沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

I love myself

 夜中の1時に仕事を終え(ブラック企業じゃねえっすよ、シフト制のサービス業なんで)、帰宅して飯を食った。翌日、日付変わって今日は休みだから、プレミアム・モルツを飲んで録画していたバラエティ番組でも観ながらソファで寝落ちしようかと思ったが、帰宅するなりお茶を飲んでしまったため、そこまで喉が渇いていない。その状態でプレモルを飲むのはもったいない。おまけに、眠気もない。少し悩んだ末、風呂に入り、家を出てバイクにまたがった。真夜中。大阪・梅田に向かって走り出した。「山本珈琲館 梅田YC」という朝5時30分からやっている喫煙可の喫茶店があるから、そこでダラダラと過ごしてから梅田で遊ぼうという計画だ。

 ORIGINAL LOVEの「夜をぶっとばせ」を聴きながら、殆ど車の走っていない道路をひた走る。「きみを愛してるのに 訳もなく 気分はどこかブルー 幸福な夏の午後なのに なにもかもひどくブルー」「きみのせいじゃないさ 訳もなく 気分はいつもブルー」「いますぐスピードを上げるから キスしておくれ」「悲しみをぶっとばせ」といった歌詞の数々に、これまで何度も救われてきた。大した理由もないのに鬱屈とし、死にたいとさえ感じてしまう自分を肯定されているような気がするし、生きる希望さえ与えてくれる。

 気分が高揚してきたところで曲が終わり、シャッフル再生で流れてきた二曲目は、七尾旅人「サーカスナイト」だった。YouTubeの公式MVに寄せられていた「この曲聴くたびに具体的にいつだったかは覚えてないけどすごく素敵だった夜のことを思い出して胸が苦しくなる」というコメントは秀逸だ。読点を打てよ、とは思うが。

「夜をぶっとばせ」のお陰で上がっていたバイクのスピードは一気に落ち、ゆったりとした速度で道路を走った。素敵だった様々な夜を思い出し、そうした夜を共に過ごしながらももう二度と会えない、あるいは会わないだろう何人かのことを思い出し、もっとああすればよかったと後悔し、小学生くらいから人生丸ごとやり直したいとさえ感じてしまって胸が苦しくなりながらも、何キロにもわたって一度も赤信号に引っ掛からないことが妙に可笑しく感じられてつい笑った。

 三曲目に流れてきたのはビル・エヴァンス「ワルツ・フォー・デビィ」だ。この世で最も美しい曲だ。俺は正しさや善悪よりも、美しく生きたいと願っているが、その美しさの基準とは要するに、この曲を聴く資格がある人間でありたいということだ。

 心が浄化されたところで、続いて四曲目に流れてきたのは、JITTERIN'JINN「夏祭り」だ。元カノと夏祭り行ったなあ、って俺は新海誠か、クソキショい、てか、今年も去年に引き続き夏祭りは開催されへんねやろなあ、オリンピックはすんのに、いやまあ、俺は既に「オリンピックやれ、やれ、どうなるか見たい、成功しても失敗してもオモロそうや」っつー偽筒井康隆モードに突入してるから、オリンピック賛成派ですけどね、そういえば昔、クイズ☆タレント名鑑の「カラオケ歌われるまで帰れません」というコーナーで「夏祭り」を自身の代表曲だと誇らしげに語る元Whiteberry前田に対して、有吉がワイプで「お前の曲じゃねえだろ」と呟いていて笑うたなあ……などと考えているうちに、曲は花火のように一瞬で終わった。捻りのない陳腐な比喩。

 そして五曲目は、PUNPEE「夢追人 feat.KREVA」だ。日本トップクラスのトラックメイカーにしてラッパーの2人が手を組んだ名曲で、「得も言われぬ気持ちはエモいじゃない」というパンチラインが素晴らしい。俺も「エモい」という言葉は好きじゃない。俺の彼女は俺以上に「エモい」という言葉を嫌っているが、その割にTikTokのあまりオモロない動画を見せてきたりもするので、「この手の動画を面白がる奴は『エモい』っつー言葉も好きじゃないとおかしいやろ」と内心思うが、まあ可愛いので構わない。

 エモい、という言葉の何が気に食わないかと言えば、そりゃもうなんとなく鼻につくから、というのが本音だが、あえて理屈を付けるならば、語義が漠然とし過ぎているからだ。

 修辞学者の香西秀信は、著書の中で次のように指摘している。曰く、「もしわれわれが豊富な語彙のストックをもたなければ、われわれは豊富な思考をもつこともできない。これを確かめたければ、試みに、不慣れな外国語で誰かと会話してみるといい。考えたことを言葉にしようと四苦八苦しているうちに、いつしか言葉にできることを考えるようになってしまった自分自身に気づくだろう。言葉が思考に限定をかけてしまうのである。これは外国語の例だが、母国語においても本質的な事情は同じである。そしてこれは思考だけに限ったことではない。例えば、自分の不快な感情を表現するのに「むかつく」という言葉しか持っていない子供は、複雑な感情を単純な言葉でしか表現できないのではない。「むかつく」という感情しかもてないのである。複雑で微妙な表現のできない人間に、複雑で微妙な思考も感情もありはしない。」

 名文だ。人間は厳密な定義のなされた豊富な語彙を用いるからこそ緻密な思考ができる訳で、曖昧な語彙しか持たなければ漠然とした思考しかできないのだ。極端な話、「切ない」も「悲しい」も「寂しい」も「苦しい」も「辛い」も知らず、プラスではない感情全てを「よくない」という言葉で表現する人がいたとすれば、そいつは愛する人が死のうが失恋しようが沈む夕陽を見ようがいじめられようが友人と喧嘩しようが、常に「よくない」としか口にせず、「よい」or「よくない」としか思考できない訳である。つまり、プラスとマイナスの二方向しか感情の機微がない、半分ロボットみたいな奴だ。

 エモい、に話を戻すと、作品の感想や自分の体験に対する感情に「エモい」という言葉を使うのは、何も言っていないに等しい、延いては何も感じていないに等しい、と言えるのだ……と、一応理屈を付けてみましたとさ。

 感情、という摑みどころのないもの、摑み得ないものをどうにかして摑もうとする営みが「表現」であって、まあ日常会話で「エモ〜い」と言っている人や「この曲エモい」とツイートしたりYouTubeにコメントしたりしている人を敵視も蔑視も軽視もしないし、可愛い女の子が「エモい」と口にしていたら「可愛い!」と思う程度には俺もアホだが、それなりの文量を割いたブログや作品レビューなんかで何の留保もなく「エモい」と綴っている人を見ると、「エモい、を解体するのが文章を書くということちゃうの?」と疑問に思ってしまう。

 と、以上のようなことを思考しているうちに五曲目は終わり、六曲目に流れてきたのはSTUTS「Rock The Bells feat. KMC」だった。大豆田とわ子のED曲を手掛けたトラックメイカー・STUTSのデビュー・アルバム『Pushin'』の掉尾を飾るこの曲は、STUTSの曲の中で一番好きであるばかりか、日本のヒップホップミュージックの中でもトップクラスに好きな一曲だ。ラップが上手くて声がデカいから、KMCは大好きだ。

「絶望感がメルトダウンする現代」という鋭いリリックに頭を、そして一曲を通して示される熱いHIPHOP愛に胸を撃ち抜かれる。

「Heads up 上を向けよ その先にはただ青い空が広がってるだけ どんなに高く声を飛ばしても そこにはただ風が吹いてくだけ 雲は落っこちてこない 神様だっていないし 天国もありゃしない 生まれたことに何の意味があるの 答えなんて何も教えちゃくれない だけど今も同じ空の下の 世界中ありとあらゆる街で ペンとマイクに想いを託して 同じ夢を見ている奴らがいる」という歌詞に合わせて夜が明け、大阪の空も濃紺から青へと変わった。俺はバイクから降り、エレベーターで地下の駐輪場へと向かった。

 余談だが、バイクに乗り始めてから、バイクを停められる駐車場の少なさを思い知らされた。そりゃ違法な路上駐車も減らへんわ、喫煙者と単車乗りに都会はもっと優しくなってくれ、あともっとベンチとゴミ箱を増やしてくれ、などと思いつつ、以前運良く見つけた数少ない格安駐輪場にバイクを停め、シートの下の収納スペースにヘルメットを仕舞った。エレベーターに乗り込み、地上へと向かうためにボタンを押した瞬間、六曲目が終わり、七曲目が流れ始めた。ケンドリック・ラマー「i」だ。

 「i」は彼の楽曲の中で一、二を争うほど好きな曲だ。アルバム『To Pimp A Butterfly』の終盤に位置するこの曲は、途轍もない自己肯定感に満ちている。アルバムは前半、中盤で散々自己嫌悪に陥った曲が続いたあとで色々あって徐々に精神が回復していき、「i」で完全に復活を遂げる。だから「i」だけ聴くよりもアルバム全体を通して聴いた方が「絶望からの希望」「どん底からの再生」といったストーリーやメッセージは伝わってくるが、まあ「i」自体がそれ単体で聴いても超名曲だし、かれこれ六年以上何百回とアルバム通して聴いてきたので、俺はもう「i」を聴くだけで「i」一曲に込められた以上のパワーを受信することができるようになった。これを世間では、思い込み、あるいは妄想と呼ぶ。

「i」のフックでケンドリック・ラマーは自分に言い聞かせるように明るく、曲のリスナーに訴えかけるように力強く、そして祈りのように優しく連呼する。I love myself.と。

 強烈で歪んだ自己愛や肥大化した希死念慮、そして意味もなく得体の知れない虚無感を抱えている俺が、自分のことを純粋に好きだと思える瞬間は、恋人に愛を囁かれたときと、この曲を聴いているときだけだ。I love myself. 

 エレベーターが開き、地上に出た。僅か数分で、大阪の空は先ほどまでとは較べものにならないほど青々と輝いていた。すっかり朝だった。太陽は「エモい」などという曖昧模糊とした感情が沸き起こる余地さえないほどの、あっけらかんとした清々しい眩しさだった。良い一日が始まる予感がした。終わり。