沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

吉田豪!と思わず部屋で叫んだ話

 はっきりといつの頃からかは覚えていないが、少なくとも2017年4月、つまり大学に入学して以降、俺は徐々に妙な衝動に駆られるようになっていった。何でもいいから、心地好い「ものと数の組み合わせ」を見つけなければという不安感に、突然苛まれるのだ。たとえば、本棚に並べてある横溝正史の文庫本を数えてみる。24冊。「横溝正史の文庫本/24冊」という組み合わせは、俺にとっては心地好い。だから、すっきりして衝動は治まる。でもたとえば10月のカレンダーの「Happy Halloween」は、14文字で気持ちが悪い。何で偶数やねん、絶対奇数やろ。こんな風に不快なものと数の組み合わせを見つけてしまったり、気持ちいい組み合わせをなかなか見つけられなかったりすると、次第にイライラしてむず痒くなってくる。キツいときは、首から上がスッと冷たくなる。何とも言えない気色悪さとイライラと不安感。しっくりくる組み合わせを見つけるまで、色んなものを数えてしまう。

 今では毎日のように、この衝動に駆られる。数時間おきになる日もたまにある。こんなものを数えることに何の意味もないと理解しているし、組み合わせの心地好さに何の根拠もないことだって理解している。数えなくたって死ぬはずはない。でも、やってしまう。すっきりする組み合わせがいつまでも見つからないときには、こんな不合理な行為をしている自分にも苛立ってくる。何の意味もない行為だ。わかっている。でも、わかっちゃいるけどやめられねえlike a スーダラ節。ちなみに、植木等【ウエキヒトシ】の6音はなかなか心地好い。

 気持ちいいものと数の組み合わせを一つ見つけて、ずっとそれを覚えておけばいいじゃないか、衝動に駆られたらそれを数えればいい……という作戦も完璧ではない。衝動が軽いときは、たとえば「ウエキヒトシ」と何度も頭の中でゆっくり呟きながら音数を数え、植木等の6音っぷりを味わっていれば、不安はそのうち治まる。でも衝動が強い日は、予め知っている組み合わせでは効果が薄い。不安が和らぎはするが、強い衝動は完全には消えてくれない。「あ、これの数はこうなんや!」という、ものを数えるフレッシュな快感がないと駄目なのだ。

 しかもたとえば、「横溝正史の文庫/24冊」という組み合わせが気持ちいい日とそうでもない日がある。一度気持ちいいと感じた組み合わせが別の日には不快に感じられた、という経験は今のところ記憶にないが、この前気持ち良かった組み合わせが今日はあんましっくりけえへんな、ということは多々ある。ただし、「植木等/6音」のように、ずっと変わらず気持ちいい組み合わせもある。ものと数の組み合わせの心地好さには、それぞれ強度があるのだ。

 ちなみに、不快な組み合わせだと頭に刻まれてしまっているものも幾つかあって、それらは回避するようにしている。たとえば、ショート・ピースという一箱10本入りの煙草を吸っているのだが、残りの本数が2本か9本になるのは耐えられない。「ショッピ/2本」「ショッピ/9本」という組み合わせは気持ちが悪い。だから、残りの本数が10本のときと3本のときは、立て続けに2本吸う。

 ものと数字の組み合わせの心地好さには、消費期限がある。「植木等/6音」は最近見つけた心地好い組み合わせなので、当分の間は軽い衝動ならこれで打ち消せるはずだ。ただ、「前までなら、この程度の軽い衝動はこの組み合わせで打ち消せてたのに……」と落胆することはしょっちゅうある。お気に入りのAVを久しぶりに観たら、半勃ちはするけど、初めて観たときみたいに興奮はせえへん、という感覚に近い。

 だがそんな中でも「ほくとひちせい」の強度は素晴らしく、音の滑らかさと「七星」という意味が、文字数7と調和していて気持ちいい。文字数を数えながら「ほくとひちせい」と脳内で何度も呟くと、高確率で軽い衝動なら治まる。ただしやっぱり、思いがけない組み合わせを初めて見つけたときの方が何倍もスッキリする。

 伊坂幸太郎陽気なギャングが地球を回す』に登場する雪子という主要キャラは、コンマ一秒単位の正確な体内時計を有している。だが、学生時代に友達と音楽の話題になり、「あの曲、◯分×秒辺りがいいよねー」「え、いちいち時計観ながら曲聴いてんの?笑」というやりとりをするまで、その特殊能力を誰もが備えていると思い込んでいた。面白いエピソードだと思って記憶に残っているが、これは雪子が生まれ付き特殊能力を持っていたからそう思い込んでいた訳で、18歳になってから徐々に変な衝動に襲われるようになった俺は、きちんと「あかん、頭おかしなった」と思った。慌ててGoogle先生に尋ねると、軽度の強迫性障害ではないかと言われた。全く同じ症状は見当たらなかったが、「4や9など特定の数字に恐怖を覚える」「数や色、順番、対称性などに自分なりのルールがあって、そのことに過剰に囚われる」といった症状が典型的なものとして紹介されていたので、それらの亜種だろう。

 おいコラ、ブログのタイトルはいつになったら出てくんねん、と思ったそこのあなた、お待たせしました。今からです。昨夜、某Tubeで岡野陽一の動画を漁って笑っていた俺は、吉田豪岡野陽一が対談してるっぽい動画のサムネを見つけた。何の気なしに吉田豪の音を数えた俺は、なかなか心地ええなと感じた。「ヨシダゴウ」というややゴツゴツした響きが、5音によく合っている。本人の体格もヒョロガリではなく、どちらかと言えばガッチリ気味なのが尚良い。

 次に画数も数えてみて、激しく打ち震えた。「吉田豪!」と叫んだ。吉田豪、25画。めちゃくちゃ気持ちいい。かっちりした字面で画数が25、本人もかっちりした見た目、ゴツゴツした音の響きで5音。25と5で調和が取れているし、これはちょっと信じ難いほどの全方位的な気持ち良さだ。「吉田豪」と文字数が3で奇数なのも良い。吉田豪。ここまでの強度を誇る組み合わせを見つけたのは、過去記憶にない。どうせなら強い衝動に駆られているときに見つけたかった!とつくづく残念に思ったが、それでも嬉しい。

 経験から言って、画数は音数や文字数より強度が高い。「ほくとひちせい」は素晴らしいが、頭の中で呟く前にもう何となく7音だと分かってしまうから、やや数える快感が薄い。ところが画数はぱっと見て瞬時に画数を判断できないから、毎回指で書いて数える。たとえ画数を覚えている文字でも、毎回それなりにフレッシュな数える快感が生まれるのだ。

 吉田豪。これといった特別な感情を抱いたことはなかったが、ヒョロガリに育たなかった遺伝と環境、著名人になってくれた吉田豪本人、この名前を付けてくれた吉田豪の両親、吉田性を選んだ先祖、延いてはヒトの祖先から吉田豪まで連綿と紡がれてきた地球の歴史、それら全てに感謝したい。昨日『2001年宇宙の旅』を初めて観たので、気分がだいぶ壮大になっている。

吉田豪/25画」の強度を試したいから、初めて「早よ衝動こい!」とさえ思っている。そしてこういう日に限って、来ない。この衝動の原因が何なのか知らないが、仮に心因性のものであるなら、もしかしたら「早よ衝動こい!」と開き直って思ったことによって、衝動から解放されたのかもしれない。もし今後一切ものを数えたくなる衝動に襲われなかったら、吉田豪の著書を全部買って恩返しします。……と書いている時点で、結局本音は来て欲しくないっつーことですから、まだ当分この衝動とは付き合っていかなきゃならんのでしょうな。重症化して一日中数を数える羽目になったらキツいなあ、なんて不安が沸き起こってくることもありますが、気にせず笑顔で、平然と生きていく所存です。ワイルドだろ〜。終わり。

シティボーイズ公式YouTubeチャンネルの開設を強く願う

 東京03などに対して、「コントを超えてもはや演劇の域」といった褒め方をする人は少なくない。無論悪気はないのだろうが、この言い回しがあまり好きではない。長尺。戯画的なキャラではなく自然体の登場人物。設定がリアリティ溢れる日常、もしくは説得力を持って受け入れられる非日常。そうした要素だけで「コントを超えて、もはや演劇の域」と言ってしまうのは、コントの表現や形式の幅を、もっと言えばコントというジャンルの価値そのものを軽視しているように感じるのだ。「漫画を超えて、もはや文学の域」「テレビドラマを超えて、もはや映画の域」なども同様だ。

 上記の考えを抱くに至ったのは、シティボーイズが好きだからだ。彼らは最初の公演に『思想のない演劇よりもそそうのないコント!!』という挑戦的かつ格好良いタイトルを付けている。演劇なんかつまらないと言ってコントの道に進んだのが、シティボーイズの三人だ。シティボーイズのコントは、そして東京03バナナマンラーメンズやシソンヌやゾフィーやかが家などのコントは、たとえ演劇的な笑いの手法を取り入れていたとしても、コントを超えてもはや演劇の域に達している訳ではない。あくまでも、とても優れたコントなのだ。「もはや鮪を超えて牛肉の域に達してますねえ」と満面の笑顔で板前に向かって言えば、刺されても文句は言えまい。

 そんなシティボーイズのコントは現在、非常に由々しき事態だが、簡単に観られる状態にはない。新品で購入できるのは近作だけ(近作もオモロいですけどね)、レンタルビデオ屋は結構デカい場所でなければ置いていない、有料無料問わず、公演の配信も行っていない。直接的あるいは間接的にシティボーイズの影響を受けたコント師達が数多く活躍しているにもかかわらず、彼らを牽引してきたシティボーイズのコントを観る機会が気軽に得られないというのは、やるせない話である。ちなみに俺がシティボーイズに興味を持ったきっかけは、「ダウンタウン汁」という昔の番組を違法視聴した際、松っちゃんがゲストの大竹まことに向かって、「コントでくるっと演者が一回転して場面転換を表すのは、シティボーイズの発明ですよね。あれは凄い発明やなと思います」と述べていたからだ。

 そこで、シティボーイズの素晴らしさを知ってもらうために、俺が初めて観た彼らの公演『丈夫な足場』を取り上げてその面白さを述べていく。核心的なネタバレはしないつもりだが、いずれ真っさらな状態で観たい方は読まないように。

 既にシティボーイズのファンだよ、『丈夫な足場』も観てるよ、という方は、この先読まなくて大丈夫なので、代わりにこちらのブログをお読みください。『丈夫な足場』収録「もしかして、あなただけかもしれません」に関する痺れるような考察が記してありました。尤も2017年の記事なので、ファンの間ではとっくに知られている話かもしれません。

http://sweetbittercandypop.blogspot.com/2017/03/blog-post_17.html?m=1

 

 さて、『丈夫な足場』の一つ目の魅力は、登場人物に身体性が伴っていることだ。脚本を当て書きしているのだろうか、登場人物を演じている感が薄い。中にはトリッキーなキャラクターも登場するが、わざとらしさよりも、こんな変な人もいるかもしれないと思ってしまう説得力の方が勝つ。最近で言えば、ジェラードンの「握手会」なんかは、濃いキャラクターの割に妙なリアリティがあっていいですね。

 特に、「アヤムラのおばさん、チャーシュー泥棒を捕まえる」で斉木しげるが演じるアヤムラのおばさんは素晴らしい。ノーメイクで頭にスカーフを巻き、スカートを履いただけの斉木しげるが、見事におばさんに見えるのだ。登場時に笑いも起こっていない。コントにおける女装には、「女装姿で笑わせようとしているもの」と「コントの脚本に要請されて女装しているもの」の二パターンがあるが、「アヤムラの〜」は明らかに後者だ。だが後者の場合でも、東京03の豊本などの場合はどうしても登場時に軽く笑いが起きてしまっている。それを回避するためには、レインボー池田や空気階段かたまり、かもめんたる槙尾のようにがっつり女装メイクを施すことが有効だが、斉木しげるはスカーフとスカートと演技だけで成立させているのだから凄い。おばさんだから、というのも当然あるだろうけど。人間は歳を重ねるにつれ、外見的にも内面的にも性別の垣根が低くなっていく。

 そんなアヤムラのおばさんがコント中、煙草を落とすシーンがある。恐らく脚本にないアクシデントだが、斉木しげるはすぐさま「あら、勿体ない」と言いながら拾い上げ、コントを続ける。この「あら、勿体ない」にリアリティが詰まっている。無論、言わなくてもいい。無言で拾うのも現実にはあり得るし、なんら不自然ではない。だが、現実的な物の配置よりも画面に映る「それっぽさ」を優先した伊丹十三や、空を飛んでいる鳥に向かって「お前、飛び方が違うよ」と言い放った宮崎駿の例を出すまでもなく、リアルとリアリティは違う。「あら、勿体ない」は呟いても呟かなくてもリアルだが、アヤムラのおばさんにリアリティある奥行きを与えるためには間違いなく、「あら、勿体ない」と呟いた方がいい。同じような例として、黒川博行『桃源』の聞き込みの場面が挙げられる。「砂川」と名札を付けた従業員に対して刑事が「さがわさん?」と呼び掛け、「すながわです」と返され、「失礼しました」と謝るのだ。情景描写や人物描写にページを割かずとも、「さがわさん?」「すながわです」「失礼しました」の三行だけで登場人物達の輪郭が一気に濃くなるのだと、難読ではないが読み間違えられることが多々ある苗字の俺は、思わず唸った。

 また、『丈夫な足場』は1996年のライブだから、舞台上で平然と煙草を吸っている。煙草の先から煙が漂っているか否かは些細なことだが、やはり視覚的効果の差は歴然だ。

『丈夫な足場』の客演は中村有志いとうせいこうだが、やはりこの二人が数々の客演の中でも、シティボーイズとの呼吸という面で、頭一つ抜けている。余談だが、2007年に客演を務めたムロツヨシ、年々苦手になってきました。

 大竹まこと斉木しげる、きたろう、中村有志いとうせいこうの5名が審査員を務める裏キングオブコントを開催して欲しい。ネタは一つ、その代わり持ち時間は20分以内で。

 さて、二つ目の魅力は、メタネタの入れ込み方の絶妙さだ。俺は中学生のときにメタの巨匠・筒井康隆御大で本格的に小説を好きになったクチだから、その反動からか、メタネタや虚構の外を感じさせるアクシデントがそこまで好きではない。大好きな東京03の飯塚に対してさえ、「思わず笑っちゃうやつ、もうちょい我慢して欲しいかも」と思ってしまう。だが、シティボーイズはこの塩梅が絶妙だ。間や口調の妙なので文章にしにくいが、比較的リアリティある日常系コントの場合はさらっと、ドタバタと馬鹿馬鹿しいコントの場合はかなりがっつり演者自身を感じさせる言動をとる。コント毎に微妙にグラデーションがあり、作品を邪魔しない。ムロツヨシが苦手になってきたと先述したが、こうしたシティボーイズ的上品さ(粋さ)が彼から失われたように感じるのが、その理由かもしれない。水谷千重子宮迫博之横澤夏子、アルピー平子の瀬良社長、シソンヌじろうの「一見悪徳に見えて〜」シリーズ、園子温作品、中島哲也作品、福田雄一作品なども同様に、これ見よがしさに鼻白むから苦手だ。瀬良社長など何組かについて言えば、「あえてやっているのだ」という反論もあろうが、その「あえて」も含めてむず痒い。相棒シーズン16最終回で、加賀まりこ演じる大阪の極妻が大真面目な顔で「花のお江戸の刑事さん」と言い放つシーンがあったが、あれを観たときに覚えたむず痒さと同質だ。

 余談が長くなった。三つ目にして最大の魅力は、面白さの種類が多岐に渡っていることだ。落語のくすぐりのようにニヤニヤ笑いを誘う言葉のやり取り。声を出して笑ってしまうような、各人のキャラクターに依拠したパワーワードやアクション。笑いの手法一つとっても多様だが、単独ライブならではの構造的な面白さを備えた公演も存在するし、メッセージ性のあるコントも存在する。わざとらしくて鼻に付く構成でもなければ、メッセージを優先して作品としての質を疎かにしている訳でもない。面白いなあと楽しんでいるうちにメッセージも浸透してくるという、『寄生獣』並に優れた手付きだ。『丈夫な足場』で言えば「もしかして、あなただけかもしれません」がメッセージ性のあるコントとして顕著だが、「暗闇坂のオルガン教室」なども、当事者にとっての苦しみや恐怖の重さとそれを外から見たときの軽さとのギャップについて考えさせられる。いじめやパワハラで自殺する者は後を絶たないが、実際にいじめやパワハラを経験していない者はどうしても、「死ぬくらいなら逃げたらええのに」「死ぬくらいならぶん殴ったらええのに」という思いを完全には消せない。「暗闇坂のオルガン教室」は終始笑えるが、そんな深刻なことすら考えさせる馬力と余白がある。『思想のない演劇よりもそそうのないコント!!』を掲げていたシティボーイズのコントには、きちんと思想が練り込まれている。かまいたち山内が自身のネタとにゃんこスターを比較して(あくまでボケとしてだが)述べた言葉を借りれば、シティボーイズのコントは、「厚みが違う」のだ。

 以上。本稿を読んで、「ちょっと遠出して、デカいレンタル屋巡るか!」「高いけど中古で探すか」と重い腰を上げる人が現れてくれれば、こんなに嬉しいことはない。『丈夫な足場』を含む1992年〜2000年の公演を収録したDVD-BOX3巻セット(全て演出:三木聡の黄金期!)だけは持っているので、送料を全額負担してくれれば一年間くらいお貸しします。 

 では、本稿のタイトルに記した通り、シティボーイズ公式YouTubeチャンネルが開設されることを強く願って、筆を擱く。終わり。

「で、オチは?」

 2020年9月10日、コラムニストの小田嶋隆氏がこんなツイートをしておられた。

『大阪の会話マナーには私も適応できなかった。「お前はとっかかりからオチまで全部一人でしゃべるからダメなんや」と、豊中出身の同僚にきびしく指導されたのだが、結局身につかなかった。全員に話をふって、コールアンドレスポンスで回しながら最後にオトすとか、そんな高度な仕事は無理だった。』

『「昨日な梅田行ったんや梅田。知っとるか?」「ああ、あの赤くて酸っぱいヤツやな」「梅干しちゃうわ」みたいな、お約束のコール&レスポンスは、能力の問題を超えてテレパシーが通じてる人間同士でないと成立しないと思う。オレにはできない。一生涯無理だ。』

 小田嶋氏は一時期大阪に住んでいたそうだが、俺は上記のツイートを読んで、氏は「で、オチは?」と周囲の大阪人から時折言われただろうなと想像した。

「で、オチは?」は、他府県民がしばしば批判する大阪人の言動の一つだ。だが、「で、オチは?」には、三パターン存在する。一つ目は、仲の良い者同士の軽い戯れ。「で、オチは?」「ないよ笑」「ないんかい。時間返せ、なんの話やってん!笑」みたいなやつだ。

 二つ目は、バカリズムのコントに登場する中森くんのような、「わて、笑いの本場・大阪で生まれ育ちましてん!オモロいでっしゃろ!大阪人が二人集まれば、もうそれは漫才でっせ!そんじょそこらの東京芸人よりオモロいわ!」イズムの持ち主がマウンティングのために発するものだ。吉本興業の威を借るサブい奴である。小田嶋氏の周囲は多分、そういう人だらけだったのだろう。というのも、氏は「昨日な梅田行ったんや梅田。知っとるか?」「ああ、あの赤くて酸っぱいヤツやな」「梅干しちゃうわ」みたいなやりとりを大阪のお約束のコール&レスポンスだと思っているからだ。俺の周りの大阪人は最低でも、「あのカップル、あんなとこで何してんねんやろ」「夜景見てるんちゃう?」「ロマンチックやな。このあとホテル直行か。羨ましい」「夜景は労働者達の命の灯火やぞ。そんなもんで体、火照らすなっちゅうねん」程度の会話は即興でする。「梅田知っとるか?」「(梅田……梅……梅干し!)あの赤くて酸っぱいヤツやな」なんて面白くないかつ不自然(梅田を知らない大阪人などいないから、「梅田。知っとるか?」など大阪人相手に普通訊かない)なやりとりを大阪のお約束のコール&レスポンスだと思い込んでしまうほど、小田嶋氏の周囲の大阪人はつまらない奴ばかりだったのだろう。そうしたつまらない奴らはきっと、氏に対して「で、オチは?」と何度もドヤ顔で言ってきたに違いない。心底、同情します。

 さてところが、つまらない奴がマウントを取るために発する「で、オチは?」ではない「で、オチは?」も存在する。三つ目、「さっきから延々と独りよがりでつまらん話をした挙句、急に終わんなよ。どういうつもりやねん?」の意を込めた「で、オチは?」だ。大阪人は別に、毎回毎回話に落語のような「オチ」を期待している訳ではない。「で、オチは?」の「オチ」とは、「会話のパス」のことだ。特に小噺的オチのないバイト先での愚痴を話したあとに、「◯◯やったら、こういうとき客相手でも文句言う?」とか「だから、今めっちゃ落ち込んでんねん。◯◯はいつも気分転換に何してる?」などと言ってくれれば、「で、オチは?」などとは返さない。会話は楽しく進む。だが時折、「a scary story」の設楽みたいな口調で延々と話をした挙句、「だからまあ、いつもよりバイト疲れちゃったんだよねえ……」と言ってそれきり口を噤むタイプの奴がいる。会話はサッカーのパス回しと同じだ。パスを貰ったら、良きタイミングで誰かにパスを回せ。一人でボールを持ち続けるな。落語や芸人のエピソードトークほど面白い話なら、超絶技巧のリフティングみたいなものだから、一人でボール遊びしていても構わない。だが、ぼてぼてと蹴り続けた挙句にボールをほっぽり出し、「お前が取りに来い」とでも言わんばかりの奴には、そりゃ苛立ちもする。「ドリブルが下手なんはしゃあないからええけど、満足いくまで蹴ったならパス寄越せや!」という怒りが、「で、オチは?」には凝縮されているのだ。

 盛り上がりに欠ける話やユニークなオチのない話をしてくれても、一向に構わない。ただ、この話をあなたに伝えたい、共有したい、会話をしたいという姿勢を見せて欲しいのだ。自分の言いたいことを最初から最後まで全部一人で喋りたいだけなら、パートナーや恋人やよっぽど気の置けない親友を相手にしてください。拙いドリブルやリフティングでもニコニコ見守ってくれるような間柄の相手に。もしくは、SNS掲示板やブログに書き連ねてください。今の俺みたいにね。以上。終わり。

特派員RECの部屋のポスター

 MIU404、オモロかったですなあ。菅田将暉が大好きなんで、テンション爆上がりでしたわ。んでまあ、ボサッとTwitter観てたら、宇野維正はんが特派員RECの部屋に貼られた映画『ナイトクローラー』のポスターについて、『あの部屋に住むYouTuberのチャンネル名で、それをポスターで念押ししてるところがクソ寒い』っつーツイートをしてはったので、それについて思ったことを記しておく。

ナイトクローラー』(傑作!)を観たら分かるけど、あの映画の主人公は刺激的な映像のためなら何でもやる激ヤバな屑なので、あの映画をちゃんと理解した上で主人公に憧れてYouTubeで似たような活動を始める奴は、本来もっと悪い奴なはずなんですよ。ネットで嘘かまことか分からない情報を拡散することの危うさに自覚的でありながら、「再生数が伸びるなら、それの何が悪い」と嘯くようなタイプ。「It's Media」という風刺画がありますけど、あの絵でカメラを構えているのが、『ナイトクローラー』の主人公です。

 でもRECは最初から、アホではあっても根っからの悪党ではなかった。作中で根拠不明な陰謀論を拡散していた多数のネット民と大差ない訳です。何人か、「あの映画に憧れてYouTube活動を始めたRECは、意外と自覚的な悪党だったのか」的なツイートをしている人がいましたが、個人的には違うと思っていて、RECはやっぱり久住のような自覚的な悪ではなく、無自覚に悪い結果をもたらすアホですよ。『ナイトクローラー』の主人公は、映画観りゃ分かりますが、屑やけどまあ格好良いんですよ。フリーのジャーナリストとしてのし上がっていく様も、観ててテンション上がっちゃうし。日本史の教科書読んでて、日本がロシア倒した辺りでやっぱちょっとテンション上がっちゃう感じっすわ。でも普通の人は「とはいえ、戦争はいかん」と思うように、あの映画を観て、「とはいえ、こいつヤベえな」と薄ら寒さを覚える訳ですが、RECはついヤラれちゃった訳ですよ、ナイトクローラーの表層的な格好良さに。

 てな訳で、『ナイトクローラー』を観て痺れ、そのタイトルを冠したYouTubeチャンネルを開設して似たような活動を始めちゃう、でもその割に映画の主人公のように平然と一線を超えるヤバさやある種の覚悟は持ち合わせていない……というRECのどうしようもないほど人間臭い底の浅さを、広い家の壁にどーんと飾った『ナイトクローラー』のポスターは象徴している訳です。『仁義なき戦い』や『アウトレイジ』を観て、ヤクザ社会の容赦なさや残酷さ、悲哀を感じた上で登場人物達の色気を感じるのではなく、シンプルかつ無邪気に「ヤクザかっけえ!」とはしゃぐ人は案外少なくありませんが、RECはまあ、要するにそれと同じです。

 俺は、あのポスターが映り込んだ画をちょいとダサいと感じましたが、その画のダサさはREC本人のダサさと直結してる訳です。宇野はんの言うように、あのポスターを映り込ませることそのものがダサいとは、思いませんでした。

 てかそんなことより、やたらと持て囃されている「It's Media」の風刺画の方がダサくないですか。わざわざ書くなよ、「It's Media」って文字で。絵ェ見りゃ分かる。開始5秒で設定を独り言で説明するコント師か。まあアンジャッシュの場合は、最短ですれ違いの世界に突入するための技やからええけど。アンジャッシュのコントは新本格ミステリですわ。コント仕掛けのスペシャリスト改め、コント界の麻耶雄嵩を名乗っていきませう。復帰、待ってまーす。終わり。

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中山秀征への好感

 Twitterで相互フォローだった人のアカウントが消えていた。時折いいねをしたりされたりする程度で喋ったことはなかったが、ほんのり寂しい。一度、「前澤友作をRTしないプライドに百万円の価値はあるのだろうかと自問自答している」といったツイートを見たときに、「あると思いますよ。あれをRTするのは、美しくないですから」と話し掛けようかと思ったが、結局辞めてしまった。

 美しく生きるというのが、俺にとっての課題だ。善悪とか正しさとか面白さよりも、美しさを判断の基準に据えて生きている。日本に限らず、この世界は理不尽で出鱈目で最低だし、人生は地獄だ。死にたくなるようなことばかり起こるし、殺したくなるような奴ばかり歩いている。でもそんな感情はおくびにも出さず、余裕ぶって、格好付けて、気取って、平然とした顔をして生きていきたい。「ここは天国じゃないんだ かと言って地獄でもない いい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもない」というブルーハーツの言葉は100%現実に即していると信じて疑わないフリをして、生きていく。そうやって美しく生きようとすることが、クソだらけの世界に対する唯一の抵抗だと信じている。恋人から「俺くんくらい鈍感でいられるの、本当羨ましい。良い意味でね。悩みなさそうだもんね。メンタル強いよねえ」と言われるくらいで丁度いいのだ。そこで「俺かて色々我慢しとんねん!」なんて激昂するのは美しくない。「せやろー?」と呑気な声で返せばいいのだ、内心軽くイラつきながら、笑顔で。そうやって生きていれば、時折いいこともある。「勇者ああああ」がプライムタイムに昇格したり、『ドキュメンタル』のお蔵入りシーズンが公開決定したり。

 前置きが長くなったので、一気にタイトルに話を移行させる。俺は、中山秀征が結構好きだ。太田上田と日曜サンデーに立ち続けに出演した秀ちゃんを観て(聴いて)、そう再認識した。秀ちゃんは、お笑いファンからすこぶる評価が低い。今は「YouTuber」に取って代わられたが、それまで秀ちゃんは、お笑いファンにとって「つまらなさの権化」だった。この原因の九割以上は、ダウンタウン伊集院光ナンシー関にある。先陣切って、秀ちゃんのつまらなさを攻撃していたカリスマ達だ。

 だが、俺は秀ちゃんをつまらないっつーか「普通のことをさもオモロいやろってテンションで喋るなあ」と思ったこともあるが、一方でフツーに笑わせてもらったこともある。どんなギャグやコメントだったかという具体例が一つも浮かばないので、松っちゃんの天才的なボケや伊集院光のラジオのキレとは較べられないフツーのボケだったのだろうが、でも、ちゃんとフツーに面白くて笑ったはずだ。

 お笑いファンは、卒なく面白いときもあれば、明るく楽しいだけでそんなに面白くないときもあれば、めちゃくちゃつまらないときもある秀ちゃんを、常時めちゃくちゃつまらない人として扱う。松本人志(伊集院光/ナンシー関)が言っているから秀ちゃんはつまらない奴だという先入観、もっと嫌味な言い方をすれば、「秀ちゃんをつまらないと言っておけばお笑い通っぽいんじゃね?」感によって、秀ちゃんはポテンシャル以上のつまらないイメージを付与されてしまっている。あなたが抱く「秀ちゃん=つまらない」というイメージは、あなたがテレビを実際に観て培ったものですか?それとも、誰かの意見を見聞きして育まれたものですか?胸に手を当てて、よくお考えください。

「そりゃたまには面白いかもしれないけど、人気や露出度と釣り合ってないからつまらないって言ってんだよ」という反論もあるかもしれない。だが、だったらEXITの方がよっぽどつまんねえよ、と言いたい。さらに「どっちもつまんねえよ」と反論されれば、何も言い返せない。

 俺がなぜ秀ちゃんが好きかと言えば、明るく楽しいからだ。アホみたいな理由だが、ぼけっとテレビを観ているときに秀ちゃんを見ると心が安らぐ。ゴリッゴリのお笑い番組がもっと増えて欲しいし、ゴリッゴリのお笑い番組に秀ちゃんは出なくてもいいが、疲れているときに晩飯食いながら漫然とテレビを眺めているときに秀ちゃんが出てきたら、少しだけ元気が出る。秀ちゃんが持つ陽気さは、明石家さんまに匹敵する。「チーズ牛丼食ってそうな顔の奴」って意味の「チー牛」という蔑称がネットで流行ったが、明石家さんまや秀ちゃんは、「なんや、それ? チーズ牛丼、美味しいがな」「なんで? チーズ牛丼、美味しいでしょ?」とあっさり言ってくれそうだ。ネットのじめっとしたしょうもないノリを寄せ付けない、カラッとした陽気さがある。

 ここまで書いて、ふと、某Tubeで違法視聴した映像を思い出した。昔放送されていたアンタッチャブル司会の競馬番組に明石家さんまがゲスト出演し、たまたま局内にいた紳助と遭遇してトークが繰り広げられるという映像だった。そこで、紳助とさんまが次のような会話をする。

紳助『お前、馬買え』さんま「馬に名前付けたら、運気が落ちるって言うやろ」『じゃあ金だけ出せ。名義は俺にしたらええ』「お前は運気下がってええの?笑」『全然かまへん…笑』

(中略)

さんま「馬買うたら、お前病気になるぞ」『そんなん、もう負けへん』「地獄見てきたから笑顔やねんな。俺と一緒や。俺、二回見たもん。閻魔さん、二回ここ来たもん(掌を顔の前にかざす)。でも笑顔で地獄見たら勝ち、人生」

 しょーゆこと!とか、ホンマや!と言うときのような口調ではなく、ものすごくさり気ない、思わず聞き逃してしまいそうなほどさらっとした口調で放たれた「笑顔で地獄見たら勝ち、人生」の重みたるや、凄まじかった。

 そういえば、さんまは2010年にしゃべくり007に出演した際、ポストさんまの筆頭に秀ちゃんを挙げていた。しゃべくりメンバーは意外そうな表情を浮かべていたが(そして今なら意外に思う気持ちも分かるが)、当時小5だった俺にはしっくりきた。さんまも秀ちゃんも明るいし、司会をしているときの立ち姿もシュッとしてるし……とあっさり納得した。

 ニコニコしながら立っているシュッとした秀ちゃんを見ていると、まるでこの世界に理不尽な出来事など一つもないような気がしてくる。秀ちゃんは一言で言えば、いつだって余裕があるのだ。だから、何でもないことでも秀ちゃんが言うと面白いっぽい空気が漂う。それが時に「生ぬるい」と評される所以だろう。あらゆる規制に反抗し、面白くて攻めた笑いを追求する芸人や、そうした笑いを求めるお笑いファンにとって、生ぬるい番組の潮流に迎合しているように映る秀ちゃんは、嘲笑や憎悪の対象なのかもしれない。だが、神に問う。無抵抗は罪なりや?

 筆が滑って思わず『人間失格』の一節を引いてしまったが、よく考えれば違う。秀ちゃんは、攻めた笑いから逃れた末にああしたスタンスを取っているのではない。元々は尖った芸人だったが数多の困難に立ち向かうことができずに流され、タレント化してしまったその辺の芸人についてならば、「無抵抗は罪なりや?」の問いにも意味があろう。だがしかし、秀ちゃんは違う。秀ちゃんは最初からずっと余裕があり、面白いときもあれば面白くないときもあればつまらないときもあるという、物凄く自然体の人間らしいスタンスを何十年も維持し続けているのだ。抵抗とか無抵抗とか、そんなみみっちい場所に秀ちゃんはいない。太宰治みたいに死ぬことさえ一人でできない腰抜けと一緒にされては困る。秀ちゃんは超然としているのだ。

 2020年6月放送の深夜の馬鹿力で、伊集院光が「三密と壇蜜を掛けたギャグは流石にみんな言わないだろうけど、太田光は我慢できずに言いそう。あと、秀ちゃんは言ってるかも…笑。それと、一周回ってさんまさん」と言っていた。口ぶり的に、秀ちゃんへの攻撃ってほどではなかった。揶揄、と言うのも大袈裟な、まあ軽ーい「秀ちゃん、つまらないギャグも平気で言うよね」イジリだったが、「太田光/中山秀征/明石家さんま」という並びは、強烈に印象に残っている。

 知的で思慮深く、センスも抜群で、高校時代は友達がゼロで、当初は芸風もクールだったが、徐々に掲示板やSNSで視聴者から煙たがられるほど特番などではしゃぐようになる太田光。とても暗い過去を持つが、そんな素振りすら見せず、「笑顔で地獄見たら勝ち、人生」と笑顔で言ってのける明石家さんま。そして、中山秀征。秀ちゃんだけが浮いている。秀ちゃんだけが陽気さの根源を見出せない。太田光の陽気さは、知性や繊細さ、優しさに裏打ちされている。明石家さんまの陽気さの裏には、人生が詰まっている。だが秀ちゃんだけが、全く分からない。秀ちゃんの真顔や怒り顔を脳裏に描くことができない。頭の中の秀ちゃんは、いつでも笑顔だ。余裕たっぷりの自然体だ。秀ちゃんの過去も未来も、家族もプライベートも全く想像できない。秀ちゃんはある日突然、何処からか「秀ちゃん」として完成された姿で現れたような気がする。そしていずれ、音もなく立ち去るのだ。フォローしていた人がアカウントを削除し、タイムラインから姿を消すように。

 秀ちゃんが醸し出す空虚なまでの余裕は、俺の判断基準で言えば、とても美しい。終わり。

祖母宅にて

 2020年6月20日。朝からパチンコを打ち、8,500円を失った。霜降り明星版ダンシング・ヴァニティ、もといオールナイトニッポン0をリアタイして寝不足だったせいで、調子が出なかったのだ、ということにしておく。

 それから、79歳の祖母と待ち合わせをし、焼肉を奢ってあげた。祖母の誕生日祝いだ。祖母は日頃人と喋る機会がさほど多くないせいで、焼肉を食いながら古舘伊知郎ばりに喋り続けていた。8年前に他界した夫の命日が2日後(6月22日)に迫っているためか、延々と祖父の話をしてくれた。安い日本酒を飲み倒して朝も夜も酔っ払い、今や廃盤になってしまったエコーという煙草をこよなく愛していた祖父。禿げていて、いつも腹巻とステテコ姿で、何処となく品川徹に似ていて、俺と兄貴の区別が最後まで付かなくて、小泉純一郎を筆頭に政治家のことが大嫌いで、中卒で、声といびきがデカくてやかましい人だった。そんな祖父のことが、俺は大好きだった。必ずしも正しい人ではなかったが、一本筋の通った人だった。RHYMESTERが名盤『Bitter, Sweet & Beautiful』で「正しさだけじゃ生きていけない/美しく生きよう 美しくあろうと願い続けよう」と告げるよりも前に、俺は祖父の姿を見て、美しく生きることを胸に刻んでいた。

 飲んだくれの夫だったが仕事をずる休みしたことは一度もなかった、職人として周囲から尊敬されていたと、祖母は誇らしげに語ってくれた。酔っ払ってよう偉そうにわーわー言うてたけど、家の中でしか騒がん内弁慶やったと慈しむような顔で言っていた。退職して一日中家にいる酒と煙草塗れの祖父しか知らなかった俺は、「孫としてはオモロくて好きなじいさんやけど配偶者としては最悪やろ、よう何十年も一緒におれたなあ」と思っていたが、「シャキッとしてる部分もあったんやで」と懐かしそうに笑う祖母の顔を見て、疑問は氷解した。

 焼肉を食べたあと祖母の家に泊まり、翌日、つまり本稿を記している今日の昼間、俺は祖母と一緒にバカリズムライブ「image」を観た。流石は天才バカリズムだけあってめちゃくちゃオモロく、祖母もよく笑っていた。幕間映像の「それはね」が特に俺の好みで、オチは格好良さすら感じました。祖母の家に俺はしょっちゅう行っていて、そしてしょっちゅう一緒にお笑いやドラマ、映画を観ている。バカリズムラバーガールやナイツ、アンガールズ東京03爆笑問題ツーショット、勇者ヨシヒコやSPECも一緒に観た記憶がある。

 夜は祖母に誘われて、『志村友達〜大集合SP〜』を観た。晩飯は養殖鰻と米と高菜の漬物と祖母お手製の茄子と胡瓜の漬物。デザートに佐藤錦まで付いてきた。『志村友達』を観ている間、祖母はずっと笑顔だった。ワイプに映る大悟や研ナオコ達と同じ屈託のない笑顔を浮かべ、時折声を上げて笑っていた。祖母は俺がテレビを観たり本を読んだりしているときも79歳の図太さを炸裂させて平然とガンガン話し掛けてくるので、「やかましいなあ!」と思うことも多々あり、現に昼間バカリズムライブを観たときも色々と話し掛けてきてそのたびに一時停止を余儀なくされたのだが、『志村友達』を観ている間は、CM中を除いてずっと画面に釘付けになっていた。まるで少女のような笑顔なので、ドリフを観ていた幼い頃を懐かしんでいるのかなと思ったが、よく考えると(というか、よく考えるまでもなく)祖母は79歳で、ドリフが放送されていたとき、既に大人だ。CM中に、「ドリフの全盛期のとき、何歳やった?」と尋ねると、30代で娘を二人育てていた(当然、うち一人は俺の母親だ)と答えが返ってきた。「ドリフを観せたらあかん家もあったらしいけど?」と訊くと、「ウチは観せてたよ。あの人(夫)は、こんなテレビ観たらあかんとかは言わん人やった」と答えてから、おかしそうに口元を手で押さえ、「そういえば、唯一観せたらあかんって怒ったんが、『ウルトラマン』や。怪獣が出てくるシーンで、こんな気色の悪いものを観るな!って物凄い怒ってた」と言った。俺が「それって娘達に観せたくなかったんじゃなくて、本人が怪獣にビビったから観たくなかったんやろ」と笑うと、祖母も「そうやわ。気ィ小さい人やったから」と笑った。

 その後、居酒屋で飲んだくれた志村けんが隣の客(大悟)のビールを勝手に飲み、煙草を勝手に吸ってクダを巻くコントを観て、祖母はそれまでよりも深く、幸せそうに目を細めて笑っていた。

 祖母が風呂に入っている間にこれを書いていたのだが、出てきたので筆を措く。多分また、色々と話し掛けられるだろうから。半分以上は以前も聞いたことのある話だろうし、構成などがしっちゃかめっちゃかで何を言っているのかよう分からんことも多々あるが、それでも聞こうと思う。おばあちゃん子なので。終わり。

タイトルは思い付かんかった

 ここ数日で、ツボにハマったことが二つある。一つ目は、飯を食いながら動画を配信していたホリエモンが、寄せられた「ちゃんと野菜取って偉い」というコメントに対して、「野菜は美味しいから食ってんだ、馬鹿。ほんと死ね」とブチ切れている映像を観たことだ。キャシィ塚本を見ているときのような感覚に陥って爆笑したし、俺は怒りの沸点がおかしい人や譲れない些細なこだわりを持っていてそれに関わることについてはめちゃくちゃキレる人などが結構好きなので、ツボだった。

 さてそのホリエモン、なんか都知事に立候補するとかしないとか、N国党から出るとかそれはデマだとか、色々と呟かれているのを見かけたが、情報をシャットアウトしているのでよう知らん。大阪府民なんで都知事が誰になろうとどうでもええし、石原慎太郎が13年間、小池百合子が4年間その座に居座ってきた時点で、ホリエモンがなろうがそう変わるまい。尤も、大阪府知事も碌でもない奴が選ばれたりしてんだろ、と言われれば返す言葉はない。

 てか、改めて言及するのも何だが、N国党に票を投じた人は一体なぜ票を投じたのだろうか。N国党は「NHKをぶっ潰す」とは言いつつ、最終的に掲げている目標は単なるNHKスクランブル放送化(WOWOWのように、受信料を払った者だけが観られるようにするということ)である。やるなら解体を目指せよ、つまらん。大体、確固たる信念や理由のもと「NHKは国営放送たる責務を果たしていないから受信料を支払うに値しない」と思うのであれば契約しなければ良いし、何も考えずに契約しちゃったなら解約すれば良い。手間暇や金、工作は多少必要やが、契約しちゃったんだからそれくらいの労力は我慢しなはれ。

 N国党に投票するなんてのは一人で戦う度胸のない腰抜けのすることだと思ってしまうのだが、もしかしてN国党に投票したのは「俺はちゃんと受信料払っているのに、何で払っていない奴まで観れるんだよ!スクランブル放送化すべきだ!」って考えの人達だったりするのだろうか。それならば合点する。

 さて、ツボにハマったこと二つ目は、とある人(ゲイ)から聞いた、「ネットで調教してくれる相手を募集して、60過ぎの男性とメールのやり取りを重ねるようになったが、五回に一回くらいのハイペースで文章の最後に『人生変えちゃう夏かもね!』と記されているのがキツくて関係を絶った」という話だ。送られた側の視点に立つと、ノリがズレたおっさんに対して悪意ある笑いを向けてしまうが、つい浮かれて送ってしまったおっさんの側に立つと、何ともペーソスに満ちていて味わい深い。コミュニケーションの難しさを痛感する話だ。そういえば、コミュニケーションの齟齬から生じる笑いをコントで扱ってきたアンジャッシュの渡部が、複数の女性との不倫を認めましたね。これを機に渡部がキャラを変えて、「ビッグマックとポテトとバニラシェイク、結局これが一番旨いです」とか言い出したら笑う。もしくは、コントに再び熱量を注いでくれたら嬉しい。それ以外の感想は特にないです。浜ちゃんや03豊本の不倫を笑っちゃった時点で渡部を糾弾する資格は俺にはないし、俺自身、いついかなる場合や相手であっても絶対に浮気や不倫はしないとは断言できない。ブラマヨ吉田の言葉を借りれば、おちんちんに敗北する程度の脳味噌なので。

 余談ながら、これを書いている今、「直撃LIVE グッディ!」で佐々木希のことを「世界で最も美しい顔100人に選ばれた」と報じてましたが、アレはアメリカのよう分からん個人ブロガー(まさに俺のような)が独断と偏見で決めているだけのランキングなので、そしてその事実は既に2018年には日本にも伝わってきてましたので、未だに在京キー局のワイドショーが輝かしい経歴と言わんばかりに報じちゃうのは、流石にメディアとしてのレベルが低過ぎないかと苦笑してしまう。そんな些細なことで?と言われるやもしれぬが。

 ホンマは全く別の話をしようと思ってたんですが、だらだら書くうちに2000字が迫ってきたので、アメリカの個人ブロガーよろしく、当ブログが選ぶ「日本の芸能界で最も交際したい人トップ10(存命の人物が対象)」を発表して筆を於きます。誰が興味あんねん!(©︎ヤナギブソン)

 

10位.小田朋美

 CRCK/LCKSのボーカル・キーボード。可愛く、才能が豊かで、声が美しい。オッシャレー、以外の言葉を失うので、是非ご一聴を。

 

9位.神納花

 AV女優。読みは、かのはな。旧芸名は、管野しずか。舌が長くてエロい。

 近年、芸能人は政治的発言をするな、と叫ぶ人々が指す「政治的発言」は大抵「政権批判」と同義なので首肯できませんが、時折そう言いたくなる気持ちが分かることもある。本業で優れた功績を残している人が、頭の悪さや教養のなさが露呈するような政治的発言をしているのを見ると、ファンとしては結構悲しいのだ。右翼でも左翼でもラジカルでもリベラルでもアナーキストでも共産主義者でも結構だが、馬鹿ではあってくれるなというのが、優れた表現者のファンが言いたいことだ。AV女優の中には、浅い見識で社会を斬るツイートをしている人もおり、そうしたツイートを見ると、「この女優は絶対サンプルでだけ抜いてやる」と崇高な誓いを立てるようにしているのだが、その点、神納花はプロフィールに「セックスや性や生について日々色々考えてるAV女優。 みなさまへのお願い:わたしの出演作でなくてもいいのでAVを一本でも多く購入して観覧してください」と記している通り、そうしたツイートを日々真面目にしている。その姿勢を目にすると、よろしゅうおまんがな、と感じて、ついついFANZAの購入ボタンを押してしまうのである。

 

8位.磯貝初奈

 中京テレビのアナウンサー。『オードリーさん、ぜひ会ってほしい人がいるんです。』というオモロい番組の2代目アシスタント。初代アシスタントが強烈な個性を放っていたため、当初は物足りなさを感じたり、オードリーのあからさまなフリを見逃すのを見て「大丈夫か?」と思ったりしたが、次第に番組にも慣れていき、気付けばその可愛さにやられていた。生脚が魅力的だ。東大卒で、テッド・チャンの『息吹』を読むなど読書家の一面もある。真っ直ぐな童貞に向ける優しい笑顔と屈折した変態に向けるドン引きした顔が魅力的。

 

7位.杉咲花

 演技が上手い。容姿が綺麗。ラジオでの喋り方や笑い方が可愛い。私服が全身真っ黒というのも良い。『十二人の死にたい子どもたち』はあんまオモロなかったが、ブチ切れる杉咲花を大音量、大画面で観られただけで少なくとも1,000円分は取り戻せた。

 

6位.みちょぱ

 ギャルが好きで、生意気なくらい気の強い女性が好きなので、そりゃみちょぱは好きです。特に黒ギャルが好きなので、まだまだ白過ぎますけど。最低でもRUMIKAくらいの黒さは欲しい。というか、AV女優が飽和している現代において、黒ギャル女優の逸材はRUMIKA以降出てきていないことについてはどう思いますか。ある種、医師偏在や貧富の格差拡大にも通じる問題やと思うんですが。とかみちょぱの目の前で力説して、知らねえわって半笑いで蹴られたいっすね。あと、アメトーークの「みちょぱスゴイぞ芸人」はつまらなかったです。

 

5位.菅田将暉

 ジェンダーフリーのご時世なのでランクイン。演技も歌も良いし、可愛くて格好良くてエロいので、普通に抱かれたいです。リリース予定のCreepy Nutsとのコラボ曲は、果たして俺達世代の「今夜はブギー・バック」になるか。

 

4位.佐藤栞里

 伊集院光が「素の状態で加工した梨花と同じくらい綺麗」と評していた佐藤栞里だが、確かに笑顔が素敵過ぎまさあね。デートしたい。今このブログを書きながら有吉の壁を観ており、水中から現れたパンサー尾形が「大ドクターフィッシュ」つって相方らの足を舐めた流れで佐藤栞里の足も口に含んでいたが、普通に殺意が芽生えました。

 

3位.満島ひかり

 高校生の頃、園子温監督の『愛のむきだし』を観て惚れた。『ファニーゲーム』とか園子温作品とかはこれ見よがしの過激さに鼻白んでしまい、全然好きにはなれないのだが、満島ひかりに出会わせてくれたことは今でも深く感謝している。『カルテット』も『それでも、生きてゆく』も『監獄のお姫さま』も最高。俺は満島ひかりが、現役の日本人女優の中で一番だと思っています。全く同じ意見を、稀代の名優・坂上忍も言っていたので、間違いないです。

 

2位.鳥居みゆき

 オモロくて美しい。煙草を吸っている写真をいつまでも見ていられる。両手を広げて灰皿として差し出したい。エドワード・ゴーリーって残酷で怖くて美しい作品を描く絵本作家がいて、キンコン西野ゴーリーを好きと語っていたときには「うわあ、いかにもな自己プロデュース!うっぜえー」と思いましたが、鳥居みゆきゴーリーを好きだと語っていたときには「やっぱゴーリーええよね。流石は鳥居みゆき、センスええわ」と思いました。これを世間では差別と言います。

 

1位.小池栄子

 小池栄子です。説明不要ですね。小池栄子です。

 

 以上でーす。気が付きゃ梅雨ですね。それが明けりゃ、もう夏ですよ。各自、人生変えちゃう夏にしませう! 終わり。