沈澱中ブログ

お笑い 愚痴

感情と理性

 メンタリストがごちゃごちゃ言うて問題になってましたが、俺はああいう「自分が成功しているのは自分の実力だけが理由であり、ホームレスとか百パー自業自得っしょ」的な思想の人々の二元論的な雑な思考回路と想像力の欠如を受け入れられません。が、まあそれはそれとして、近年文化人や知識人、文化や芸術を愛するリベラルな民達がTwitter界隈でよく口にする「しんどいことは無理にしなくてもいいんだよ」「辛かったり苦しかったりしたら逃げてもいいんだよ」「頑張らなくてもいいんだよ」「努力しなくてもいいんだよ」「生きているだけで偉いじゃないか」というコウペンちゃん思想にも、大いに抵抗がある。コウペンちゃんは可愛いからそれでええが、我々は人間だぜ、と思うのだ。人間至上主義である。頑張れるときには頑張れよ。努力は大切やろ。辛くても苦しくても、多少無理してでも踏ん張れよ。生きているだけで偉いっちゃ偉いけど、生きているだけなら死んでいるのと同じでしょ。などと思ってしまうのだ。こういうことを言うと、やれ鬱病だのブラック企業だのいじめだのを持ち出してくる人がいるが、そういうケースは「頑張らなくていい」「逃げてもいい」じゃなくて「頑張っちゃダメ」「逃げないとダメ」なやつだから、別件ですよ。病人や障害者についても同様で、「病気だろうが障害を持ってようがガムシャラに働け!」とは思いません。ただ、各人の病気や障害の度合いに応じて、頑張れるところは頑張るべきだとは思います(一日一日生きるだけで精一杯、という重篤な病気の人はそれで素晴らしいと思います。そういう人は、生きているだけ、ではなく、その状態が「頑張って生きている」訳ですから)。

 ともかく、味噌も糞も一緒にするんじゃないよ、っつー話です。そういやこの前看護師の兄貴と喋っていて、患者の糞尿を毎日のように処理しているから、飯時に固形の味噌を見ると「うんこやんけ」と思いながら食べるという話を聞いて、強えなあと思いました。

 俺は庶民的な家に生まれ、超贅沢ではないが大学まで進学させてくれたほどには恵まれた暮らしをさせてもらったし、今も自力でそこそこ稼げている。低身長はコンプレックスだが、まあ「アル・パチーノとかブルーノ・マーズとか、チビでもバリクソかっけえすわ」と笑える程度には気にしていないし、その他にコンプレックスは何もない。恋人も友人もいる(年収、学歴、恋人、結婚、子供、友人等の有無や多寡で人間の価値が決まるとは思っていませんが)。要するに、そこそこチョロく人生を生きている。であるが故に逆説的に、全然仕事や勉強ができない人や頑張れない人などに対しても、「しゃあない、しゃあない。そりゃ、俺くらいできる奴の方がおらんって」などと自惚れた笑顔で接することができる。交通事故に遭ったから、親の介護があったから、といった理由だけでなく、単に本人が自堕落な生活をしたから、根気がなくて働けないからといった「自業自得」な理由で生活保護を受けたりホームレスになったりしている人に対しても、まあいいんじゃないっすかーと思える。そういう人を社会的に不必要だから排除すべきという思想や姿勢は、恐ろしいと感じる。

 が、それはそれとして、個人的にはそういう人をあまり好きにはなれない。頑張れない奴のためのセーフティネットはいらない、社会から排除してしまえという動きには断固として抵抗するが、頑張れない奴は個人的には好きじゃない。メンタリストの「そんなに助けてあげたいなら、自分で身銭切って寄付でもしたらいいんじゃない?国がそういう人のために、みんなの給料から毎月3万円徴収しますって言い始めたら、皆さん賛成するんですかね?」という発言に賛同する気はないが、彼の暴言を批判していた人々のうち、果たして何割の人が街中でホームレスからビッグイシューを買ったことがあるのだろうか、そもそも目を向けたことさえあるのだろうか、とは俺も思う。言っちゃあ悪いが、嘘、悪いと思っていないので言うが、ビッグイシューを売っている人の殆どは、雑誌を手に持ちながら延々と突っ立っているだけだ。それさえ、彼らからしたら大きな一歩なのだということは理解できるし、だからちょこちょこそういう人からも買ってはいるが、そういうとき俺は「買ってあげている」と思っている。たまに、大きな声で通行人に呼び掛けて宣伝している人もいて、そういう人を見るとすぐに買うようにしているし、そういうときは「買ってあげている」ではなく「売ってもらっている」と感じている。

 人生に勝ち負けなんてない、という言葉は勝者が謙遜のために使うか、学歴だの収入だの人間関係だのにコンプレックスを抱き、他者と自分を比較して絶望している人を励ますときに使うものであって、てめえの人生を頑張らない言い訳に使う言葉ではない。あるとき、元気潑剌とビッグイシューを売っているホームレスのおっちゃんから一冊買い、少し喋ったとき、おっちゃんはめちゃくちゃニコニコしていた。何度もお礼を言ってくれた。えらい綺麗事やなあ、と嘲笑されかねないことを今から言うが、俺はあのおっちゃんの人生は「勝って」いると本気で思っている。

 さて、本来はこの話題からシームレスに次の話題へと接続する構想で書き始めたのだが、生まれてこの方ガンプラを完成させたことのない俺にはつなぎ目をヤスリで削る手間が苦痛なので、不器用にこのまま次の話題へと移ります。

 少し前、男が刃物で大学生の女性を含む10名の人々を斬り付けた事件が発生した。36歳の男は、「6年ほど前から幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」と供述したそうだ。で、この事件をきっかけにネット上では、弱者男性を救済せよという声や女性差別をなくせという声が噴出し、対立し始めた。弱者男性とフェミニストはフレディとジェイソン並みの死闘をしょっちゅう繰り広げている(余談ですが、俺は『フレディvsジェイソン』が大傑作だと思っていますし、これを評価しない日本の映画人やら映画ファンやらを小馬鹿にしています。高橋ヨシキくらいっすよ、評価してるの)

 はっきり言って、俺は弱者男性の気持ちが分からない。おらは強者男性だじょー、と威張るほどマッチョではないが、運、環境、才能、努力によって比較的ずっと勝ってきたしそこそこモテてきたので、申し訳ないが弱者男性の苦しみを芯からは理解できない。そこで、良い記事を見つけた。https://note.com/mefimefiapple/n/n6b712e954db8

 長いが、この人の記事は全て一読に値する。現代日本には、女性差別が確実にある。しかし一方で、弱者男性の置かれる苦しみも相当なものなのだと納得できる。一言一句疑問・反論の余地がない、という訳ではないが、理性的に書かれた文章だ。

 この記事を読む前、俺は下記のようなツイートをした。

現代日本は「強者男性>強者女性>弱者女性>弱者男性」なので、強者女性は「(同じ強者なのに)男は優遇されている」と感じるし、弱者男性は「(同じ弱者なのに)女は優遇されている」と感じる。で、ネットで戦ってるのは大体、弱者男性と強者女性。だから議論が噛み合わない。前提、見えている世界が違う。つー仮説を立てたけど、女性でも弱者男性でもないので実際のところは知らないです。

 これは今でも全くの的外れだとは思わないが、記事を読むと、もっと根深いんすね……と考えを改めさせられた。全ての弱者男性とフェミニストが、そして俺のようにそのどちらでもない人々が、攻撃的な闘争ではなく建設的な対話によって、男性優位社会と弱者男性差別の改善を図らねばなりません。改めて、ナイナイ岡村さんの風俗嬢に対する失言について、爆笑問題・太田が長尺で語ったカーボーイ回の素晴らしさを思い出しました。太田光の口から祈りのように繰り返し放たれた「分かり合えるんじゃないか」という言葉は、この一件にも通じるはずです。

 爆笑問題といえば、この前のラフ&ミュージック、ぶっちゃけ音楽と笑いの融合っつーコンセプトは最後までよう分かりませんでしたが、なんだかんだ最高のときのフジテレビでしたね。ナイナイ&中居は画面に映っているだけでめちゃめちゃ楽しく、松っちゃんは相変わらず最強に面白く、爆笑問題は超絶格好良かった。去年、ダウンタウン司会のTBS特番「お笑いの日」の中で松っちゃんが口にした「『笑いの日』を何カ月か前にスタッフがお願いしに来たじゃない? そのときに(ネタ)やらんでええのかなって思った。全然言ってけえへんから、やらんでええんかって。なんで言ってけえへんのかなってずっと思っていた」という発言を俺は忘れていない。しっかりと作り込まれた作品としての漫才は、それこそもう爆笑問題に勝つのは無理なので、ダウンタウンにはコントをして欲しい。ビジュアルバムやごっつええ感じとガキ使を信奉する者としては、コントとフリートークこそダウンタウンの真髄だと思っているからだ。

 最終的に何の話やねん、という感じですが、まあいつものことですわ。ほな、ONE PIECE100巻買いにコンビニ行ってくるんで、この辺で!終わり。