沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

「親ガチャ」を討て

 どうも、日本語警察 不正造語取締課の者です。今回は、昨今急速に蔓延し始めている「親ガチャ」を取り締まりたいと思います。製造拠点は不明ですが、Twitterや匿名掲示板を流通経路としてここ数年で急激に猛威を奮っており、芸能界や政財界にまでその被害は広がっている模様です。また、「上司ガチャ」などの亜種の流通も確認されていることから、早急な対処が求められるでしょう。

 さて、しょうもない前口上はこの辺にして平生のトーンに戻るが、「親ガチャ」という造語・比喩表現が俺は嫌いだ。「親に対してそんな表現は失礼だ!産んでくれただけで感謝をせんか、このバカチンが!」といった理由ではなく、単に比喩としてキマっていないからだ。

「子は親を選べないこと」と「ガチャを回す者は出てくる中身を選べないこと」は全然違う。子にはそもそも「産んで欲しい/産んで欲しくない」の選択権はない。つまり、「ガチャを回す権利」自体がそもそもない。産まれた時点で(もっと言えば体内に宿った時点で)親は決定している。過去の事象だし、ニュアンスとしては受動的だ。一方、ガチャを回す者には「回す/回さない」の権利があり、ニュアンスとしては能動的かつ未来の事象だ。どう考えても、子供はガチャガチャの中身の方だろう。だが、じゃあ「子ガチャ」という比喩がキマっているかというと、それも微妙だ。子は親の遺伝子や育て方、環境等で大きく変化・成長するが、ガチャの中身が回す者の努力で事後的に変化・成長することはないからだ。

 ともあれ、「既に決定されてしまったことに対する、選びたかったなあ、でも選べないんよなあという気持ち」と「これから決定されることに対する、選びたいなあ、でも選べないんよなあという気持ち」は全く違うのに、「選べなさ」だけを抽出してニアリイコールで結ぶのは、あまりにも乱暴だ。こんな不恰好な比喩がこれほど広まったのはやはりそのキャッチーさが理由だろうが、不正造語取締課としてはその流れには断固として立ち向かう所存である。我々は、「穿った見方の悲劇」を繰り返してはならない。そして、伊集院光が提唱する「泥目線」をもっと広める努力もしなければならない。

 あともう一点、この「親ガチャ」という表現が好きになれない理由は、この言葉を使う人々がガチャの面白さを理解していないからだ。ガチャは必ずしも、欲しい中身を手に入れることだけが目的ではない。どう考えてもあの中身で一回この値段は高いよなあと分かっているのについつい回してしまうのは、ガチャを回すのが楽しいからだ。古き良きガチャポンにせよ、スマホゲームの「ガチャ」にせよ、あれを回して「うわ〜、何が出るかなあ」とドキドキワクワク、ウキウキバクバクするのが醍醐味の一つなのだ。ガチャは、ゲートウェイドラッグならぬゲートウェイパチンコである。

 一番欲しい商品じゃなくても、「ああ〜、外れた! でもまあ、これならえっか」というのも楽しいし、「よりによって一番欲しくないやつ出るんかい!」というのも、それはそれで楽しい。ガチャで一番辛いのはハズレを引くことよりも、同じ商品が何回も出ることだ。この点からも、基本的に一度しか決まらない親を「ガチャ」と喩えることのズレっぷりが分かる。尤も、家族や恋人や友人とガチャを回していれば、「何回こいつ出んねん!」と言って笑い転げられるし、昨今ではダブった商品をメルカリで売る戦法も一般化しているから、同じ商品が何回出ても楽しめる場合もある。

 さて、現場からは以上だ。我々は今後「親ガチャ」を服用している者を発見した場合、直ちに身柄を確保、抵抗される場合は射殺も辞さない構えである。ゆめゆめ、お忘れなきように。終わり。

推ししか勝たん

 キングオブコント2021、面白かったですね。一番笑ったのは空気階段の一本目、良いな〜としみじみ感じたのは空気階段の二本目とうるとらブギーズ男性ブランコの二本目、とある事情で感動したのはマヂカルラブリー、トータルで一番好きなのはニッポンの社長でした。ケツの頭にボールが直撃し、軽々しく悲鳴をあげない良いお客さん達がほんのちょっぴり引いた瞬間、めちゃくちゃ笑いました。吉本新喜劇とたけし映画で育ったので、反復と暴力に弱いんですよ。

 詳細なネタの評価や審査員達への評価は他の方に任せるとして、トロフィー返還でジャルジャルが登場してワチャワチャしていたとき、「ジャルジャルのノリで浜ちゃん、笑ろてくれてるや〜ん」とほっこりしました。好きなアイドルがバラエティ番組で爪痕を残したのを見て喜ぶおじさんファンの気持ちが分かりました。ジャルジャルもゴリゴリの芸人なのに、この気持ちは何だろうと思いましたが、オタクの恋人に聞いて分かりました。推ししか勝たん、というやつです。

 俺も好きな人や作品は山程あれど、「無条件に幸せを願う」「存在自体を肯定している」という推しの感覚が理解できませんでしたが(この定義自体、恋人が言っていたものなんで、合っているか知りませんが)、KOC2021に登場したジャルジャルを観て、少し理解できました。

 推し。ジャルジャルの他に誰がおるやろかとしばらく考えましたが、ぱっと思い付いたのは池上遼一バスター・キートンの二人です。前者は劇画・漫画界のレジェンド、後者はチャールズ・チャップリンハロルド・ロイドと並んで「三大喜劇王」と称されるアメリカの喜劇役者です。原作者が誰であろうと、「画・池上遼一」の文字を見ただけで即買いします。最新作の『トリリオンゲーム』バカオモロいっすよ。原作者は『アイシールド21』や『Dr.STONE』の稲垣理一郎。どっちも読んでないですが、『トリリオンゲーム』を読んだだけで天才やと思いました。

 で、もう一人の推しであるバスター・キートンですが、もうとっくに亡くなっているので「無条件に幸せを願う」ことはありませんが、彼が画面に映っているだけで嬉しくなってしまうので、やはり推しと言えるでしょう。うっとりするほどハンサムで、それでいて意外と身長が低いのがチャーミングです(160cm代後半かと思われます)。

 小柄かつ小粋な彼は「The Great Stone Face(偉大なる無表情)」と称されています。今見ても驚き、昂奮するようなドタバタアクションを終始無表情でこなすのです。苦しそう、辛そうな気配は微塵も見せません。身体能力が異様に高く、美しささえ覚えるほど見事なスタントアクションだけでも笑えるのに、そこに「無表情」という要素が加わると、ある種のハードボイルドささえ感じられて、非常に格好良いです。しかしながら、先述の通り小柄なため、コミカルさが損なわれないのが素晴らしい。我々短躯の希望の星です。ジャッキー・チェンや『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は明らかに、バスター・キートンの系譜に連なっています。

 俺には好き嫌い、面白い面白くないの枠を超えて愛している映画が何本かあり、魂の浄化のためにそれらの作品を時折観るようにしています。たとえばそれはフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』や『甘い生活』であり、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』であり、ゴダールの『気狂いピエロ』であり、エドガー・ライトの『ベイビー・ドライバー』であり、ルネ・クレマンの『狼は天使の匂い』であり、チャールズ・ロートンの『狩人の夜』であり、パク・フンジョンの『新しき世界』であり、イ・チャンドンの『オアシス』であり、ジョージ・ミラーの『マッドマックス 怒りのデス・ロード』であり、黒澤明の『用心棒』であり、S・S・ラージャマウリの『バーフバリ』であり、フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』であり、ルイス・ブニュエルの『ビリディアナ』であり、ロニー・ユーの『フレディVSジェイソン』であり、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『ベロニカ・フォスのあこがれ』であり、そして、バスター・キートンの『キートンの蒸気船』なのです(『花束みたいな恋をした』くらい固有名詞を羅列してやりました)。

 Perfumeフジファブリックの「若者のすべて」について、「この曲を聴いているときにしか味わえない感情がある」といった趣旨のコメントをしたことがあったと記憶していますが、上で挙げた映画達はまさに、その作品を観ているときにしか味わえない固有の幸福感があります。過去の自分の記憶や思い出を重ね合わせて感情を揺さぶられる作品は多々あれど、躍動するバスター・キートンの滑らかなアクションを見ているときの感動は、バスター・キートンの映画を観ているときにしか味わえないものなのです。映画の本質はアクションである、ということをまざまざと認識させてくれます。別にそれは、静謐な映画よりもド派手なドンパチ映画の方が優れている、という意味ではなく、映像作品たる映画の本質は言葉や台詞ではなく、役者の表情や視線や動きやカメラの構図、つまりはアクションにある、という意味です。

 ところで、キングオブコント2021を観ていた俺は、マヂカルラブリーのネタで少し驚き、感動しました。それはひとえに、野田クリスタルの身体的な笑いの取り方の面白さが理由です。M-1でも「あれは漫才ではない」論争を巻き起こすほどしゃべくりではない身体的な面白さを発揮していた彼らですが、キングオブコント2021での野田クリスタルの滑らかかつ躍動感溢れる動きの面白さは素晴らしく、展開が云々、構成が云々といった批評の言葉を奪ってしまい、ただ「動きが面白い」としか言えなくなってしまう魅力がありました。コックリさんに取り憑かれた野田クリスタルの動きはバスター・キートンでしか味わえないはずのあの面白さにやや肉薄しており、「推ししか勝たん。推ししか勝たん……けど、野田クリスタルもええやん」と、許されざる恋に溺れる女の子の気持ちを追体験させてくれました。

 どうですか、キングオブコント2021の話から始まって別の話題に移ったかと思いきや、もう一度キングオブコント2021の話に戻る。冒頭でさりげなく張った「とある事情で感動したのはマヂカルラブリー」という言葉を見事に拾ってやりました。これが昨今流行りの伏線回収っちゅうやつですわ! 終わり。

感情と理性

 メンタリストがごちゃごちゃ言うて問題になってましたが、俺はああいう「自分が成功しているのは自分の実力だけが理由であり、ホームレスとか百パー自業自得っしょ」的な思想の人々の二元論的な雑な思考回路と想像力の欠如を受け入れられません。が、まあそれはそれとして、近年文化人や知識人、文化や芸術を愛するリベラルな民達がTwitter界隈でよく口にする「しんどいことは無理にしなくてもいいんだよ」「辛かったり苦しかったりしたら逃げてもいいんだよ」「頑張らなくてもいいんだよ」「努力しなくてもいいんだよ」「生きているだけで偉いじゃないか」というコウペンちゃん思想にも、大いに抵抗がある。コウペンちゃんは可愛いからそれでええが、我々は人間だぜ、と思うのだ。人間至上主義である。頑張れるときには頑張れよ。努力は大切やろ。辛くても苦しくても、多少無理してでも踏ん張れよ。生きているだけで偉いっちゃ偉いけど、生きているだけなら死んでいるのと同じでしょ。などと思ってしまうのだ。こういうことを言うと、やれ鬱病だのブラック企業だのいじめだのを持ち出してくる人がいるが、そういうケースは「頑張らなくていい」「逃げてもいい」じゃなくて「頑張っちゃダメ」「逃げないとダメ」なやつだから、別件ですよ。病人や障害者についても同様で、「病気だろうが障害を持ってようがガムシャラに働け!」とは思いません。ただ、各人の病気や障害の度合いに応じて、頑張れるところは頑張るべきだとは思います(一日一日生きるだけで精一杯、という重篤な病気の人はそれで素晴らしいと思います。そういう人は、生きているだけ、ではなく、その状態が「頑張って生きている」訳ですから)。

 ともかく、味噌も糞も一緒にするんじゃないよ、っつー話です。そういやこの前看護師の兄貴と喋っていて、患者の糞尿を毎日のように処理しているから、飯時に固形の味噌を見ると「うんこやんけ」と思いながら食べるという話を聞いて、強えなあと思いました。

 俺は庶民的な家に生まれ、超贅沢ではないが大学まで進学させてくれたほどには恵まれた暮らしをさせてもらったし、今も自力でそこそこ稼げている。低身長はコンプレックスだが、まあ「アル・パチーノとかブルーノ・マーズとか、チビでもバリクソかっけえすわ」と笑える程度には気にしていないし、その他にコンプレックスは何もない。恋人も友人もいる(年収、学歴、恋人、結婚、子供、友人等の有無や多寡で人間の価値が決まるとは思っていませんが)。要するに、そこそこチョロく人生を生きている。であるが故に逆説的に、全然仕事や勉強ができない人や頑張れない人などに対しても、「しゃあない、しゃあない。そりゃ、俺くらいできる奴の方がおらんって」などと自惚れた笑顔で接することができる。交通事故に遭ったから、親の介護があったから、といった理由だけでなく、単に本人が自堕落な生活をしたから、根気がなくて働けないからといった「自業自得」な理由で生活保護を受けたりホームレスになったりしている人に対しても、まあいいんじゃないっすかーと思える。そういう人を社会的に不必要だから排除すべきという思想や姿勢は、恐ろしいと感じる。

 が、それはそれとして、個人的にはそういう人をあまり好きにはなれない。頑張れない奴のためのセーフティネットはいらない、社会から排除してしまえという動きには断固として抵抗するが、頑張れない奴は個人的には好きじゃない。メンタリストの「そんなに助けてあげたいなら、自分で身銭切って寄付でもしたらいいんじゃない?国がそういう人のために、みんなの給料から毎月3万円徴収しますって言い始めたら、皆さん賛成するんですかね?」という発言に賛同する気はないが、彼の暴言を批判していた人々のうち、果たして何割の人が街中でホームレスからビッグイシューを買ったことがあるのだろうか、そもそも目を向けたことさえあるのだろうか、とは俺も思う。言っちゃあ悪いが、嘘、悪いと思っていないので言うが、ビッグイシューを売っている人の殆どは、雑誌を手に持ちながら延々と突っ立っているだけだ。それさえ、彼らからしたら大きな一歩なのだということは理解できるし、だからちょこちょこそういう人からも買ってはいるが、そういうとき俺は「買ってあげている」と思っている。たまに、大きな声で通行人に呼び掛けて宣伝している人もいて、そういう人を見るとすぐに買うようにしているし、そういうときは「買ってあげている」ではなく「売ってもらっている」と感じている。

 人生に勝ち負けなんてない、という言葉は勝者が謙遜のために使うか、学歴だの収入だの人間関係だのにコンプレックスを抱き、他者と自分を比較して絶望している人を励ますときに使うものであって、てめえの人生を頑張らない言い訳に使う言葉ではない。あるとき、元気潑剌とビッグイシューを売っているホームレスのおっちゃんから一冊買い、少し喋ったとき、おっちゃんはめちゃくちゃニコニコしていた。何度もお礼を言ってくれた。えらい綺麗事やなあ、と嘲笑されかねないことを今から言うが、俺はあのおっちゃんの人生は「勝って」いると本気で思っている。

 さて、本来はこの話題からシームレスに次の話題へと接続する構想で書き始めたのだが、生まれてこの方ガンプラを完成させたことのない俺にはつなぎ目をヤスリで削る手間が苦痛なので、不器用にこのまま次の話題へと移ります。

 少し前、男が刃物で大学生の女性を含む10名の人々を斬り付けた事件が発生した。36歳の男は、「6年ほど前から幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」と供述したそうだ。で、この事件をきっかけにネット上では、弱者男性を救済せよという声や女性差別をなくせという声が噴出し、対立し始めた。弱者男性とフェミニストはフレディとジェイソン並みの死闘をしょっちゅう繰り広げている(余談ですが、俺は『フレディvsジェイソン』が大傑作だと思っていますし、これを評価しない日本の映画人やら映画ファンやらを小馬鹿にしています。高橋ヨシキくらいっすよ、評価してるの)

 はっきり言って、俺は弱者男性の気持ちが分からない。おらは強者男性だじょー、と威張るほどマッチョではないが、運、環境、才能、努力によって比較的ずっと勝ってきたしそこそこモテてきたので、申し訳ないが弱者男性の苦しみを芯からは理解できない。そこで、良い記事を見つけた。https://note.com/mefimefiapple/n/n6b712e954db8

 長いが、この人の記事は全て一読に値する。現代日本には、女性差別が確実にある。しかし一方で、弱者男性の置かれる苦しみも相当なものなのだと納得できる。一言一句疑問・反論の余地がない、という訳ではないが、理性的に書かれた文章だ。

 この記事を読む前、俺は下記のようなツイートをした。

現代日本は「強者男性>強者女性>弱者女性>弱者男性」なので、強者女性は「(同じ強者なのに)男は優遇されている」と感じるし、弱者男性は「(同じ弱者なのに)女は優遇されている」と感じる。で、ネットで戦ってるのは大体、弱者男性と強者女性。だから議論が噛み合わない。前提、見えている世界が違う。つー仮説を立てたけど、女性でも弱者男性でもないので実際のところは知らないです。

 これは今でも全くの的外れだとは思わないが、記事を読むと、もっと根深いんすね……と考えを改めさせられた。全ての弱者男性とフェミニストが、そして俺のようにそのどちらでもない人々が、攻撃的な闘争ではなく建設的な対話によって、男性優位社会と弱者男性差別の改善を図らねばなりません。改めて、ナイナイ岡村さんの風俗嬢に対する失言について、爆笑問題・太田が長尺で語ったカーボーイ回の素晴らしさを思い出しました。太田光の口から祈りのように繰り返し放たれた「分かり合えるんじゃないか」という言葉は、この一件にも通じるはずです。

 爆笑問題といえば、この前のラフ&ミュージック、ぶっちゃけ音楽と笑いの融合っつーコンセプトは最後までよう分かりませんでしたが、なんだかんだ最高のときのフジテレビでしたね。ナイナイ&中居は画面に映っているだけでめちゃめちゃ楽しく、松っちゃんは相変わらず最強に面白く、爆笑問題は超絶格好良かった。去年、ダウンタウン司会のTBS特番「お笑いの日」の中で松っちゃんが口にした「『笑いの日』を何カ月か前にスタッフがお願いしに来たじゃない? そのときに(ネタ)やらんでええのかなって思った。全然言ってけえへんから、やらんでええんかって。なんで言ってけえへんのかなってずっと思っていた」という発言を俺は忘れていない。しっかりと作り込まれた作品としての漫才は、それこそもう爆笑問題に勝つのは無理なので、ダウンタウンにはコントをして欲しい。ビジュアルバムやごっつええ感じとガキ使を信奉する者としては、コントとフリートークこそダウンタウンの真髄だと思っているからだ。

 最終的に何の話やねん、という感じですが、まあいつものことですわ。ほな、ONE PIECE100巻買いにコンビニ行ってくるんで、この辺で!終わり。

シャマラン監督『OLD』あっさり感想(ネタバレ有り)

 タイトル通り、シャマラン監督の『OLD』を観たので、その感想をば。ツイートするにはネタバレがあるし、かと言って、よく見かけるフセッターってやつの使い方を知らないので、ブログで。

 トリッキーな設定の超常現象モノを観ると我々ワガママな観客は、「この超常現象が起こる理由とは?」という部分もきちんと合理的に、必然性があって主人公達に降りかかった超常現象だと説明されることを望む。これにちゃんと応えたのが『GANTZ』であり、ガン無視したのが『僕だけがいない街』だ。「なぜ死んだ者がアパートの一室に転送されて、異星人達との殺し合いを強いられるのか」という読者の疑問に、GANTZはきちんと筋の通った理由を用意していた。一方、『僕だけがいない街』は、「タイムリープ現象はこの作品世界の中では存在する現象なんです!もうそれは何故?とか原理は?とか理由は?とかいう疑問を持つモノじゃなく、あるものはあるんです!たまたまそれに遭遇した人物の人生を描いているだけです。タイムリープ発生のタイミングがご都合主義過ぎる?ええい、やかましい!」といった塩梅だった。

 もちろん、説明の筋は通っているけど内容がつまんねーな、という作品はいくらでもある。逆に、超常現象の理由とかは考えずに「あるものはある」と受け入れちゃえば面白え〜、という作品もいくらでもある。ホラー映画にいちいち「死後に幽霊として出現する場合としない場合の違いは?どういう法則性があるんだよ、説明しろ!」なんてツッコミは野暮だ。

 で、シャマラン監督の『OLD』である。「バカンスに訪れたビーチの時間の流れが超絶速い」なんて設定は、そりゃ「何故そこだけそんな現象が起こるの?」「主人公達はたまたま訪れたの?それとも選ばれたの?たまたまだったらつまんないよね、選ばれたんだよね?それもきっと、面白い理由で選ばれたんだよね⁉︎」という観客のパワハラめいた疑問と期待が殺到すること必至である。ただ、「時間の流れが異常に速い」なんてのは、「そこだけ地球の磁場が〜」とか「特殊な気候で〜」とか、そういう「あるものはある」系の説明以外を作るのは難しい。そして、それでは我々観客は納得しない。「神が来るべき人類滅亡に備えてノアの箱舟を作り、新世界に連れて行くに値する人間を選抜するために過酷な試練を与えたのだ」みたいな理由でもイケるが、「ああ、そうっすか……笑」感は否めない。

 そこでシャマラン監督は、主人公達がビーチに閉じ込められて早々に、何者かが遠くからビーチの様子を監視していると明示することで、「時間の流れが超絶速い現象自体は、特殊な環境によって存在するもの。あるものはあるのです!ただし、主人公達がこの地を訪れたのは偶然ではなく何者かの意思が働いており、その理由は面白いですよ」というエクスキューズをさりげなくしている。このバランス感覚は、流石に巧いなあと上から目線に感心しました。難しい問いをさりげなく躱して、簡単かつ刺激的な答えを返す論点ずらしのプロ、ひろゆき氏に匹敵しますなあ、という感想は、シャマラン監督に失礼か。

 以上です。あんまり評判良くないらしいですが、最高傑作の『アンブレイカブル』あるいは『ミスター・ガラス』には及ばないものの、映画館で観る価値ありの一作でしたよ。

 あと、シャマラン監督、カメオ出演の範囲を超えてんじゃん、出たがりやなあ、小林賢太郎かよ、とも思いました。終わり。

非自粛宣言

 俺が住む大阪府に、4回目の緊急事態宣言が発出された。何回目だよ、もう緊急感全然ねえよ……などという声がネット上に溢れているが、大仁田厚の引退宣言回数は7回だ。上には上がいる。

 そして、緊急事態宣言が発出された今、俺はここに、非自粛宣言を発出する。そもそもなんやねん、発出って。いやまあ別に、発出という単語自体は新語・造語ではないらしいけどさ、それまで殆ど誰も使ってなかったのに、ある日「緊急事態宣言」の出現と共に何の注釈もなくメディアが「発出」と使い出し、なんとなく我々国民も字面と文脈から意味を推測してそれを受け入れたっつーことに、妙な気持ち悪さを覚える。

 閑話休題。非自粛宣言とは何か、だが、読んで字の如く、俺は自粛をしませんという宣言だ。ただ強調したいのは、反自粛宣言ではないということだ。一時期ヨドバシ梅田の下に集っていた、そして今は全員死んだのか知らんがめっきり姿を現さなくなった「コロナはでっち上げ」論者達のように、「自粛するなど愚か! 自粛するな! 貴様らも目覚めよ!」と声高に叫び、自粛しないことを尊ぶつもりはない。医療体制の逼迫・崩壊はヤバいらしいし、コロナに感染すると場合によっては結構ヤバいんでしょう。一人一人が外出自粛をして感染を広めないことが、市民の務めだという意見にも頷ける。

 が、俺は外出を自粛しない。先日は従姉妹と叔母と祖母と4人で飯を食ったし、恋人とUSJでデートもしたし、一人で映画館や喫茶店やパチンコ屋にも行っているし、来週は久しぶりに会う友達と県を跨いで酒を飲む。友達が少ないため田中圭みたいに大勢で集う予定は今のところないが、もし俺が田中圭の立場だったらやはり、誕生日パーティーを存分に楽しんだだろう。

 俺の人生は、俺の人生だ。俺には俺の人生を楽しく生きる権利があり、いつまで続くとも知れぬ外出自粛とやらにずるずる従った結果として数年後や数十年後に一生の後悔を背負う羽目になったとしても、責任を取ってくれる者はいない。無邪気で生意気なクソガキ生活を奪われた小学生も、繊細で多感で凶暴でやかましい集団でのはしゃぎを奪われた中学生も、甘酸っぱい青春を奪われた高校生も、最後のほろ苦いモラトリアム期間を封じ込まれた大学生も、その傷を癒されたり補償されたりすることはこの先決してない。それを忘れさせ、帳消しにしてくれるような幸福はきっと訪れるだろうが、コロナ禍で我慢した不要不急の活動のかけがえのなさ自体を取り返すことはできない。数年後や数十年後に、東京オリンピックの開会式の酷さやその原因が語られることはあるかもしれない。森喜朗電通のジジイは改めて批判されるかもしれない。当時の、つまり現在の政治や行政の無能や失策も非難の的に晒されるかもしれない。和牛商品券って正気か、マスク2枚ばら撒きってイカれてんな、通勤電車を減便ってなんで役人は誰も止めなかったんだよ、などと半笑いで語られるかもしれない。そして、「当時の若者、可哀想やなあ」と同情されるかもしれない。だが誰も、奪われた若者の暮らしの豊かさを復元はしてくれない。「第二次世界大戦の犠牲になった当時の日本人可哀想やなあ、でもまあ、政府や軍人だけが暴走したんじゃなくて、当時のメディアが戦意高揚を煽り、国民もそれにライドオンしてたっつー側面はあるんよねえ」と2021年を生きる我々が感じるのと同じように、「コロナ禍の政府は無能やったけど、そいつらにずっと政権を握らせてたのは当時のメディアであり国民やっつーのもまた事実やからなあ」と複雑な感情を抱かれるのだろう。あるいは、そんな批評をされないほど日本が劣化し、退化しているかもしれない。いずれにせよ、未来の誰も俺達の現在を取り戻してはくれない。

 俺は自粛をしない。それによってコロナに感染し、重篤な症状に見舞われたならば、無様に泣き、後悔し、ジタバタしながら生きていく。俺が自粛をしなかったせいで俺と接触をしていた大切な誰かが感染し、彼らや彼女らが重篤な症状に見舞われたならば、心苦しさや申し訳なさを感じ、でも俺と会ってたっつーことはお前らも自粛してなかったやんけと開き直り、でもやっぱ悪いなあと思い、そして引き続き生きていく。あるいは、俺も彼らもコロナで死ぬ。

 俺は自粛をしない。外出時には感染対策をしているが、飛沫の及ぶ範囲に人がいないときや、映画館の上映中のように声を発しない状況では、マスクを外している。俺が外出自粛をしなかったせいで感染し、重篤な症状に見舞われたり死んだりする人が、検証の仕様はないが、いるかもしれない。

 だが、どうでもいい。コロナ禍と外出自粛で若者が可哀想、と言う人が誰も若者一人一人の人生と向き合ってコロナ禍による喪失を埋める手助けをしてくれないように、俺もコロナ感染者が可哀想だとは思うが、もしかしたら俺が感染させた人もいるのかな、悪いな、などとは考えない。別に、「もっと俺達若者を哀れめ!」とか「若者ばっかり悪者扱いして、お前ら上の世代がそんな態度だから出歩くんだぞ、プンプン!」とか言いたいのではない。俺の人生は俺の人生で、あなたの人生はあなたの人生だ。互いに代わることはできないし、埋め合うこともできない。俺は好きなようにするから、あなたもどうぞ好きなようにしてください。自粛しない若者を非難する権利は当然あなたにあり、そのことを咎めるつもりはありません。俺は自粛をしない。あなたは自粛しない若者を責める。それを続けましょう。緊急事態宣言が明けるまで。コロナ禍が明けるまで。俺かあなたが死ぬまで。

 アイラウイスキーの巨人・ラガヴーリンを飲みながらこの記事を書いているが、別に酔ってはいない。なんとなく戯画的な口調になってきたのは、最近『忍者と極道』を一気読みして超面白かったからだ。幸か不幸か、酒で殆ど酔わない。ぽわーっとはするが、酩酊はできない。ぽわーっとするためだけならマリファナでもトルエンでも構わないが、酒を飲んでいるのは、旨いからだ。おいら、という一人称がサマになっていないでお馴染みのひろゆきは、「お酒って酔うために飲むんですよ。美味しいお酒を飲みたいとか、基本的にみんな嘘つきだと思ってます」と言っていたが、一生そう思っておけばいい。

 ラガヴーリンをストレートで飲んでいると喉が渇いてきたので、チェイサーを取りに台所に向かった。チェイサーは、アサヒスーパードライだ。ウイスキーのチェイサーにビールを飲むのは外国では割とポピュラーらしいが、日本でそれをしているのは余程の酒好きか、酒好きをアピールしたい奴か、俺のように『犬の力』を読んで「チェイサーにビール!イカしとんがな」と思ったかのどれかだ。

 スーパードライを飲み、どうやって本稿を終わらせようか考えていると、大学生の恋人からLINEが来た。7月中旬に大学で受けられるはずだったワクチンが厚生労働省による職域接種の確認作業の遅れのために8月中旬に延期になったが、もう8月だというのに何の連絡もない。絶対9月にもつれ込むだろう、とのことだ。

 返信を考えながら、暇潰しにテレビをつけた。河野太郎が若者のワクチン接種率向上を目指して、YOSHIKIと対談したらしい。若者の感染者数が増えているらしい。若者が街に出歩いているらしい。若者はワクチンを拒絶しているらしい。

「コロナの怖さ どうして若者に届かないのか」

 テロップが出た。若者に届かないのはコロナの怖さではなく、ワクチンの接種券やろ。

 大して気の利いていないツッコミを入れつつ、LINEに返信をした。

「ワクチンが間に合おうが間に合うまいが、10月ディズニーランド行こうぜー。ハロウィンやし」

 コロナ禍はどうせ、いつかは明ける。もしくは、明けたというフリをみんながする。それまで、俺は自粛をしない。何故なら、「自粛」するか否かの決定権は、俺にあるからだ。終わり。

小山田圭吾のこと(ウソ、ほぼ俺のこと)

 小山田圭吾が過去に凄絶ないじめを行なっていたと雑誌のインタビューでへらへら語っていた噂を知ったのは、もう随分と前のことだ。それ以来、小山田圭吾の手掛ける音楽を聴くときは意識的に、とっくの昔に死んだジャズ・ミュージシャンの曲を聴くときのような気分に切り替えてきた。

 小山田圭吾を糾弾してこなかったファンにも責任がある、と言われればその通りだが、好きな著名人全員の脛の傷を批判して謝罪や反省を求めるなんて、自分の人生を生きている人間にとっては時間も根気も足りない。そもそも、どこまで尾鰭が付いているのかも分からないし、それを調べるだけの気力もない。

 なんてのはまあ言い訳で、要はどうでもよかっただけだ。小山田圭吾の音楽は金と時間を費やして聴く程度には好きだが、熱心な追っかけ、一番好きなミュージシャンという程ではない。この人の人間性を変えたい!と思うほどの熱はない。素敵な音楽を奏でてくれるから、有り難くそれを聴かせてもらいやす。昔エグいことしてたっつーけど、まあ俺が小山田圭吾と知り合って友達になることは多分ないからええわ……という訳だ。

 この考え方が「ファンとしての責任がある」と言われれば反論はできないが、だったらあなた方は世に蔓延る理不尽で酷いことを可能な限り殲滅すべく行動しているのか、とは問いたい。ハッシュタグデモに参加しているだけで、自分は全身全霊をかけて闘っているのだと自負されては困る。ハッシュタグデモなんて何の意味も効果もない、と冷笑する気はないが。

 で、今回の小山田圭吾をオリパラ開会式に起用した件だが、「そりゃ悪手だろ 蟻んコ」とネテロ会長に見下されるやつだ。小山田圭吾の過去の暴行事件は、ネット上では何年も前から話題に上がっていた。小山田圭吾がメジャーなミュージシャンではないから(米津玄師とかと較べれば、という意味です)、小山田陣営が沈黙を貫いてきたから、我々ファンが見て見ぬ振りをしてきたから、この問題が炎上することはなかったが、少なくはない人々が東京オリンピックパラリンピックに反対している現状で小山田圭吾を開会式に起用すれば、燃え上がることは容易に想像がついたはずだ。

 件のインタビュー当時、ああいう露悪的なもの、鬼畜的なものを面白がる風潮が一部にあった……のかどうかは、1999年生まれの俺には分からない。小山田圭吾がつい話を盛ってしまった部分がどの程度あるのか、インタビュアーがどの程度誇張して記事にしたのかも知らない。ただ事実として、あの記事が世に出回り、それを長年否定したり反省を示したりしてこなかった訳だから、そんな奴を平和の祭典たるオリンピック・パラリンピックの開会式に起用してはいけないだろう、という論理は頷ける。辞任もやむなしだろう。

 ただ、小山田圭吾を熱心にネットで叩いているあなたに一つだけ言いたいのは、「小山田を叩くの、結構楽しんでますよね? それだけは自覚しておいてくださいよ」ということだ。小山田を叩く「楽しさ」は運動して汗を流す楽しさや酒を飲んで馬鹿話をする楽しさとは違って、陰性でじめっとしていてドロドロとした楽しさだろうが、それでも楽しんではいるはずだ。

 そう断言する根拠は、中学時代の経験にある。当時、クラスにKという男子がいた。ヤンキーぶっていて、クラスメイトの大半に煙たがられていた。しかも、同じヤンチャ系グループの男子からも「最近あいつイキって態度デカいけど、中学入ってからやろ、あいつがヤンキーになったの。筋金入りちゃう。成り上がりヤンキー、ナリヤンや」と疎まれ始めていた。大阪のクソ田舎でろくに殴り合いの喧嘩をしたこともない中坊たちが「本物だ」「ナリヤンだ」とマウントを取り合うのは、今思えば馬鹿馬鹿しくて微笑ましいが、当時の俺らにとってヤンキーグループはやっぱりそこそこ権力者達だった。

 で、ある日俺がそこそこデカい声で何かくだらないことを言い、教室が微妙な空気になったとき、Kがデカい声で言い放った。

「うわー、〇〇めっちゃスベってるやん!」

 女子達がクスクスと笑った。男連中も笑っていただろうが、思春期真っ只中の童貞中坊、女子の視線しか気にならなかった。バイセクシュアルを自覚するのは、もう少し先の話だ。俺は屈辱に燃えた。当時の俺は「オモロい奴」ということで、ムードメーカー的ポジションだった。ヤンキー君たちみたいに権力はなかったが、そこそこ権威はあった。それを一回スベったからって、鬼の首を取ったように騒ぎ立てて恥をかかせやがって。この朕に! Kのようなナリヤンの小童が! つー訳だ。Kはしつこく騒ぎ、教室も次第に白けていった。俺は心の中で「死ね」と毒づいた。

 以来、なぜかKはことあるごとに、俺をdisったり鬱陶しい絡みをしてくるようになった。教室で孤立し始めていた彼なりに、どうにかクラスメイト達と繋がろうとしていたのだろうか……なんてことを考えるはずもなく、俺はただただイラついた。「今度なんか言うてきたら、あいつに文句言うわ」と友達が言ってくれたり、優しい女子から「先生に言った方が良くない?私が言おか?」と尋ねられたりすると、余計腹が立った。いじめは数や空気やノリが支配するものだとは知らず、いじめられっ子は弱くてダサい奴だと思っていたからだ。親や教師に泣きついたり、クラスメイト達に助けられたりなんてダサい。俺はいじめられっ子じゃない。だから、「いやいや、あんなんただのイジリやろ。俺もようやるし、全然気にしてへんで」と虚勢を張り続けた。チビで童顔のくせに、マッチョイズムに満ちていた。

 ある日の休み時間、男女何人かで喋っているとき、Kの悪ぶっているけどサマになっていない言動をネタにしてみた。大いに盛り上がった。次の日も次の日も、俺はKを笑い話のネタにした。話を聞きにくる奴の数は増え、俺の知らないKの話を提供する奴もちらほら現れた。ヤンキー君たちが顔を出すこともあった。

 Kは居場所がないせいか、休み時間に殆ど教室にいることがなかったから、思う存分Kの悪口で盛り上がることができた。だがある日、どういう訳かKが休み時間になっても教室から出ていかなかった。もしかしたら、自分のいない間にクラスで悪口大会が開かれていると噂で聞き、それを確かめようと、あるいは阻止しようとしたのかもしれない。

 ともかく、本人がいるならできへんなあと思っていると、Nという男子が「今日はいつものやつせえへんの?」とデカい声で言ってきた。いや、本人がおる前でできへんやろ、と思ってから、俺はコペルニクス的転回を得た。「Kは他の奴の前で俺のこと揶揄ってくんねんから、別にえっか」と思ったのだ。十人ほどで輪になり、俺達は話し始めた。Kの名前は出さなかったが、しばらく耳を傾けていれば、自分がネタにされていると容易に分かる内容だ。俺達はチラチラKを見ながら悪口に興じ、笑い、いつの間にかKの存在を忘れてフツーに盛り上がり、気付けばKは教室から消えていた。罪悪感めいた胸の痛みが襲ってきたが、「先に理不尽に絡んできたんはあいつやからな。俺はやり返しただけや」と自らを正当化した。

 翌日から、Kがイキった言動をするたび、俺達は「うわ〜、ネタにして盛り上がってる言動そのまんまやなあ」とクスクス笑った。それまでと違って、Kを小馬鹿にしていることを誰も本人に対して隠そうとしなくなった。休み時間には、それまではKの言動を揶揄する話で盛り上がっていたが、次第に「過去にKにされた嫌だったこと」を発表するようになっていった。「ショートカットにしていったら、いきなり『似合ってへんなあ』って言われた」「体育のバスケで、『役立たず』って言われた」云々、Kから理不尽に受けた被害を報告し合い、Kは最低な奴だと確かめ合った。そうすることで、自分達がこれまで、そしてこれからもKの悪口を言い、小馬鹿にすることは、いじめではなく正当な報復なのだと思い込もうとした。誰も、明確に言葉にはしなかったが。

 ある日、Kは学校を休んだ。翌日も、その翌日も来なかった。俺達は休み時間にKの悪口を言って盛り上がるのを自然とやめたが、「俺らのせいで休んでんのかな」などと話し合ったりもしなかった。誰もが素知らぬ顔で、何気ない会話を繰り広げていた。

 Kが学校に来なくなって一週間以上経ったある日の放課後、先生が言った。

「Kに嫌がらせとかいじめをした覚えのある人はおらんかな」

 先生は一人一人、名指しで尋ねていった。俺達は平然とした顔で、小首を傾げた。綺麗な顔をしたとある女子は、「前にK君にこんなことをされて嫌やったっていう話をみんなでしたことはありますけど、悪口とかは言ってないです」と毅然とした態度で言った。「Kのあの舌を鳴らすクセ、ホンマきしょい」と笑っていた子だ。

 後方の席に座っていた俺は、内心ドキドキしていた。他のみんなのように「知らないです、いじめてません」と言えるだろうか。流石にそれは白こ過ぎひんか。格好悪いやろ。そうや、「確かに俺はKの悪口をめっちゃ言いました。でもそれは、元はと言えばあいつが俺に絡んできたからです。やり返しただけです」って言うたろ。だってそれ、ホンマやもん。俺はKが絡んできたからやり返しただけで、Kが何もしてこんかったら、俺も何もしてへんし。え、ホンマかな。いやぶっちゃけ、最初の数回だけやろ、Kへの憎悪で悪口を言ってたのは。残りはずっと、楽しかったからや。あいつの悪口でみんなが盛り上がって笑ってくれるのが、嬉しかったからや。あいつを寄ってたかって悪く言うてると、安心したからや。最悪やな、それ。俺の根性、大っ嫌いなKとほぼ同じやん。

 などと考えている間に、先生は一人一人に尋ねるのをやめてしまった。俺の番は回って来なかった。先生は「そうか……。じゃあまた、Kが学校に来たら、普通に迎えたってあげてな」と言った。俺達は「はあい」と口々に返事をした。

 未だに、あの先生が何を思っていたのかは分からない。いじめがあったと悟った上で諦めたのか、それともやや問題児だったKが少し自分のことを悪く言われただけで大袈裟に傷付いただけなんやなと解釈したのか。

 いずれにせよ、先生がそれ以上この問題を追及することはなかった。数日後、Kは登校してきた。俺達は誰も「おはよう」と言わなかったが、それ以来誰もKの悪口を言わなかったし、一時期Kの悪口で盛り上がってたなあと述懐することもなかった。俺達はしれっと卒業の日を迎えた。

 小山田圭吾を批判するなとは思わない。噂が事実なら、小山田圭吾が可哀想だとも思わない。ただ、小山田圭吾を大勢で吊し上げるとき、自分を突き動かしているのは「いじめは許せない」という正義感だけではないと自覚はしておくべきだと思うのだ。

 Kの悪口で盛り上がっていた当時の俺は、クラスメイト達にいきなり嫌なことを言うKと相似形だし、障害を持った同級生を暴行する小山田圭吾と相似形だし、小山田圭吾を攻撃的に吊し上げている人々と相似形だ。大小はあれど、形は同じだ。と、思うのですよ。

 俺は今でも、あのときKの悪口をみんなで言い合ったことを後悔している。「うっさいんじゃ、ボケ。いちいちしょうもないことで絡んでくんな、キモいねん。殺すぞ」と、俺一人で正面切ってKにキレればよかったのだ。

 以上。しっかりとした結論やオチはない。小林賢太郎解任の件はまた、気が向いたら書きます。開会式はまだ見ていませんが、録画しているので、休日に観ます。ガンバレ、ニッポン!終わり。

I love myself

 夜中の1時に仕事を終え(ブラック企業じゃねえっすよ、シフト制のサービス業なんで)、帰宅して飯を食った。翌日、日付変わって今日は休みだから、プレミアム・モルツを飲んで録画していたバラエティ番組でも観ながらソファで寝落ちしようかと思ったが、帰宅するなりお茶を飲んでしまったため、そこまで喉が渇いていない。その状態でプレモルを飲むのはもったいない。おまけに、眠気もない。少し悩んだ末、風呂に入り、家を出てバイクにまたがった。真夜中。大阪・梅田に向かって走り出した。「山本珈琲館 梅田YC」という朝5時30分からやっている喫煙可の喫茶店があるから、そこでダラダラと過ごしてから梅田で遊ぼうという計画だ。

 ORIGINAL LOVEの「夜をぶっとばせ」を聴きながら、殆ど車の走っていない道路をひた走る。「きみを愛してるのに 訳もなく 気分はどこかブルー 幸福な夏の午後なのに なにもかもひどくブルー」「きみのせいじゃないさ 訳もなく 気分はいつもブルー」「いますぐスピードを上げるから キスしておくれ」「悲しみをぶっとばせ」といった歌詞の数々に、これまで何度も救われてきた。大した理由もないのに鬱屈とし、死にたいとさえ感じてしまう自分を肯定されているような気がするし、生きる希望さえ与えてくれる。

 気分が高揚してきたところで曲が終わり、シャッフル再生で流れてきた二曲目は、七尾旅人「サーカスナイト」だった。YouTubeの公式MVに寄せられていた「この曲聴くたびに具体的にいつだったかは覚えてないけどすごく素敵だった夜のことを思い出して胸が苦しくなる」というコメントは秀逸だ。読点を打てよ、とは思うが。

「夜をぶっとばせ」のお陰で上がっていたバイクのスピードは一気に落ち、ゆったりとした速度で道路を走った。素敵だった様々な夜を思い出し、そうした夜を共に過ごしながらももう二度と会えない、あるいは会わないだろう何人かのことを思い出し、もっとああすればよかったと後悔し、小学生くらいから人生丸ごとやり直したいとさえ感じてしまって胸が苦しくなりながらも、何キロにもわたって一度も赤信号に引っ掛からないことが妙に可笑しく感じられてつい笑った。

 三曲目に流れてきたのはビル・エヴァンス「ワルツ・フォー・デビィ」だ。この世で最も美しい曲だ。俺は正しさや善悪よりも、美しく生きたいと願っているが、その美しさの基準とは要するに、この曲を聴く資格がある人間でありたいということだ。

 心が浄化されたところで、続いて四曲目に流れてきたのは、JITTERIN'JINN「夏祭り」だ。元カノと夏祭り行ったなあ、って俺は新海誠か、クソキショい、てか、今年も去年に引き続き夏祭りは開催されへんねやろなあ、オリンピックはすんのに、いやまあ、俺は既に「オリンピックやれ、やれ、どうなるか見たい、成功しても失敗してもオモロそうや」っつー偽筒井康隆モードに突入してるから、オリンピック賛成派ですけどね、そういえば昔、クイズ☆タレント名鑑の「カラオケ歌われるまで帰れません」というコーナーで「夏祭り」を自身の代表曲だと誇らしげに語る元Whiteberry前田に対して、有吉がワイプで「お前の曲じゃねえだろ」と呟いていて笑うたなあ……などと考えているうちに、曲は花火のように一瞬で終わった。捻りのない陳腐な比喩。

 そして五曲目は、PUNPEE「夢追人 feat.KREVA」だ。日本トップクラスのトラックメイカーにしてラッパーの2人が手を組んだ名曲で、「得も言われぬ気持ちはエモいじゃない」というパンチラインが素晴らしい。俺も「エモい」という言葉は好きじゃない。俺の彼女は俺以上に「エモい」という言葉を嫌っているが、その割にTikTokのあまりオモロない動画を見せてきたりもするので、「この手の動画を面白がる奴は『エモい』っつー言葉も好きじゃないとおかしいやろ」と内心思うが、まあ可愛いので構わない。

 エモい、という言葉の何が気に食わないかと言えば、そりゃもうなんとなく鼻につくから、というのが本音だが、あえて理屈を付けるならば、語義が漠然とし過ぎているからだ。

 修辞学者の香西秀信は、著書の中で次のように指摘している。曰く、「もしわれわれが豊富な語彙のストックをもたなければ、われわれは豊富な思考をもつこともできない。これを確かめたければ、試みに、不慣れな外国語で誰かと会話してみるといい。考えたことを言葉にしようと四苦八苦しているうちに、いつしか言葉にできることを考えるようになってしまった自分自身に気づくだろう。言葉が思考に限定をかけてしまうのである。これは外国語の例だが、母国語においても本質的な事情は同じである。そしてこれは思考だけに限ったことではない。例えば、自分の不快な感情を表現するのに「むかつく」という言葉しか持っていない子供は、複雑な感情を単純な言葉でしか表現できないのではない。「むかつく」という感情しかもてないのである。複雑で微妙な表現のできない人間に、複雑で微妙な思考も感情もありはしない。」

 名文だ。人間は厳密な定義のなされた豊富な語彙を用いるからこそ緻密な思考ができる訳で、曖昧な語彙しか持たなければ漠然とした思考しかできないのだ。極端な話、「切ない」も「悲しい」も「寂しい」も「苦しい」も「辛い」も知らず、プラスではない感情全てを「よくない」という言葉で表現する人がいたとすれば、そいつは愛する人が死のうが失恋しようが沈む夕陽を見ようがいじめられようが友人と喧嘩しようが、常に「よくない」としか口にせず、「よい」or「よくない」としか思考できない訳である。つまり、プラスとマイナスの二方向しか感情の機微がない、半分ロボットみたいな奴だ。

 エモい、に話を戻すと、作品の感想や自分の体験に対する感情に「エモい」という言葉を使うのは、何も言っていないに等しい、延いては何も感じていないに等しい、と言えるのだ……と、一応理屈を付けてみましたとさ。

 感情、という摑みどころのないもの、摑み得ないものをどうにかして摑もうとする営みが「表現」であって、まあ日常会話で「エモ〜い」と言っている人や「この曲エモい」とツイートしたりYouTubeにコメントしたりしている人を敵視も蔑視も軽視もしないし、可愛い女の子が「エモい」と口にしていたら「可愛い!」と思う程度には俺もアホだが、それなりの文量を割いたブログや作品レビューなんかで何の留保もなく「エモい」と綴っている人を見ると、「エモい、を解体するのが文章を書くということちゃうの?」と疑問に思ってしまう。

 と、以上のようなことを思考しているうちに五曲目は終わり、六曲目に流れてきたのはSTUTS「Rock The Bells feat. KMC」だった。大豆田とわ子のED曲を手掛けたトラックメイカー・STUTSのデビュー・アルバム『Pushin'』の掉尾を飾るこの曲は、STUTSの曲の中で一番好きであるばかりか、日本のヒップホップミュージックの中でもトップクラスに好きな一曲だ。ラップが上手くて声がデカいから、KMCは大好きだ。

「絶望感がメルトダウンする現代」という鋭いリリックに頭を、そして一曲を通して示される熱いHIPHOP愛に胸を撃ち抜かれる。

「Heads up 上を向けよ その先にはただ青い空が広がってるだけ どんなに高く声を飛ばしても そこにはただ風が吹いてくだけ 雲は落っこちてこない 神様だっていないし 天国もありゃしない 生まれたことに何の意味があるの 答えなんて何も教えちゃくれない だけど今も同じ空の下の 世界中ありとあらゆる街で ペンとマイクに想いを託して 同じ夢を見ている奴らがいる」という歌詞に合わせて夜が明け、大阪の空も濃紺から青へと変わった。俺はバイクから降り、エレベーターで地下の駐輪場へと向かった。

 余談だが、バイクに乗り始めてから、バイクを停められる駐車場の少なさを思い知らされた。そりゃ違法な路上駐車も減らへんわ、喫煙者と単車乗りに都会はもっと優しくなってくれ、あともっとベンチとゴミ箱を増やしてくれ、などと思いつつ、以前運良く見つけた数少ない格安駐輪場にバイクを停め、シートの下の収納スペースにヘルメットを仕舞った。エレベーターに乗り込み、地上へと向かうためにボタンを押した瞬間、六曲目が終わり、七曲目が流れ始めた。ケンドリック・ラマー「i」だ。

 「i」は彼の楽曲の中で一、二を争うほど好きな曲だ。アルバム『To Pimp A Butterfly』の終盤に位置するこの曲は、途轍もない自己肯定感に満ちている。アルバムは前半、中盤で散々自己嫌悪に陥った曲が続いたあとで色々あって徐々に精神が回復していき、「i」で完全に復活を遂げる。だから「i」だけ聴くよりもアルバム全体を通して聴いた方が「絶望からの希望」「どん底からの再生」といったストーリーやメッセージは伝わってくるが、まあ「i」自体がそれ単体で聴いても超名曲だし、かれこれ六年以上何百回とアルバム通して聴いてきたので、俺はもう「i」を聴くだけで「i」一曲に込められた以上のパワーを受信することができるようになった。これを世間では、思い込み、あるいは妄想と呼ぶ。

「i」のフックでケンドリック・ラマーは自分に言い聞かせるように明るく、曲のリスナーに訴えかけるように力強く、そして祈りのように優しく連呼する。I love myself.と。

 強烈で歪んだ自己愛や肥大化した希死念慮、そして意味もなく得体の知れない虚無感を抱えている俺が、自分のことを純粋に好きだと思える瞬間は、恋人に愛を囁かれたときと、この曲を聴いているときだけだ。I love myself. 

 エレベーターが開き、地上に出た。僅か数分で、大阪の空は先ほどまでとは較べものにならないほど青々と輝いていた。すっかり朝だった。太陽は「エモい」などという曖昧模糊とした感情が沸き起こる余地さえないほどの、あっけらかんとした清々しい眩しさだった。良い一日が始まる予感がした。終わり。