹿にしたり自分達のセンスの良さに特権意識を覚える麦や絹のことも、鼻に付くなあとは思うが、否定はしない。

 けど、初めて聴く楽曲で体を揺らす昨夜の恋人の姿こそ、音楽の豊かさを端的に、そして真に体現していたと思う。「売れているから」とか「音楽通に評判がいいから」とか、そういった前評判ではなく、「鳴っている音楽が格好良いから」という理由だけで、体を揺らしていたのだ。

 菊地成孔を知らない恋人の隣で、終始腕と腕が軽く触れ合う中で踊った夜、俺は確かに人生の真理の一端を摑んだ。恋人最高、恋愛こそ人生の醍醐味、なんて恋愛至上主義的なことではない。昨夜俺がDC/PRGの演奏を聴きながら覚えたのは、肌が粟立つほどの生きる喜びだった。毎日のように死にたいと感じてしまう人生と、今後も戦っていこう。その決意と覚悟だ。筆を擱く前に、俺がDC/PRGから受け取ったと勝手に信じている人生の真理の一端を、あなたにもお裾分けしましょう。

「人生はチョロい、恐るるに足らず」

 以上です。終わり。

どうでもええ日記

 スカッとジャパンとかモニタリングとか、あの手のバラエティを芸人が他の番組で「出たくない番組、面白くない番組」として挙げるのは笑えるが、今更視聴者が嬉々としてイジったり揶揄したりするのは、あんまオモロくないなあと思う。けどやっぱり、スカッとジャパンに採用されたら1〜3万円貰えると知ると、ちょっとだけ腹立ちますわな。

 嘘のエピソードを考えて投稿してみようかとも思ったが、非社会人生活も残り一週間しかない。酒飲んで煙草吸ってバラエティ観て寝る、という怠惰で何もしない生活を今のうちに謳歌しておきたい。スカッとジャパンへの投稿を考えることに、時間と労力を費やしたくはない。

 スカッとジャパンには採用されなさそうだけど、上手く誇張脚色して分かりやすいオチや結論を搭載し、それなりにフォロワーのいる人が投稿すればワンチャンバズるかも、という実話を二つ、下記に記す。別に、そんな面白くはないです。

1.就職活動中、内定の決まらない知り合いの男子が「ええよなあ、女子は。最悪さ、風俗で働くか、テキトーな男見つけて専業主婦になればええねんから。楽やわ。男は大変やで」と言った。「風俗で働くのも、妻が働かなくても問題ない程度稼げる男をオトすのも、内定をゲトるのと変わらず大変やと思うよ」と穏当に答えればいいところを、「俺らもマグロ船に乗るか、金持ちの婆さんをオトせばええやろ」と答えた。口にしてから、「就活で苦しんでいる奴相手に言わんでもよかったな」と後悔したが、幸か不幸か皮肉は通じず、「リアリティないやろ、それは」と屈託ない笑みを向けられた。何とも言えない、苦い気持ちになった。

2.初対面の女性と音楽の話になり、ジャズとヒップホップが特に好きと言うと、私も日本語ラップが好きだと言われた。彼女はまだ好きになって日は浅いと謙遜しつつ、好きなラッパーに最近流行っている人達ではなくレジェンド達の名をいくつも挙げた。「最近の若手は聴かんの?」と尋ねると、「PUNPEEとか呂布カルマとかは聴くけど、やっぱそこまでいい若手おらんから。クリーピーナッツとか、最悪やん」と答え、結構強めのdisを展開し始めた。クリーピーナッツを嫌うジャパニーズヒップホップファンは少なくないし、彼らの言い分が理解できることもある。事実、彼女の言うことも分からないではなかった。ただ、「梅田サイファーとか、R指定DJ KRUSHとやった曲とかは?」と尋ねると彼女は、「梅田サイファーはまあ、悪くはないかな。DJ KRUSHっていうのは、ちょっと知らんけど」と返してきた。

 梅田サイファーはクリーピーナッツのR指定が在籍しているヒップホップグループ、DJ KRUSHはレジェンド級のDJで、過去に『軌跡』というアルバムでR指定と曲を作っている。別に、DJ KRUSHを知らない奴がヒップホップ好きを名乗るなとは思わない。ただ、クリーピーナッツを最悪とdisるなら、DJ KRUSHくらい知っとけという話だ。お笑い好きだけど高須光聖(片岡飛鳥でもいい)の名前を知らない、というのは何も悪いことではないが、ダウンタウン爆笑問題ナインティナインと較べて第七世代を雑にdisっている人が「え、高須光聖って誰?」と口にすれば、「高須も知らんと、偉そうなこと言うとったんかい」と突っ込まれるのは必至だ。

 濃い目のヒップホップファンとして、いくつかの理由からクリーピーナッツを好きになれない……という人は少なくないが、そういう人に憧れて(あるいは認められたくて)、つまりは手っ取り早く通ぶるために、クリーピーナッツをポーズでdisっている人もおるんやろなあと感じた一件だった。

DJ KRUSHも知らんのか!」と言ってビシバシツッコミを入れる……というのがスカッとジャパン的展開でしょうが、そんな真似はせず、クリーピーナッツの中でもヒップホップファンに受けそうな、ハードコアめの曲をオススメするに留めました。多分、聴いてないと思いますが。

 以上です。脈絡ないことを言いますが、なんか死にたいですねー。何なんでしょうな、これ。正確には死にたいというより、消えたいっつー感じでしょうか。何もかもほっぽり出して、ここではない何処かに逃げ出したい。でもまあ、やっぱ死にたい。

 初めて死にたいと思ったのは、小学生のときだった。塾や習い事のプールなどが憂鬱だからだろうと結論付け、中学に進学したら変わるはずだと信じていた。ところが中学生になってますます死にたいと思うことが増え、「これはアレや、死にたいと感じている自分に酔っとんねや、中二病とかいうやつや。あとやっぱ、高校受験のこととか考えて憂鬱になってるせいや」と思い、高校生になったら変わるはずだと信じていた。ところが高校でも死にたいという気持ちはなくならず、「高校に馴染めてへんからや。恋人か友達ができたら変わるはずや」と信じた。だが恋人ができても仲の良い友達ができても死にたいという気持ちはなくならず、「大学受験が憂鬱やからや。大学に進学したら変わるはずや」と信じた。だが大学に進学しても、死にたい気持ちはなくならなかった。もうこの頃には、希死念慮という言葉も知っており、一生付き合っていかなければならない漠然としたものだと諦めていた。案の定、小学生のときからの夢を叶えようが、就活を無事に終えようが、性欲、食欲、物欲を散々満たそうが、毎日のように死にたいと思い続けている。幸せ〜、人生余裕や!というモードか、ああ、もう死にてえ……というモードしかない。ぼちぼちでんな、人生。というちょうどええテンションに長期的になれない。

 このブログをスマホで書きながら、煙草を吸うために家の外に出た。朝焼けが異様に綺麗だった。死にたいときに限って世界は美しい。三流ポエマーみたいなことを思って妙に気持ちが高揚し、煙草に火を付けた。自己陶酔するには充分なシチュエーション。ただ、煙草は乾燥していて、あまり旨くなかった。プラマイゼロ!むしろマーイ!

 そんなこんなで、今日も一日生きますわ。「プラマイゼロ!むしろマーイ!」ってエンタの神様で言うてた芸人、今も芸人続けてんのかなと調べたら、続けていました。こりゃめでてーな。終わり。

俺は「解像度」という比喩に対する「解像度」が低いんすかね?

「解像度が高い/低い」という比喩が好きではない。比喩的に用いられる「解像度」の意味は、文脈から察するに「物事やフィクション作品に対する理解度」あるいは「感情や状況を的確かつ具体的に説明・表現できる能力」といったところだろう。

 しかしそもそも、写真や映像の素晴らしさは、解像度だけでは決まらない。構図も重要だ。ジョン・フォードの映画の画面よりも現代の映画の画面の方が解像度が高いが、だからと言ってジョン・フォードの映画が現代の映画に劣る訳ではない。解像度の高くないカメラで撮影された息を呑むほど美しい構図の映像は、解像度の高いカメラで撮影された凡庸な構図の映像よりも遥かに勝る。

「この実写映画の制作陣は、原作漫画に対する理解度が深い」と述べたとき、「理解度」とは「原作漫画を多角的な視点で捉え、そこから映画化する際に最適な要素を選び、深く掘り下げ、原作漫画の良さを殆ど損なうことなく実写映画に移植することができている」という意味であり、比喩的に言えば「解像度の高いカメラを使って、被写体を素晴らしい構図で写真に収めてくれましたね!」だ。理解度という言葉は、解像度だけでなく、視点や構図といった意味も含んでいる。にも関わらず、どうして「理解度」ではなく、視点が欠落した意味の狭い比喩である「解像度」を使うのだろうか。

「感情や状況を的確かつ具体的に説明・表現できる能力」という意味での用いられ方についても、同様だ。「解像度が高い」ではなく、言葉選びが豊富で的確、感情が正確に理解できる、情景が具体的に想像しやすい……等々、いくらでも言い換え可能、どころか、より伝わり易い言い回しがあるのに、何故「解像度」を使いたがるのか。ただなんとなく格好良さげだから「解像度」と言いたいだけではないのか。違うと言うなら、「解像度」という語でなければ表現し得ない微妙なニュアンスを、是非とも教えていただきたいところです。

 利便性が高く、何か頭の良さそうなことを言っている風で、しかしその実ピントがぼやけた「解像度」という比喩に頼り続ける限り、「解像度が高い」人にはなれないだろう。なんつって、ごちゃごちゃとそれらしいことを述べたが、要はなんとなくこの言葉が鼻につくだけです。この嫌悪感は、『花束みたいな恋をした』の主人公二人に対する嫌悪感に近い。あいつら絶対、解像度って言いまくってますからね。終わり。

「コロナは茶番劇」というビラを配っている人に話し掛けてみた

【注意】陰謀論者を論破!みたいなドラマティックな展開も、ユニークなオチもありません。 

 

 俺は現在、外出自粛をしていない。時折恋人とデートをしているし、濃厚接触もたっぷりしている。デート以外にも、たった一人で街に出て、書店に赴き、百貨店をうろつき、映画を観て、飯を食い、喫茶店やバーでダラダラしている。パーティーやバーベキュー、飲み会なんかは随分長いことしていないが、まあこれは、元々殆ど友達がいないからである。孤独だ。

 不要不急の外出は自粛せよと叫ばれても、潰れて欲しくない飲食店やバー、喫茶店、書店、映画館等があり、そこに金を落とすことは、俺にとって不要でも不急でもない。揚子江ラーメン総本店という梅田の旨いラーメン屋がコロナ初期段階に閉店し、しばらく意気消沈した。あのような思いは、もう二度としたくない。街に出て各所に金を落とす必要があると思っているし、愛着のある店が潰れるのを阻止するという意味では、緊急性もあると思っている。また、人生は有限だ。人生における活動全てが不要不急とも言えるし、全てが必要緊急とも言える。今「不要不急だから」と我慢したものが、一生付き纏う後悔になる場合もある。

 と、まあうだうだ述べたが、これは言い訳だと自覚している。本音はシンプルに、自粛をしたくないだけだ。本来【自分から進んで、行いや態度を改めて、つつしむこと。】という意味であるはずの「自粛」が、強制力を持った命令かの如く扱われているムードに、抵抗したいだけである。自粛、と政府やマスコミが言い続ける限り、すっとぼけた顔で、「自粛なら、自分の意思で決めればいいんやんね? じゃあ、出歩こっと」と街に繰り出し続けるつもりだ。とはいえ、感染予防対策は怠らない辺り、所詮は小市民である。外山恒一とは違う。まあ別に、彼になりたい訳でもない。

 今日も、シネマート心斎橋で『クラッシュ4K無修正版』を観て興奮したあと、梅田の阪急三番街のMitsumineで可愛い柄シャツを2着購入し、大阪駅前第2ビルの祭太鼓でカツ丼を食べた。それから、テアトル梅田へ向かっていると、ヨドバシ梅田の前で行われている演説に遭遇した。「コロナはでっち上げ」「コロナは茶番」といった看板を持った十数名の人々が、マイクで演説をしていた。その前を通ってみると、一人の女性からビラを手渡された。以下、ビラと演説の内容の要点を列挙していく。

1.「PCR検査の陽性者=感染者」ではない。

2.無症状者が他人にうつすという証拠はない。

3.新型コロナウイルスは病原体として証明されていない。コロナの存在証明がないことは、厚労省も認めている。

4.「コロナ騒動は、中流家庭や中小企業を破壊し、金融業者を中心とした一握りの世界的大資本がその他大勢の一般庶民をIT技術で管理する社会構造を作るために、世界中ででっち上げられている茶番劇」「グローバル経済である現代においては、中国、ロシア、アメリカといった大国の上に、さらにグローバル企業、世界資本のネットワークが君臨しているため、そうした壮大なでっち上げが可能になる」(原文ママ)

5.4の首謀者はロックフェラー財団ビル・ゲイツ

6.黒幕である世界的大資本はコロナ騒動によって世界各国の経済を破壊し、その隙に付け込んで財を買い占めて莫大な富を築くことで、貧富の差を拡大させることが目的だった。

7.PCR検査、ワクチン開発は共に巨大利権だ。

8.新しい生活様式によってマスクで表情を隠させ、会話を控えさせ、集会を規制し、大学を封鎖して学生運動の勃発を抑え込むことで、反発勢力を弾圧した。

9.コロナワクチンは人間の遺伝子を組み換え、体を完全に支配することができる。

10.コロナの死者数は水増し報告されている。

 実際のビラには、それぞれについて色々と根拠等が詳細に付記されていた。たとえば9のワクチンについて言うと、「このような計画は陰謀論ではなく、実際に特許申請され、計画されている。WO2020060606 身体活動データを使用する暗号通貨システムだ!」とのことだ。

 高校生のとき生物で三度も赤点を取った俺には、コロナ関連の情報の正誤を判断するのは困難だ。ただ、コロナウイルスなど存在しないでっち上げ、という主張はそう簡単には受け入れ難い。そこで、ビラを渡してきた女性に話し掛けてみた。マイクで演説している人は、自分達は目覚めていると繰り返し強調する言葉遣いと口調が高圧的で、特権意識も垣間見え、話している内容ではなく口調を非難するのはトーンポリシングといって美しくない手法だと承知しているが、それでもやはり不愉快さは拭えなかった。だが、ビラを配っていた女性は、とても丁寧かつ柔和な態度だった。以下、やりとりを記す。一言一句正確ではないが、論旨はそのままだ。

俺「すみません、ちょっとお伺いしてもいいですか」

女性「はい、どうぞ」

俺「コロナは騒がれているほど大したウイルスじゃない、という考え方なんですか。それとも、そもそもコロナなんてのは完全に存在しないでっち上げや、という考え方なんですか」

女性「それは、ここに集まっている人の中でも、考えはまちまちだと思います。私は、よく分からないというか、あるかどうか分からないと思っています。にもかかわらず、そんなあやふやなものがここまで大騒ぎされて、色んなものが規制されていることがおかしいと思っています」

 女性が配っていたビラには、「現実世界は2019年までと何も変わっていないのです。中国発のトンデモ学説を基準に、全世界が動いているのです」と記されていたから、当然「コロナなんてありません」という返答だと思いきや、まさかの「よく分からない、あるかどうか分からない」という曖昧過ぎる回答だった。この時点で「自分の考えちゃうビラを配っとんかい」とつんのめりそうになったが、会話を続けた。

俺「芸能人とかがよく、コロナに罹った体験談をテレビとかラジオで話してるじゃないですか。味覚も嗅覚も無くなったって。あれは何なんですか。嘘ですか」

女性「う〜ん……。それはよく分からない。けど、やっぱりスポンサーに不利なことというのは、テレビでは言えないじゃないですか。芸能人も、そこには逆らえない。テレビが100%嘘とは言わないけど、嘘と真実がごちゃ混ぜにされていて……。やっぱり、スポンサーに不利なことは言えないでしょ」

 コロナの存在が捏造であり、そのことを隠蔽するように世界的大資本が大手スポンサーを通じてテレビ局に圧力を掛けていたとしよう。その場合、確かに芸能人は「コロナは実は茶番劇だ」ということを知っていても言えないかもしれない。だがそれと、コロナに罹患して味覚・嗅覚が一時的に失われたと嘘の体験談を話すことは、罪の重さが大きく違う。もっと具体的に言えば、爆笑問題の田中が「コロナは実は茶番劇だ」ということを知った上でスポンサーの顔色を窺って口を噤むことはまだしも、コロナに罹ったフリをして「怖いのが、味が全然分からないんだよね」と丸きり嘘のエピソードをスポンサーのためにラジオで話すとは、到底思えない。絶対にあり得ない。根拠は、ウーチャカがそんなことする訳ないやろ!だ。

 そんな俺の胸中を知らぬ女性は、尚も続けた。

「コロナの死者数も水増しされてますからね。だって、交通事故で病院に運ばれたとするでしょ。その人にPCR検査を受けさせて、陽性だったら、その人が死んだ場合、コロナでの死者数にカウントされるんですよ。事故なのに。これはおかしいでしょ。とにかく、皆さん何の疑問もなくコロナに関することを思考停止で受け入れてるでしょ。そういう態度はやめて、いっぱい自分で調べて、自分で考えてみませんか、ってことですよね」

 あなたはいっぱい自分で調べて考えたのに、コロナが存在するのかしないのかよく分からないんですか。さっきから何遍も、分からないって連呼されてますけど、分からないのに「コロナはでっち上げの茶番劇や」という喧伝活動に加担してるんですか。

 スカッとジャパンならそうやって詰めるだろうが、俺は何も言えなかった。ビラを配る彼女や、演説をする彼らの瞳は、とても澄んでいて、美しかったからだ。ぼかした言い方をするが、ある種の人々の目は、どういう訳か、不思議なほどとても綺麗だ。数時間前に観た映画『クラッシュ』に登場した、自動車事故に性的興奮を覚える人々の目の輝きを彷彿とさせた。ビラを配っている女性や演説をしている人達に対して差別的なカタカナ四文字が脳裏を過り、そんな自分を些か嫌悪しながら、軽く頭を下げた。

「なるほど〜。どうも、ありがとうございました」

 その場を足早に立ち去り、テアトル梅田に辿り着くと、『花束みたいな恋をした』を鑑賞した。敬愛する坂元裕二の脚本であり、最後まで観た感想としては面白かったが、菅田将暉有村架純が好きな作家や作品の名前を口にするときの雰囲気と固有名詞のチョイスが妙に鼻につき、この鼻白む感覚はまるで園子温監督作品のこれ見よがしさを観ているときのようだなと嘆息した。また、「俺、結構映画好きで、マニアックって言われるよ」と述べて某有名洋画を好きだと語る初対面の人物を菅田将暉が内心で軽く揶揄するような描写があり、「うわ〜、こいつ今時まだこの切り口かよ」と辟易もした。どれだけ映画好きか分からない初対面の人間だらけの場で、好きな映画に『不安は魂を食いつくす』とか『動くな、死ね、甦れ!』を挙げる奴の方がよっぽどキモい。フェリーニブニュエルヴィスコンティ辺りでギリだ。俺も初対面の人間と映画の話になったら、まずはメジャーな名作を挙げる。そこで普通に笑顔でリアクションしてくれる人なら徐々にマニアックな映画を挙げていけばいいし、「あー、そのメジャー過ぎる映画、挙げちゃいます?笑」みたいな顔をしてくる奴なら、こっちから願い下げだ。そんな奴と映画の話をしたくない。RHYMESTER宇多丸も過去に「ニューシネマパラダイスを第一に挙げる人とは映画の話をしたくない」とラジオで半笑いで語っていたと知り、RHYMESTERのアルバムを全て持っている俺でも、思わず「うっせえな」と思ってしまった。対談のとき、北野武のこと「殿」って呼んでたけど、いつから軍団に入ってん。「(実写映画だけじゃなく漫画の)デスノート自体がアホらしくて見てらんない。子供の遊びには付き合ってられない」っつー発言もどないやねん。などと思うが、まあそれは余談なので捨て置く。

 要するに、『花束みたいな〜』の菅田将暉有村架純は、ツラはごっつええけど、性格はサブカル文系ボーイ/ガールやTBSラジオリスナーのキモい部分をしっかり備えた、俺の嫌いなタイプの人間やんけー、と気付いて苦痛だったのだ。脚本上意図したものだろうが、それでも耐え難かった。

 映画館を出て、腹が減ったので晩飯になんか旨いもんでも食って帰ろうと夜の梅田を歩いた俺の目に飛び込んできたのは、「20時閉店」の張り紙の数々だった。落胆し、思わず肩を落として俯きそうになったので、逆に思い切り胸を張って空を見上げてやった。こういう日に限って、皓々たる満月である。一月末。夜気はまだまだ冷たい。終わり。

逃げ恥SP、騒ぐほど思想強くなくなくなくなくなくない?

 逃げ恥SPを観ました。「逃げ恥おもんないなー作ってる人朝鮮人フェミニスト?」という地獄を凝縮した感想ツイートを見掛けて爆笑してしまい、このインパクトにはどう足掻いたって勝てないので感想ブログは書かなくてええかなあとも思いましたが、大晦日も三ヶ日もお仕事をして頭おかしくなりそうなので、ストレス発散を兼ねて感想を書きます。プレモルを二本空けてほろ酔いなので、文章テキトーです。最近、ビール好きになりましてん。

 俺は右翼でも保守でもないが日本が好きだし、日本に生まれてよかったと思っている、けどまあ現在の与党は支持してないし、もし韓国やフランスやイギリスやインドに生まれていたら同じように「この国に生まれてよかった」と感じてたやろなーとも思ってます。また、左翼やリベラルによく見られる欺瞞に満ちた態度も、ネットフェミニストの当たり屋めいた姿勢も大嫌いですが、知人女性がフェミニストを自認していて、彼女のことはめちゃくちゃ尊敬しています。それから、自民党政権を嫌悪している友達とも、野党がだらしないと口にしてる友達とも、仲良くしてます。お世話になっている年上の方が二人いて、一人は暴力革命でしかこの国は変わらへんと言っているゴリゴリのアナーキスト、もう一人は朝日新聞社民党が大嫌いなゴリゴリの右派ですが、二人とも心底尊敬しています。そういう人間の感想だと思って、以下読み進めてください。

 逃げ恥SPの感想、言いたいことは五つある。

一、ガッキーが可愛い。

ニ、石田ゆり子がお美しい。

三、西田尚美がお美しい。

四、前半でみくりの妊娠が診察によって確定し、婚姻届を提出した帰り道、平匡が「子どもが産まれるにあたって、僕は全力でみくりさんをサポートします。何でも、遠慮なく言ってください」と発言すると、みくりは「違う!サポートって何?手伝いなの?一緒に親になるんじゃなくて?私だって子供産むの初めてで、何にも、どうなるか不安なんです。それなのに、私が一人で勉強して、平匡さんに指図しないといけないの?一緒に勉強して、一緒に親になって、夫婦ってそういうことじゃないんですか」と返すが、これはほぼ難癖だ。「〜にあたって」は「〜の前段階において」という意味で用いられることが大半であり、「サポートします」の目的語は、子育てではなく妊娠・出産だ。確かに、一緒に親になるべきという考え方は正しいが、妊娠も出産も女にしかできない以上、男が「子供が産まれる前段階において」できることは、所詮サポートに過ぎない。つわりの苦しみを真に理解することも代わることも、男にはできない。つわりに苦しむ妊婦の代わりに買い物をしたり、家事をしたりすることしかできないのだ。平匡はそういう申し訳なさと妊婦への敬意を込めてサポートという言葉を使った可能性もある訳で、「産まれてからは、サポートじゃなくて一緒に勉強して、一緒に親になるんですよ。分かってますよね」くらいの返答で済ませばいい話だ。「みくりさんが一人で勉強して、色々僕に指図してください」なんてことを平匡は一言も言っていないのに、「私が一人で勉強して、平匡さんに指図しないといけないの?」と問うのは、ネットフェミニスト(だけじゃなく、ネット論客)がよく使う「相手の言っていないことに反論する」という手法で、美しくないから俺は嫌いです。

 そして、本題の五つ目は、「逃げ恥SP、別にそこまで思想強くねえよ!」だ。フェミニスト/ポリコレ/リベラルの押し付けだー!プロパガンダだー!胸焼けするー!とTwitter等で騒がれており、俺はドラマを観る前にちらとそれらを目にしてしまっていたので、一体どんなもんかと思っていたら、別に大したことはなかった。選択的夫婦別姓も育休も無痛分娩も、入籍や妊娠・出産を控えた夫婦が直面し得るごく普通の課題だ。妊娠して入籍した夫婦を主人公に据えたドラマがそれらを描くことに、何の不思議もない。また、同性婚が認められないことの弊害も、今ここにある課題だ。同性愛者と打ち明けたときに相手がどんな反応を示すか怖いといった描写も、思想が強過ぎるなどと騒がれるほど大層なことではない。あのドラマを観て思想が強いだのプロパガンダだのと騒ぐ人は、日頃どれほど現代日本が抱える社会の課題から目を逸らして生きているのだろうか。ナイーブ過ぎる。うぶ過ぎる。

 そもそも、みくりと平匡は「妊娠して子供ができた以上は入籍しなきゃね」「森山姓か津崎姓かどちらにしようか。でも、森山みくりには兄がいるけど、津崎平匡は一人っ子だから、津崎姓にしようか(フリーランスとしての仕事云々の話は、第二の理由として挙げられていた)」と決断する訳だが、これらの考え方は、いわゆる日本の保守的思想に沿ったものだ。別に妊娠したって入籍する必要はないが、みくりと平匡は、妊娠→入籍の流れを割と当然のものとして受け入れている。また、選択的夫婦別姓を求めて裁判を起こしたりもしない。兄がいるから、一人っ子がいるから云々という話をしていることからも分かる通り、家制度に全く縛られない、完全に自由な考え方をしている訳でもない。

 みくりと平匡は、自分達の頭で物事を考え、受け入れられないものには極力従わないが、時には折れることもある人達だ。あえてこの言葉を使うが、「普通」の人達だ。リベラル、フェミのプロパガンダだ!という意見は、もう一度言うが、ナイーブ過ぎる。

 俺は前評判を目にして、「夫婦同姓など男尊女卑!アップデートできていない!人権意識が低い!そもそも、婚姻制度自体廃止すべき!」くらいのことをみくりさんが言っているのかなと思いきや、「婚姻とか姓もそれなりに大事にしてるけど、夫婦別姓の選択肢すらないのは嫌よねー。育休も大事よねー」という、よくいる人達のお話でした。三回目になりますが、これで騒ぐのはナイーブ過ぎます。

 選択的夫婦別姓、とっとと認められるといいですね。ただし、「夫婦同姓にする夫婦は遅れている!意識が低い!」という主張は、「夫婦別姓は家族の絆を破壊する!日本を壊す!」という主張と同じくらいダメということは、各自胸に抱いておきましょう。俺の恋人は選択的夫婦別姓に賛成してるけど、「もし結婚したら俺君の苗字になりたい」つってます。ええでしょ。惚気ですわ。終わり。

いつまでもピースを

 喫煙者に煙草を吸い始めたきっかけを尋ねると、決まって「嗜好品だから、一度は試してみたくて〜」「周りの人が吸ってたから、流されてノリで〜」などという答えが返ってくる。その度、嘘吐けと心の中で苦笑する。煙草を吸い始めるきっかけなど、よほどの例外を除けば、「格好良いと思って、憧れていたから」に決まっている。煙草は格好良い。この格好悪い考えのもと喫煙を始めたと認めない者は、信用できない。一円だって貸してやらない。

 俺が初めて煙草を吸ったのは、高校一年生のときだ。RCサクセションの『トランジスタ・ラジオ』という曲に憧れて、吸おうと決意した。進学校に通っていたが馴染めなかった忌野清志郎。授業をサボり、校舎の屋上で寝転んで煙草を吸う歌詞に、美しさと共感を覚えた。早速、煙草を買うことにした。銘柄は、ショート・ピースだ。フィルターの付いていない両切りの煙草で、紙巻煙草の最高傑作だというネットのレビューに心惹かれた。若者は普通吸わない銘柄だとも書かれていたから、童顔で煙草屋に見咎められないか心配していた俺は、好都合だと思った。「ショッピください」と言えば、「こいつ未成年ちゃうやろな?」という疑いはかけられまい。そう自分に言い聞かせ、授業をサボり、帽子を目深に被って、梅田の煙草屋に向かった。緊張で鼓動が速くなり、口に饐えた味が広がったが、拍子抜けするほどあっさりと購入できた。思わず、ため息が洩れた。

 立入禁止の校舎の屋上の代わりに、近くの河川敷に向かった。太陽が眩しかった。小さい男の子と女の子と母親らしき女性が、屈託ない笑顔を浮かべて遊んでいた。寝そべると、前日に降った雨の残り香と草の匂いがした。川を挟んだ向こう側では、隠居生活を送っていそうなおじいが同じように寝転がっていた。ウォークマンを取り出してRCサクセショントランジスタ・ラジオ』を再生し、ショート・ピースのフィルムを剥がした。箱を開けて煙草の匂いを嗅ぐと、バニラのような香りというネット情報とは違い、レーズンのような香りがした。いい匂いだった。

 コンビニで買ったマッチを取り出した。百円ライターよりマッチで煙草に火を点けた方が格好良い。そう思ったし、幼少期からマッチを擦るという行為自体がやたらと好きでもあった。

 煙草を一本口に銜え、マッチを擦って火を点けた。甘く華やかな香りというネット情報とは違い、ただただ煙草の味しかしなかった。烟の量と濃さが凄くて、危うくむせるところだった。信じられないほど、不味かった。でも、格好良いと思った。

 その日以降、親や同級生らにバレないよう臭いに気を遣いながら、時折ショート・ピースを吸った。次第に上手に吸えるようになり、旨いと感じるようにもなっていった。

 ある日、仲良くなった同級生の女の子が喘息持ちだと知った。煙草の烟が嫌いだと言っていた。大人になっても、煙草は吸わないで欲しいと言われた。その日の内に、まだ半分以上残っていたショート・ピースを処分した。

 その子とは高一の終わり頃に交際を始め、大学二年生の初めに破局した。原因は完全に俺だ。身勝手で、本当に申し訳なく思っている。俺は彼女と出会えて良かったと思っているし、今現在幸せでいることを心底願っているが、世の多くの男性諸君のように、向こうもそう思ってくれているはずだと勘違いはしていない。多分、いやきっと、出会わなければ良かった、死ねばいいのにと思われている。仕方ない。自覚はある。

 その後交際を始めた別の子は、喘息持ちではないが、煙草の臭いは好きではないと言っていた。ある日、大喧嘩になった。無性に苛立ち、ふと入った近所のコンビニで、ショート・ピースが売られているのが目に入った。コンビニではあまり売られていない銘柄だが、よりによって近所のセブンイレブンには置かれていた。何度も来ているのに、このとき初めて知った。少し迷った末、マッチと一緒に購入し、店の外の灰皿で吸った。底冷えのする冬の夜だった。新月だった。星は殆ど見えなかった。三年以上ぶりに吸うショート・ピースは、心底旨かった。

 数ヶ月後、喫煙を打ち明けると激怒され、また喧嘩になったが、旨いうどん屋に一緒に行って仲直りした。彼女の前では吸わないようにしたし、基本的に会う前にも吸わないよう心掛けた。別に、苦ではなかった。煙草をニコチンを摂取するためのストローだと勘違いしてスパスパと忙しなく吸っている人々と違い、俺は旨いから吸っているのだ。そして、格好良いから。バーと喫茶店と人がいない田舎の夜の公園。ニコチンに依存している訳じゃないからそこで時折吸うだけで充分だし、そっちの方が格好良い。

 ある夜、数少ない飲み友達と一緒に日本酒と料理が旨い店で飲んでいると、絶賛喧嘩中の彼女から電話が掛かってきた。どうしても会いにきて欲しいと泣きながら言われ、友達に詫びて解散し、彼女の元へ向かった。折角楽しく飲んでる最中やったのに。苛立ちが募り、道中のコンビニの前でショート・ピースを吸った。怒りが和らぎ、気分が多少落ち着いた。それから、彼女の部屋のチャイムを鳴らした。泣きじゃくりながら抱きつかれると、残っていた怒りも嘘のように消えた。キスをすると、煙草臭いと言われた。ざまあみろ。そう言って笑うと、何故か「嬉しい」と言ってさっきよりも泣かれた。

 さて、俺はショート・ピースを吸うとき、烟と一緒にこうした思い出も吸い込んでいるのである……といったまとめ方をしたい訳ではない。むしろ、逆だ。過度なノスタルジーは敵だと思って生きている。過去を振り返るのではなく、前を向いて生きることこそ人生の豊かさだと信じている。本稿を記すにあたって色々と思い出しはしたが、普段は隠れて煙草を吸っていた高校一年生の頃を懐かしんだりはしないし、高校時代の恋人のことをこれっぽっちも考えたりしない。現在も交際中の彼女との思い出は時折懐かしんだり慈しんだりすることもあるが、それよりも今度一緒にあれを食べよう、あそこに行こうという話をしたりそのことについて考えているときの方がよっぽど楽しいし、価値があると思っている。

 バーではマスターとだらだら喋っているから別として、喫茶店や夜の公園でショート・ピースを燻らせているとき、俺は全く何も考えていない。味と香りに浸りながら、立ち昇る烟を見つめているだけだ。起きている間中、ついつい憂鬱になるようなことを考えてしまったり、深い虚無感に襲われたり、理由のない死への衝動に駆られたりするタチだが、ショート・ピースを吸っているときだけは、何も考えないで済む。ひたすら、本当にただひたすらぼけーっとできる。そして吸い終えたあと、「無心で煙草を燻らせてた俺、かっこええなあ」と思いながらロッテのACUOガムを口に放り、何度も嚙むことで現実へと焦点を合わせていく。

 ショート・ピースを吸っているとき、俺の心には平和がもたらされる。数少ない憩いの時間だ。至福のひと時だ。この短い平和を守るためなら、俺はどんな強力な嫌煙論者とだって戦争をするつもりだ。

 眠いのに一体なぜこの記事を書こうと思い立ったのか、自分でもよく分からない。世間がすっかり年末ムードに突入し、あちこちで今年の総括が始まっていることへの反発だろうか。まだ、今年は終わっていない。コロナウイルスの存在が初めて日本国内で報じられたのは、2019年12月31日だぞ、諸君。一秒後に何が起こるか分からないのが、人生だ。だが願わくば、こんな無意味な文章を年の瀬にわざわざ読んでくれたあなたの心にだけは、いつまでもピースが訪れますように。終わり。